まともな宗教とはどのようなものか
(09年3月に書いたブログ 2つ)
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信仰と信頼と宗教
『朝日新聞』(09年2月13日)に載っていた仏教者・佐々木閑さん(花園大学教授)の文章は、少しよかった。
お釈迦様の教えはすばらしいが、彼を完全無欠の人としてその教えのすべてにひれ伏し、その言葉を理屈抜きに丸ごと信じる、丸ごと身を任せるべきとは思わないという。つまり、仏教は、完全絶対的に正しい「神や超越者」のまえに帰依する、身を投げ出す(そうすれば救ってくれる)ようなものではなく、自分の頭で考えるように教えているという。疑えという。釈迦は人間であり、ただ優れた智慧を持っていただけであり、釈迦だってときには間違ったという。釈迦に任せれば救ってもらえると思うなという。
では仏教で「信じなさい」というのはどういうことかというと、「釈迦の説いた道が、自分を向上させることに役立つ」ということを信頼せよ、という意味だという。つまり仏教の「信」とは、信仰ではなく信頼だというのである。
「超越者のいない世界で、生の苦しみに打ち勝つ道があること」を見つけ出したのが釈迦であるという。だから釈迦という人間を信仰するのではなく、そのすごい教え(道)から学ぶ、その教えへの信頼だという。その釈迦が切り開き教えてくれた「道」を自分の力で歩んでいくのが、仏教だという。
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いいことを言っていると思う。そのような宗教は、私の生きる感覚、哲学と近い。ダライラマの話の説得力も、このようなところに近かったからだ。
私は、その意味で、宗教者の中に、上記のようなスタンスで生きている方がいることを知っているので、尊敬する。それは仏教に限らない。キリスト教でも、上質な人は皆、上記のようなスタンスに近いと思う。
一方、仏教者でもいろいろで、玉石混交で、お釈迦様を完全無欠の人としてその教えのすべてを理屈抜きに丸ごと信じなさい、そうすれば救ってくれるという程度の理解の人がいる。お札等を買わせる、葬式で金を高額取る、など、「形式」を使ってこれだけ金を出せば、この言葉を唱えれば、このような「修行のような行動」を取れば、救われるというようなものが多すぎないか? これをすれば家内安全、これをすれば受験に受かる、これをすれば金が儲かる、これをすれば水子供養になる・・・。
仏教に限らないが、宗教の悪いところはそのようになっており、仏教各派でもその程度のものとして実際に動いているということがある。自分の頭で考えろ、疑えとなっていないものがある。金儲けと説教と形式主義になっているものがある。
つまり、佐々木さんがいうのはすばらしいが、そうなら、「実際の仏教」(実情)のダメさをもっと批判し、改革しなくてはならないのではないか?
佐々木さんはもうされているのかもしれない。仏教者の中にもその他の宗教の中にも改革派がいてがんばっている人がいるのは知っている。
だが、あまりに大多数は旧態依然としたダメな宗教ではないか?
佐々木さんの言うような、もっとすばらしい宗教が広がってほしい。それは、無神論者や非宗教者も、もっとスピリチュアルになってちゃんと生きることが広がることにつながるだろう。
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宗教は「社会問題」には触れず「個人的苦悩」だけをあつかう?
先ほどのブログではほめさせていただいた佐々木閑さん(仏教者・花園大学教授)であるが、『朝日新聞』(09年1月30日)に載っていた文章「宗教は個人的苦悩への杖」は、少し問題があると思った。
彼の言うところでは、「生きる術」と「生き甲斐」は違う。「生きる術」とは、仕事で賃金を得るとか、生活保護で生きていくといった、食べていく方法であり、現世の実際の組織や制度で賄われるものである。社会改革・政治によってこれを良くしていって、弱者を助けるべきものである。
一方、「生き甲斐」は、個々人の心の問題で、社会(制度)の問題ではないという。社会制度で何とかなるものではないという。(確かに社会制度などではどうしようもない領域の問題はある)
そして宗教(仏教)は、前者の「生きる術」・社会制度の改革に関わってはならず(せいぜい裏方に徹する)、宗教は後者の「生き甲斐」にだけ関わるものだという。
ここには、多くの論点がある。背景には深い議論や思索があるだろう。だが、私はあえて言いたい。
佐々木さんの二分法は腰が引けすぎているのではないか。宗教が社会制度、政治に関わると全体主義になるからそこには進出せず、心の問題に活動領域を限定すべきというのは、政治と宗教の関係に関わる大問題で、それなりの見解だが、私は理論的にも実践的にも今の日本の主流宗教の逃げ、ダメさが表れていると思う。
世界的に、「解放の神学」が貧者のために実践活動をしているという事実がある。釜が崎で本田神父が野宿者支援活動をしているというような、多くの宗教者が、社会的に力を奪われた人の側にたって具体的な支援をしている。ハンセン病や部落問題、女性差別など差別問題に取り組んでいる一部宗派もある。
だが、それを高い水準で行っているそのような宗教者はほんの一握りだ。
一方で、右翼系の一部宗教が自民党などの権力と、公明党が創価学会と結びついて強大な権力を振り回している。ブッシュが宗教の力を使って戦争をしたように、事実、宗教の力は悪用もされている。
まともな宗教者は、この状況の中で、二分法に逃げ込むのではなく、適度なバランスの追求をしていくべきときではないだろうか? 悪用を批判し、正しいほうに力を使うべきではないか?
格差社会で弱者が虐げられている問題や差別の問題に、宗教者が具体的な支援をしていくことは、全体主義にならずにできることがあると思う。学校教育でも、適切な対宗教教育が必要なのではないのか?
今の日本では、金儲け・家内安全などエゴ的な視野の狭さに媚びた金儲け主義の宗教と、非合理な気休めの宗教がはびこっている。庶民や国家は、宗教をその程度のものとして利用している。
そのときに、それを追認するかのような「宗教は生き甲斐だけ、個人の精神的な内面だけ扱い、実際の社会的な問題には手を出さない」というのは、事実上、現状追認であり、宗教の責任の放棄である。個人的な心の領域での活動にも大きな意義があるが、そこだけにとどまるべきではない。
たとえば、自殺問題で、心のケア(傾聴)もいるが、具体的支援も必要であるというように、両方いるし、両者がつながっていることも多いという問題である。