性教協 韓国研修ツアー  感想文  イダヒロユキ

 

韓国に十数年ぶりに行った。かなり変わっていた。朝鮮総督府の建物もなくなっていたし、町並みと人々のファッションセンスは日本に近づいていた。独立記念館は2回目。でも闘う韓国、そして性教育に関わる人々の明るさ、若さ、元気さに触れて、そこに素直なエネルギーを感じた。インターネットでのつながり、大統領選などでの若者や左翼の動き、その上での金大中大統領などになって、社会全体が軍政時代を見直す動き、つまり言いたいこと・真実が言えて、動いていく時代。小さな変化や揺り戻しはあろうと、必要なことに向き合っていく時代の流れは変わらない社会。

だから性教育も、性体験の低年齢化、ウェブ上のポルノ的情報洪水の中で素直に行われ、それに対してメディアも政府もまあまあ協力的。それに対し、日本は政府も企業も無関心や足引っ張り。その違いを感じたツアーだった。あと、AHA!や明日の女性センターでいろいろな知恵をしぼって金を集め、行動し、形にしていく人たちを見て、日本で小さく枠の中であきらめてちゃいけないなと思った。

 とくに感想として付け加えたいのは、ナヌムの家に行ったことを、今後自分はどう引き受けていくのかということだ。詳しくは、性教協報告書の「ナヌムの家訪問記」をみていただきたいが、私は、インターネットやビデオ・DVDのポルノ、買春・キャバ情報などがあふれるようなセクシュアリティの状況のなか、デートDV予防教育、性教育、ジェンダー平等教育にかかわって、性暴力加害者を生み出さないような土壌を作っていくことに努力していくことで応えたいと思う。戦争状況の中で、レイプしないような人間になっていくということは、いまの日本社会でも目の前の人と非暴力的に関わる力を持つということである。戦争遂行国家にしていこうという時代の流れに抗する人間として生きることである。

 

  
ナヌムの家(&日本軍“慰安婦”歴史館)訪問記

            (性教協 韓国研修ツアー 08年8月24日)

         

戦争があった。そのとき、日本軍“慰安婦”が存在させられた。その歴史を背負って、今、生きている人がいる。勇気と尊厳をかけて声をあげた人たち。だが日本政府は、この問題に背を向け続けている。そのとき、私たちは、どこにいるのか? 性教育、ジェンダー平等教育に関わる私たちは、この「問題」にどのように近づくのか?

 

元日本軍「慰安婦」という性奴隷制被害者の方々の共同生活の場である「ナヌムの家」(ナヌムとは、“わかちあい”の意味)。しかし元「慰安婦」の方々は今やご高齢(90歳から81歳まで)になり、毎年数人の方が亡くなっていっている。だからこそ、性教協としてぜひとも訪れて学びたいということでの訪問であった。

ナヌムの家には「日本軍“慰安婦”歴史館」が併設されている。世界初の「性奴隷」をテーマにした博物館であり、歴史の真実を記録し戦争犯罪を告発するため、および被害女性の名誉回復のために、韓日の市民の支えで設立されたものである。以下、歴史館研究員である村山一平さんから、紹介ビデオ鑑賞、歴史館の案内などという形を通じて教えていただいたことを中心にまとめていく。

 

まず呼称の問題であるが、カッコをつけて「慰安婦」と表記している。その理由は、「軍による性奴隷」という言い方は、当事者のハルモニたちにとっては受け入れがたく、ぴったりこないからである。だが「従軍」という表現にも問題がある。そこにはすすんで自分からついていった、商売でついていったというニュアンスがあるが、事実は強制されたからである。また「慰安婦」ということにも抵抗はある。それは楽しみという男の視点の言葉であり、実際は性暴力(レイプ)の被害者という事実を隠す言葉であるからである。だからいわゆる「慰安婦」問題ということでカッコをつけて表記している。

 

ナヌムの家には、現在、7名の元「慰安婦」の方々がおられる(パクオクソン、ペチュニ、イオクソン、キムグンジャ、カンイルチュル、キムスノック、パクオンリョン各氏)。みなご高齢で、病気などを抱えておられるなか、当日は、ペチュニさんが出てきてくださり、話を聞かせていただいた。彼女は、1923年生まれの85歳であるが、もっと若く見えた。1951年に日本へ渡り、80年に韓国へ帰国されたため、日本語も堪能で、冗談でみなを笑わせ、日本の演歌などを歌ってくださった。いろいろな苦労の歴史があったであろう人の生身に触れて、みなが話を聞いたり歌を歌いつつ、いろいろな思いを感じた時間だった。

 

ナヌムの家は、1991年に金学順(キムハクスン)さんが名乗り出たことなどを受け、仏教系団体が募金運動を通じて1992年10月にソウル市に設立されたものである。その後、ソウル市内での2度の移動を経て、1995年12月に現在の京畿道(キョンギドー)広州(カンジャ)市へ移転した(土地提供者プラス建設会社協力)。

「日本軍“慰安婦”歴史館」は1998年に設立され、今年8月に10周年を迎えて、先日記念シンポを行ったとのことである。外のパネル展示もそれに際して整備されたという。ナヌムの家は、現在、高齢者居住社会福祉法人となっている。特別の戦争被害者という配慮での扱いとはなっていない。専門療養所への格上げをめざしている。

 

韓国社会の中で、元「慰安婦」と名乗り出て韓国政府に登録されている方は合計234名(07年段階)である。登録後、亡くなった方が多く、今、生きておられるのは98名となっている。実際の元「慰安婦」はもっと多いであろうが、被害者はなかなか名乗り出られず、この程度の数字となっている。戦後50年以上たって、再びこのようなことを起こさないよう勇気をもってようやく名乗り出る人が出てきたことを忘れるべきでない。海外置き去りの人(残っている人)もいる。日本軍の「慰安婦」となった人の中には、日本人も、韓国以外の国の人もいる(オキナワ、タイ、カンボジア、中国、オランダなど)。

 

「慰安所」制度は、軍隊が広がる中で様々な事件がおこったため、その対策として1930年代に出来たといわれている。すなわち、レイプ、略奪などを日本軍人が行い、現地での反日感情が高まる危険性が増し、対策が求められたということ。第二の理由は、軍隊内に性病が蔓延し、士気が下がる、闘えなくなることから、業者を選別し病気管理を行う目的であった。実際は、非人間的な戦争という状況、前線という中で、不平不満・恐怖感をごまかすための道具として位置付けられていたという側面もあった。

 当時の日本には公娼制度があった。客観的には人身売買、性暴力というようなことがたくさんあり、「公娼」になることを強いられていた構造があったが、それを悪い(人権侵害)と思わない時代だった。その延長上に、軍隊内でも、その種の「施設」をつくることが当然と考えられたのであろう。日本が支配している台湾、朝鮮などにも公娼制度を作っていた。

「慰安」といわれたところに現れているように、軍人にとってはこのような強制的な性暴力行為は「遊び」でしかないものであった。性病検査をしているからということで「衛生的な公衆便所」とも呼ばれていたが、「公衆便所」というところに、女性やセックスに対する認識が出ている。これは現代においても続いている意識ではないだろうか。

 なお、検査と言うが、軍医が行っていたのは、セックスできるかどうかの検査でしかなかった。本当に「慰安婦」本人の健康を考えての検査ではなかった。

 強姦対策と性病対策が最初の理由ではあったが、実際には減らなかったといわれている。慰安所で「お金」を使うのがいやということで、占領地でレイプしたようなこともあったからだ。性病対策の薬で、かえって体を悪くしたということもあった。水銀を使った場合もあったという。

 

 歴史館には、実物大の「慰安所」が再現されていた。狭い3畳ほどの部屋にベッドと性行為後に性器を洗う水を入れた洗面器があるだけ。ここで1日に何人もの相手をさせられていた。こうした「慰安所」は、民家を改築して、「慰安所」用の小さな部屋にしてつくられたという。公民館や学校が「慰安所」として利用されたこともあった。遠い異国で、逃げることも、性行為を拒否することもできず、日々、望まないセックスをせざるを得なかった。逃亡に失敗すれば拷問などがまっていた。殺された「慰安婦」、病気でうち捨てられた「慰安婦」もいた。

 

強制なのか、商行為なのかという議論があるが、女性を集めるとか移送する、慰安所運営を「業者」が行っていようと、それらは軍(国家)によって管理・統制されていたという点が重要である。「慰安婦」になったルートとしては、「1 強制連行」「2 だまし(詐欺・甘言)」(工場で働くなどといって、だまして連れて行き、監禁)「3 公娼」などがあり、「3」だけではないという点を忘れてはならない。実際、「1や2」だと証言する当事者がたくさんいる。「3 公娼」でも、その背景には強制構造があったことが多いことは明らかである。

 軍が直接連行したのは少なく、警察(官憲)や業者が連行したり、生きぬくために親や村の人がダマした場合(口減らしに娘を出す)など多様な形があった。ただし、公権力の承認や介入なしにはありえず、全体は軍が管理していた。徴集を民間業者が行っていても、政府や軍の代理ということであったのだ。「慰安所」運営も、軍の許可の下であり、軍が直接運営していた「慰安所」もあった。軍人がいけるところは制限されており、軍が認めて、行ってもいい「慰安所」という指定があった。軍が許可を与えないと存在できなかった。つまり、軍が無関与ということはありえない。 

公文書、証言、軍の記録文書などから情報を総合して、日本国内外の多くに「慰安所」があったことがわかっている(たとえば沖縄だけで118箇所)。

軍は施設を整備し、利用規定を定めていた。そこには慰安所を出ることを禁止したり、業者は毎日軍に報告することが義務付けられていた。サック(コンドーム)を使わない性行為を行ってはならないともされていた(サックの名は「突撃一番」[岡本という会社製])。だが実際には、性病は蔓延し、妊娠もあった。妊娠の場合、中絶が強制されることもあった。

 

 「商行為」だという見解もあるが、「慰安婦」に現金が払われるようなことは基本的になかった。払われたとしても軍票や切符・利用券のような貨幣ではないものであった。戦後、軍票は紙切れになった。褒美の一つとして兵士に渡された慰安所利用券のようなものもあった。ちぎって渡すようなもので、「慰安婦」がその券を集めても意味はないものであった。現金があっても交通費、衣装代、国防献金などの名目で収奪されるようなこともあった。

つまり、慰安所で行われていたことは、離脱する自由がない中でのレイプ、強制的な性奴隷であったのに、「制度」があるということでごまかしていたのである。

 

歴史館にあった「料金表」には次のようなことも書かれていた。すなわち、普通の兵隊は、利用時間が9−16時、「遊興時間」(性行為をする時間)は一人30分、料金は1円。それに対し、下士官は利用時間が16−19時、「遊興時間」は一人1時間、料金は1.5円、将校は利用時間が19−24時、「遊興時間」は一人1時間、料金は3円。ここでも「遊興」なのである。

 

***           

日本は「国民基金で謝罪済み」というが、それは国際的にはまったく認められていない。1995年に民間からの資金による「償い金」と村山首相の「おわびの手紙」の支給をはじめたのであるが、それは「日本政府の国家補償と公式謝罪を免責するもの」と、韓国、台湾、フリピンの被害者たちから批判され続けてきた。国連人権委員会でも、「国民基金」をもって日本政府が法的責任を果たしたとはいえないという報告が出されている。

 元「慰安婦」の方々たちは、名乗り出て、胸の奥からの叫び、うめき声をあげてきた。加害者の多くは口をつぐむ。被害者は、なかったことにされることを許せないからこそ、思い出すのもおぞましいことを思い出し、声に出し、戦い続ける。否定され、しんどいし、傷つくのにである。求めているのは、カネではなく、真実の解明と謝罪である。ナヌムの家は、その象徴であった。

ナヌムの家に住むという事は、告発の運動において、自分の存在をさらけ出すということである。1992年から日本大使館のまえで行われている「水曜集会」も抗議活動の一つである。絵を通じて告発していく動きも蓄積されてきた。

被害者のみながこのような活動を行っているわけではない。名乗り出た200数名のなかでひっそり暮らしている人も多い。公表しないのは家族の意向もある。その中で、ナヌムの家にいるということ、証言したり、絵を描いていくということの意味を、私たちはどううけとめるのか(絵を描くのは、当初は趣味活動の面、心理的治療の面があったが、その作品の力強さによって、告発の武器となった)。

忘れてはならない事実がある。とくに加害国の側、いまだ誠実な対応を拒否している国の側という背景を持った私達である。安倍首相が「強制性を狭義に限定すべき」といって、右翼的に「慰安婦」運動を否定してくるような動きをする国の側にいる私たちなのである。NHKは「国際戦犯法廷」を扱った番組を改ざんし、いまだその罪を認めていない。

ナヌムの家の中庭には、「咲くことのなかった花」という銅像があった。私は、このような人生を前にして、自分の人生と比べざるを得ない。なんと過酷なものだろうか、と。私たちは何を伝えていく責務を負っているのかと。

 

そのヒントが、今回の訪問にあった。それは、「日本人男性」という属性を持った村山さんの存在である。今回の訪問で強く私たちに影響を与えたのは、歴史館研究員の村山一平さんの存在と生き方そのものだったろう。

 私は、フェミニストのMLで彼が発言するのを目にしてきた。日本での集会で彼の話を聞いたこともあった。だがたぶん皆さんもそうだろうが、最初「誰?この人?日本人?男性?どうしてその人がナヌムの家にいるの?そこの研究員って、常駐しているの?どうして日本人男性が?」というように思った。しかし、まったくまともなことを言うひとである。今回、彼の人となりに接して、話を聞かせていただいて、伝わってくるものがあった。

 

 村山さんは、神奈川出身・法政大学出身で、03−04年に留学で韓国にいき、歴史を学んでいる中で、3ヶ月毎日ナヌムの家に通ったという。04年7月に日本に帰国するのだが、その直前の6月30日にキムスンドク・ハルモニがなくなったという。彼はこうした中で、日本人の多くはこの現実を知らない、ここにいる人たちのこと、ナヌムの家、「慰安婦」の人たちの運動のことを多くの人に伝えたいと思うようになったという。

そして06年から住み込んでかかわることにした。2年半、一緒に暮らす中で元「慰安婦」の女性たちが被害を受けたことを考え続けてきた。見ないようにしてきた歴史というものをだんだんと考えるようになった。とくに性差別、性暴力という点で、加担している男性というあり方、日本人、男性の責任ということを考え続けている。日本人の男性が、この問題に向き合うべきだ、知らないことが問題だ、それをかえないといけないという。ポルノが多く存在し、今でも性を「遊び」と扱う中で、この問題に向き合わないといけないと考えている。

短い間ではなく、長い間、日常という中で関わり続けるということには、重い決断があったろう。今、年老いてきて、ハルモニたちのやれることが減ってきている、という。病気で体がしんどかったり、寝たきりになったり、忘れてきて自信を失う、自己否定感を持つような悲しみもある。それに寄り添いながら、「残り時間」を意識してがんばり続けている。何とかできるだけのことをしていこうと。多くの人が日本から来るがそのたびに同じような話を何度も何度もしているのだろう。また日本でも語る。そうした村山さんの姿から、私は感じるものがあった。

 

インターネットやビデオ・DVDのポルノ、買春・キャバ情報などがあふれるようなセクシュアリティの状況である。セクハラもレイプもDVも数多く存在している。昔の兵士達と、いまの日本人男性は異なっているといえるだろうか? 自分の性意識はどうなのか? レイプすることを暴力と認識できず、「遊び」と思うような感覚が、いまだ存続していないだろうか? カネを出せば性を買って好きにして何が悪いという感覚はないだろうか? 若くてきれいで胸の大きい女性ばかりがテレビやマンガではもてはやされていないだろうか? 出会い系サイトで簡単に出会う性的関係は豊かなものになっているだろうか? 年々若者の性交体験率は高くなり、低年齢化も進み、中絶や性病にかかる率が高くなっている状況に対応できているだろうか?

 

戦争への道が徐々に整えられている中、日本軍「慰安婦」問題を学ぶということは、戦争状況の中で、レイプしないような人間になっていくとはどういうことかを学ぶことである。それは、今自分がどのような関係を他者と結び、どのようにセクシュアリティやジェンダーとむきあうのかということでもある。DV関係にならないようにするには、恋愛や結婚について深く学ばなくてはならない。

「慰安婦」問題に対して世界で次々に正しい対応を日本政府に求める決議が採択される中、日本社会だけはそれを無視し、この運動をなきものにしようとしている。被害者女性達が死んでいなくなるのをまっているかのように。「恥を知れ!」だ。だがそれは私たちの政府であり私たちのメディアであり、私たちの社会なのである。

 だからこそ、私たちは、ナヌムの家にいった。それをどう自分の実践領域でつないでいくか。私達が問われている。

ちなみに、日本から毎年、6−7つの学校がナヌムの家に来ている。同じところからのリピート訪問も数校ある。親の一部に反対が出ることもあるが、その説得も含めて、がんばっている仲間達がいる。

 

(なお、最後に、性教育関係の本の贈呈や、草柳和之さんが非暴力の気持ちを伝えるピアノ演奏を行い、その楽譜をプレゼントするということが行われた)

  

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