フランスのホームレス問題を扱った『ベルサイユの子』
フランス映画『ベルサイユの子』をみた。
基本的に、ホームレス生活者への共感を持って描かれている映画だった。
その意味で、まともないい映画だ。
ベルサイユ宮殿の裏手の森のなかに野宿者(ホームレス)たちが暮らしている。フランスには、こうした野宿者、避難所暮らし、テント暮らし、トレーラーやガレージ暮らしのような人が約90万人もいるという。
こども(エンゾ、5歳ぐらい)を抱えた若いホームレス女性(ニーナ)がいる。彼女はあるとき子どもを始めて出会ったテント暮らしのホームレスのダミアンに預けて消え去る。
彼女はぎりぎりだった。自分を取り戻すため、人生を取り戻すために、それは仕方がなかった。捨てたのではない。ダミアンにあずけたのだ。
いつかこの子とまた生きていけるためにも。
それ以上はそのときは考えられなかった。
人間になるためには、彼女はそうすることしか思い浮かばなかった。
ニーナを非難してすむ話ではない。それが現実であるとき、説教や非難では何もことは解決しない。
ニーナ自身が壊れていたのだから。あの生活の中で、あのようにあつかわれて、力がなくなって電池が切れていたのだから。
出会ったダミアンとエンゾ。ほうっておけばこの子は死ぬ。だからかまうしかない。ようやくひとりのおだやかな居場所を手に入れていたダミアンだったが、巻き込まれる・・・
まずは一緒に暮らし、食べさせる。世話をする。
エンゾとダミアンは相互に作用しあっている。人のダイナミックな関係性という存在のあり方。血縁を超えた関係性。
原始的な、人と人の共同性。森の生活にはそれなりの幸せがあったといえるだろう。
そのうち自分のするべきことを考え始める。ダミアンが病気になって死にそうなとき、エンゾが助けをよびにいってくれた。ちいさな子なのに。「社会」というところに行って懸命に助けを求める。
それでダミアンは入院。一命を取り留める。
退院したとき、ずっと待っていてくれたのがエンゾだった。
この子を幸せにしたい。愛情、絆が深まっていく。
自分のすべきことはなにか? ダミアンは考える。迷う。再び、自分が拒否し脱出してきた、主流秩序、国家制度の世界にもどることではないか。それがエンゾの為になるのではないか?
「主流社会」がきらいな、「主流社会」があわないダミアン。自らホームレスとなった。その彼が、エンゾのために、がんばって、いやな「主流社会」で努力する。それはそれで美しい。
つらかっただろうと思う。たんに「ビル解体業の肉体労働」が苦しいというのではなく、いままでの自分と今の自分との折り合いで苦しいのだ。エンゾがいるからとりあえずがんばるが。自分が何かに負けた気にもなるだろう。
一方で、他人がなんと言おうと、自分にはすべきことがあるという思いがあって、それが上回ったから、あんなにいやな実家、実父のところに戻る。エンゾにはそれがいいだろうと彼が思ったから。
***
ホームレスということを「私たち」は軽く考えすぎている。
寒さ、飢え、雨、貧困、不安、危険、病気、世間の目・・・
一夜でもいい。あなたはホームレスをできるか? 冒険や旅行気分で一晩だけするならできるかもしれないが、本当に、明日が見えない、貯金も戻る家もない、そんな気持ちで、一晩、野宿できるか?
できない。したらあまりの恐怖や不安でつぶれるだろう。こんな苦しいのはいやだと思うだろう。
いろんな人がいる。喜んで野宿をしているわけではない人が多い。でも中には、自分の所与の条件の中で、野宿を選んでいる人もいる。日本でも生活保護を利用してサバイバルしているひともいるが、生保を使いたくない人もいる。本当に多様だ。勝手なイメージで決め付けられない。
どれかを正しいとか正しくないとか、だめとかだめでないとかいえない。
その問題を考えるとき、この映画は面白い重要な視点を提供してくれる。
それはこども、エンゾの視点だ。
単純に考えたら、4−5歳の子どもには、親がいて家と食事があり、愛情があり、学校があるのがいいといえるだろう。
しかしこの子(エンゾ)はダミアンが退院してきたとき、待っていてくれた。再び森の生活に入っていくのが当然と思って。
父の豪華な家に暮らすようになっても、エンゾは居心地が悪くて、戸惑い、ダミアンにまた森に戻らないのか、と問う。
それはほかの社会を知らないからだ、といえるかもしれない。
だが、私たちの誰もがほかの社会、ほかの経験など知らない。
あなたは社長や失業者や国家元首や弁護士やダンサーや野宿者の生活を知らない。エジプト人の職人の人生も、フランスの芸術家も、富山県の農民の生活も知らない。だから比べることはできないし、どっちがいいとはいえない。
この子にとって実の母親と暮らすのがいいといえるか。施設や養子、里親生活がいいといえるか。あわない学校に無理やり強制的になじませることが一番いいといえるか。
映画『ツォツィ』でも赤ちゃんは、若いギャングの家にやってくる。それによって、まったく人間的な感情がなく残虐のきわみだったツォツィが、人間的な感情を取り戻していく。受身的で弱き存在の赤ちゃんにはそのような力があった。残虐な人間に、何かを伝えることができたのだ。それは主流の普通の人のお説教では届かないものだ。スピリチュアルなものだ。
世界を全体としてみたとき、この赤ちゃんが一時期、ツォツィの部屋にいたことに意味がある。
そもそも、絶対的に金持ちの家に生まれ育つのがいいといえるか。
それは単純すぎる見方だろう。
作家のあさのあつこさんが映画のパンフレットで文章を寄せていたが、その言葉は甘すぎる。「ベルサイユ宮殿を囲んでこんな森があり、そこにダミアンのような人々が住んでいただなんてまるで思いもしなかった」
この現実をこれまでしらなかった、初めて知るということは恥ではないのか。東京や大阪ではずっと前から野宿者がいる。ニュースをみていればどこの国でもホームレス支援のNPOが活動している。フランスではテントをセーヌ川にたくさん張ってみなが泊まりこむ行動もしていたじゃないか。
彼女の言葉はあまりにも無垢だ。世間を知らない中学生が始めて現実を知ったときの感想じゃないか。お気楽なものだ。
こうした映画は、主流社会を生きているものたちに、現実をわかりやすく示してくれる。それはそれで意義があるだろう。
だが、「ハイ、いい映画見ました。知らなかったー。ひとつ勉強になりました」でいいわけがない。戦争映画や児童買春や麻薬や障がい者や殺人の映画を見て、「勉強」するだけでいいのか。みただけでいいのか。
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このような周辺化された人々がいるのが、世界の現実。彼らは世界の外部ではなく、世界の一部を構成している。主流環境に順応できない人がいるのは当然だ。
そこを無視して、ただ主流秩序(中心)へ編入すればいいというのは、傲慢だし、現実的には無理な話だ。ダイアンがまた「野宿、ドロップアウトの社会」へもどっていったのは、リアルな現実だ。
そこにはかれの“居場所”があり、仲間がいるのだから。
ようやく彼が「安心していられる」場所なのだから。
私たちが求める社会は、かれらの「排除」「無視」「主流への統合」ではなく、彼らが周辺のまま、生きていける社会なのではないか。そうした寛容とゆとりと多様性のある社会へ。
排除された人が、通常は自殺(死)か、病気か、犯罪(刑務所への逃避)かしかなくなっている。そうならずとも、周辺のまま、異端のまま、いられるようにすべき。
誰もが、居場所を見つけられるように。
たとえばそれが森の生活。
もちろん、人は誰もが、気にかけてもらうこともいる。なんらかのつながりが必要だ。だが、ホームレスの人々にも、それがある場合がある。
この映画を素直に見てみれば、ホームレスの人たちのある種の生命力を感じるのではないだろうか。時代が違えば、人が生きるとは、こうだったのではないか。ダミアンをみても、エンゾやニーナを観ても、人として強いところがあるじゃないか。
同時に誰もが弱かったり、ダメだったりする。
とするなら、ホームレスを「下」にみて、思考停止していた我々が問われる。
我々が何にとらわれていたのか、洗脳されていたのか。
***
最後に、この映画は、ダミアンが建築解体現場で働き、金を稼ぎ、役所にいって養子の手続きし、学校に通わせる、というように、主流社会への復帰・統合を正解と描いているといえるだろうか?
母と息子の再会は、結局血縁の親子関係、家族が正解という事になるだろうか?
僕は、そのような見方はしなかった。
そのような、あれかこれか、正解はこれだというような単純さを排するために、この映画は両面性、多面性を描いたのではないか?
現実がそうなっているから。
現実は、制度もあるし、制度外もある。学校に行くプラスもマイナスもある。エンゾはそうした矛盾ある社会と時代に生きている。ホームレスが正解か、普通の会社員になるのが正解か、という2者択一ではない。親だからいいとも悪いともいえない。親でないからいいとか悪いとかいえない。親でいいときもあるし、親で悪いときもある。
この世には両方が存在し、私たちは誰もが、そのような階層化されつつ複雑に構成されている社会に生きている。私が学校にいったり会社にいっても、ホームレスの世界の要素を持てる。矛盾と両面性の中でどのようなバランスで生きるのかが問われている。
人が人を強く思う気持ち、愛情、大切、そのような気持をもらうという幸せをもてるのはいい。
再びいなくなったからといって、ダミアンにそれがなかったといえるか。
子どもと離れたからといって、ニーナにそれがなかったといえるか。
観るものが問われる。見てほしい映画である。
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