「共依存的なデートDV」にかんするメモ

――「全国シェルターシンポジウムinおかやま」に参加して  (08年12月ブログより)

岡山での全国シェルターシンポに参加してきた。とても有意義だった。
その全体の報告ではなく、僕が参加した2つの分科会での刺激を受けて、その感想を入れた短いエッセイを以下に書いておく。

参加したのは、「医療現場におけるDV被害当事者への対応」分科会と「DV防止教育」分科会。両方ともよかった。そこで得た情報を組み込んで、以下のようなエッセイをブログ向けに書いてみた。(責任は私にある)

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デートDV加害者、被害者のあり方についてシンポでいろいろ再確認するようなことがあって、そのなかに,被害者は自分がDV被害を受けていると認識していない場合があることや、共依存的になっている場合があることを聞いて、『ラストフレンズ』のことを思い出した。
(なお、以下の話はデートDVの中心的原則的な話ではなく、亜流・境界例の話である。そのことを確認した上での話であるが、この問題は、現実の多様さや説得力をどう高めるかに関わるものである)

『ラストフレンズ』でのDV加害者ソウスケは、「寂しい、ミチルを愛している、君だけを見ている、キミが必要」というようなことを言っていたし、実際、彼女との関係に全精力を使っていた。
みちるも友だち(ルカ)に「殴る人はだめだよ」といわれても、「ルカはソウスケのことなんにも知らないでしょ。彼は優しい人だし、私のことを大事に思ってくれている。私はこれまで誰かに愛されているって実感できなかった。でもソウスケには愛されているって感じる。ソウスケは極端なところもあるけど、私の事をいつも見ていてくれる。」「彼は寂しくてかわいそうな人で、私と似ていて、私は弱虫で、だから私は彼といる」というようなことをいっていた。

ある加害者の行動を分析的にいえば、彼はさびしく生きがいがなく居場所がない中で、自分を見つめず、人(恋人)の世話を焼く、人に優しくなって相手を愛する、強く相手を求めてびたーと密接な「深い関係(二人に閉じた密着関係)」をもつということに生きがいをもって恋愛をしているということがある。
その生きがいの対象が離れようとすると不安になって、別れたくないから、失いたくないからさまざまな束縛的行為を行う。それが高じると暴力、DVになっていく。

このような加害者(男性)の執拗なアプローチ(失わないための努力)は、熱心な愛情行為に見えやすい。あるいは、まだ恋愛が始まっていないとき、だれか自分の愛情行為を向ける対象(世話する対象、DV的関係の対象)をもとめて、執拗なアプローチを行う。
その熱心さは、その恋愛対象者(被害者になっていく人)には、熱烈な愛情表現に見えたり、かわいそうだから何かしてあげたいと思わせるに十分なようなものである。

たとえば、ソウスケはミチルが仲間の家に逃げていったとき、ある晩、一晩中、雨の中をミチルに戻ってほしくて待ち続けていた。彼はびしょびしょに濡れて凍えそうになった体で「ミチル、僕はいつも君を待ってる。待つのはつらくないんだ。・・・」とつらそうに言う。君が戻ってくれないともうだめだ、というような悲しそうな苦しそうな顔をしてそういうので、そのすごい「一途にミチルを思うエネルギー」に、ミチルは同情し、感動し、そこまでこの人はかわいそうなのだ、そこまで私を求めているのだと思い、抱きしめ、彼のもとに戻っていってしまう。この世でそこまで私を求めている人がいるだろうか、そんな人はこの人以外はいない、と思って。

つまり、加害者のパターンやDV的支配の種類はいろいろあるが、あるタイプとして、加害者が自分の「危機(限界的苦しさ)」を見せて、「恋人(被害者)」が「何とかしてあげなくては」と思うようにもっていき、被害者を「混乱関係」「ドロドロ関係」に巻き込み、結果としてDV的関係に取り込んでいくというものがある。
これは、加害者が十分計算して行っており、被害者が完全にそれに巻き込まれており、かつ加害者がそれによっていわゆる「程度がひどいDVをしている」なら明らかにDVといえる。

だが、DVの程度はいろいろで、加害行為がDVとしては緩やか(精神的な束縛などをしているが、身体暴力はなく、精神的にもひどい支配がなく、被害者はいやと思っていないような状況)な場合、被害者が「かわいそうな人を世話するという生きがい」をもち、加害者も被害者に依存しているので、一種の「共依存関係」的となっていることがある。

通常、DVは強者による弱者の支配なので、被害者に責任はない。そこをあいまいにする「共依存関係」という認識は、概念上、原則的にはDVとは別物と見る必要がある。
しかし、多様な実態を知っているものにとって、DV関係ではあるが、「共依存関係」的な側面を持っているようなケースもありえる。
支配する側がうまくコントロールしているとも言えるのであるが、何事も程度問題で、被害者は、主観的には強く、「自分は支配されているのではなく、本当に心から愛しているとか、助けてあげたいと思っている」とおもっていることがある。
実際に、単純な支配/被支配関係ではないような、関係もある。実例として、殴られるようなDV被害を受けていてさえも、「彼は本当は優しい人で、大好きだから、私は何があろうと、死んでも彼と別れたくない」、と思っている女性がいる。
だからそこまでの身体暴力を受けておらず、尽くしあう恋愛関係で、外部から見れば少しDV的であるというのはよくある。

どんな人もうまい加害者に出合うと被害に巻き込まれてしまう可能性があるので、被害者像は固定してはならないというのが原則であるが、予防のためにも、このようなことには注意しておこうということを学んでおく意義はある。



そのひとつが、「私ががんばればなんとかなる」と考えるのは危険だということである。DV被害者の一部は、優しくて、相手のために何かしてあげたいと思っていて、そこにつけこまれている。だから、「優しくなるのはいいこと」という思いだけで生きていて、加害者に騙されてはいけない。特に「自分が絶対にするべきことがなければ相手が求めることをしてあげたい」、と思っていること自体が危険だと知っておいてほしい。
先ず自分というものを持ち、自分のために時間を使うということを意識的にしないと、恋愛感情とあいまって、支配のうまい人にどんどん介入され、流されてしまう。それが知らぬ間にDV的被害になっていく。
DVや共依存関係にならないようにと関係の危険性(DVとか共依存)を大きく見抜く目を持ち、自分の生活をちゃんとコントロールするという力を持つことが必要である。
それがないと、目の前にあることにおわれ、結局、相手のペースに巻き込まれ、全体を見渡せずに、いろんなこともちゃんと考えられなくなって、知らぬ間に相手のためばかりに時間を使ってしまい流されてしまう。
それはまさにDVであるが、本人は、いいことをしているつもりでDVと気づかない。周りが少し言っても、相手との関係のドタバタに巻き込まれていると、耳が閉じてしまう。
以上から、「私ががんばればなんとかなる」と考えてしまっていること自体が危険信号だと知っておいたらいいだろう。



次に、被害者は、「別れたら彼がだめになる」とか、「彼がかわいそう」とか、「本当にどうしようもなく好き」という感情に囚われていることも多い。これらについても、そのような発想になっていること自体が危険だと知っておくほうがよい。
客観的に自分たちの関係がデートDVや共依存的になっていないかどうかをみて、デートDV的な兆候があるのに、好きだとかかわいそう、私が助けてあげなくては、といった感情がごっちゃになって、理性的でなくなって、生活が彼との関係中心になっているとしたら、それ自体がよくない状態であると知っておいたほうがいいだろう。

あと、被害者の多くは、自己肯定感が低くなっている。私はだめだと思い、自分を責める状況になっている。たとえば、彼の言葉に翻弄され、気持が浮き沈みし、彼のいうことに抵抗できなかったり、あるいは、彼のことが信じられなくなって束縛したり怒ってしまったりして、また自分を責めたりしている。自分は価値のない人間だと思っていて、加害者のいうとおりなのではないか、「加害者がおかしい」と思う自分が間違っているのではないか、等と思ってしまう。
だが問題は、関係に巻き込み、被害者を不安にさせ、被害者の自信を奪うようにしている加害者の側にある。
だから、関係の中でいろいろあって「自分はだめだ」と思っている状態自体が、その関係がDV的であるということだと知っておく必要がある。


つまり、自発的に愛情行為として相手を愛していると思っていて、客観的には広義のDV的な支配をされている、でもそこに恐怖感はなく、嫌な感覚もなく(少なく)、「共依存関係」的といえるような関係がある。
分類図式的に単純化して言えば、本質は広義DV関係だが、そのなかの被害者に恐怖感のない緩やかな支配のケース、また表面的な意識上では共依存関係的な関係というケース(これを以下、「共依存関係的DV関係」と称する)というものがあるということである。広義DVの集合には、そのような部分集合があるという話である。

この問題は、多様な現実があるという問題、シンポでもよく出てきた「本人が被害を気づいていない問題」にも関わる。「被害者本人がDV被害を気づいていないケース」の中には、この「共依存関係的DV関係」の場合があるだろう。

次のような事例もある。
彼は「ヘンな理由」ですぐに別れ話を持ち出す。たとえば会う約束があったが被害者の都合で断ったらそれだけでもう別れるという。彼女(被害者)は彼が好きなので、謝って別れないように頼む。彼は今後そうしたことをしないように約束させて「別れ」を取り消す。
そういうことが繰り返されて彼が上という上下関係が、形成されていく。この場合、被害者女性は、これがDV関係だとは自分では気づいていない。第3者と話をしていて徐々に気づけるかどうかというほどである。

一般的にDVでは、被害者のほうが嫌われるのがイヤだからということで、相手のいうことを聞いていくということがよく観察される。心理的精神的DVの程度の「ひどくない」ものは、被害者自身がそれを被害と認識しにくい(身体暴力は相対的にDVと認識しやすい)。
 たとえば、「無視する」とか「他の男性と話したり親しげにすることをいやがる」というような項目は、身体暴力よりも、DVという認識が低くなる(授業前はかなりがそうで、授業後も一部はDVではないと思い続ける)。
そうした関係の初期にでやすい「程度がひどくない支配や暴力」を許していると徐々に、程度のひどい支配・暴力になっていくので、初期から対処していくことが重要である。



私たちがデートDVとはこういうことだよ伝えるときに示す、そういうことも精神的なDV・暴力であると初期の段階で気づいてもらうことが大事である。
関係性が始まるときにDVだとわからないで、深い束縛や支配などのある関係にのめり込んでいくと、ひどいDV行為をされても、もうその時点でマインドコントロールされてDVと分からなくなってしまっているということがある。あるいは逃げられなくなってしまっている。がんじがらめになっていて、支配がうまい加害者のいうことに翻弄されて、もう第3者の声を聞く耳を持たない状態になっている場合がある。愛しすぎて目がくらんでいるというようなことがある。
(これについてシンポ講師の原健一さんや上村茂仁さんも同主旨のことを述べておられた)

だからこそ、早い段階から、こういうのもDVでよくないよ、気をつけようということは伝え続ける必要がある。一回だけ講演して終わりということでは効果が少ない。個別事例でフォローしていき、第3者がそこにDV関係を発見し、それはDVだよと気づくように関わり続けないと、関係を変えることは難しい。
少しぐらい外部からDVだよといっても、明確な殴るなどのDV行為がないと、本人たちは気づきにくい。愛情・恋愛観というものがここに絡まっている。



これにからむのが、ある種の被害者は、「(対等で穏やかな関係ではなく)困難の多い関係を求める」ような傾向を持ってる場合があるという問題である。
もちろんいろいろなケースがあり、被害者の責任論にしてはならないが、親から十分愛されずに育ったなどで居場所がない、自己肯定感が高くない人の場合、恋愛などで「相手のために尽くすことで深い関係になったように感じられる関係」が、今までの欠落感を埋めるものとして、とても魅力的に感じられる場合がある。

相手の世話に没頭する快楽、それによって相手と深くつながり、相手も自分とつよく結びつき、離れない関係になる、依存しあう関係になるというのは、一種の、快楽となる。
問題を抱えている人がおり、それに関わる(世話する)というのは、自分が必要とされていると感じてのめりこみやすいのである。問題を抱えている人は強く束縛してきたり、干渉してきたり、強く世話をもとめてきたりする。分かりやすくいえば、なにか問題を抱えている人との関係の方が「愛を感じやすい」のである。
そのような欠落や世話・役割によらない「つながり」はポジティブに創造的にならなくては難しい。だから難しい。簡単なのは世話や束縛によるつながりなのである。共依存関係というのは、こうしたことが背景になっている。



これはとっぴな話というよりむしろ「愛の本質」に関わるところである。通常の愛の概念は、滅私による相手と自己の一体化(相互所有相互独占による一体化)であるとされているから、滅私奉他を愛と感じるのはありがちなことなのである。「シングル単位の愛のありかた」はほとんど知られていないし少しムツカシイから、多くの人は滅私的なかかわりを愛と思い込み、そうした安易なつながりを実践する。
単純な例で言えば、料理をつくってあげることで必要とされる関係というのは、その代わり男性が守ってあげる、扶養する、愛するということとセットになって一種の均衡状態となる。「胃袋と美しさで男をつかむ」というのは女ジェンダーの知恵としてよく知られているところである。代わりに男はカネで女をつかむのである。

不幸な生い立ちゆえに、普通以上に、理想的な家庭(愛情関係)を追い求め、結婚や恋愛でカップル単位的にびたーと引っ付くのがよいことという幻想を持っていることがある。話すことがなくなったからとか、なんとなく流れで、ということでセックス関係になり、同棲とか結婚とか子どもを持とうとか、そういう話にすぐになっていく。

適度な距離で友情や愛情関係を育むというのはムツカシイから、「急速に結合するのはすばらしいという物語」を利用して安易に「ちゃんとみつめないところに逃避」するのである。ジェットコースターに乗っていればゆっくりと反省する暇はない。とりあえずただ楽しくて楽ちんなのである。恋愛において、すぐにセックスし、同棲しようとか強い束縛関係になり妊娠する、結婚しようというように、早く展開することはまさにジェットコースターである。Dv関係で毎日悩むのは、刺激のあるジェットコースターである。

被害者が巻き込まれないための「ゆっくりした時間、第3者と相談し反省する時間」を加害者は与えず、急速に二人に閉じて恋愛の力で相手を巻き込み所有して支配をしていくのである。
それに批判する視点をもてないとき、被害者の主観には「被害」はみえない。時には、結婚したり妊娠することで、彼(加害者)は変わってくれるかもしれないなどと被害者は思ってしまう。被害者のほうも、結婚や妊娠を求めてしまうことがある。

シンポで紹介された事例として、寂しさを抱えている子が「殴られる暴力より一人になることのほうが怖い」といってDV関係からはなれないというのが紹介されていた。殴られたアザを見て、そのアザをいとおしいとその子は感じるという。なぜならそのアザは、彼との深い関係を象徴しているものだから。

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これを聞いて僕は即座に、雨宮処凛『暴力恋愛』(講談社2002年、文庫2005年)を思い出した。これは典型的なデートDV関係ではないが、「非エンパワメント状態ゆえに、恋愛関係においても、双方がデートDV的に支配しようとする状況や行動」が描かれているという意味で、ぜひ読んでほしいものだ。
そこには上記の例と同じようなことがたくさん書かれている。

しばしば、醜い言葉でお互いを傷つけあう。好きなのか嫌いなのかをはっきりさせるために、出ていこうとする恋人を挑発する。そうした挑発はとてもうまい。出て行こうとすると、必死で引き止める。相手(パートナー)の気持ちを確かめようとむちゃなことをいったり、自分から離れて相手を試すこともあれば、逆に相手が不機嫌になると必死で機嫌を取ったりするが、一定以上になって相手が本当に離れようとすると、「出ていくなら殺す」と包丁を出し泣きわめく。そうすると相手に殴られる。
だがそれは、彼女の計算どおり。殴られることで、恋人に貸しを作ることができるからだ。殴られると、二人の間の壁が取り払われたような達成感を感じるという。傷ができると、その傷がある限り、この人は私の近くから離れられないような気がして少しほっとするという。殴られるとき、全身全霊で私に関わってくれていると実感できるとも言う。そのような極限状態になることで、後に引けない状態になり、関わり続けてくれる。一番怖いのは、相手にされなくなり、関係がなくなることなのだ。だから彼女は殴られながら思う。「もっと殴って。冷静にしてないで。取り残さないで」と。

主人公の「私」が、相手を巻き込む言い方として、次のようなものがある。「どうにかしてよ。責任とってよ。達也君のせいだからね。一生消えない傷がたくさんできたんだから。病院連れて行って、医者に僕が殴ったって説明してよ。」「私のこと利用したくせに。自分のちんけな野望のために、他人を利用するなよ」
主人公の女性は、しばしば、「巻き込んだのはあなただ、私は悪くない、あなたがずかずか私の内面に入ってきた」「恋人ならこれ位して当然でしょ」というような追い詰め方をする。そのようなとき、彼女の全身の血は沸騰している。そうして相手を追い詰め、相手が最後に爆発して、殴ったりする。そしてまたその傷を口実に、彼に詰め寄る。彼女は、こうした支配や暴力によるようなやり方しか、深いコミュニケーションの方法がわからないのだ。こうした関係でのみ、不安から解放され、充実感を感じられるのだ。

彼女は暴力を誘発し、その後、男が「俺のせいでこんなに苦労させて悪いな」って優しく言ってくれるので、その一言で彼女は満たされる。だからそのような状況にいつももっていく。気がつけばお互いがお互いなしじゃ生きられないような、ドロドロの依存状態になっている。一緒にいればうっとうしいのに、いないとなると不安になる。

ここには「恋愛関係を断ち切られる=好きな相手に否定されること=世界から否定されること」というギリギリの感覚がある。自分が大嫌いで、自己肯定感がとても低く、精神的なしんどさを抱えている。そんな、からっぽで不確かな自分を必死に埋めるための装置として、恋愛のようなものがあるのだ。
相互に支配しあうゲームの中で、男が私を失いたくないといって死に物狂いになっているとき、首を絞められているとき、暴力を振るわれているとき、彼女は、奇妙な充実感を感じるという。なぜならそれは、自分が必要とされているという実感であるからだ。「無視しないで。私を構って。嫌いにならないで。お願いだから近くに来て。こんなことして馬鹿だなって言って抱きしめて。殴って、私が何もわからないようにして。」というギリギリの求め方。

「好きな相手から否定されないことぐらいしか、自分の存在なんてわからない」という思い。この闇は深い。自分の存在価値なんてわからないという思いに、どう向き合うようなDV論・恋愛論にするか。浅いDV論=「こういうのは暴力(DVの現象)だからやってはダメだよ」では足りない場合がある。

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この本の例は、女性が相手を支配するものであり、自己否定感がとても強い極限的な事例である。だからデートDVの入門的な予防教育には、不適切な例ではある。だが私たちが対等な関係を広げようとしたときに、出会う困難さや抵抗にどう向き合うかを考える上で参考になる点はあるであろう。
ここまできつくはないが、自分が人間関係を結ぶとき、恋愛の力を使うという人は少なくないのではないか。通常の友情とか、知り合いの関係で、したしげになるのはムツカシイ。しかし恋愛のはじめは、何かしたしげな感覚が流れて心地よい。だから、そういう恋愛関係の力につい流されてしまうという人がいる。こういうことが、共依存やDV関係の背後にある。


デートDVの防止教育をして感想を集めると、ときどきネガティブな感想がでてくる。たとえば、「こんな話を聞きたくなかった」「好きだから束縛OK。やきもちや携帯チェックは当然でしょ」「他の男と話すなと嫉妬束縛されたら嬉しい」「だから今日の話は納得できない」というような反応はある。
講義の後でも「暴力をしてもかまわない」という確信犯的な者もいる。そのあたりを減らし、より説得力を高めるために、この「共依存的なDV関係」やグレーゾーン的な問題への適切な説明能力を高めることが必要と思っている。

根本は、自尊感情に基づくシングル単位感覚をなかなかもてないということに関わる。デートDVを深く分析し、本当に予防していくためには、カップル単位の恋愛観の束縛からの離脱と、独りでも自立して生きていける強さの獲得(エンパワメント)が必要である。だから、この非エンパワメントゆえに束縛関係にすがりつく“弱さ”(加害者・被害者の両方)の事例から学び、このような束縛の関係を越えていく展望を持てるようにならなくてはならない。

上記で、予防教育の後、ネガティブな感想を示すものは既に、DV支配下に入っている結果だともいえる。だから今回のシンポでも何人ものパネラーが「だから早いうちに予防教育を始めないといけない。高校生ではもう遅い。中学生とか小学校6年生ぐらいから必要」といっていた。
僕は大学でデートDV予防教育をしても「効果」があると実感しているので、「遅い」とまでは言わないが、早くから伝えていくことは必要と思う。中学生、高校生において毎年、段階的なプログラムで学び、そして大学になっても社会人になってもさらに繰り返し予防教育に触れることが必要なのである。

グレーゾーン問題」についてここでは説明を省略するが、2009年春ごろには出したい拙著の中で詳しく展開している。基本発想は、明確なDVではないが、DV的な「DV度30点」の人は、それをDV度20点、10点にしていこうねというアプローチが有効だろうということである。
現場の実践者の多くが言うように、「あなたはDV被害を受けているから離れなさい」といわれると被害者は、その後そこには相談しない。基本は、「すぐにDVと判定して別れるよう説教すること」ではなく、聞くこと、寄り添うことである。この点からも、「被害者だと自覚していない被害者」に対して、共依存者に対するアプローチから学んで、「あなたは愛していると思っているが、それは共依存という一種の依存に陥っているのかもしれない」という視角の提示は有効な場合があるだろう。
また「DV的なグレーゾーンの場合の対処の仕方」の提示が有効な場合があるだろう。
どちらも根本的にシングル単位観点でのエンパワメントということの必要が伝わるかどうかである。まあそれがいちばんムツカシイのであるが、DV関係の根本解決自体がムツカシイのだからしかたない。

 
注意
デートDVの広義/狭義、程度の強いもの/弱いもの、明確なDVとDV的なもの、グレーゾーン的なものの区別がないと、様々な混乱が生じる。文脈を見ることが必要である。本稿(本ブログ)も、ある文脈の中の話である。
デートDV論としては、たとえば、調査で男性の被害も女性と同じく多くでてしまうという問題は、この程度の強いもの/弱いもの、明確なDVとDV的なもの、グレーゾーン的なものの区別がない調査ゆえである。
だから、設問項目に、「逆らえないと思ったことがありますか」「相手を怖いとおもったことがありますか」「対等ではなく、上下関係と思ったことがありますか」というようなものを入れることで、強い支配関係はやはりジェンダーが影響して女性に被害が多いことが浮き彫りになるであろう。(この点は、アウェアやウィメンズネットこうべなどフェミ系の実践的なところからはずっと言われていることである。)

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以上の話のほかにも、関連問題として整理しないといけないことは多いが、今回はこれだけにしておく。

人間関係のはなしを単純な型だけで判断することはできない。以上の話はあくまで一つの角度からの話である。

本当に実質的に穏やかで対等・尊重な関係になっているならいい。
寂しさから恋愛に逃げ込んでいるだけでないならいい。
自由で、上下関係がないならいい。
束縛されておらず、あまりベターと二人の生活だけになっておらず(孤立しておらず)、笑いがいっぱいあって、双方が自立していて元気に仕事や学業や友人関係や自分のしたいことができていればいい。
人に自信を持って自分たちの関係はすばらしい恋愛だ(デートDVや共依存ではない)といえるならいい。
つらいとか、怖いとか、苦しいという気持がないならいい。
相手に気を使って自由に言いたいこともいえなくなっていないならいい。
NOをちゃんといえる関係ならいい。
本当に相手の声をゆっくり聞きあう関係になっているならいい。
相手がおかしなことをしたらちゃんと別れられる関係ならいい。
恋愛(恋人)だけが生きがいになっていないならいい。

完璧な関係はないともいえる。
だから各人が、以上のようなデートDVや共依存に関する知見を学び、それに照らし合わせつつ、少しでもグレーゾーンの中で、より自立かつ対等な関係のほうに移行していければいいなと思います。
誰もが、暴力のない、対等で豊かな関係性を持つことができます。

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