書評:橘木俊詔『女女格差』――ジェンダーの視点のない、現状確認の本
橘木俊詔『女女格差』東洋経済新報社、2008年
女性の中に格差はある。教育をどこまで受けるか、結婚か非婚か、子どもの有無、専業主婦か勤労女性か、総合職か一般職か、正規就業か非正規就業か、美人か不美人か、それぞれにおいてどのような具体的格差があるのか、それは合理的格差か非合理な格差か、などを検討したのが本書である。関連する統計を集めて女性の中にある格差を確認した点に本書の意義がある。最低賃金を上げること、均等待遇、子育て支援などワーク・ライフ・バランスの展開、離婚の危険性等を考えて働き続けることを奨励している、結婚せずに子どもを産むことが差別されないようにすること、など、一部にまともな提言もあり、そこも本書の意義といえる。
だが、執筆者である橘木は「深くかつ周到に検証してみた」というが、女性の人権、ジェンダー平等の視点から見ると、本書は平板に統計から見た格差の表面をなぞっているだけで、深い一本の分析の視点がないものとなっている。提言は常識の範囲内に過ぎない。
たとえば、女性の格差を見ていくときに、結婚や男性が大きく関与する(例:低学歴女性は、結婚しても貧乏な家計なので働く率が高い、高学歴女性は専業主婦率が高い)というものの、結婚制度を批判するわけでもなく、個人単位観点を提起するわけでもなく、女女格差をどうなくしていくかの提言もなく、一体結論が何なのかが不明なものとなっている(社会保険についてだけは一言、個人単位に言及している)。つまり女女格差のある現在の構造への批判性が弱く、単なる「感想」程度のコメントが多く、むしろ、格差を容認したり、ところどころに格差の原因を女性本人の選択ゆえのものとみる能力主義的あるいは自己責任論的な指摘が見られた。
「女女格差」というジャーナリスティックな用語は確かに最近のものかもしれないが、女性の中の格差については、昔から議論があった。財界や政府がすすめる「男女雇用平等法」にのることは女性の中に分断を持ち込むことにならないか、エリート女性が男性並みになることで得られる「男女平等」でいいのか、能力主義の上で同一基盤に立てないものへの「合理的な差別」を容認していいのか、平等法によっていまある女性労働の諸問題の多くが切り捨てられてしまわないか、という、25年ほど前の雇用平等法制定過程の議論(結果として男女雇用機会均等法となった)は、そのひとつである。専業主婦論争、社会保険における第3号被保険者問題などもあった。だが本書はこれらの水準さえまったく踏まえていない。
機会の平等と結果の平等についても、過去には深い議論があるのに、機会の平等の必要性と「不合理な結果の格差」の是正が必要であるという平板なことを述べているに過ぎない。能力主義を深く批判する視点がなく、能力による格差を基本的に容認し、効率性を重視する観点から、能力の低い子どもに金をかけるより、能力の高い子どもに教育投資を集中させればいいという。格差是正ということさえかなり限定して主張するだけである。総合職と一般職の格差については、女性の選択肢を広げるし、入社時に選択の機会が与えられていたので問題ではないとまで言う。採用における男女差別は残ってはいるが均等法によって徐々に低下しているという。
このようなものになってしまっているのは、本書が現実の「普通の女性」「負け組系の女性」の差別や不平等への怒りや悔しさをベースとしていないからである。
橘木はいったい、なんのために本書を執筆したのか。その動機は、単に、格差論で有名になった橘木に対し、ある編集者から「女性の中の格差」で本を書いてほしいと頼まれたからに過ぎない(「はしがき」より)。その程度の本である。橘木は、新自由主義によって貧困と格差が進む時代に警鐘を鳴らす仕事をしている学者ではあるが、自分の得意分野ではないところで書いたために欠点が目立つ作品となってしまった。
フェミニズムは性別分業批判にとどまるものではないが、本書は、その性別分業自体にさえ批判性を持っていない。女性が担っている低賃金劣悪待遇をどう変えていくべきなのか、勝ち組女性の問題性は何なのか、についての橘木独自の視点も意見もない。「ジェンダーと貧困」についてようやく議論が始まっているが、本書はその議論に与するところがほとんどない。フェミニズムを勉強せずに、知ったかぶりでこの分野で語ってしまったために、ただのおじさんの飲み屋での話みたいなものが多くなっている。その典型が「美人と不美人の格差」を扱った9章である。
そこでは、美人かどうかは個人の主観によるし、美人が単純に有利だとはいえないので、深刻に受け止めないほうがよい、という主張がなされる。「美男美女、醜男醜女」など容貌の程度が同じカップルが多いが、そうでないのもいるからいいとか、親に似ていない子も生まれるからいいといった話もなされる。容姿がいいと有利な人生を送れる可能性が高まるが、「不美人」でも高収入の人がいるなどという。そして生まれつきの能力の差による格差は、「機会の不平等」という不合理ではなく、不条理の世界の話でしかたないものだと容認し、美人/不美人の問題もそれと同じだという。美人に対する劣等感や嫉妬には、個人的な化粧や衣装で対処せよ、あまり気にせず容姿以外の能力の面でがんばれ、という。結論として、美人に生まれた人は、恵まれたその才能をいかせばよいという。
これのどこがいったい、経済学者による女女格差の分析と提言であろうか。面白いテーマなので期待して読んだが、がっかりした。
その他、本書の問題点としては、次のことが挙げられる。
女性は男性と違って結婚や出産によって「格差の上方に上る道」「格差を逆転できる可能性」があると指摘するだけで、だからどうなのかには触れていない。美人は経済力の高い男性と結婚できて階層があがるという事実をどう評価し、何を提言するのか。何もない。単なる現状追認だけである。差別構造の批判的把握というものがない。
また、女性には、男性と比べて結婚、出産、専業主婦か勤労女性か、総合職か一般職か、正規就業か非正規就業かなどにおいて選択肢の数が多いとして、橘木は男性よりも女性の人生のほうが柔軟で豊かであるかのようにも言うが、この選択が「下」に開かれているものでしかなく、条件が悪い強制構造の中での罠が多い選択肢であるということを見ていない。
さらに男性との比較において、女性は格差の下層にいる者が多いことも、ジェンダー不平等構造として批判的に分析するのではなく、不幸にしてそうなっているが、これからの人は奮起一番で努力すれば高い地位にいけることでもあるという。
以上のように、総じてフェミニズムの匂いのない、良心的リベラリスト男性の表面的記述が多い。これでいったいどうして、女女格差を深く検討した本といえようか。