「人形の家」と現代日本 (ブログ 2006年11月8日)
イプセン没後100年記念事業「人形の家2006 イプセンの女たち」が11月10日・ドーンセンターであります。それに向けての私の発言メモです。
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11月10日 イプセン没後100年記念事業 (11月10日・ドーンセンター)
「人形の家2006 イプセンの女たち」
第2部シンポジウム「ノラが家を出るとき」
現代におけるノラの一歩とは?――「人形の家」に関して
イダヒロユキ
女性の自立。もう日本では達成されているか? もちろん、ノー。 ではなぜか?
自立を求めて「家を出よう」とする女たちに、どのような圧力があるか。立ちはだかる社会的要因は何か?
ジェンダー意識と、ジェンダーに基づく制度(家族単位の意識と制度)、性差別があるので、自立がいまだ困難。
だが西欧、特に北欧は、シングル単位的なシステムを整えていって、状況がかなりジェンダー平等のほうに変化してきている。
日本でも不可能ではない。シングル単位(発想と制度)というものもありうるということを日本でもっと広く伝え、選択肢の一つにしていく必要がある。それに賛成する人を増やす必要がある。そうしないと、アメリカ型の新自由主義しかないと思い、諦めと絶望が広がり、格差と貧困、差別はますます増大していくだろう。
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イプセン「人魚の家」(1879年出版)に示されているものはなにか。
それは、「女は男とは別物。女には、男の世界、仕事のことなどわからない。女は、かわいくしていればいい。男のまわりをちょろちょろするものが女性だ。しようがないもの。機嫌をとってあげなくてはならないもの、子どものようなもの。しかし、ダンスすると女性はセクシーなもの。つまり女性・妻はかわいくしていて、仕事のじゃまをしなければいい、セクシーであって、家庭のこと、子育てをしていればいい」という考え方(ジェンダー意識)であった。
ノラは、最後の最後、夫トラヴェルから対等に扱われるか、自分を信頼してくれるか、自分のために一緒に責任を背負って闘ってくれるかと期待した。しかし、そうではなかった。夫トラヴェルは、ノラが自分のためにいろいろ苦労したこと、その思いを〈たましい〉で受け止めるのではなく、形式的な法、金銭のことで自己保身的にうろたえ、ノラを攻めるばかり。
ノラはこのことを通じて、夫との関係の偽り・不平等に気づいた。自分は「あなたの人形」「父の人形」だったのだと自覚する。夫は郵便受けの鍵を管理し、夫婦といえどもまったく対等ではない。夫にとても気を使ってきたことに気づく。「自分は世の中に出て、自分を教育し、自立することがいるのだ」と悟る。そしてノラは、夫と子どもを残して家を出る。
この物語は、当時、ベストセラーになり、イプセンの名を世界に知らしめたが、社会的に激しい議論ももたらした。ドイツでは、結末が書き換えられ、ノラは家を出ようとするが、「子どもを母のない子にしていいのか」と夫に言われ、ノラは家を出ることをやめ、夫は、ノラを受け入れて終わるというようなものにされたという。
現代日本でも「子どもを置いて家を出る」ということに抵抗感のある人は多いのではないだろうか。
また日本でも「エリート男性、会社人間、長時間労働男性」と、専業主婦という組み合わせは今でも多い。ノラ・トラヴェル夫婦と似た夫婦は日本にはいまだ多い。夫婦や恋愛関係において、DV的な関係はいくらでもある。「私の思うような妻/夫であるべき」と思っている人は現代でも多い。家族単位の一例である。だが、私の思うような妻/夫である必要は、もちろんない。シングル単位への気づきである。
ウーテ・エーアハルト『誰からも好かれようとする女たち』(講談社文庫、原題 「従順な女は天国へいけるが、生意気な女はどこへでもいける」)という本がある。
そこには、ジェンダーの問題、家族単位の問題がうまく描かれている。
個人単位でなく、家族単位だと、調和がよい、対立はいけないとなり、複数の人がいるのにそこには異なるもの、異なる意見がないということになるので、誰かが「自己中心」になり、誰かが「自己消去」している。
ウーテの本では、「謙虚 理解 救済 献身 同情」をしがちな女性、「衝突を恐れる、他人による決定、調和優先、先回りした服従」をする女性、すべての人から好かれたい、一人ではないもできない、独りぼっちになりたくない、守ってほしい、愛とは彼の靴下を洗うこと、尽くすこと、いきたいところが彼と違えば彼に従う、できる女はさびしい女、女はあまり仕事ができないほうがいい、女は男より頭が悪いほうがいい、頼りない女ほどかわいがられる、女の子だから気をつけなさい、失敗は私のせい、というような女性が多いと指摘している。
それに対して、フェミニストたちは、ジェンダーに縛られずに、のびのび生きよう、自己主張しても怖くない、悪くない、私らしくていい、皆に好かれなくてもいい、とエンパワメントを訴えてきた。
この本を読んでいてわかることは、現代の日本で、ノラが家を出る水準以前の状況はまだまだたくさんある、ということだ。
イプセンがこのような本を書いていたころ、日本ではまだ男女平等には程遠かった。
江戸時代以降、近代まで、女役者が公的な舞台に立つことが禁じられ、歌舞伎の伝統では男が女を演じ、女形という独特な芸が発達してきた。
近代化を進めようとする人々は、古来の習俗の見直しということで、演劇において女優が演じることを認めていったのである。
その近代女優の第1号が松井須磨子であり、彼女がノラを演じた。『青鞜』の第2巻第1号では、家を出るノラの姿に勇気ある「新しい女」をみて評価の声が載っているという。
またピイピイ声やお壷口のかわりに、はっきりとしたせりふの言い回し、大口を開けて笑えるといった身体技法に、「新しい女」が表現されているとみなされた。そしてノラの環境以上に、日本の「家制度」に日本の女性たちは抑圧されていた。
(こうした点については、池内靖子「『女優』と日本の近代:主体・身体・まなざし――松井須磨子を中心に」『立命館国際研究』12−3号、2000年に詳しい。)
『青鞜』が発行されたのは、1911年。文学を通じて、女性の意識改革、自立、解放をめざす女性運動のひとつのあり方だった。その同じ年に、坪内逍遥邸の私演場や帝国劇場で『人形の家』がはじめて上演された。そのノラ=松井須磨子の実在性によって、女優は必要かという論争に決着がついた。
当時、外国の女性解放運動、参政権運動は新聞報道で少し知られていた。島村抱月は、フェミニストであるウルストンクラフトを紹介したり、『人形の家』の翻訳をして公表していた。(抱月と松井須磨子は恋愛関係にあり、抱月が死んだあと須磨子はあとを追って自殺した。)当時、女性の地位は非常に低く、治安警察法第5条によって、婦人の政治結社、政治集会は禁止されていた。女性参政権要求運動もようやくこのころ始まった。同一労働同一賃金、男女平等賃金が要求され始めるのは、その少しあとである。
その目標に近いものが達成されるのは、敗戦後のことであり、運動の主体的結果という側面もあったが、占領政策の中で与えられたという側面もあった。つまり大正期に紹介された『人形の家』であったが、日本においてその訴えるところは、まだまだ遠い世界の話であった。(戸塚悦朗『ILOとジェンダー』日本評論社、2006年)
さて、もうひとつ、現代日本と『人形の家』をつなげるものとして、姫野カオルコ『ドールハウス』を挙げておきたい。この本は、現代版「人形の家」の側面がある。
姫野さんの本には、彼女の恋愛観、身体観、セックス観がでていることが多いように見受けられるが、特にこの『ドールハウス』には、彼女の実体験が反映しているようだ(「処女3部作」についてのあとがきより)。
主人公の女性は、自分に自信がなく、劣等感をもっている。だから、「女になりたい」「石の身体から離脱して芯から女になりたい」という。人(男性)が自分の身体に欲望を持つとは思えない、セックスしたいと思うとは思えない、と思っている。ここには、現代の非エンパワメント状況が重なっている。
主人公は、支配されていると自覚しない支配の中に育つ。「です、ます体でしか話さない」「父親からの指示をまつ」ようにされている。手紙をチェックをする父、命令ばかりする父、男性関係をチェックする父、その父の抑圧で精神を病んだ母、という両親の下で育った。親は、「あなたには友達がいない、公務員になれ、あなたを育てて苦労した、結婚などさせない」などといって、力を奪い、支配していった。
父に支配されているので、少し化粧したり、色気づいたり、隠し事をすると、自分を責める、というような主人公になっている。両親に感謝しなくてはならない、と主人公は思っている。「自分が楽しむ(幸せになる)と悪い気がする。いけない。神様お許しください」と思ってしまう。
染み付いた支配、非エンパワメントにされてきた歴史・生育暦がある。「雨だれが一滴一滴したたって石にくぼみを作るように、理加子(主人公)の精神には、29年間にくぼみが作られていた。」
そうした理加子は、しかし、その独特の個性(知性・合理性)と経験から、変化していく。
「別れ」においても、「考えるのをやめる」のではなく、ちゃんと領収書をもらって前へ進もうとする強い意志を持っているのが理加子だった。彼女の奥深くに眠っていたものが、辛い、苦しい、感情の経験を経由して呼び起こされていった。
たとえば、男のダメさがみえてしまう。男は「弱い女を守る」という。妻のことなど言わなくてもいいことを理加子の前で語る。その男の弱さ、無神経さが許せない。その自己中心性、鈍感さが許せない。だから、世間の恋愛や結婚の欺瞞も見抜いていく。
そして、徐々に自立していく。自己肯定していく。自分が、ピノキオ(人形)だった、と気づいてしまう。29年理加子の時間が止まっていたと自覚してしまう。
ついにコップから水が溢れ出す。30歳になるとき、支配的な親の命令に、拒否をいうようになる。「なぜだ」と、初めての娘の拒否に戸惑い怒る父親に、「私も休みたいからです」と自己主張する。「不良になった」と母にいわれても、おろおろせず電話を切ることができた。男にも、「私も約束していましたから、先の約束からまもってください。」と強く大きな声で言うことができた。
そういうことができて、自分の精神から膿みが出て行った感じを彼女は持った。落ち着いた気持ちになれた。自分のまわりの気体が軽くなる感じになれた。
だから理加子が家を出るのは、あとは時間の問題だった。
「一人で暮らすことから先ずはじめるわ」
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「あとがき」で姫野は自ら説明する。
この物語で「ふつう」という「巨大な影」を扱ったと。「家庭という何ものか」を扱ったと。「個人よりも家」ということをどう考えるか。
戦前の「ふつう」は、本当にすぐそこにあった。それが戦後、現代の日本において変わった、なくなったといえるか。
同書の「裏表紙」には、この本の紹介として「子どもから大人、集団から個へ。誰もが通過する家=家族との決別をつづった切ない物語」とあったが、私は、この話はそんな「誰もが通過する家族との決別」といったような平凡なものではないと思う。「誰もが通過」?「子どもから大人」? あまりに陳腐な読み方だ。 この本にはもっと毒がある。批判性がある。フェミニズムがある。
姫野カオルコ『ドールハウス』の、どこが『人形の家』と似ているか。表題はもちろんである。エンディングも類似している。
なにより、この権力関係に対する敏感な自覚、つまりフェミニズムの匂いである。
男たちの、「何も考えない」ことへの違和感である。根源的に考えた上での、シングル単位的な割り切りや合理性や強さである。根源的であるために、多くの人の思い込み(ジェンダー)を超え、揺るがせるところである。
次のような記述(必ずしも直接引用ではなく、筆者による要約)には、フェミ的なにおいがある。
「結婚した上で不倫浮気するのが男性の理想」
「恋愛感情は、かなり思い込めることによってなりたつ。冷静になるとなかなかもてない。」
「男は、軽い言葉をしゃべる。女にヒミツ・夢を語る。少年のような笑顔。他の女性にも軽くいえる。恋の告白。無意識に女性に媚態を示せる。そういうのが健やかな神経だ。」
「他人が自分の身体に欲望を持つか、セックスしたいのかわからない。付き合うということは容易ではない」
「迷惑そうな表情、逃げ腰、話し合うのも避ける、そういう男のダメさを確信」
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『僕と彼女と彼女の生きる道』(橋部敦子脚本)でも、仕事人間の夫の「母親・家政婦役割」に嫌気がさして、妻は、家を出た。現代版「ノラの家」である。
ただし、この物語の主人公は、男ジェンダーのいびつさに気づいた、男性の、脱ジェンダーの物語となっている。
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「大峰山」「女人禁制」問題がある。1年前、問題提起して、大きな反発をうけた。話し合いをすると向こうは約束したが、その後、話し合いを申し入れても返事さえない。
伝統・因習というものは、なんなのか。それを考えようともしない人たちがたくさんいる。
ノラが家を出る、ということを、余裕をもって眺めていられる人は一体どれほどいるのだろうか?
だが、もちろん、今の日本社会にも、ノラはたくさんいる。
フェミニストはノラである。裁判闘争をし、DVシェルターを運営し、離婚をし、セクハラにNOをいい、がんばって働き、環境運動にかかわり、反戦活動にかかわり、児童虐待に心を痛め、ジェンダー平等教育・性教育に取り組む人たち、社会を変革するために動いている多くのノラがいる。
ノラのよさが見えにくくなっている今の日本で、それでも、多くの人たちが、家を出る一歩を踏み出している。
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