尾崎豊と生命学
8月10日、NHK(プレミアム10)で『尾崎豊がいた夏――知られざる19歳の素顔』というものやっていた。伝説の大阪球場ライブを中心としたものだった。
期待せずに見たが、よかった。尾崎はすごいといわれながら、僕はちょうどそのころエジプトに1年7ヶ月いて、その後も、コンサートの様子自体をちゃんと見たことがなかった。CDで聞くだけでは、まあ、こんなものだろうという程度だった。いらだちや反抗はわかるが、抽象的で、僕は、むしろそれを労働運動やフェミというものにしていくことが大事だと思ってきた。
でも、今日、改めて彼の顔や体や声や動きを見て、聞いて、感じるものがあった。尾崎に心動かされる若者が減ったといわれる2007年現在にあって、僕は、その瞬間を生きるという姿勢に、今、感じた。
ちょうど、明日、森岡正博さんの「生命学」に関する研究会があるので、その資料を少し見ているところだった。
「生命学とは、何かの生きづらさをかかえた人が、限りある人生を、他者とともに、悔いなく生き切るために何をすればよいのかを、自分をけっして棚上げにすることなく探求しながら生きていく営みのことである。」
「生命について深く考え、表現しながら生きることによって、実人生がより味わい深いものとなり、豊かなものになる。これが生命学の成果」であるという。「生命学の成果は私の実人生という形をとって結実」するものだという。
僕は、森岡さんほどではないが、同じようなことを考え、自分の生き方自体をみつめて生きている。
そんな中で尾崎の歌を聞き、僕は、今、自分が自由だと感じた。
よしもとばななを読んでいたときにも感じたように。
生きがたさはある。だからこそ、どう生きるかを考え、もがく。カネや地位などどうでもいい。だからこその生きがたさ。僕は、今、「次」へのステップ段階である。だが、「生命学」とか、「生存学」(立岩さんを中心とした立命プロジェクト)をみてみると、自分のしていることの位置がおぼろげながら見えてくる。
僕はイダヒロ的な「生命学」をやっているといえる。
尾崎は言う。「支配からの卒業」と。
学校を出て、次は何が自分を支配するのか。見せ掛けの自由になっていないか。
俺は真実へと歩いているか。
俺はいつ、舞い上げれるだろう、たどり着けるだろう、と。
僕は、基本的に自由だ。支配と闘えるからだ。支配を嫌がれるからだ。このクソ社会で、何が大事で大切なものか、何がクソみたいなものかが見えていて、従属しなくていいからだ。媚を売らなくていいからだ。
だが、自分が世界とつながる中、自分の生きがたさを世界とつなげ、そこで格闘する中に自由を見出せれば、僕は、これからも満たされることはない。不足を感じ、迷い、次を求めていくだろう。
つまり、生命学を行うことは、尾崎豊になることである。
尾崎はもちろん、ファッションや語りや振る舞いなど少し80年代的なところもある。でも、今でも伝わるものがあるのはなぜか。なぜ今、尾崎に興味もてない人が増えているのか。
ネオリベやネオコン的なものが闊歩する今だからこそ、僕は、尾崎のよさを再確認できる。どの時代であろうと、スピリチュアルなエネルギーには普遍的な伝達力があるとおもえる。
つまらない大人になっていないか。
学校のガラスを割っただけで終わっていないか。
今だからこそ、尾崎の問いを、90年代、2000年代にどう引き継ぎ、いま自分は、尾崎の何分の一かでも真剣に生きているかが問われる。
「若者のいらだちの声」といったメディアで表面的に取り上げられたもの、80年代的なもの、表面的な流行の部分には興味はない。薬物がどうこうなどどうでもいい。
怒りを向けるということを、どう深くスピリチュアルな生き方、生命学へとつなげていくか。
2007年、尾崎豊は生きている。