2010年1月例会 コメント&質疑

 『職場の人権』2010年5月/第64号

「ベーシック・インカム」について――生活保護制度の拡充(制度変革)型のBIへ

 

イダヒロユキさん(立命館大学・神戸大学非常勤講師/ユニオンぼちぼち副委員長)

 

■ はじめに

 では始めたいと思います。僕はベーシック・インカム日本ネットワーク準備会とか、ベーシック・インカムを考える会と共催した、二〇〇九年三月の関西での研究会で、少しベーシック・インカム(以下、BIと表記する場合あり)についての考えを話しました。今日はその延長でポイントを話しつつ、小沢さんの議論も含めてベーシック・インカムに関するコメントをしたいと思います。僕はユニオンぼちぼち(関西非正規等労働組合)の活動をしていて、非正規労働者、失業者、うつを抱えて働けない人、障害をもった人、あるいは採用面接で勝てないとか、そういう社会で周辺化された現場の立場に立っていますので、その視点で意見を言いたいと思っています。

その観点からは、結論としてベーシック・インカム全体の議論にはすごく危惧を持っていて、今の運動にマイナスの影響がかなりあるという話をします。

しかし、僕の基本的立場は、BIの否定ではなく、部分的あるいは修正型ベーシック・インカム論者といえるとおもいます。完全ベーシック・インカム(純粋BI)というのは、運動にとって非常に問題がある。最近、あちこちでベーシック・インカムがもてはやされていて、非常にうわついていると思います。ですから、基本的にはそのあたりのポイントを言います。それは議論のためにも面白いと思います。ただし、山森(亮)さんと小沢さんは、労働運動、左翼的な検討もふまえて、本当に弱い者の側に立ってBIをやろうとしていることは間違いない。BIに対する関心をここまで広げてきた仕掛けのうまさは評価しつつ、その発言力・発信力を――今日も僕の意見もふまえて――ぜひ、適切な制度改革や法制化につなげていただければという思いです。

以上の基本視点を角度を変えて言いますと、僕は社会民主主義という、北欧型のような高福祉・高負担の社会にすることこそが対案であり、福祉国家の行き詰まりから、急にベーシック・インカムにもっていくのは飛躍だと考えています。あるいは、ベーシック・インカムの議論は部分であって対抗システムではない、というべきと思います。だからこそ、資本主義システム礼賛論者なんかにもBIがもてはやされる。ここの危険性にもっと目を向けないとダメだと。ところが今、この議論は面白いというのか、知的ゲームにもなるのでもてはやされているという面があり、注意が要ると思います。

以下、BI論の限界を指摘しつつ、その積極面を生かす具体策の提起までしていきたいと思います。 

 

一 私の基本的立脚点

 

 私の基本的立脚点として、BIの基本思想にはまったく大賛成です。つまり、「あらゆる人の生存権を無条件に重視するもの」として、普遍主義的な思想ですね。社会保障において選別主義をとるのではなく、普遍主義だということはまったく正しい。普遍主義的施策は、連帯社会を作るのに対し、選別主義は分断をもたらすとおもっています。しかしその普遍主義というものを広げるときに、BIという切り口では足りないという立場です。「生」が無条件に肯定される社会を議論したいけれども、BI論の実際はそうはなっていない。そういう思想のものとして、現状の多くのBIの議論があるのではないということですね。

 例えば、BIに類似した経済学的な議論で「非優越的多様性」(Undominated Diversity)という概念があります。これは専門家の議論ではあるのですが、初めこの訳語を聞いて僕は良い概念かな、と思いました。ところが、調べると全然ダメですね。ちょっと専門的な話になるので触れるだけにしておきますが、そんなふうに、BI論にも非常に危険な面があるということに、今日はあえてポイントを置きたいと思います。BIの基本的な思想には賛成で、普遍主義的な社会民主主義の仕組みにしていくという考えです。先ほどの小沢さんのご指摘にもあったように、「家族単位の福祉国家システムの行き詰まり」に直面している。しかし、その対案は個人単位型の北欧型福祉社会民主主義にするべきで、BIではないというのが、私の主張です。小沢さんとはこの点で大きく相違があります。しかし、BI論議が、大きなシステムの見直しの議論につながる、始まるという点では歓迎しますし、大増税は当然必要です。北欧レベルの大増税が必要だという点でも、小沢さんの主張と近いところはあります。しかし小沢さんが、個々の家庭ではそんなに損じゃないというように説明するのには反対です。

 

二 議論のおかしさ

 

■生活保護への差別意識は消えない

 それで、議論のおかしさはどこにあるのか。もう少し説明すると、BI論者はいろいろで、小沢さんや山森さんのように弱者や労働者の立場の運動側の人もいますが、今もてはやされているBI論の全体を見れば、「生活保護のような旧来の福祉制度よりもBIのほうが良い」と、基本は言っているわけです。新しさにかまけている。つまり、重要な問題や要求に関して、この間の左翼、民主主義勢力、あるいは人権派の運動が進まない、その焦りの中でBIという違う切り口で何とか突破しよう、という面があります。「重要な問題、要求は明確、だがなかなか前に進まない、大きな変化はない状態が続いてきた。だからBIに期待」という言い方です。それはいろいろな人に聞いてもらえる目新しさ、あるいは面白さで、僕はそこに可能性と限界があると思っているんですね。よくある「お上、国家のお世話になってはいけない」というような「社会落伍者はダメだ」の感覚を前提として、生活保護など従来の福祉受給者には烙印が押される、だからこの制度ではダメだ、それに対してBIだったら烙印を押されないよ、だからこれを進めようというのはまったく間違った議論の展開だと思います。

例えば、別れた夫のことを調べるということが児童扶養手当支給の場合にはある。これは、別れた夫というパートナー込みで考える「家族単位」の思想の問題であって、そこを変えるためには、シングル単位――今日はあまり説明できないからちょっとわかりにくいかもしれませんが私の持論を知っているかたにはよくわかると思います――の福祉システムにすることで解決できるのです。それを、生活保護への差別意識みたいなものを残したまま、新しい制度を提示してなんとかなるというのは間違いだと思います。

このことを文章で書いたのが、レジュメの「生活保護への差別意識、妬み意識、自己責任論」というところで、こういうものと徹底的に思想的に闘っていくというか、対決していくことが必要です。制度設計で人々の意識が自然に良くなる、今まで生活保護受給者を差別するような気持ちがあった人でも、このBIを導入することでみんな良い人になる。あるいは良い人にならなくても、結果として良い行動をとる。そういう考えは甘すぎると思います。つまり、ネオリベ的なBI論が狙っているものは、私たちが目指す社会民主主義というか、本当に底辺に置かれた労働者側の人権が高められるようなものではない。まったく逆です。荒野の中での新自由主義的、リバタリアン的な感覚なんですね。ですから自己責任論は残ります。BIはその意味で非常に危険です。

 

■根本思想を変えていくべき

というのは、例えば、山森さんは最も僕が尊敬する友人ですが、最近の『ピープルズ・プラン』という雑誌で、こんなことを書いているんですね。「政党は、生活保護の捕捉率を高める、ということを選挙公約にできない」。今、捕捉率は一〜二割と言われていますから、共産党や社民党なら「捕捉率を一〇〇%にして、生活保護を五倍とらせよう」と言うべきだが、それは言えない。なぜなら、有権者の支持を集めないからだ、ということです。また、「BIのほうが政治的支持を得やすい」というようなことを山森さんは言っています(山森「ベーシック・インカム――実現可能性を問う前に理念の承認を」『ピープルズプラン』48号、2009年秋号)。僕はこの説明には非常に違和感があります。

つまり、小沢さんも言われたように、変なBIではなく、現物給付も含めて、本当に周辺化された弱者のためのシステムを作るとなれば、やはり根本思想のところで変わっていかないといけないわけです。そこを触らずになんとかなるということはありえない。本当に進めようとすれば、やっぱり「理想主義だ」とか「それは貧乏人を助けるのか」「働かなくてもよいというのか」とか、財源がないとか、高福祉高負担社会に対する抵抗と同じものが出てきます。BIという良いものが無抵抗に進むわけではないということですね。

BIは、今日の小沢さんのようにちゃんと説明すれば、一定の説得力があります。とすれば、同じ時間をかければ、北欧型社会民主主義の素晴らしさとかその実現可能性は十分説明できます。実際、BIの国はひとつもありませんが、北欧型はかなりの国に実践があります。北欧型のほうがより現実的です。北欧型にもすすんで行けない国がBIに行けるわけがない。そこを安易にBIに行けると思うのはゴマカシで、注意しなければいけないというのが僕の立場です。

 

■現物給付や短時間労働が重要

 繰り返しますが、僕はこういうことを言いつつ、BIの思想には大賛成です。だからこそ、「BIの現実化は北欧型だ」という話をしているわけです。BIという所得保障策で良いのかというのは大論点で、それに対してそれ以外の分配も認めるのかというのが論点としてあります。

たとえば、僕の最も尊敬する研究者の一人である立岩真也さんの意見と重なるところですが、社会全体の再分配なり編成のあり方は金銭所得だけではないんですね。労働の再編成ということは当然あるわけです。具体的には、例えばワークシェアリングです。お金の分配ではなくて仕事をちゃんと分け合う。あるいは、彼はそれにプラス、生産財そのものも分配しなくてはいけないということを言っています。

僕が言いたいのは、お金の分配だけというのが、狭義の一部BI論者の主張です。それに対して、本当に底辺化された者の立場に立つなら、お金だけのBIは完全に拒否すべきと思います。福祉サービス、教育などの現物給付も含めていかないといけない。その中で労働の分配、ワークシェアリングをしていくことも再分配ということで非常に大事だと思います。誰もが社会保険・雇用保険へ個人単位ではいることも重要です。 

わかりやすく話せば、できるだけ誰もが働けるようにしよう、失業しても失業保険で暮らせるようにしよう、生活保護はもっと取りやすくしよう、ということが現実に今求められています。障害者運動でもそういうことをやればいい。それがなかなか突破できない背景には、自民党政権下での自己責任論などがありました。そこを突破することが一番のポイントで、ちゃんとやろうと思えばできることです。

あるいは最低賃金が安すぎるという問題もある。最低賃金を一五〇〇円、二〇〇〇円にしていけば、かなりの問題は解決します。それだけでも全員が働けるわけではありません。だから、医療保険のようとか生活保護に関わるような現物的給付が重要です。年金を個人単位にして大改革する、それらのために、所得税中心に増税もしていく、というようにすべきことがたくさんあります。

過去、周辺化された人々の具体的な運動に関わっていないような人は、そのあたりをあまりわかっていない。例えばワークシェアリングでは、釜ヶ崎で「本当に仕事よこせ運動」をやっていますね。あれは大事でしょう。僕らの身近なユニオンぼちぼちでも、仕事よこせという感覚はすごくあります。「働かなアカン」では全然ないんです。働けない者は働かないままで良い、権利として生活保護を使おう、と思っているけれど、でも多くの人は、働けるなら働きたいと思っている。だから仕事よこせということは非常に大事です。

もうひとつ、そのためにも短時間労働が決定的に大事で、短時間労働社会にしないとほとんど他のことは動かないと思っています。ところがBI論の議論では多くの場合、そういうことは別の話になっているんですね。そういうBI論議は狭すぎる。だからBIの議論は、根本的な体系ではなく部分的なものにすぎないといっているのです。だから、やれること、目の前でやるべきこと、最賃を上げるとか仕事を分け合う、短時間労働にする、派遣労働の搾取を禁じる、それらをするべきだし、それはやろうと思えばできるということですね。

 小沢さんはもちろん現物給付は残すと言っていますが、純粋なBI論で基本はお金の分配だけという意見もあるわけです。純粋な理屈ではそちらのほうがBIの本質です。BIの議論で、本当に労働問題や生活保護を入れているものはほとんどありません。逆に、BIによって年金や従来の生活保護など古い制度はとっ払ってガラガラポン、みたいな感覚がすごくある。労働問題も最低保障するから、後は規制緩和でいいじゃん、となるわけです。「小沢レジメ」でも、「現行の税及び社会保険による所得保障(年金、失業保険、生保、児童手当など)を全部BIにおきかえる」とあります。

こうした点がBIの欠点で、僕は非常に現実的に問題があると思います。本当の意味の対抗策にはなっていない。純粋BIは非常にリバタリアン的です。つまり、市場原理主義的に最低のセーフティネットをBIで保障し、あとは自由だよということ。ホリエモンなどはそんなスタンスですね。

小沢さんも「時短などはBIの議論ではない。BIは現金給付部分だけ」といって事実上、労働政策を入れ込んだ社会民主義全体の制度改革の連関性を軽視しているようにおもえます。平行して言うというが、BIの議論が自分の主観や希望とは別に、だれに興味をもたれ、今どういう意味をもっているかに意識的になるべきとおもいます。日経新聞でも取り上げられたからといって喜んでいる場合ではないと思います。

以上をまとめると、ベーシックインカムという所得保障策だけでいくのか、それ以外の分配も認めるのかが対立点だということ、および、従来の枠組みや運動・思想を「なし」にして、新しいBI制度へ飛びつくのか、それはおかしいだろうというのが私の主張です。

 

三 実践的なものでなくてはダメ

 

■一人ひとりのニーズに対応する

 そのあたりをもうちょっと説明するために、「実践的なものでなくてはダメ」という、レジュメの三番のところにいきます。BIの議論の実際は、非常にいろんなことが絡んで、知的なゲームになっている面があります。この点は、研究者というものへの私の批判の感覚でもあるのですれど、研究者なら社会的排除論とか包摂論とかBI論、これでいくらでも議論できるて本も書ける。しかし、そういうものだけに終わっちゃう。多分、五年後一〇年後、このBI論議の興隆によってほとんど何も良くなっていないというのが僕の予想です。そこはちょっと小沢さんと感覚が違うかもしれません。もちろん小沢さんの言うように、本当にこれが良いものになればいいと思うけれど、今の思想状況や運動の状況、力関係の実際の下では、そうならずに議論だけで終わってしまうと思う。

それからもう一つ、BIは無条件に給付されるとなっています。しかし、障害者運動などの現実を見れば、ニーズが大事なんですね。一人ひとりのニーズを聞き、その人に応じて何が要るかということです。ところが、多様な人たちに対して、とにかく細かいことはなし、とにかくみんなに五万円や八万円や一〇万円を支給するというのは、運動の現実からして非常に限界があると思います。もちろん小沢さんは、だからこそ、そこは現物給付でフォローすると言うでしょうけれど、必要なのは個別のニーズに即した現物の多様な給付がなされることです。仕事もそうですが、いろいろなサービスがちゃんとあるということです。お金の給付には非常に危険性がある。

この点は介護保険のときに、家庭で介護している人たちにもお金を払うかどうかで、大変議論になりました。まともなフェミニストは現実を知っているので、現金給付にすごく反対しました。ドイツなどでは現物給付が一定ありますが、サービスを提供するのではなくお金を渡す介護保険では、性分業が残って女性たちが介護を続けるという現実の結果的効果をもたらします。それは非常にヤバイという議論があります。僕はそういう歴史的・現実的なところから、お金を配ることへの警戒がすごくあるんですね。お金も一定必要だし、僕も生活保護申請の支援をやっていますが、大事なことは一人ひとりのニーズを見て、その人が本当に充実して生きられるような多様な支援です。そのときにBIという金だけに収斂させる大きな括りでは足りないということです。

 つまり、無条件・普遍主義の思想には大賛成なんですが、北欧などは普遍主義の設計でありつつ、それは福祉国家としての福祉制度の充実とセットであり、一人ひとりのニーズに応じた様々なサービスを提供しようとしています。だから、より困難な人ほどより再分配が多いわけです。ここは根本思想でしょう。より貧乏で、より働けなくて、より障害が重いような人は、より多く現物サービスも含めて再分配されるべきでしょう。なぜそれを一律にするのか。小沢さんのように、そこを現物給付でフォローして、一人ひとりのニーズをふまえるという考え方なら別ですよ。しかしBI全体の議論は、現物給付の重要さを捨象するものです。そこをちゃんと見ないと非常に危険です。BI論議の流行に乗りつつ、一言「現物給付も」と付け加えてもそれは、奔流に押し流される木の葉に過ぎず、結果的にひどいものができたときのアリバイ発言におわってしまうのではないでしょうか?

 

■BIとリバタリアン的感覚との親和性

この数年も依然として、規制緩和論や、アメリカからきた「ワークフェア」とかいう議論が活発です。つまり働くことのインセンティブをつけて、努力した人にだけ生活保護を与えようとか、シングルマザーを支援しようとか、とにかくフリーライダー(制度にタダ乗りする人)を減らそうというのが新自由主義です。そういう主張をしているような人が「BIは良いよね」と言っています。ここに注意を向けないとダメです。つまりBIは市場主義的、リバタリアン的な感覚と、平等主義的な感覚を整合させるものだとよく言われていますが、誰が言っているかをよく見なくてはいけない。小沢さんもさっき少し言ってらっしゃいましたが、ホリエモンや小泉首相、小泉さんは現実は無理だと言っていましたが、そういう人たちも言っています。自民党でも民主党でも税調でも、ホリエモンでも中谷巌でも、賛成と言及するというようなものがBIであるという側面を見落とすべきではないのです。 

それから、山崎元という経済評論家が新聞でこんなことを言っているんです。「各種の社会保障や社会福祉はできるだけベーシック・インカムに集約し、それ以上に必要な人が利用する保険、年金、サービスなどは民間に任せる。福祉的制度、行政の大半はなくせるだろうし、私が支持する大きな理由もそこにある」。これなんですよ。従来、左翼的ではない人たちがこぞってBIなり負の所得税なりを主張するのは。そういうリバタリアン的な流れがあるのです。田中康夫なども新しいものに飛びついているだけで、かなりぶれていると思います。

難しい理屈を言っている有名な人でヴァン・パリースという人がいるんですが、この人も「自由が何より大事」と言って労働政策や労働運動などをかなり否定しています。最低賃金をどうするかとか、そういうことはいらないというわけです。彼は、現実的にということで、かなり少ないお金を給付するBIを提起しています。すごい「理論家」で、そもそも働くことは過去の全ての遺産に依っているのであって個人の成果ではないとか、思想的には面白いことを言っています。しかし、BIを正当化しつつ、落としどころは非常に新自由主義的な思想と親和的なんですね。

 山森さんの本にもプラス・マイナスがある。過去に多くの人たちがBI的な主張をしてきたよ、と言うことによって、この思想が陳腐な意見ではなく歴史的に追求されてきた大テーマだということを示そうとしている。その点、積極面での意味はあるんです。しかし、それだけいろいろな人が言ってきたのに、それがちゃんと実現していないのはなぜか、という理由も考えないといけない。言っていた人々のみんながみんな、弱い立場の者に対する本当の連帯感で言っていたか。深い思想や現実性があったか。まったく違いますね。議論というのは説得力の問題だから、そういう議論の仕方もあるのかもしれないけれど。

それから、フリードマン、ガルブレイス、トービンが言ったようなことは大したことじゃないと思います。それくらいやったほうがいいけれど、それでは足りない。もっともっと我々が求めているのは、しっかりしたものだろうと。この程度の制度を入れて社会が良くなるわけでは全然ないと思います。なんどもBI的だといって、その集大成をBIに流し込むのは実はとても政治的な判断です。現実的結果に責任をもたなくてはならない。実際の運動との関係を見極めなくてはならない。

 

■純粋型BIに期待するな

 アトキンソンの「参加所得」の議論は、無条件給付でなく、何かをしていることを条件に所得を保証しようとするものです。いわゆる賃労働だけではなく、介護・育児などへの参加や、教育訓練、認定されたボランタリーワークへの参加を条件として給付しようというのです。賃労働に限定されない、多様なことへの参加を認めていく、賃労働中心主義を変更するものという意味でBIの一種です。この議論の方がより面白いかなとは思いますが、これも不十分です。

ネグリ&ハートの「生の生産」という抽象論議も大枠は賛成だけれども、具体的な前進の点では大したことは言っていないと思います。だから、山森さんがいろいろな議論を持ち出して言うのは、ひとつの説得力を持たせるためなんですね。そうれは学者向けとか、ちょっと人を攪乱するにはいいけれど、深いところでは結局、障害者の人権とは何か、働かない障害者の生存権とは何なのか。野宿者の支援運動とは何か。そういうところの思想と実践がない限り、ダメです。

ところが最近、あらゆる「社会運動」でBIの学習会をしましょう、という動きがありますね。これはちょっと浮わついていると思うし、これを勉強しても浅いままだと徒労に終わると思います。「いろいろな問題を一挙に解決してくれる!」とおもいすぎです。今までの問題が行き詰まっているのを解決する打ち出の小槌ではないのに、閉塞感缶からこれに飛びついて、ぬか喜びしたり、はしゃぎすぎ、期待しすぎであるとおもいます。BIの思想の危険性に無理解すぎるし、シングル単位論、北欧型社民主義の全体への理解がない中での、BIだけへの期待はまったく非現実的です。思想としての無条件の生存権というラジカルさは僕も大好きですが、社民主義への移行がむつかしいという問題と正面から向き合わず、目先の新しさでごまかしても、結局、現実的にいい制度を実現しようとすると、その時大きな抵抗が出てくる。だからこそ問題があります。その後こそ問題なのです。

 ただし、小沢さんや山森さんの議論を含めて、僕は一つの戦略ではあると思うんです。右翼的な人や新自由主義者がどう思おうと、この議論は一つの仕掛けとして、従来の福祉システムには限界がある、そしてどう新しいシステムにするかという議論の提起にはなるんですね。貧困や格差を議論できるんですね。そういう中で、落としどころは、小沢さんも山森さんも具体的な修正型BIを言っておられます。僕も結論のところでは、部分的に修正型のBIを入れたら良いとは思います。でも、それは無条件ではないんです。高齢者であるとか障害者であるとか、収入が低いとか、いろいろな限定がつきます。純粋型BIは決定的に問題があるというのが、僕の立場ですね。

 

■福祉国家の行き詰まりにどう対抗するか

 小沢さんのレジュメの二ページのところで、基本的には福祉国家論を論じているところがありますね。我が国の社会保障制度について、現状がダメだというのは、もうそのとおりです。この認識はだいぶ広がりました。でも、これは僕も二〇年ほど前から言っている家族単位システムの問題なんですね。会社で男が働き、女性が家事労働をするという性分業をベースに、労働と社会保障の体系がカップル単位設計で全部連なっている。その行き詰まりという認識はだいぶ広がりました。そこまでは良いんです。

でも、論理的に、これに対抗するのは個人単位型の社会民主主義のシステムであり、それは北欧がやっていると、僕は思います。つまり、福祉国家がダメなのではなく、ああいうふうにすればできるのに、日本ではそれが見えていない。社会保障制度が機能不全だという危機感だけがあるんですね。あとはアメリカ中心の思想しかない。そういうところにBIがポッと入って新しい打ち出の小槌だと見られている面があります。

この福祉システムの行き詰まりの対抗策はBIではないでしょう。BIについては、思想の部分と一部の具体策ではまったく賛成ですが、対抗的な総合システムではないと僕は思います。小沢さんも、これは万能の打ち出の小槌ではないし、右でも左でも賛成できるとおっしゃっているように、その程度のものなんですね。

小沢レジメでは一気に「福祉国家はダメだ→BIの出番だ」となって、福祉国家の系列の進化系である北欧型社民主義の意義を切り捨ててしまっており、そこが問題だと思います。小沢氏の主張は、事実上、この間の社民主義、北欧的福祉国家の実際の意義とBIを切断しています。例えば、児童手当は、普遍主義的で北欧では実現しているが、それは18歳までといったような制限があるのであり、あらゆる人にというBIにいくこととは質的に異なる面があるのに、BIの具体例のようにいうのは、一方で北欧福祉国家と切り離しながらの矛盾だと思います。

私は、経済学的な観点から見たBIの本質は、リバタリアン的だといってもいいとおもいます。小沢さんなどは「純粋BIはリバタリアンとはいえない」といいますが、BIの基本思想そのものが、保育所や学校の無料化や障がい者や要介護高齢者への福祉サービスの提供といったことを重視せず、基本的に従来の制度の代わりに、全員に一律の現金給付で、問題を置き換えるという発想なので、具体策では社会民主主義の現実と対立的なところがあるといっていいと思います。いいかえれば、現金給付部分だけを考えるというBIの議論の土台が狭すぎるのです。

特に、ポイントはやはり家族論ですね。共同体とか家族とかいうと、途端にフェミニズム的な感覚の有無で意見が分かれます。言いたいことは、北欧型では女性が働いたりして家事労働が社会化されました。僕はそれを肯定的に見るわけです。社会全体で再生産を担っていく。ところが、家族の不安定化、たとえば単身世帯が多いとか専業主婦が減ったということから、それを「家族の不安定化」と名づけて、そこから一挙にBIしかないというのは、ちょっと納得できないところです。ここは小沢さんと意見が対立するところで、機能不全に陥っているがゆえにBIの出番だというのは、論理の飛躍があるのではないか。北欧型の社民主義というものがある、ということです。ここがわかるかどうか、私のシングル単位論をどこまで深く理解できているかどうかが重要かと思います。

 

四 提案

 

■対抗的な生き方のイメージ

 話を戻してレジュメの「提案」のところにいきます。BI的な思想、生存権をお互いに本当に認め合うというシステムを構築するときに、具体的に日本でこれからありえるのは北欧型だということをさっきから繰り返し言ってきました。単独純粋BIではなく、大きな枠の中でのBI的な思想のシステムの具体的構築が必要なのであり、BIというなら、今までの運動、新社民主義として北欧型の社会にするということと一体のものにすべきだと思います。政府支出が大きい方向での社会的包摂、その一部としてのBIということです。

その時に闘わなければいけない敵対思想が、ワークファースト、ワークフェア的な「働かざる者食うべからず」「自己責任論」の思想ですね。今、これがすごく強くあります。今の社会秩序で下位の者、すなわち弱者や負け組、働かない者、働けない者、つまり賃労働から排除されている者の権利が、生存権として保障されるような仕組みがいると僕はすごく思います。これは本質的には能力主義との闘いです。

 その具体化については、BIがあれば良いというのではなくて、僕はスローの観点、あるいはスピリチュアルな観点からと言っているのですが、一人ひとりが自立した上で、いろいろな意味で「社会的に豊かにつながれるような関係」を考えています。「非貨幣的な時間の重要性」を実現するということです。ここは私がスピリチュアル観点(スピリチュアル・シングル主義)で強調している点で、それはそれで本当に理解してもらうにはたくさんの説明が要るのですが、ここでは簡単に触れるにとどめるしかありません。「働かないでも尊厳をもって生きていけるという権利」の明確化もここに関わります。

具体的イメージでいくと、その典型は、労働時間は短く、低い収入でのんびり暮らす感じなんですね。勝ち組的な生き方ではなくて。そのワーク・ライフ・バランスで短く働く。非貨幣的な豊かな関係みたいなものを追求するのが、プレカリアートの対抗的な生き方だと思います。だから時短(そのための均等待遇、最低賃金値上げ)は決定的に大事なんです。ところが、BI論ではその時短を重視しないあたりにも僕は引っかかっているということを、さっきも言いました。「金のために働く」ということを批判するのは、単に何もしないということではなく、金にはならないが(低収入ではあるが)、豊かに世界とつながる活動の喜びを知るという思想です。

 ポイントだけ説明すると、時間観点では、すごく短く働くと収入は落ちる。でも、その短い時間しか働かないから、残りの時間をどう豊かに生きるかこそが、現実的に手に入る僕らの豊かさかなあと思うんです。そういうことがそもそも貧困化や格差論に対する対抗であって、つまりプレカリアートみたいな人がどう生きるかという具体像が見える。能力主義ではプレカリアートに未来はないのです。そのためにワークシェアリングがあって、一定の給料が得られるようにして、正規と非正規の格差を縮めて時間給もいまよりは上がる。それでもそんなに給料自体は高くないけれど、社会サービスが充実しているから、例えば医療が必要なときにはかなり安くで医療を受けられる。収入が低ければ生活保護でフォローができる。そして金をかけずに何かしら、創造性や自由の実現を追求していく。こんな感じなんですね。

だからもっと多くの人が生活保護を使ったりして、何か必要なときには社会サービスが使えるという高福祉のイメージが、シングル単位的ワーク・ライフ・バランスには非常に大事だと思っています。少ない収入でやるかわりに現物給付のいろいろなサービスがあるから、好きなことをやっていけるということですね。少しのBIとあわせて、そこそこのお金で楽しく生きる。これが現代の「無痛化、ポストフォーディズム、24時間労働化、管理化、グローバリズム、商業主義・物質主義、消費主義」に対抗する僕のイメージです。人間的な生活がおくれる権利の保障、たとえば「週4日労働」で生きていけるようになることで、ひどい仕事ばかりしなくてもすむような社会にすることが、BI論議の落としどころとなっていかねばなりません。

 

■「家事労働に賃金を」の間違い

で、特にBIは個人単位ということが言われているんですね。ここにおられる方は、イダといえばシングル単位、シングル単位論をイダが言っているということはご存じだと思うのですが、実はBIは個人単位が大事だといっている議論なんですね。これは決定的に大事です。でも、そういうことがあんまり知られていないでしょう。これはよく考えると大きな問題です。しかし、今あるBIの議論ではそこの積極的な意味の深い理解が抜けています。つけたし的に、現金給付を個人単位でやるよといっているだけで、たとえば結婚制度とか、家族のあり方の議論とつなげて述べられていない。そういう中で、ただ現金給付だけをすれば、現状の性分業がすごく残ります。さっきここで小沢さんがちらっと言いかけておられたんですが、ここは議論するところだと思います。

家族論ということで関連しますが、子どもにもBI給付をというと、金のために子どもをたくさん産ませるというようなことも出てくる可能性があります。小沢さんのBI説得のための計算でも、子どもがいる3人家族などが出されます。説得のために、3人家族ならBI導入しても世帯として手取りは増えますよ、というのは、気持ちはわかるがとても家族単位的発想だし、高い税負担を皆でしていこうという連帯意識の醸成に反しているし、問題です。そもそも、晩婚化非婚化がすすみ、少子化がすすみ、子ども3人が標準的多数ではないのに。独身者だけが「損する」というような改革の問題点を考えるべきなのに、そこが抜けています。シングル単位感覚が小沢さんの議論では欠けています。 

  

これに関連しますが、僕は山森さんの本に対して少し批判があるんだけれど、「家事労働に賃金を」というイタリアの運動を、彼はBIにつながる良いものと見ています。しかし僕は反対です。あれはフェミニストの中でも一部であり、家事労働に現金給付をという、あのスローガンだけではない多面性はあるにしても、シングル単位の視点を欠いているという点で、イタリアのあの運動をBIにつなげるのはいいとこどりで間違いだと思います。個人単位型の制度設計が要るんです。家事労働に賃金を、じゃないんですね。家事労働は無償でもいいんです。僕らはもっと無償だけれども豊かな活動をもつことこそがワーク・ライフ・バランスなんですね。男性が家事育児をやる時間が大事なんです。それをやるためにも労働時間の短縮と、なおかつそこに適切な賃金が保障されるようにしていく。それで、無償だけれどやりがいのある活動がちゃんとできる。組合活動ができたり、人を助ける仕事やアート活動ができるということが大事です。

そこが決定的に大事なときに、家事労働に賃金を、というのは非常に目の前のものにとらわれた議論です。そこの限界を、山森さんは見落としていて、フェミニスト的には非常に問題があると思います。個人単位の意味を深く見ていないが故の混乱です。だから、このBIも、簡単に言えば主婦への手当にならないかどうかは決定的に大事です。さきほどの報告では、BIで女性の社会進出が進むと言われていましたが、そうなるかどうか。僕はちょっと違うと思います。

 

■生活保護の拡充としてのBI

 最後にひとつのイメージですが、小沢さんも言っていたように、ベーシック・インカムはカタカナでしょう。これはやはり言い方を変えなくてはいけないと思う。ところが、「基本所得」ではちょっとインパクトが弱いと思うんですね。僕の感覚だと、「生存所得」とか「人間所得」とか、あえて言い方を変えて従来の生活保護とは違うものだと伝えるのがいいかとおもっています。。そして、収入が一定程度低い人、僕のイメージでは月収二〇万円以下ぐらいの人は、みんなBIが一定もらえるとする。

今日はあまり細かいことは言えないですが、つまり私の提起したい「日本の現状から必要とされる、BI的な具体策」は、基本は生活保護の拡充だということです。それで、収入が増えると保護費は減るんですが、所得のトータルは増えます。収入が増えれば増えるほどBIは減りますから、最初のBI(働いていなくて無収入のとき)は一〇万円ぐらいで良いと思うんですね。働けば働くほど、もらえるBIは減ります。二〇万円ぐらいになったらなくなる。その代わり、合計は働けば働くほど増えるようにする。これは生活保護の拡充です。僕らの周りにいるみたいな普通の非正規労働者や低賃金の労働者は、みんな新しい生存所得というか生活保護をもらえるような社会にしようということです。でも満額ではありません。収入ゼロの人は満額の一〇万円もらえます。そうじゃない人は、八万なり七万なりもらえるとかになる。そして自分の働きと合わせれば、手取りが一三万、一四万、一五万と増えていく。こういう仕組みが現実的には良いなと思っています。

つまり現行の生活保護へのスティグマ(恥辱感)、つまり「あんなもの、もらったらアカン」という意識や、いろいろ調べられるということをなくして、収入が少ない人はみんな生活保護を使えるようにする。つまり最低限度の生活を強制されるのはおかしい(自動車保有、貯金問題など)、劣等処遇原則がだめ、個人単位でないのがおかしい(親や兄弟姉妹、子に扶養義務)、自由にカネを使えないのがおかしい、資力調査(ミーンズ・テスト)、ワーク・テスト(稼働能力調査)、素行調査(ビヘイビア・テスト)が過度にあって、行政により制限・監視されているのがだめ、といえます。「だめ人間、弱者扱い。社会のお荷物、フリーライダー扱い。プライドがつぶされる」などがだめといえます。そこを変えていくために、権利として誰でもが使って当然という風潮にしていくことです。

生活保護を使う人を今の五倍どころか一〇倍ぐらいにして、年収二四〇万円程度以下の人はみんな一定使えるようにする。そして、医療保険のようなものもある。教育費も非常に安くなる。住宅は安いものを保障する。現物のサービス給付を組み合わせることで、こういう制度は十分ありえます。だから今日の私の報告の表題を、「生活保護制度の拡充としてのBI」ということにしたんですね。これが、僕が思うBIの精神を活かした現実的な、現場の、弱者の観点からの対案ではないかということです。(野崎 泰伸「生活保護とベーシック・インカム」『フリーターズフリー』第1号、人文書院2007の意見と私はとても近い。)

 

■所得の捕捉と条件づけは必要

 細かいところはまだまだ僕も詰められていないけれど、たとえば貯金や収入は調べるべきだと僕は思います。僕も今は非正規労働になっているからわかるけれど、収入は税務署に捕捉されているわけです。捕捉されても良いと思うんですね。番号制を導入したらいいんです。スウェーデンも入れています。所得はもちろん名寄せして集めて、その所得を捕捉した上で、貧富の格差に応じてBIみたいなものが給付される。それはBI的なものだと思いますが、純粋BIとは違いますね。純粋BIは所得は捕捉せず、まったく同じように八万円渡すわけでしょう。そうではなく、所得を捕捉するということです。

児童手当くらいは全員にあっていいと思います。北欧でも児童手当は所得捕捉しません。しかし、生活保護のようなものについては、一定、所得捕捉することはそんなに問題はないし、実際にすでにされている。今ある制度で行けるんです。背番号制も左翼はずっと怖がっていたけれど、それは民主的な政府がちゃんと管理するべきで、避けられないと思います。公平な徴税と、社会保障の負担という意味で。武川さんも議論しているように、みんなで再分配するためには誰かが働かないといけないわけです。それに、僕は基本的には、人は働きたい面(やるべきことがあるという生活、居場所があるという生活)がすごくあると思う。だから、仕事の分け合い、仕事をよこせ、そういうことも同時に言うのがすごく大事かなと思っています。労働の強制はよくないが、働ける条件を整えることは重要です。

 生活保護はその意味で非常に使える面があるというのが僕の実感です。その生活保護の今の問題点をなくす。その上で対象を拡大して、名前も「生存所得」とかに変えて、もっとみんなで使おうよという提案です。それこそがBIではないのか。子どもは別扱いで、現物給付中心で良いと思っています。僕はシングル単位論者ですが、児童手当は一定必要だと思っているんです。しかし北欧の現実を見れば、子ども一人に年間九〇万なんていう現金ではなく、教育などにおいて非常に民主的な保障を行っています。たとえば大学まで教育費はタダです。そういう形で教育を保障することで、事実上、子ども一人ひとりのベーシック・インカムを保障するような仕組みはもうすでに見本がある。北欧が完璧ではないけれど、考えられる中では、いまの世界の中では最もマシです。

それができない日本社会で、まともなBI、あるいは純粋BIができるわけはないというのが僕の立場です。下手すると、リバタリアン的なものになるだけだと。社会保障の切下げで、あとは自分でやりなさい、最低所得だけあげるよということで、生活保護制度などが潰されると思います。そういうものに使われてはならないと思うので、今日はあえて、こういう論点もあるということを話しました。僕は、運動側も「勉強」「希望」といってBI論に乗りすぎている、そのことを問題提起したいと昨年から言ってきました。誤解のないように付け足せば、山森さんや小沢さんは僕はもっとも近いスタンスのBI論者とおもっています。なので、こういう生活保護の拡充のBIの論議が広がるよう、そしてリバタリアン的なBIが広がらないように、頑張っていただきたいという立場であえて言ったということです。社会的排除論やベーシック・インカム論は、「周辺系のひと」に対して、いかに実践的に役立つかという視点でなされねばならないということを強調したいと思います。どうもありがとうございました。

(以上の原稿は、当日の発言に、伊田がレジメなどをもとに一部加筆したものです。)

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