政治的実践を広くとらえるのが〈スピ・シン主義〉
070504
政治的実践を広くとらえていこう:〈スピリチュアル・シングル主義〉の発想から
今の政治状況の中で思うこと。春の選挙や次の参議院選、都知事選の総括やその他、政治についての意見を見ていて思うことを少しメモしておきます。
基本的には、いまの安部政権に対抗する勢力が大きくなることが絶対必要で、そのためにはしたたかにあらゆる妥協(統一戦線)も戦略も必要ということに賛意を示した上での話です。
(詳しくは、『スピリチュアル・シングル宣言』およびHPに掲載している生き方・〈スピ・シン主義〉に関する小文などを参照のこと。)
従来の闘い方(社会変革の方法)の中心は、政党・労働組合・市民運動による、啓蒙主義的教育、署名・デモ・選挙(政治的代表制の中での権力奪取を目指す)という近代主義的なものであった。
「敵」が明確な中での反体制的抵抗には一定の意義があったのは事実である。運動や共同体の中で「我らの世界」的な感覚を学び、巨大メディアに対抗する価値観をもてたという側面はある。
だが、動員型、代行主義、「おかみ」頼み、エリートお任せというパターナリズム型運動(温情的父権主義)、分配をめぐる闘争でしかなかったという限界性/欠点を持っていたといえる。どのように生きるかの質というよりも、物質主義の上での大衆的なモノ獲得の運動であった。それは簡単であった。
だがモノ獲得でない運動は難しい。「貧困問題」から「社会的排除」に対応した運動の転換が必要だが、それは簡単ではない。それがいまの時代の困難性を示している。
さてそれを前提にしての話。
一部のナイーブな議論を見ていて、政治を語るときのあぶなさを感じる。素人が参加し、勝手連的な運動をする、市民派、無党派、手作り選挙。組織に頼らない選挙。・・・
その中で、表出だけではだめだ、結果が大事だ、選挙に勝つ、石原に勝つなどという話をすると、妥協妥協、毒を食え、という話になる。政治とはそういうものである。毒を少し食っても回復し、意識がはっきりするならいいが、多くは、毒に慣れ、毒とも思わなくなり、毒に汚れ、毒の中毒になり病気になる。ひどいときは毒を撒き散らす側にまわる。自己満足はしているが、結局、ガス抜きになり今の政治状況を微塵も変えないようなことにもなる。その政治家がいても何も変わらない、一応反対のポーズをとっているが、政治で食っているだけ。そんなだめな政治家になる。その結果行うことは、他のやつがすることと同じようなひどいことに手を貸し、改善は少しだけになり、そんなことは他のやつでもできる。そんな一生でいいのかという話になる。(今までの政治の総括をどうもつのかという話)
また、歴史を見れば、「大衆」は動かされるものである。いわゆる右であろうと左であろうと、大衆操作を権力(およびある集団や運動における、パターナリズム的な運動のスタイルを行うプチ権力)は行う。時には失敗するが、大方において、権力による大衆操作は成功する。
だが、いまの時代における、私たちが求める社会変革としての民主主義的な運動においては、それではだめだろう。つまり受動化した操作される「選挙のときだけ動員される市民」ではだめなのである。
また残念ながら、暴力は非暴力に基本的には勝つ。(少なくとも短期的には)
多くの既成宗教は保守的である。民族主義、ナショナリズム、強いリーダー(あるいは方向を指し示してくれる何か、例えば宗教)を求める依存主義などは、単純な頭でも理解可能で、情動によって大衆はその方向に操作されやすいものである。
廣瀬純『闘争の最小回路』(人文書院2006)が指摘するように、選挙なり、国民投票ナリが、最初から、その枠組み設定において誘導的であるという現実があり、大衆はその中で操作され、選択しているつもりの非選択、「偽りの選択」をとらされている。
例えば、「法案の中身はよくわからないけれど、郵政民営化には賛成です。」と多くの人がいって小泉自民党が大勝したように。つまり、権力エリートたちは、選択を提示するがそれは、知か無知かの選択、高度な専門的知識かイデオロギーかの選択、ポスト政治的な行政か“旧態依然の左派と右派との政治的対立”かの選択として、前者をえらばない者はバカだというメッセージつきで選択を迫るのである。
それは支配/権力を合理化正当化(権力維持手段)するための「偽りの選択」でしかない。教師がバカな生徒を教え導くようなものでしかない。多くのインテリ(及びメディアに登場する多くの評論家モドキ)の議論はその程度のことに加担している。「私は見えている。みえていない古い左翼はダメだねぇ」といってメディアに乗ったり、学会で語って自己満足している。
(なお、デモ・署名・集会などの表出行為は無効で、エリートによる、ロビー活動だけが大事とする見方もあるが、それも現実的に敗北している。もちろんロビー活動も大事だが。)
では政治には関わらないのか。まったくNO!である。今の社会と次の世代への責任として、無関心、あきらめ(その結果、自分の好きなことだけをして非政治化し、自分は今の社会でそれなりの地位や収入で暮らすこと)、は、エゴイズムの名に値する(多くの学者や市民の実情)。特に、小泉、安倍ときて、ミリタリズム化、ナショナリズム化、ネオリベ化は加速している。なんとしても抵抗せねばならない。(社民党や共産党の国会でのがんばりは尊敬に値する)
ではどうするか。日ごろから、あらゆるレベル、あらゆる問題を対象に、できる範囲で自分なりに政治化することである。(政治という言葉の深い理解。『あらゆる個人的なことは政治的であるということ』のユニークな理解)
現状は、左派系の政治家に一票を投ずる人や組合運動をする人も、多くは、脱政治の中で、情報に踊らされ、小金で企業等に従属し、子どもを塾にやり競争・消費生活で享楽に浸っている。それではだめだろう。
それに対し、必要なことは、自分の生き方からの変革である。この拝金主義の社会にあって、どのように生きるか、という哲学構築が各人に求められている。主流秩序、勝ち組、エリート、資本家と、いかに異なる価値観をもつかという課題があるのだ。
政治的なスタンスを学び考え、それを表明し、周りに語り、自分の生き方にそれを反映させることである。非暴力的、ピース、スピリチュアル、スローに生きていくことである。その意味での自分なりの政治的実践を行う。ラディカルに生きるという実践である。
例えば、何を食べるか、食べるときに何を思うかというスピリチュアルな生き方、パーソナルなセックスにおける政治というような理解、携帯電話やパソコンがあるというプラグ化された便利な生活(カタログ、マニュアルがあるスタイル、商業主義)への依存の度合いをへらして自足的な生活をすすめることなど。
その“政治”のレベルを日常生活レベルからみることで、自分なりの政治的実践はできる。絶望からも脱出できる。次の各レベルでの政治的実践を考えれば、自分が変革可能な政治的な実践という希望はある。
1:自分の生き方における政治的実践(自分の考え方の確立、世界観確立のための学習[映画鑑賞や読書や情報摂取など]、消費生活・消費水準のあり方の変革、内省的な時間をもつスローな生活「プラグを抜く」様な生活。今の主流価値観とかいかに対抗的に自分の理想とする価値観に沿って実際に生きるか、自分の仕事自体を通じての社会貢献。つまらない仕事を辞めるという選択や少ない消費で楽しくちゃんと生きる「半農半X」的生き方。その中で、ゲリラ的に主流でない文化、スローな流れを作り出す実践。
2:周りの人との関係(家族、親戚、友人)における政治的実践 (身近な人との会話、働きかけ)
3:地域、職場での活動における政治的実践 (組合活動、集団的な仕事における社会貢献、自治会や自分が属している地域密着ネットワークなど地域での活動における社会をよくする活動)「働く=雇われる」とは別の働きかたの実践は、現代において非常に重要。例えば、コミュニティ・ビジネス 社会起業家(ソーシャルベンチャー)、NPO(共助)、ワーカーズコープ(ワーカーズコレクティブ、労働者協同組合)、非正規雇用労働者と正規雇用労働者の連帯の重要性。
最近のプレカリアート系運動は希望である。
4:メディア/インターネットへの意見表明、対抗的なオールタナティブメディア発信という政治的実践
5:地域・コミュニティにおける意識的活動という政治的実践(NPO、ボランティア、市民運動参加など社会変革活動)
6:日ごろからのまともな政治家支援、政治への意見表明、という政治的実践
7:選挙における政治的運動という実践(立候補、あるいはまともな政治家擁立、選挙運動、ひどい政治家を落とす活動、投票)
したがって、急に(7)だけ行って、勝てなかったと絶望的になり、エゴイズム(自分の生き方の非政治化)に引きこもるのはまったく愚かな行為である。
また(7)だけしている人もいるが、それもまったく不十分である。
従来の左翼運動、労働組合運動、戦後共産党等の議会主義の現在までの「非勝利(=敗北)」を素直に認めること。一人一人の覚醒と闘争を押しとどめるような「大きな物語回収=古い選挙中心の運動」はダメ。しかし、いまの政府・主流への対抗の役割は認めてダサくても効果限定的でも支持することも必要(選挙も、いまや 別の価値観の提示の戦いであり、“勝たねば意味がない”のではない)。
なんといっても先ずは(1)である。自分の足元をどうにかできないようなものの「運動」ではダメである。フェミ的、スピリチュアル・シングル単位的な生き方。そして(2)−(6)なら、できる範囲でできることはたくさんある(例えばパートナーとの非暴力的(非DV)的な生き方)。
その結果としての、(7)選挙時における選挙運動であるのであって、選挙運動だけでは、自分の理想とする社会に近づくような選挙的勝利はありえない。いろいろな事情から勝利しても、それは部分に終わる。なんといっても、多くの人々の(1)がないからである。
(1)を増やして(2)−(7)を活発化することが必要である。ただし、人が変化・成長するのは、独りだけでの場合は少なく、ある集団・共同体・運動の中であることが多い。その意味で、その人が属するような組織・ネットワーク・運動自体が活発化することが必要である。個人から見れば、そのような場所・ネットワークに参加していくことが必要である。面白い人や運動(組織、ネットワーク)の近くに行くこと、面白い人や運動と関わること、NPO・労働組合などに参加すること、意識的に学習会や集会に参加することなどが必要である。現実を知り、面白い活動をしている人たちの現場に自分も参加し、生身の現場を見たり当事者の話を聞き、身体レベルで思想を獲得していくことである。
そうでないと、分断化され、知らぬ間にメディア/インターネットによって中央の画一化した主流世界観に取り込まれ、非政治化されてしまう。
人の得意/不得意を考慮し、自分の得意な場所、したいことを通じて、政治的実践を行っていくこと。しかし、自分にはできなくてもがんばっている人を応援すること。じゃまをしないこと。小さくとも何らかの実際的な成果を出すこと。基本発想は「ゼロか100かではなく、理想をめざしての一歩」を行うということ。未来社会の先取りをいま、ここから、やっていく。一回限りの人生を楽しむ、ただしスピリチュアルな感覚をもって。
そうしたこと(視点)が必要である。
希望を失わずに、やっていきましょう。今日、ここから。 そして参議院選挙も。
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