森岡「生命学」と 私の〈スピ・シン主義〉
070811 ブログ
森岡研と立岩研の合同研究会に参加させてもらった。
いい時間だった。特に森岡さんが(いい意味で)相変わらずがんばって「生命学」で引っ張り続けていこうとしていることをしり、その内容のまとめを読んで、あらためてそうだよなーと思った。
森岡「生命学とは何か」現代文明学研究:第8号(2007):
http://www.kinokopress.com/civil/0802.htm
「生命学の基本的発想:生命学とは、自分をけっして棚上げにすることなく、生命について深く考え表現しながら、生きていくことである。・・・この基本的発想を源泉として、そこから様々な方角に向けて発展していくであろうすべての試みが、生命学と呼ばれるのである。」
「各自の生命学とは、生命学の基本的発想と出会うことをきっかけとして、自分にとっての生命学とは何かを発見し、掘り下げ、展開していく終わりのないプロセスのことである。」
「生命学は、生命について深く考えていくのであるが、それを考えている人間もまた生命という形で生きている。・・・そういう生命について考えようとしている私もまた、生まれ、成長し、再生産に関与し、老い、死んでいくのである。・・・生命についてきちんと考えるためには、必然的に、生命という様式で生きている個別的なこの私についても、正面から考えなくてはならないのである。・・・いままで、生きるということを真摯に考えてきた多くの人々が、このようなタイプの思索を行なってきた。生命学とは、それらの思索と生き方を、ひとつの自覚的な「方法論」へと結晶させる営みである。」
「生命学とは、「表現しながら」生きていくことである。単に生命について深く考えて生きていくだけではなくて、自分が考えたことや、考える途中で感じたことなどを、何かの形で表現して自分以外の人々に向かって放出していくことが大事である。
表現とは、文章を書いて発表することだけではない。自分の身体を動かして人々と交流すること、おしゃれをして歩くこと、社会運動を立ち上げること、看病をすること、芸術活動をすること、春の息吹を感じて歌を口ずさむこと、これらすべてが生命学の具体的な表現となり得る。・・・生命学においては、「生きること」それ自体が学となる。」
「自分を棚上げせずに、生命について深く考え表現しながら、私が自分自身の実人生を生きていくことが、生命学である。生命について深く考え、表現しながら生きることによって、実人生がより味わい深いものとなり、豊かなものになる。これが生命学の成果である。・・・・」
「森岡の生命学を一言で言えば、「悔いなく生き切るための生命学」である。「悔いなく生き切るための生命学」とは次のようなものである。
生命学とは、何かの生きづらさをかかえた人が、限りある人生を、他者とともに、悔いなく生き切るために何をすればよいのかを、自分をけっして棚上げにすることなく探求しながら生きていく営みのことである。」
★★★
「生命学」というネーミングが最適かどうかはわからない。だが、大きく外れているわけではない。「生命」に深い意味を組み込めば、この名称でもよいだろう(生命には危険なニュアンスもあるが)。
問題は、森岡さんが、「従来の学問の枠や姿勢では足りない、ダメだ」と思ったことの正当性にある。従来の学問に対し、学問の枠を超えて、私の実人生や自由な思索、表現、社会への働きかけなどを含む、広義の「学」、言い換えれば、ある思想の潮流であり、思想運動、主義であるものを、「生命学」と名づけて提起しようという構想に、私は賛成する。
だから私の行ってきたことは、森岡さんの言う「生命学」に相当すると思う。
それを生命学といわなくてもいいじゃないかという意見もあるだろうが、せっかく森岡さんがつみあげてきたのだから、のってもいいじゃないかと思う。なにかを名づけて目に見えるようにすることには意義がある。その構想の大きさは、今、細分化されている学問状況(メディア、政治状況)にとって、意味のあることだと思う。
ネーミングとして、広い領域を示すだけのような「生命学」がいいのか、という問題はある。それだけではわかりにくい。「自分を棚上げにしない」というような内容を含むことがわかるネーミングのほうがいいかもしれない。
私は、そのような判断で、「スピリチュアル・シングル主義」というように、内容の方向が少しはわかるようにしている。でもその分、狭い。
森岡さんは、一応、自分個人の生き方論、思想、人生論と見られないように、「学」におしあげようとしている。
私は、森岡さんの提起する基本方向に賛成である。そして僕がやっていること全体は、かなり、生命学で言うところと重なる。だから、私は、私なりの生命学をやっているといってもよいと思う。
特に森岡さんは、「中心軸」とか、「悔いなく生きる」(善く生きる)「深く生きる」というようなことをいう。僕の言う〈たましい〉に近いところにこだわっている。「自分を棚上げしない」ということはここに関わっている。だから、僕は近しいと思う。
森岡生命学に賛同できない人は、森岡さんの主張のなかにある、ある価値、倫理観、志向性、宗教性への匂いに対し、ぴんとこない感じをもっているからだろう。
私は、そこにこそ、共感する。だから生命学とあえて言う心意気に共感する。宗教ではないカタチで、近づこうとするところにも、私は同じスタンスを見ている。
あえて言い換えれば、森岡生命学は、かなり色のついた志向性のあるものである。そこが「学」として大きく構えようという戦略と少し齟齬を生じるときもあるだろう。
今日の研究会でも私は発言したが、女性学、ジェンダースタディといっても、そこに、性差別をなくすという目的や価値を入れる人もいるし、入れない人もいる。目的や価値観という色がついていることを「学」でないとみなす人もいる。
だが、何を「学」というかはあらかじめきまっているのではない。僕は、ジェンダー概念に、ジェンダーフリーの意味を包含している。何のための学問かを問い続ける立場だ。客観主義の装いを批判的に解体していくような、「学」こそが求められていると私は思うので、あえて新しく、「生命学」と森岡さんが言うことに、賛成する気持ちがある。
こうしたまとめは少し強引に単純化している。森岡さんのニュアンスとは少し違うところがある。だが私は、そのように受信した上で、生命学がもっと展開していくことを期待したいなと思っている。
で、僕は、僕なりの生命学的なことをしていこうと思っている。
なお、僕の構図では、生命学の枠は大きいので、そのなかに「生存学」があると位置づけていいと思っている。「生存」という言葉には、誰もが人間として存在していてよいのだ、それは権利だ、サバイバルできるのは権利で、それを求めていこう、そうした社会にしていこうというニュアンスがある。「生命」よりも志向性が明確だともいえる。でも射程は狭い。だから生命学の部分であるとしていけばいいだろう。
このように「生命学」を認めたうえでなら、〈スピ・シン主義〉は、伊田なりの生命学的展開である、といえる。