専門家だから、偉いのだ? (ブログ20061018日)

専門家だから、高いお金をもらうのは当然なのだ、というけれど・・・・

       〈スピリチュアル・シングル主義〉観点から生き方を考えるエッセイ


専門家とかプロというひとが、「仕事にはちゃんと金をもらいます」という。「私は高いですよ」という。そういうのをときどき見聞きして、そうなのかなと思う。
カウンセラーが、私は知り合いにはカウンセリングしませんという。それはそうなのだろう。カウンセリングには一定の距離がいるからだ。それが教科書的答えだ。

しかし、という思いもある。
カウンセラーが、「私のカウンセリングは高いですよ」という。「知り合いには仕事はしないという」
それはほんとうにそれだけで、そうなのか。

友人、身近な人の話を聞く、傾聴するというのはどうなのか。
そこに、私の専門性への過信はないか。「私は特別」という思いはないか。

あちこちで、専門家の傲慢さを感じる。
私の1時間は高いのだ。私が講演をすれば1時間2万円なのだ。30万円なのだ。私が1時間かけて執筆すれば○○万円なのだ。
そういう傲慢さが透けて見えるようなことがある。

有能な人は、秘書や部下を持つ。事務所を持つ。効果的に仕事をこなす。分業である。私は偉い先生なのだ。だから雑務は他の人にやってもらう。私の1時間は高いのだ。雑務をしているほど暇ではない。私の頭脳は特別の価値を産むのだ。
私はテレビに出ている有名人である。私はタレントである。私はアーティストである。私は、大学の教授である。私はカウンセラーである。私は建築家である。私は国会議員である。私は社長である。だから、私は、普通の人、主婦、ただのサラリーマンとは違うのだ。
私は有名なのだ。私は他の人とは違うのだ。
だから私の時給は高いのだ。私はプロだから。

ボランティアというのはどうなのだろう。パートの人が1時間800円で働いている。そのことはどうなるのか。
専門家は、ボランティアをするのか。専門家らしいボランティアをするのか。専門家が、ただの無名の、ボランティアをするのは無駄なのか。忙しい有名人だから、ボランティアをする暇がないのか。仕事を通じて社会に貢献しているから、わざわざボランティアなどしなくてもいいのか。
私を誰だと思っている。私はあの、有名な、○○だぞ。知らないの?

正社員の多くは自分の時給を自覚しない。そして管理の観点で、「派遣なら1200円、パートなら800円でいいだろう」と考える。「人件費コストの観点」からだ。自分と他者を切断する。政府の審議会に出るような人は、自分はお金持ちだが、そのことは棚に上げて、雇用の流動化・弾力化を語る。
1食に500円かける人がいる。5千円の人もいる。5万円の人もいる。
飲みにいって1回、3000円ぐらい簡単に払う人は多い。デートで1回、5000円ぐらい使う人は多い。だが、社会運動に1年間分3000円カンパする人は少ない。

年収500万円で足りないといっている人はいる。公務員の平均年収は600万円を超している。
年収800万円を超えている男性はかなりいる。
一方、女性は年収300万以下が約7割だ。非正規は女性の過半数となっているが、非正規労働者のほとんどは年収200万円以下だ。

1時間、講演か何かをして何万円も何十万円もお金をもらうことに、後ろめたさはないのか。

専門家だから、はい、発言を聞いてください。皆さん、ありがたがって聞いてください。聞きなさい!
普通の人の質問や意見は、短めに。私は忙しいんで。どうせ素人が言うことは知れてますから。
最後に私がいいことを言います。密度の濃い、すばらしいコメントをします。
司会者さんが、私に特別の発言枠をくれるのは当然。くれないなら、憮然としますね。
最後に皆さんに拍手してもらいましょう。だって私は特別忙しくて1時間が高い人だから。わざわざこんな所に来てあげているのだよ。
はい、本も出してますよ、テレビにも出てますよ。
腰の低いフリして、内心ではこんなことと思ってますよー。皆にほめられ、尊敬される、私はすばらしい有名な人。
だからお金はたくさんもらえて当然よ。
私は人生の成功者!

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私にもカンペキなコタエはない。自分もお金をもらっている。
「仕事だ」というのは簡単だ。「私は専門家だから」と言うのは簡単だ。

典型的な表現は、「慈善事業じゃないんだから」である。もっとも創造性のない言葉だと思う。
あ、もうひとつ、もっとも創造性のない言葉があった。「お金はあってもじゃまにならない」というヤツ。

相田みつをさんは、仏教的なものをわかりやすく伝えるという形で、多くの人にポジティブなものを実際に伝える仕事をしている人だと思う。プラス面はあると思う。だが、彼も次のように書いていた。
「かねが人生のすべてではないが/あれば便利/ないと不便です/便利のほうがいいなあ」(『にんげんだもの』より)

相田さんに対する私のスタンスは、わかりやすくて誰もが受け入れる、毒のない、浅い言葉を書く人だということです。いいこともいっています。すこしスピリチュアルだと思います。しかし浅い。

私は、スピリチュアリティというのは、現実との格闘、特に力をうばわれている側から学ぶようなところに、その運動に実践的に関わるところに、もっとも現れ出てくるものだと思う。それが私の『〈スピリチュアル・シングル〉宣言』で言いたかったことだ。
本田哲郎神父のような実践にホンモノの匂いを感じる。

相田さんに限らず、ほとんどの宗教、精神世界系のような、「制度変革、権力との戦いの提起を避けて、心の持ち方を変えることですます」ような言葉は、実際どういう作用があるのか。誰が喜んでそれを受け入れているかで、大体、その正体がわかる。
中立を気取るメディアや評論家も。


話を戻すが、だから「かねが人生のすべてではないが/あれば便利/ないと不便です/便利のほうがいいなあ」などというのは、文脈抜きになら目くじらたてるほどのことでもない「庶民のホンネ」だ。「そうよねぇー、ほっとするねー」だ。

だが、私たちはこのひどくてすばらしい社会に生きている。新自由主義の下でのカネ万能で、非連帯の、能力主義の、競争格差社会に生きている。文脈抜きにはその言葉はありえない。

今、何と戦うか、何を大事にするかで、その人の“程度”がわかる。
「カネ」「シゴト」「プロ」等という言葉をどの程度深く使えるかで、その人の“程度”がわかる。
自分の1時間は高いのだと思うような人にろくなやつはいない。
(自戒をこめて)

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