『あなたになら言える秘密のこと』
The Secret Life of Words 2005年、スペイン映画
イザベル・コイシェ監督のすばらしい映画。
『死ぬまでにしたい10のこと』の監督。
この映画について、思ったことを書きます。
話の筋についても言及しているので、観ていない人は、観てから読んでください。
繊細なハンナ。傷ついているから壊れそうな中で、ギリギリ生きているハンナ。何も考えず、補聴器のスイッチを切って、単純肉体労働をこなし、毎日をやり過ごしている。
休暇を取るように言われても、行くのはさびしい海が見える町。でもそこでも過去の記憶が襲ってくる。時間を潰さなくては。
不安な気持ちからか、潔癖症的になって、毎日新しい石鹸(アーモンド石鹸)で洗わないと気がすまなくなっているハンナ。その石鹸も角をそろえて並べておかなくては落ち着かない。
ハンナは、質素な、鳥とコメとリンゴしか、食べない。それが好きというより、それしかのどを通らない。あるいは、それ以外の食事の快楽を禁じてきたのか。だがからだはもう、他のものを受け付けなくなっている。でも油田掘削所では、他のものも食べなくてはならない。無理に口に入れるハンナ。味はしなかったろう。
大怪我をしたジョゼフは、角膜が傷ついたため、2週間後の手術までは目が見えない。その看護にきた元ナースのハンナは、とても無口だ。
ジョゼフは一見、饒舌と言うか、皮肉屋でずかずかと入ってくるようだ。でも違う。
彼は敏感に感じ取っていた。ハンナには何か隠していることがあると。
彼が聞いてもハンナはほとんど何も答えない。その声のトーン。
好きな食べ物が、鳥とライスとリンゴだけと聞いて、そこに異様なものを感じるジョゼフ。
名前を聞いても教えてくれないハンナのことを、ジョゼフは「コーラ」と呼ぶ。その理由を聞かれて、彼は「君は何も語らないのに?」と聞き返す。
ハンナは、自分がデフ(聴覚障害者)だという。はじめて自分のことを少し語る。
二人が近づく。
次。コーラの話。15歳の少年とナースの話。ジョゼフは読書好きだった。
この話は、ハンナが、ジョゼフが繊細であることを確信する話だ。
だからこの後、ハンナは時々この話に言及する。 二人は近づく。沈黙の海に言葉が少し増えていく。
ジョゼフはヒミツを話す。泳げないのだと。だがそれは単なる笑い話じゃない。父親がキレて、泳げないジョゼフを湖に突き落とした話だった。二人は近づく。
ハンナは、残された携帯電話の留守録音から、ジョゼフを愛していると言う女性のことを知る。
ジョゼフは、親友の妻に、「ポルトガル文」を渡して恋に陥ってしまった過去を持つ。親友にそのことを話してしまい、親友は自殺する。
してはならないことがある。
悔いや罪の意識を抱えた人間。ジョゼフに手を伸ばすハンナ。
辛い過去をどう背負えばいいのか?と問うジョゼフ。
辛いことがあっても前にすすむしかない、でも中には挫折する人もいると、答えるハンナ。
何度も携帯への録音を聞き返すハンナ。
患者は、知らないナースにからだを拭かれるのがイヤなのではないかと、繊細にビビるハンナ。でも患者は、ナースを求めているのだと知るハンナ。
やさしいコックのサイモン。ハンナに恋心。二人でブランコをこぎながら名前を呼び合う。はにかみやなりのコミュニケーション。いいシーンだ。
寡黙なハンナは、食事もあまり一緒にとらない。ある晩、皆で食事しているとき、サイモンの料理をけなすスコットとリアムに対し、ハンナは最高においしいと言う。ハンナが話した!
ハンナは、ひとりと静寂が好きだ。シャイで人付き合いが苦手な海洋学者、マーティンも一人でいる。マーティンと話して、彼が環境汚染を止めたいとおもっていることを知る。周りの人があなたの警告を聞かなかったらどうするのという問いに、マーティンはそれでも計測を続けていくと。ハンナは、言う。「あなたがうらやましい。こんな人がまだいるなんて。幸運を」
いいシーンだ。
海の真っ只中に孤独にそびえる油田掘削所。世間から隔絶されて、男ばかりで、揺れて、雨、海風が吹き付ける、じめじめして、植物も元気がなくなる場所。
そこに集まっているひと。みんな孤独。戻る場所がない、ひとりが好きな人。陸地に上がるとイライラする。だからまた、地球の果ての油田掘削所に移ろうかと考える。
自殺も事故と報告する。真実を報告して何になる。人生とはそういうものだ。
そんなひとたちは、ハンナに踏み込まない。
ジョゼフが陸地の病院に運ばれることが決まった。移動の前日、ハンナは自分のヒミツを話す。友人の話をする。運命が変わった瞬間の話を。苦悩。生き残ったという悔いと恥。ただ死ぬことだけが希望であった絶望。傷跡を触らせるハンナ。嘆き痛み悲しむジョセフ。「その友だちの名は?」と問われて、ハンナは「ハンナ」と答える。
翌日、移動されたジョゼフに、ハンナはついていかない。消えるハンナ。工場勤務という日常に戻るハンナ。
変化は、弁当のメニューにグラタンが加わったこと。
ジョゼフは手術も無事終わり、目も見えるようになって退院する。
どうするか考える。時間が必要。
ジョゼフは、ハンナのカウンセラーのインゲを尋ねる。ハンナが残した手紙からだ。
ハンナはインゲに時々電話をかける。何も話さないが、インゲはそれがハンナからの沈黙の言葉だとわかっている。
ジョゼフは躊躇している。どうしたものかと。インゲはもっと警戒している。彼女にはボクが、ボクには彼女が必要だと言うジョゼフ。どうしようもない絶望と苦悩にあるハンナに、この男が何かできるとは思えない。まだ恐怖が足りないと言うのか。彼女がひとりになる必要があると考えないのかと、問いかえるインゲ。
インゲは、多くの“ハンナ”のような犠牲者、拷問被害者の声を記録する仕事もしている。なぜならば、多くの人は忘れるから。何もなかったことにされる。だから生存者のみが、語ることができる。そこにはどれだけの血がながれ、憎しみが込められているか。そして自分が生き残ったことを一生、恥じながら生きているのだと。それを、あなたはハンナの許可なしに観ることができるのかと、問いかけるインゲ。
テープを見ずに返すジョゼフ。
その対応を見て、インゲは、ジョセフにハンナのことを教える。
ハンナの工場に行くジョゼフ。声をかけるジョゼフ。
彼女は拒否をする。当然。距離はとる。これでおわりか。離れかける。その扉をこじ開けたのは「石鹸を一つもらったよ」という言葉。
このまま終わるのかと思っていた彼女は、そこで立ち止まる。振り返る。決定的な瞬間だ。
あとはジョセフが心を示せばいい。
ハンナが問う。いつか、ある日、私は泣いて涙の海で溺死するほどになるかもしれないと。
泳げないジョセフは言う。泳ぎを練習すると。必ず助け出すと。
受け入れるハンナ。
子どもも2人授かり、一見穏やかな生活の中にいるハンナ。でもジョゼフが新聞を買いに出た日曜の朝のひと時、彼女は、得体の知れない感覚に襲われる。薄れてはいるが、その傷は、もちろん消えない。でも淡々と生きていくだけ。
★★★★★★★
そんな映画だ。
傷を抱えて生きていくという、絶望と希望が、適切に描かれている。傷を抱えたものだから、繊細に沈黙の声を聞き取れる。その人が、傷の音を聞き分けられる人かどうか、見分ける目。
そうした二人が、近づく勇気と受け入れる勇気を示す、すばらしい映画。
それはけっして、愛のハッピーエンドの映画ではない(と思う)。
だからパンフレットに「どんなひとの心にも、ハンナの抱えるようや闇がある」「闇を照らす愛の話だ」と書いてあったことには、大きな違和感があった。寝ぼけた日本の普通の人が、「どんな人にも闇がある」等とほざくのは、ハンナの苦悩の経験への侮蔑だ。日本の愚かな人の傲慢さだ。
また、このような二人が近づくということは、奇蹟のようなことだ。なぜなら、もう感情を殺し、よろいをかぶり、膜をはって生きている人に、通常、外部の声は届かない。深海に光が届かないように。だからジョゼフがインゲのところにいって、その距離感を探り、背景を知り、インゲと交流し、インゲの信頼を得るという段階は、二人が再開する上で不可欠のものだった。
だがパンフには、「はやく会いに行けばいい」というような、お気楽な恋愛モノ的なとらえ方をいう人もいて、これもおマヌケな気がした。
好き嫌いといえば、それまでだ。
だが、ボクは、この映画の静けさや距離感や弱いユーモアやおどおどしたコミュニケーションが、とても好ましく思われる。シングル単位とか、スピリチュアルとかいうときの、前提の感覚だ。
フランス映画「ぼくを葬る」と似た、個人が悲しみの膜をはっている感じが、好きだ。
そして、戦争、民族主義、内戦、レイプといった暴力のことをおもう。
それらはこの映画の恋愛を語る背景や材料ではない。恋愛の映画ではなく、暴力と傷の話なのだから。
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