車谷長吉の人生観
(09年6月のブログより)
6月13日の『朝日新聞 b 』で、作家の車谷長吉さんが、「悩みのるつぼ」という人生相談コーナーで、すばらしい「回答」を寄せています。
40代男性高校教師が「教え子の女生徒が恋しいんです」と相談している。教師として充実しているし家庭も円満だけど、5年に一度くらい、女生徒を好きになってしまうと悩んでいる。一線を越えるつもりはないがその子のことばかり考えるようになってしまい、自己嫌悪に陥る、どうしたらいいかという。
それに対し、天下の大手新聞の通常の回答なら、家庭を大事にしなさいとか、女生徒のことも考えなさいとか、思うのはいいけど行動はダメですよ、とか、そんな回答が多いだろう。
だが、車谷長吉さんは、「恐れずに、仕事も家庭も失ってみたらいい」という。自分はカネや人間関係で地獄を見てきて、31歳で無一文になってはじめて人間とはなにかということが少しわかったという。
「生が破綻したときに、はじめて人生が見える。したがって、破綻なく生を終える人はせっかく人間に生まれてきながら、人生の本当の味わいを知らずにおわってしまう」という。「好きになった女生徒と出来てしまえばいい」「職業も名誉も家庭も失って始めて人間とはなにかがわかるが、それを知らずに味気ない人生を送っている人が9割だ」「相談者は小利口なひとでつまらない人生だが、自分は阿呆になって人間とは何かがわかり、気楽で幸せだ」「人間に生まれて生きること自体が不幸なのだが、相談者はまだ人生が始まってさえいない」というようなことをいう(引用は正確ではなく、私の要約)。
いや、おもしろい。実に面白い。『朝日新聞』にこんな回答が載って僕は嬉しい。楽しい。愉快である。自由を感じる。言っちゃあ悪いが、同じく『朝日新聞』で相談に答えている上野千鶴子さんや盛岡正博さんのより数百倍面白かった。(もちろん僕だって、こんなに面白い回答はかけない)
まあ、これだけ「苦労」している車谷さんが言っているから許せるんであって、恵まれた人がいっても説得力はないだろうけど。
それに、実際に車谷さんのいうようにするのが唯一いいことだともいえないだろう。でも、そこには自由と深みが少し顔をのぞかせている。学者さんの上から目線のえらそうな文体とは違う。
でも、きっと『朝日新聞』には苦情も来るだろうなあ。
それで思い出したことがある。
僕は昔、『朝日新聞』の 「相談室」という生活欄のQAコラム(『朝日新聞』2007年8月11日)の回答に抗議をしたことがある。
それはセクハラを容認し、相談者に二次被害を与えるような意見だったからだ。
公的な新聞で、こんな回答者にこんな回答をさせて無批判に載せていいのか、『朝日新聞』にも責任があるのではないのか、というものだった。『朝日新聞』担当者は逃げただけの対応だった。
そういう抗議があってこそ、民主的な社会だと思っているからぼくは抗議が大事と今でも思っている。今回の車谷さんの回答は、「すばらしい!こういう異端の意見があってこそ楽しい。」と僕は思うが、では、僕が以前、抗議したこととの矛盾はないのか、という問題がある。
この車谷さんの回答には保守的というか、普通の読者からはいくらか抗議がくるんじゃないかな。それに対して、ぼくは擁護する側にまわりたいとおもう。
自分が気に入った回答はいいが、気に入らない回答は良くないということかといわれれば、半分「そうだ」と答え、それで何が悪いか、意見とはそのようなものだ、という。しかしそれだけだと足りないと思っていて、もう半分の視点も必要だというのが僕の立場だ。
すなわち、そこに「人権」「他者を傷つけるか」「社会の差別的な秩序を維持再生産するのか、逆に揺るがすのか」という観点も入れて、対応を考えるというものだ。
僕は、差別を拡大再生産する言論には、反対していく。性差別を減らすことをめざし、暴力に反対する運動の側に立つ。しかし、「道徳に反するから」というような理由では反対しない。
以前、このセクハラ容認の回答のとき、友人の細谷さんの意見も踏まえて僕は次のように考える立場だった。
ある人の署名入りの文章を、新聞社が検閲のように、修正したり掲載しなかったりするのはよくない(文章の内容的な責任は、第一に執筆者本人が負う)が、新聞社がその人を選び、その意見を載せたという責任はあるから、人権侵害の疑いがあるとか批判があるような場合、その賛否も載せて読者に奥行きのある思考をうながしたり、検証の場をつくるべきだ。
というもの。
このスタンスは今でも同じだ。だから、今回の車谷さんのユニークな意見にも賛否両論はあるだろうが、もし抗議がたくさん来ても、車谷さんを執筆者から外すとか謝罪させる(抹殺する)のではなく、賛否を載せていくような対応が必要といいたい。
車谷さん、おもろかったでーといいたい。無責任な意見だといわれても、無責任だけど、オモロイ面があるからいいやんといいたい。
これを読んだ読者で、自分の重い問題を抱えている人が、少し吹っ切れるような気分になれたらいいなと思う。あなたのたいへんな人生にも味わいや豊かさや深さがあるってことを、車谷さんは、上からではない目線でいっているので、伝わる面があると思う。
もちろん苦しみや苦悩がいい、しかたないと単なる受苦・受忍をすすめている保守的な秩序維持者のおためごかしを僕は支持しない。苦悩と、そこからの脱出というか乗り越えというか、サバイバルも含めての味わいを応援したい気持だということ。
ぼくはともすれば、ちいさな保守的な「幸せ」に逃げて思考停止するような人が多い中で、そんなスタンスの人が好きではないタイプだ。本当にそんな底の浅さでいいのって問いかけたい。あなたは何を大事にして生きてゆきたいのか。どのような質、水準の生き方をしたいのか。保守的秩序にどう向かって生きていくのか。大事なものから逃げて、保守的な「幸せ」に満足できるような人とは、僕は深くは交流できない。そのあたりが伝わる人と僕は交流していきたいという思いがある。そこを〈スピ・シン主義〉といっている。
人はそれぞれだけど、僕は車谷さんのような“凄み”のほうに惹かれる。大事なものを大事にできないような勇気のなさ、思い切りのなさとは距離をとりたい。
ただし、最後に蛇足だが、「教え子とできちゃう」ことが、いつも深みに至る道だとはまったく思っていない、と言っておく。逸脱が常にラジカルとはかぎらない。秩序を維持補完するだけの「浅い逸脱」などいくらでもある。不倫・浮気の多くはそうだ。結婚制度やジェンダー秩序を揺るがさず、ただそれに乗るだけの離婚や「不倫」や再婚などたしたものではないとおもっている。麻薬やギャンブル、犯罪、暴力など主流秩序を揺るがさない逸脱を賛美できない。そして秩序を維持する保守的な価値観にも賛成しない。それが僕の立場である。
あなたはどう考えますか?
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以下、『朝日新聞』(2007年8月11日の 「相談室」の「ひどい回答」を資料としてつけておきます。
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「28歳女性の相談 : 女の子でくくられるのイヤ」
学生のころから「女の子はこういうもんだ」という固定観念をもつ男性と接するのが苦痛でたまりません。会社の飲み会で「料理はするの?」「女の子だから買い物好きだよね?」といわれると、ムキになって「別に料理しません」等と答えてしまいます。これはセクハラです。こんな日本から脱出したいとも考えます。腹を立てない考え方はないでしょうか。
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「それにたいする回答:玉袋さん(漫才師):気持ちに余裕もって会話を」
あなたのような女性が側にいたとしたら、逆に私、男性の立場からしてセクハラだと思います。こっちの何気ないトークを誇大に受け、ヒステリックに反応! これでは「悪気なしに会話したいのに、なんでオレが加害者?」とつらくなるからです。
人と会話することを閉じてしまって本質的な話もできないまま、一方的に硬い態度をとってしまう。会話というのは先ず、よかろうが悪かろうが糸口が会って本質的なものとして組み立てていくものなのです。
仮に海外に行っても、外国人のフランクな会話の中には、あなたが腹が立つことなんてザラです。それに今以上に、屈辱的で民族的な差別言葉が、あいさつがわりに降りかかってくるでしょう。友人が、アメリカで暮らしていますが、ドギツイ差別的ジョークに最初は戸惑い、頭にきて貝のように閉ざしたそうです。でもそれではダメだと思い、そういう会話に飛び込んで、自分のポジションを作って、今ではジョークをいってきた人間を使う側の人間になりました。それぐらいの覚悟が必要です。
くくられるのがいやなら、いっそのこと現在の日本の生活は外国での暮らしだと思ってみたら。 あなたが嫌悪感を抱く会話は汚いスラングのあいさつ程度のものと思うと気が楽になります。この余裕があると、頭にこないで、誰とでも会話できるようになるでしょう。
(引用 終わり)
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