政治的な選択、及び、スピリチュアル感覚

                                                (ブログ 2006年7月22日)

先ほどの、『「選び取る」ということと「絶対と決め付ける」こととの違い』を受けての話あれこれを少しメモっておく。
相対化の上でのリアルな状況下での選択の重要性の話、及び、スピリチュアル感覚の大事さの話となる。


私は他のフェミニストの文章を読んでも、100%賛成などまずない。どこかしら、「それは違うな」と思う。しかし、それでもその人の主張のいい部分、そうだなと思える部分、を見て、その人のやっていることの積極性をみて、その人のやっていることの全体の持つ意味を、今の社会の中で、総合的に考える。
だから、自分とは少し考え方ややり方が違っていても否定したり、批判したりはしない。(大きく見解が違っていて、全体の文脈でマイナスが大きい、これは批判が必要だなと判断したら、批判はする。)

例えば、政治家になるひと、例えば本質主義的に女性性を美化する人、単純な平和主義者、メンズリブ、労働組合・労働運動に期待をかける人、既成政党に期待をかける人、政府系の審議会などに参加する人、企業と連携していろいろ仕掛ける人、市民運動・NPOに関わる人、宗教を信じる人、芸術の力に期待をかける人、裁判闘争をする人、デモを行う人、署名運動をする人、インターネットの中での言論活動に希望をもっている人、選挙運動を重視する人、テレビに出て発言する人、大学・学校に期待をかける人、研究に期待をかける人、瞑想に希望を見出す人、その他いろいろ、そういう多様な人を否定はしない。

内心、疑問があっても、それでもそれをやり続けることの積極性を否定できないと思うからだ。自分のほうが間違っているのかもとも、ときどき思う。
Xさんの批判を第3者からきくと、そういう面もあるだろうなとも思うが、それでも、Xさんが果たしている役割をみて、そういう人がいてもいいなと思う。

例えば、私は、大沢真理氏、上野千鶴子氏、伊藤公雄氏などの方々の主張に常に100%賛成だというわけではない。しかし、バックラッシャーが彼女・彼らをプロパガンダ的に非難するとき、私は、彼女・彼らの総合的な役割・位置を見て、完全に彼女・彼らの側に立つ。

フェミニズム、サヨク、エコロジー、ジェンダーフリー、男女共同参画などについても同じだ。それらは、ピンキリ・玉石混交であり、多様だ。しかし私は、「私はフェミニストではない」「私は○○(サヨク、エコロジー、ジェンダーフリー、男女共同参画等)賛同者ではない」などとはいわない。
私は立場を選ぶ。
私は総合的に考えて、「敵」を見誤らないで生きていこうと思っている。

そうした総合的視点のない、バランス感覚のない人がいる。そういう人はしばしば「敵」を見誤る。こうした場合、「敵」が喜ぶか否かを考えてみるというのは有効な視点のひとつだ。
山下悦子氏が『女を幸せにしない「男女共同参画社会」』の中で、大沢真理氏、上野千鶴子氏、男女共同参画社会を一面的に批判するとき、私は、大沢・上野氏・男女共同参画社会の側に立つ。

大沢氏や男女共同参画をバックラッシュ派が批判するとき、それはなぜなのか。そうした風潮がある中で、大沢氏や男女共同参画を批判するのは、どういう意味を持つのかを考えないのは、鈍感だと思う。

もちろん、このように言うと、すぐにそれは二者択一、白黒の単純化だという批判がくることはわかっている。確かにこうした単純化には、「敵でないものは味方」、という単純性の危険性がある。AでもBでもない、C(3の道)も原理的には存在するし、現実にもそれを指摘することが有効なときもある。

しかし、文脈を考えて、ある局面では、AかBかどちらかを選ぶしかないということは多い。政治的現実の多くは、究極的に、眼の前のAかBを選ぶしかないというものである。賢しらに自分は高み(客観主義の立場)にたって、Cをいっているつもりで、事実上(客観的には)、政治的にAに加担しているということはしばしばある

わかりやすい例で言えば、自民党もダメだが、民主も社民党も共産党もだめといって、投票しないことが、自民を事実上有利にするようなこと。共産党が立候補することで、反自民候補が僅差で敗れるというようなこと。ジェンダーフリーもだめといって、バックラッシュを側面から支援してしまうようなこと。北欧社会(社民主義)もだめといって、どんな政治システムの方向がいいのかを見えなくしてしまい事実上、展望ある運動の足引張りをしてしまうようなこと。

だから政治的センスが問われる。評論家・学者系には、この点でダメな人が多い。

社民党批判、労働運動批判、憲法批判、北欧批判はたやすいし、ある文脈ではそうした批判は有効だ。たとえば、現行憲法の天皇の規定や異性愛男女二分法主義に乗っていることを批判することも大事なように。

しかし、ある文脈では、社民党、労働運動、憲法、北欧を支持することはとても大事だ。そこがわからない人が多くて困る。北欧もダメ、労働運動もダメといっている人は多い。だから私はきく。北欧よりマシな社会ってどこ?じゃあ、あなたは何をしているの?あなたは何をいいと思っていて、具体的にどうしたらいいと思っていて、どういう立場をとり、どういう運動をしているの?と。

(なお、「理論活動も実践だ」といういいかたを研究者系は自己正当化によく使うが、私はそれがいいわけになっていないか自己反省することが必要と思っている。ほとんど間違った意見と思う。が、この話はまた別の機会に詳しく述べる)

私は社民主義者で、連帯する社会にしたいと思っているから、北欧並みの税負担が必要と思っている。ビジョンなく、旧左翼的に「増税反対。軍事費削減」だけを言うのは、マイナスが多いと思っている。私がめざすのは、長期的に国民の意識が社民主義を担えるような連帯の方向に高まっていくこと、〈スピリチュアル・シングル主義〉的な方向に覚醒していくことだからだ。税金負担を嫌うような国民の低い意識に媚びてはいけないと思う。俗情を煽ってはいけないと思う。目の前の「大衆」の意識に、ビジョンなく媚びてはいけない。「大衆」が正しいなどというものではない。簡単に「大衆」は間違う。

しかし文脈によっては、今の自民党の増税政策に批判的になる。公共サービスを低下させ、小さな政府路線にたっている中での増税政策は、「弱者」犠牲の政策だからだ。選挙でも増税の必要性をいっていくべきと思うが、今はその時期でないと判断する政治家や政党もときには支持する。全体の中での判断だ。当然だ。

2006
年のこの現実の中で、具体的な市民、選挙民、大衆の意識の実態があり、そこに依拠して考えなくてはならないということはある。人権への繊細な感性が低い人が多いのが現状だ。スピリチュアルなものが見えなくなっており、エゴに囚われている、非エンパワメント状態の人が多い。そのなかで、セカンドベスト、あるいはマシなほうを選ぶしかないということはある。

宮台真司氏が「天皇制」「新保守主義」をもちだすのも、そういう文脈(本質主義でなく、選び取るということ及び、リアルなセカンドベスト選択)で私は理解できなくはない。(しかし私はその戦略をとらないが)
 彼は、ある意味、私以上にリアリストであり、エリートが社会を誘導すべき(それしかない)と思っている。彼の選択は、リアルなものの一つと思う。(昭和天皇が靖国神社A級戦犯合祀に不快感を示したことも関連)


同じような意味で、ある人が、共産党や民主党を選ぶのも、時にはありと思っている。民主党内には、まともな人もいる。今は、当面、自民に代わるのは民主党であり、自民党政権よりはマシである。もちろん、民主政権になったら、またチェックし、批判し、その政策を変えていかせなくてはいけないが。というのは、政権政党になれば、民主の政策の多くが今の自民党と比べて、あまり違わない状況になってしまうことも自明だからである。
でもだからといって民主もダメといって、安倍自民を勝たせては、本当に地獄への道だ。(そういえば、私の先生は「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉をよく引用していた。)
だから私は、民主党も共産党も社民党も支持する。どの政党も限界があり、私から見れば不満があるので、批判も文脈によってはするけれど。

共産党や民主党や社民党を支持する組織に集まっている人には、自分の頭で考えられる人になろうという話をする。組織を内部から批判しつつ、全体性を見て、敵を見誤らないようにしようという。〈スピリチュアル・シングル主義〉感覚をもって、組織をいい方向に変えていくことに希望があると思っている。

以上、自分だけが、正しいとカタクなるのはとても“狭い”という話をしてきた。文脈を見て、選択し、AかBを選択し、限界あるものでもいいところがあるので、多様な他者を受容すること。そして敵を見誤らないこと。

最後にその様な総合的バランス判断をもつとき、大きな方向性を見誤らないためには、スピリチュアルな感覚が大事だという話をつけておきたい。

『チャングムの誓い』で、医者になるものは、聡明であることより、深みのある人間になることが大事だというようなことを言っていた。上品なもの、非暴力主義的なものは、下品なもの、暴力的なものに、短期的には敗北する。だが、長期的には、上品なもの、非暴力主義的なもののすばらしさが、じわっと伝わっていく。それがスピリチュアルなものの勝利の感覚だ。だからこそ、深みが大事なのである。

スピリチュアル感覚がないと、大事なものが見えない。聡明さにおぼれ、瑣末な知識に振り回され、敵を見誤り、愚かなことに力を使う。今の社会の「おかしさ」を感じられるかどうか。町を歩いていても、学生さんたちの感想文を読んでいても、テレビ・雑誌を見ていても、マンガのストーリーやギャグのありようをみていても、とても明るくて、一生懸命なようで、とても実は大きな流れに巻き込まれ、「おかしな」病気にかかっている。浅い笑いのパターンに恐怖感を持ってのめり込んでいる。
一面では繊細なのに、別の面ではとても能力主義的で、無関心で、絶望しており、他者を信じなくなっていて、今の汚い社会に諦めを持っておりながら、何とかなると思って政治・社会・世界に無関心で、何かしらまっすぐなものに懐疑的で、裏があると思ってればいいと自己の無為を正当化し、自分(および身近な人間関係)のことだけに異常に関心を持ち、真剣に向き合い考えることを避け、自己防衛に走っている。この「おかしさ」を感じられないこと、すなわち、大事なものをみわけられないものは、ダメである。

ただし、やはり、付け足したい。そうしたおかしくてダメな空気の中で、また、だからこそ、キレイなもの、スピリチュアルなものが立ち上がっている。そこに希望を私は見出している。

 

 

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