スピリチュアルに生きる人々
大阪経大論集54巻6号 04年3月発行
スピリチュアルに生きる人々(2)
前号に引き続き、私の提唱する〈スピリチュアル・シングル主義〉的な生き方や思想や行動に近いと思えるイメージと具体例を紹介していく。
目次
ハンセン病回復者の痛み(藤森重紀)、解放の神学(ステファニ・レナト)、非暴力主義(マハトマ・ガンジー)、小さな出会いの必然性(関田寛雄)、朗読劇「この子たちの夏」
チヒロ、「ハッシュ!」の朝子、労働裁判闘争(やかび屋嘉比ふみ子、住友裁判原告)、国労の闘い、映画『人らしく生きよう』、あなたはもっと優しくてあなたはもっと強い(田中哲朗)
ハンセン病回復者隔離の痛み
2001年5月、ハンセン病訴訟の熊本訴訟で、損害賠償を認め、らい予防法は人権侵害で違憲とし、それを改めなかった国の過失も認めた画期的な判決が出た。政府はいったん、「控訴後和解」という責任逃れの方針を決めたが、それに対して原告等が官邸前に集まり、控訴断念を求めた。「元患者(回復者)がどういう思いですごしてきたかわかるか」などと迫ると、首相秘書官は「それは集団の圧力じゃないですか」と発言した。
なんと言う愚かな発言だろう。訴訟の原告や支援者たちの〈たましい〉の叫びが聞こえない耳をもっているのだ。なさけない。これが自民党であり、無謬神話にしがみついてきた官僚の姿なのだ。その後、国は控訴を断念し、ようやく、本当にようやく、過去の隔離差別政策の見直しが始まった。それでも姑息なあがきを続けたが、ハンセン病回復者差別について、日本政府は何とかその政策の誤りを最終的に認めた 。
テレビなどでハンセン病回復者(患者、元患者、療養所入所者)・原告の人たちを見て、なんて言葉が豊かなのだろうと思った。長い運動の中で、心からの叫びを言葉にする努力を続けてこられたのだろう。官僚や政治家や学者の、心のこもらない言葉でなく、分かりやすく、しかもスピリチュアルな言葉を「軽々」と発する様子を見て僕は驚くしかなかった。事実の強み。頭の先のテクニック的な虚飾でなく、心の奥からの声を出されている。長い歴史の中で押し込められてきた圧力を受けて、その一語一語には血が噴き出すような響きがこもっていた。
ここでは、「いい詩だよ」と友人に教えてもらった、この問題の深い悲しみを歌った藤森重紀さんの詩 を紹介しておく。
「吹雪の道を行ったつおん」
夜おそく/凍えた道をかりかりと/行ったつおん
行ったあとに/雪っこはらはら/積もったつおん
めんこ可愛いために/はやり伝染病になったと/うわさされたつおん
戻れんのいつ何時/訊いたのは妹だっつおん
戻れぬよ/あした/ばいきん黴菌つけた猫っこも/くび縊ることになってるよ/姉は出がけに聞いたつおん
おど父さんの足もふらついて/花嫁衣裳もあきらめて/なしてお月さま出てないの/が母さまのちょうちんすぐ消える
猫このお墓作ってね/鳩この餌こ頼んだよ/やん山羊この面倒みてけらえ
へだ隔ての島へ行く夜は/気になるものをいっぱい残し/とまどう行列 吹雪に押され/凍てつく道をかりかりと/息さぁ殺して行ったつおん
解放の神学(現代キリスト教)
「解放の神学」は、〈スピ・シン主義〉が目指すようなことをはやくから実践しているものの一つだ 。宗教には歴史があり素晴らしい理論も実践もあったが、同時に、世俗化したり体制の統治手段になった面、科学的思想をジャマする非合理で、禁欲主義的道徳主義的な面、現実社会の構造的諸問題の解決を放置して抽象的な、聖書至上主義的な形而上学に逃げ込んだ面など多くの欠点も有してきた。
キリスト教者の中で、そうした諸欠点を克服しようという動きの近代的なものが、「解放の神学」であり、理論的には現代哲学の脱構築、ポスト・モダンに対応したものとみなせる。1920年代および1950年代のプロセス神学では、神とは実体でなく、つねに実在の中で絶えず展開する動的なプロセス態であるとされたし、1960−70年代の「解放の神学」は、第3世界での「民衆の神学」、公民権運動等での「黒人解放の神学」、「女性解放神学」などの総体であった。それは、「神・聖性」を形而上から現実に引きずり出し、人間社会の実践に内在するようなものとみなす。
『生のアート』で紹介されているところによると、ヒトラー暗殺計画を志向し処刑囚となったディートリッヒ・ボンヘッファーは、次のようなことを考えたという。
神との関係は、形而上的な宗教的関係ではない。神は形而上学的な超越存在ではない。無私な内面性を示すとか敬虔な態度といったお決まりではない。絶対とか、無限とか形而上学的な概念でなく、「他者のための存在」になることが、超越体験である。到達不能の課題でなく、その都度与えられる、手に届く隣人が、「超越的なもの」なのだ。「具体的な関係の中に現れる隣人、他者を信頼するということ、他者に賭けること」などに人の形をとった神が現れ出るのだと。だから彼は、「いい宗教と悪い宗教」という逃げ方をせず、「無宗教的キリスト教」とまでいった。宗教がなくても信仰があればいいと考えた。
つまり彼は徹底して、既存の形式から離れて、実質的な「聖なるもの」を追い求め、それは過激に無宗教的・無神論的なかたちの主張に至ったのである。解放の神学の底流には、このような真摯な「神の出現」への探求がある。抑圧を内在化させる共同体を批判し、自分と異なる他者を認める多様性の視点をもって、目の前の現実の中に、その中の不正との闘いに宗教の意義を見出すのである。貧しく弱きものの側に神を見出し、ともに苦しみ戦うのである。その姿勢、実践性は、〈スピ・シン主義〉の目指すものである。
それをふまえるなら、既成宗教も、教義の宗教的解釈はともかく、結局スピリチュアル度が高ければ素晴らしいと思う。例えば、ダライ・ラマは素晴らしいし、キング牧師などの非暴力主義者も素晴らしいし、友人に紹介されて読んだキリスト牧師の本田哲郎さんの著作もとてもスピリチュアル度の高いものだった。彼は、「助けてやる、解放を教えてやる」といった見おろすような視線ではなく、弱き人、虐げられている人こそ福音に近いといって、実際に日雇い労働者やホームレスの人が多い釜が崎で活動する。
「解放の神学」の神父
貧しい民衆とともに歩み、不正と闘う中南米の「解放の神学」は世界中で素晴らしい実践をする人を生み出している。ここではその「解放の神学」のもと、日本に暮らしていた一人の神父を紹介しておこう 。
イタリア出身の神父、ステファニ・レナトさんは、労災事故を契機に仕事をやめて聖職者になり、サレジオ会の派遣で1964年に来日し、東京から愛知県に移った78年ごろから社会活動を活発化させた。不登校の生徒等と暮らし、在日韓国人らの諮問押捺問題では自分も押捺を拒否した。80年代には、ニカラグアに衣料品を送るといった国際的な援助NGO活動に力を入れた。
彼は2002年に最貧国、東ティモールの山岳地帯の古い教会に志願して移住したが、その思いは彼の著書に次のように書かれている。「豊かな日本に暮らしつづけているという矛盾を断ち切るには、貧しい人々の中に入るしかないのではないか」。東ティモールの山岳地帯で暮らすとは、電気も水道も未整備な中で暮らすというように、自分の生活が不便になるということだ。なかなかできることではない。それを行い、人生をNGO活動に捧げた彼は事故で03年10月に突然亡くなった。
マハトマ・ガンジーと非暴力主義
インド独立の父、非暴力運動の父といわれるマハトマ・ガンジー(1869−1948)は、スピリチュアルな人であり、スピリチュアルな社会運動としての非暴力主義をうちたてた人である 。当時、150年にわたって大英帝国はインドを植民地支配しており、あからさまな人種差別と抑圧・圧政・重税・貧困が民衆を苦しめていた。公開むち鞭打ちや不当な逮捕がまかり通っていた。
ガンジーは、裕福な階級に生まれ、19歳で英国に渡って弁護士になり、24歳のとき仕事で南アフリカにわたる。そこで人生を一変させる差別を経験する。列車旅行中に一等席のチケットをもっているのに、車掌に「インド人のお前は貨物車に移れ、有色人種は出て行け」といわれ、列車から降ろされた。この体験から、彼は、「この理不尽な人種差別を認めてはならない。認めるのは臆病者だ。この不正を正すために生涯闘う」と、決心したという。この体験は、人生でもっとも大切な時間であったと、彼は後に振り返っている。
当時、南アフリカでインド人は労働者としてこき使われ差別されていた。歩道を歩く自由も奪われ、外国人登録証も自由な行動を制限する差別的なものであった。そこで、ガンジーは、抗議行動として登録証を警官の目の前で焼いた。そのとき彼は撲られたが、「どんな暴力も不正を阻止する気持ちを阻止できない」という思いで無抵抗のまま、撲られ続けた。そうした彼の影響を受けて、その後数千人が登録証を焼く運動が続き、ついに政府も運動側の要求を認めた。この体験から、ガンジーは民衆に非暴力不服従の思想が広がれば不正な権力も変わるという確信をもつようになった。彼はこの運動スタイルを「サチャグラハ」(真実の力、真理把持)と名づけた。
1915年、22年ぶりに祖国インドに帰った彼は、富裕層に基盤をもつ「国民会議派」の独立運動とは一線を画して、人口の大半を占める農民に基盤をもつ独立運動を始めた。彼が、独立運動の象徴としたのが糸車=チャルカであった。チャルカは、インド綿を紡ぐ伝統的な道具で、イギリス製の服を着るのでなく、自分たちで服(手織りの布:カディー)を作るという実践(「服装計画」)の象徴であった。それは、イギリスに依存している暮らしを変えようという精神を示しており、それに伴って、イギリス製の服を焼き払う運動が民衆の間に広がった。
1919年、独立運動に警戒を強めた総督府は集会禁止令を発布し、インド北部の街、アムリトサム(いまのジュリアンワーラー広場)での2万人の集会では、その法律に違反しているということで、軍隊が発砲し、400人もの死者がでた。民衆は怒り狂い、暴力の悪の連鎖が危惧された。そこでガンジーは次のように言った。「皆さんは彼らを八つ裂きにしたいでしょう。その気持ちは私にもよくわかります。しかし敵を許すことは、敵を罰するより気高いことだということをどうか忘れないで欲しいのです。」
しかし同胞を殺された人たちに彼の言葉は届かず、警察署に火を放ち22人の警官を殺害した。それをみてガンジーは独立運動の中止を宣言したが、「犠牲者の死を無駄にするのか、裏切りだ」と非難する者もいた。ガンジーは、暴力の泥沼に入るのでなく、今こそ立ち止まって考え直さねばならないと応じた。その中で民衆扇動の罪でガンジーは逮捕された。権力による武力弾圧によって運動は押さえ込まれた。
1929年、憲法制定の委員会にインド人がいないことに端を発して、各地で激しい抗議運動が再発した。このままでは武力衝突になると危機を感じて、ガンジーは再び運動の先頭に立ち非暴力主義を訴えた。1930年3月、61歳の彼は海にむかって歩き始めた。最初いっしょに歩きはじめたのは非暴力主義の同志78人であった。当時インド人による塩の製造は禁止されており、塩に重い税をかけられていたので、自分たちで生活の基礎の塩を作る権利を取り戻そうという形での民族独立運動であった。
目的地の海岸までは約400キロもあった。独立運動の指導者の一人、ネルー(後の初代首相)は、当初「なぜ、塩などという小さな問題にこだわるのか」と賛成しなかったし、「暴力に訴えてでも闘うべき」というチャンドラ・ボースはガンジーのやり方を生ぬるいと批判した。またイギリスと総督府からも最初は「ガンジーの行進は物笑いの種、ほうっておいてかまわない」と見られていた。
しかし行進しながらガンジーは大恐慌の余波で貧困化がすすんでいる貧しい人々に語りかけていった。「空気や水のように、塩がなければ人は生きていけません。塩は牛もなめます。しかしその塩に法外な税金を払わされているのです。その税金で総督はあなたたちの5000倍もの給料をもらっています。ともに抗議のために歩きましょう。そして海岸で塩を作るのです。」こうした言葉に多くの農民が共感し、徐々に行進に加わる者が増えていった。
また役人や学生の多い都市部では、彼は次のように言った。「役人は自分がイギリス支配の片棒を担いでいることを自覚すべきです。インド人でありながら、同じインド人を支配する仕事は、勇気をもってやめてください。そして行進に誇りをもって参加してください。」この呼びかけに、警察署長や村長を含む多くの人たちが公職を辞めて行進に加わった。イギリス支配に加担して金を稼いでいた役人や商人もこのままでは独立できないと気づかされ、行進に参加していった。
こうして広がっていく、新しい非暴力運動に外国メディアも注目し始めた。ガンジーは植民地支配のひどさ、非暴力の意味を話しつづけ、世界に「塩の行進」が次のように報道されていった。貧しいものも富める者も行進し、3キロメートルの波となり、数千人に膨れ上がっていると。ガンジーはこの行進の一歩、一歩が独立へ至る歩みと説明し、当初この運動スタイルに反対していたチャンドラ・ボースも、ネルーも、通っていく村各で人々が影響され、インド全体に伝わる時間を与えるガンジーの戦略の有効性を認めていった。総督府は早まって逮捕すれば、独立運動の英雄に仕立て上げると、手を出せず、ついに行進は海岸にたどり着いた。
ガンジーは砂浜にあった自然にできた塩をつまんでこう宣言した。「この塩で大英帝国を根底から揺さぶるのです。たとえ手首が切り落とされようとも、つかんだ塩を放してはなりません。インドの誇りはこの塩にあるのです。」民衆は次々と海に入り、不当な法律を堂々と破っていった。塩を作る運動はインド全土に飛び火し、瞬く間に500万人が参加する大運動になった。
ついにイギリス本国のマクドナルド首相は、帝国の威信にかけて、反政府運動を鎮圧せよと指令を発した。そこから暴力的弾圧が始まったが、人々は、非暴力の態度を貫き通した。殴られても殴られても海を目指す民衆に帝国は震え上がったという。運動がはじまって1ヵ月半後、総督府は、軍隊を派遣し、令状なしの大量逮捕に踏み切る。逮捕者は10万人を超え、臨時の収容所を作らねばならなかった。
ガンジーは、製塩工場の所有権を要求するデモを予告する書簡を送り、逮捕された。2500人のひとびとが集まり、工場の明渡し要求デモが行われた。「ガンジーの肉体は刑務所に繋がれていますが、彼の魂は私たちとともにあります。いかなることがあっても暴力に訴えてはなりません。抵抗せず、ただ打たれてください。」とリーダーがいってそれが実行された。デモ隊の前にライフルやこん棒をもった400人の警官が立ちはだかリ、暴力が加えられた。多くの死傷者を出したこのデモは、瞬く間に世界に報じられた。「これほど悲惨な光景を見たことがない。私は顔をそむけざるを得なかった」とアメリカの新聞で一面に報道された。「驚くべきはインド人の規律だった。残虐な暴力に対し、非暴力を完全に貫き通した。」
1931年1月19日、国際世論を受けて、イギリス本国首相は、今後、ガンジーを大英帝国の交渉相手とせよと、総督府に命令を出さざるをえなところまで追い込まれた。ガンジーと総督府の交渉の結果、1931年3月5日、イギリス総督府はついに塩の製造と10万人の政治犯釈放を認めた。非暴力・不服従運動が勝利した瞬間であった。
1934年、ガンジーは政治活動の第一線から退き、宗教的生活共同体「アシュラム」を基盤にしたいくつかのプロジェクト――産児制限、チェルカ運動、アンタッチャブルの解放、異教徒との和解など――に力をさいていった。
この後、独立運動はすすんでいき、戦後の1947年8月のインド独立に至った。しかしヒンズー教とイスラム教の宗教対立で50万人以上が死亡する状況ともなった。ガンジーはそのことを憂いてこういった。「どうして宗教の名において殺しあう必要がありましょうか。」そして死を覚悟して断食に入っていった。日に日にやせ細っていくガンジーにインドの民衆は心を痛め、断食6日目に多くの民衆が武器を捨てた。その後、1948年、宗教融和策に反対する者によってガンジーは暗殺された。
ガンジーの死後、キング牧師をはじめとして非暴力主義は世界各地に受け継がれていった。ガンジーが死ぬ前に残した言葉がる。「誰かが私に銃を向けても、私が微笑みながら銃口に向かうことができたなら、そして銃弾を受けても心に神の名を唱えることができたなら、そのときこそ私は祝福に値するものとなるでしょう。」
引用文での傍点を打ったところに顕著なように、ガンジーの言葉にはスピリチュアルなエネルギーがある。役人に向けて言われた「帝国に加担するな。勇気をもってやめてください」というような言葉は、今まさに、現代に生きる我々が自分に突きつけられた言葉として受け止めるべきものなのではないだろうか。「敵を許すことは敵を罰することより気高い」、「銃弾を受けたとき微笑むことができることが祝福」、「自分を愛する人のみを愛するのであれば、それは非暴力ではない。自分を憎む人を愛するときに初めて非暴力となる」、「種の中に木のもと素があるのと同じように、目的は手段の中に含まれている」「アヒンサー(不殺生、非暴力)の精神があれば、途中にどんな障害があろうともいつか克服できるのだという信仰をもつべき」といった考え方、大きな上からの制度改革でなく身近な具体的なことから庶民が実感できるような形で運動を練り上げていくスタイルなどは、自分の生き方、運動のあり方、人へのむかい方として、味わい深い。
彼は、わずか体重45キロの小柄な人であったが、その精神の想像力において大きなスケールの人であった。マハトマとはヒンズー後で「偉大なる魂」という意味であるという。デモの先頭に立って幾度となく逮捕・投獄され、アンタッチャブル(最下層賎民)の解放を訴えて「アシュラム」で一緒に暮らし、菜食主義をとり、瞑想と断食を繰り返し、週に1度沈黙の時間をもった彼は、特定宗教の枠を超えて、スピリチュアルな生き方をした人であった。加害者にならずに生きること、質素、人類への奉仕、金持ちと貧者がゆるぎない絆で結ばれることを「チャルカ」をまわすことを通じて求め、カディー(手織りの布)を着ることで私たちは多数の貧しく飢えた人々のこと思い、生活を質素にすることになり、そうした忍耐の実践が大事なのだという「カディー精神」を唱える彼は、スピリチュアルな人であった 。
非暴力主義を、今でも、暴力から逃げて、勇気がなく、闘うことを嫌がる、平和・無抵抗といった理想を言うだけの弱々しい考えとみる人は多い。だが、少しでも非暴力主義を学べばわかるように、非暴力主義は、暴力というものと闘う勇気のある考えであり行動である。その闘いにおいて、暴力を用いないという想像力あるスタイルのことをいう。
ガンジーが採用した非暴力の諸手段、すなわち、イギリス商品やサービスのボイコット、公務からの引き上げといった「非協力」、税の支払い拒否、政府の塩専売法など特定法への遵守拒否といった「市民的不服従」、実際の暴力に対する「無抵抗」、運動参加者が逮捕・投獄を覚悟し非暴力の思想を堅持すること、死を覚悟する断食、「非暴力のためには死ぬ術を習得しなければならない」、「非暴力の信徒は土地や財産や生命を失うことを気にかけない」、「抵抗するな、屈服するな」、「脅されても従わない」という考えなどは、素晴らしいものであったが、簡単なことではなかった。恐ろしく勇気のいることであった。
自分たちの中の暴力性を見つめ、敵の敵意自体をなくそうとし、どちらもが負けない妥協を探し 、ユーモアやアイデアのある、誰もが思いつかなかったようなところに至ることで、こちらに害が及ばないようにするような、想像力溢れるスタイルであった。今の日本で、私を含めて一体どれだけの人が、逮捕覚悟の行動、殴られること覚悟の行動をとれるだろうか。ユーモアと驚くような解決策を創造できているだろうか。日本社会に溢れる「暴力」を見出し、それに非暴力主義的に対抗することこそがスピリチュアルの具体的イメージである。
小さな出会いの必然性にしたがう
関田寛雄さん は、朝鮮人の部落の中に、伝道所を立てている人で、自宅で集会や勉強会を開いている。こういうちゃんと行動している人の生き方はいい。そこで出会ったある朝鮮人の人とは、時間を決めて水曜日朝10時から12時に個人史を聞くということをした時期があったという。そういうことを大事にするのは、犯罪者や売春婦と仲間になって暮らすキリストに学んで、個人と会うことは歴史と出会うことだと感じているからだ。
彼は言う。生きた個人、固有名をもった個人と出会わない限り、全体は見えない。確かに知識でも全体は見えるが、それは当然、血肉化していない。出会いがあるとき、相手の痛みも見える。相手を傍観することもできない。痛みを分かち合わないと問題が進まない。朝鮮人問題なんていう客観的傍観者的なものなどない。議論したり勉強したりするテーマとして社会問題を語ってはならない。「テーマは分かった、何からはじめましょうか」ではダメで、現実をどう変えていくか、自分はどう関わるか、試行錯誤の中から学んでいくしかない。その意味で朝鮮人問題は日本人の問題であり、自分の問題。そういう関わりの最初はしんどい。自分は失語症になった。だがそれしかない。その人と会うという小さな必然に身を任すことが大事だ、と。
こういうふうに、身を切る人がいるんだということが希望だ。
朗読劇「この子たちの夏」
朗読劇「この子たちの夏」というのがある。原爆で子どもを失った母、母をなくした子ども等の手記など被爆の記憶を語り継ぐ朗読劇で、1回、6人の女優が肉声で朗読する。1985年から毎年行なわれていて、560回以上全国で上演されている。テレビや芝居などで活躍している12人の女優の人たちの出演料はわずかで、ほとんどボランティアだという。各人が積極的に1週間以上の日を空けて参加しており、このときはマネージャーも付き人もなし。地元の市民の主催で呼ばれるという形が多く、講演の後、地元の人と語り合う場をもつ。女優たち自身も参加することで癒され、生きる勇気をもらっているという。関係者は、子育てと同じで、大人世代が次の世代に繰り返し伝えないと、一度だけ言えばいいもんじゃないと思って、この活動を継続している。
僕は、この活動のことをテレビのドキュメント番組で知り、その朗読劇の内容も、この活動自体にも静かに感動した。家族を失った悲しみというものが沁みる。そして死ぬときに、自分は人生で何をしたかと思いだしえる仕事をするということの大事さも、女優たちの表情をみて思った。「使命」という言葉が当てはまる例だった。
チヒロさん
〈スピ・シン主義〉のイメージが伝わると思うので、友人の一人であるチヒロさんのことを紹介しよう。学生時代から芝居をしてきた人で、1997年ごろから一人芝居「声をなくした女たち」をしている。その芝居に滲み出ているように、繊細に体や心の奥で痛みを抱え、それを言葉や振る舞いに出せる人。感受性あふれた、それでいて、強い光を放つ人。
彼女はお母さんが亡くなったという喪失感を抱えて生きている。彼女の話を聴いていて、彼女のつらさが伝わってくる。心をこめて人を思う。それは素晴らしい能力。でもその分、深く愛する分、喪失感も大きい。大雑把でなくなること、体力が弱くなること、その2つが重なることで、加齢は人を「弱くする」のだと思う。
彼女は、お母さんのことを想いつづけるだろう。何をみても想うだろう。涙が出てくるだろう。それはつらい。でも、そこには、素晴らしい感受性の面がある。心が動いている。 それにつきあっていくしかない。夜空の星を見ていて、「あんなに遠くにあるのだから、どうしようもないな」と彼女は言った。近くばかりみていた気がすると。悲しみを抱えて生きる人はステキだ。後は、仕事や家族・恋人やしたいことなどで充実していればいいのだ。それしかない。それと悲しみは共存するしかない。
「お母さんのこと(病気・死・看護)を口実になにもできひんかったら、それはそれだけのことやからね」みたいなことをお母さんが言ったそうだ。そうだなと思った。僕にも、その言葉は胸にしみた。なんか元気が出た。スピリチュアルな言葉だ。またお母さんは、「神様がれもん檸檬を下さったなら、それをレモネードにしましょう」ともいったそうだ。ステキな言葉。そしてお母さんは病室にもれもん檸檬を吊って眺めて自分を励ましていたという。「チヒロに言ってたんだからね」と。手術のときも檸檬を手にもっていたという。それを聞いて僕は泣きそうになった。僕はちゃんと生きてるだろうかと思った。
チヒロさんは、一期一会のなかにも希望があるということを再確認したくてイギリスに行って街頭芝居をした。街頭劇で、言葉でなくて、通じるものを求めている。お母さんのことを考えるのは好きだけど、今はお母さんのこととか近い人ばかりにエネルギーが向いていて偏ってしまっているし、エネルギーも減っている感じるから、これではいかんと思って、イギリスに行ったという。
僕は彼女をみていて、彼女は何かスピリチュアルな役割をもってこの世に生まれてきたのだろうなと感じる。いや、彼女だけでなく、人は皆そうなのだと。
ハッシュ!
映画『ハッシュ!』(橋口亮輔監督)のなかで、ゲイの友人と子どもをもとうとしている主人公の朝子が、秋野暢子演じる容子に「あなたは母親になれません。子ども産んで育てるのはそんなふざけたことちゃうねんよ」といわれ、朝子が全身で突っかかっていくシーンがある。朝子を演じている片岡礼子さんは、このシーンについて、次のように語っている 。
「当日のリハーサルで秋野さんに実際それを言われて、片岡礼子としてではなく藤倉朝子としてそこに立っているからきつかった。昔の私が朝子を演じてたら立ち直れなかったでしょう。芝居も違ったものになってたと思う。あの台詞は自分がなくなるような言葉ですから。だけど今、私には子どもがいるんです。産むことの大変さも、痛さも知ってます。無痛分娩で痛さを知らなかったら反抗期に困ると思って、水中出産で自然分娩したんです。“腹を痛めて産んだんじゃ”って一言のために。そうやってトライしたことが生かされた瞬間でもありました。“産んだことないから欲しいんじゃないか!”って気持ちのままに、秋野さんに向かっていきました。嫌われるの覚悟で、いま、なしくずしに自分を変えていきつつやってきてるのに、その可能性すら奪われようとしている。だから必死で戦いました。『ハッシュ!』を観るたび、あの秋野さんの台詞のところでいまだに背筋が伸びるんです。あのシーンは子どもがいたから負けなかった。負かるわけにはいかなかった。」
片岡さんのむきだしの〈たましい〉がこもった言葉だ。女優片岡の映画に向かう姿勢がにじみ出ている。そして映画のそのシーンにも〈たましい〉があふれ出ていた。言葉の形で受け止めるのでなく、胸や腹の奥のほうで受け止めざるを得ない何かドシンとしたものを、彼女はちゃんと映像と言葉にしている。
労働裁判闘争から
僕は様々な社会運動に接して学んできた。その一つが労働運動であるので、ここではその一例を2つの裁判から紹介しておこう。
京都に、京ガス男女賃金差別裁判闘争を闘っているやかび屋嘉比ふみ子さんがいる。彼女の裁判は、同一価値労働同一賃金を巡る最先端の裁判で、一審の京都地裁判決では、初めて異なる職務間で、職務価値が同一と認定して賃金問題を考える判決を勝ち取った。これは日本中に拡がる非正規労働者や女性一般職への差別待遇を改善する画期的な視点を内包している意義あるものだ。しかし、賃金差別の請求金額を不当に大幅減額した矛盾した判決であったため、それを不服として控訴し今審議中なのだが、その大阪高裁控訴審での彼女の意見陳述書の一部を紹介しておく。
「・・・私には、仕事を通じて自己実現したいという強い欲求がありました。この欲求は性別を問わず、あらゆる立場のすべての人がもつものです。労働権は憲法で定められた基本的人権であり、労働を通して各人の様々な能力が開発され、人間としてより豊かに成長するはずです。しかしながら、現実の企業社会では、女性たちは自己実現の場すら奪われ、「尊厳ある労働」からは程遠い働き方を強要されてきました。私のように身を削りながら働いても、女性であるというだけで教育訓練差別や不当な賃金差別を受け続けなければなりませんでした。
ほとんどの男性は、企業社会が敷いたレールに乗りさえすれば、さほどの努力を必要とせず順調に昇進昇格し、仕事の価値とは無関係に一定の賃金が保障されます。ましてや被告会社においては、評価制度や賃金制度は言うに及ばず、昇進昇格の基準も存在しないまま、男性のみ「慣行」として自動的に昇格し、恣意的・性差別的な各個別賃金が社長の独断と専権によって決定されてきたのです。
私たち女性は、日本の企業社会という荒地において、数限りない妨害と、日々闘いながら、自分の全精力を費やしてレールを1本1本敷いていかなければなりません。この筆舌に尽くしがたい苦闘は、一体いつまで続ければよいのでしょうか。20年は長すぎます。輝かしい人生の大半を費やしました。
でも私は希望を捨てません。世界中の人権獲得闘争の遺産や、全国の女性たちの均等待遇を求める運動が、未来への展望を指し示してくれるからです。・・」
彼女は、生きている間に、この腐った日本でわずかでも性差別が解消される過程と実態を見たいと思って頑張っている。日本では不可能といわれようと、他の国で可能なことがどうして日本では「無理難題」といえるだろうかと。
また、女性を一般職として男性と区分された「職種」に配置することで事実上の性差別を行っていることを、日本はいまだ「差別ではない」と放置し裁判所も追認しているが、その点について争っている住友関連の男女賃金差別裁判を戦っている、住友電工原告、西村 かつみさんの、高裁での陳述書(2001年3月15日)はいう。
「94年3月、住友グループの女性達と、当時の労働省大阪婦人少年室に、均等法に基づく調停申請をしました。例え調停申請とはいえ、働きながらその企業を相手に公に訴えるのはとても勇気のいることでした。しかしながら「比較対象とする男性とは採用区分が異なる」として、婦人少年室長の判断で不開始決定が下されたのです。やっとの思いで申請したのに納得できない理由で調停制度を利用することさえ認められないのかと、本当に口惜しい思いをしました。」
僕は、こうした労働運動での一人一人の悔しさをバネに社会的なことに挑みつづける気概・気持ちが、〈たましい〉と思う。そして、自分の仕事に、人を助け、社会を変える力があるのに、保身にまわって、心をこめない、前例主義の官僚・役人・裁判官・会社人間が、いかに、スピリチュアル度が低いかと思う。
西村さんの陳述書続き(他の方の意見を紹介しながらの部分)。
「 『私は一生懸命働こうと思っているのに』とつぶやきながら面接に行くのを側で見ているのはつらいものです。娘の姿は多くの女子学生の姿とだぶります。このように、今も女性差別が続いており、女性や若者が希望を持てない日本社会の将来はどうなるのか、本当に憂慮されます。 女性は「非効率、非能率」だとする私達に対する判決は、まさにこのような日本の企業社会の象徴であり、時代錯誤のものです。
・・・
私は、同じ女性として誇らしく、また背筋の伸びる思いがしました。その女性達の真摯な思いを踏みにじる執拗な退職勧奨で心身ともに傷つき、退職せざるを得なかったその口惜しさと無念な思いに同感し涙しました。ある中学校の教師をしておられた方は、陳述書の最後を次のような言葉で締めくくられています。
「どんなにか多くの女性達が、自分の生きる道をみつけようとしていたことでしょう。心身ともに自立しようともがいていたことでしょう。「人としての真実を生きよう、男女の差なく人として扱われたい」と思う女性がその当時、数は少なくてもあったということは、その事実を尊厳をもって守らなければならない事だと考えます。星降る夜、独り夜道を涙を拭うことも忘れて「女って、こんなに損な人生なのか?」と歩いた日の事、言われなき噂を流されて人の嘲笑の標的になったり。そんな女性達の歩んだ足音が聞こえますか。」
裁判所におかれましては、こういう女性達の声を聞き届けて頂きまして、女性や若者が希望を持てるようなご判断をして頂きますよう、心よりお願い申上げます。」
この、背筋の伸びる思い、涙が、スピリチュアルな感覚である。これが伝わらない人には、なにをいっても伝わらない。僕は、こうした人々に触れて、人生の優先度を間違えずにこられたのだと思う 。
国労の闘い
1978年4月、国鉄は分割・民営化された。その目的は、総評労働運動の中核を担っていた国労(国鉄労働組合)をつぶすことであった。「民営化に反対する国労に残ったら新会社にいけないぞ」と脅しがかけられ、職員をいったん全員解雇し、JRへ再採用する手続きの中で国労組合員を狙い撃ちして採用差別・選別採用が行われ、多くの国労組合員が不採用になった。そうした雰囲気の中、国労を辞めるものも出たが、自分の誇りと仲間を大事にする気持ちで、差別される国労に残りつづけた組合員も多くいた。
不採用になった者は3年の期限付きで清算事業団に収容され、再就職援助も仕事もなく、辞めていくよう仕向けられた。1990年4月、清算事業団からも解雇された1047名中966人の国労組合員は闘争団を結成し、「解雇撤回、JR復帰」を求めて長期の戦いをはじめた。家族も含めてアルバイトをしたり独自事業を起こして何とか月15万円程度の収入で戦いつづけた。JRに採用になっても国労であるがゆえに様々ないやがらせを受けつづけた。20万人いた組合員はこの過程で4万人になり、その後さらに減少していく。
地労委・中労委は「JRの採用差別は不当労働行為、JRへ採用せよ」との救済命令を出したが、1998年、東京地裁はそれを覆し、JRには使用者責任がなくしたがって採用もしなくてよいとの不当判決を出した。そうした中、国労の内部にも闘争方針を巡って分裂が拡大していき、国労本部は99年の臨時大会で、国鉄改革法を承認し、分割・民営化を認め、2000年5月には自民・公明・保守・社民の4党による和解案をうけて、政治解決のために「JRに法的責任がない」と認める方向を選んだ。
それは、全面屈服で今までの戦いの否定になると考える闘争団員の強い反対があったため2000年の3回の大会では決定できなかったが、2001年に機動隊も入れて強引に4党合意受諾を成立させた。その後、国労が裁判を取り下げることまで進めているが、4党合意を採択したものの、政治交渉は進まず、解決に至らなかった。これに対し、あくまでも闘いつづけるという26闘争団は、「闘う闘争団」を2001年2月に約500名で結成し、映画『人らしく生きよう』による宣伝なども含めて闘争を継続している。2002年12月、「4党合意」は与党の離脱で破綻し、2003年12月、最高裁で国労側の敗訴が確定――採用手続きの実態に目をつぶり、形式論だけでJRと国鉄を切断するというひどい判決。なお、5人の裁判官のうち、2人は判決に反対意見表明――した。
僕は分割・民営化に反対する国労組合員へのいじめ・差別・解雇をビデオやニュースでみてきた。それが人間としてどうしても譲れない最後の誇りに関わる部分への攻撃であるがゆえに、不利でも国労に残り続けるひとたちの姿に、〈たましい〉を感じた。生活が苦しくても、理不尽に絶え続け、闘う彼ら彼女らの心の奥に、何が流れているかは感じられた。「私達の気持ちはあの解雇されたときにとまっている。そこを(国労幹部に)わかってほしい」と訴え、解雇され差別されつづけてきた者たちの悔しい気持ちをずっと大事にしようとする、闘う人たちの〈たましい〉のこもった言葉に胸を打たれた。そしてその逆に、JRの立場にたって、上の言いなりになり、点呼でハイといわないと処分する、質問をすると業務妨害だといって処分するなどといったあさましいいじめをする人たちの愚かさに、人間の弱さを見た。「国鉄方式は首切り・リストラのモデル」といわれているが、ドキュメント映画『人らしく生きよう――国労冬物語』 に闘争団の〈たましい〉の声が出ているように、この闘いはリストラ時代にいかに生きるかという希望を与えてくれるものでもある。
あなたはもっと優しくて あなたはもっと強い
上記映画『人らしく生きよう』の中で『人らしく』という歌を歌っているのが、田中哲朗さんである。彼は、自分が解雇された沖電気八王子工場の門前で毎朝、自作の歌を歌い、たった一人で抗議し続けている。その歌には、強いものに従うだけでいいのかと訴える、人としての誇りに呼びかける〈たましい〉がこもったものが多い。
彼の経験には、今日の日本のすさんだ状況が凝縮されている。一部労働者が解雇されたとき、御用組合はそれを受け入れ、解雇撤回闘争が起こると会社はその運動に協力的な姿勢を示す者をビデオで監視し、その中で多くの労働者は口をつぐみ会社の側に立ち、ビラも受け取らず、田中さんの歌も無視しつづけるように変質した。会社側に立って闘争する人をいじめ、組合の選挙の立会演説会でも田中さん等反主流派が話そうとすると聴衆がいっせいに全員会場を出て行った。田中さんもその中で遠隔地異動のいじめにあい、拒否すると就業規則違反を理由に解雇された。田中さんは、そうした辞めさせたい人をいじめ、それをおかしいといわず黙り、協力し無関心になる社員・組織のあり方を疑問に思い、解雇された翌日から歌い始めた。
人をだませば悪いというなら、会社の中で差別するのは悪くないのか、流されることは悪くないのか、と彼は問う。転勤命令に従うあなたに徴兵令状を拒否できるのかと問う。職場の差別に声を出せないあなたが、本当に戦争のとき反対が叫べるかと問う。正しいことを言い続ける人が変わり者と呼ばれていていいのかと問う。もちろん彼は人の弱さも優しく見つめ、本当は会社の言うとおりになっている自分を恥じている人の気持ちにも寄り添う。そして100年後の社会がよくなるように、子どもたちに誇り高く生きることを語ろうと呼びかける。ふるさとを発つとき世のために生きると誓ったあの海を忘れてはいないか、職場の闘いに孤立し疲れても、人々の心を信じつつ耐えぬく仲間がいることを忘れてはいないかと、自分たちを鼓舞する 。ぜひCDを聴いてほしい。
『人らしく』
きれいごとでは生きてはゆけないと/いじめる側にまわったあなた/会社の中にあなたのこころの友はいますか/俺には関わりのないことだと/みてみぬふりをしているあなた/会社の中のあなたを/子どもに見せることができますか/人らしく生きよう/人らしく生きよう/あなたはもっと優しくて/あなたはもっと強い/長いものにはまかれるしかないのだと/人生を決めつけているあなた/闘う人ほど人らしく生きれることを知っていますか/人らしく生きよう/人らしく生きよう/あなたはもっと優しくて/あなたはもっと強い
(続く)
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大阪経大論集55巻1号 04年5月発行
スピリチュアルに生きる人々(3)
前号に引き続き、私の提唱する〈スピリチュアル・シングル主義〉的な生き方や思想や行動に近いと思えるイメージと具体例を紹介していく。
目次
アンジェリーナ・ジョリー、夜回りの水谷(水谷修)、斎藤武(チャプレン)、貧乏人大反乱集団(松本哉)、ラコタ族からの学び、トルストイ、ヘンリー・D・ソロー、シュタイナー
アンジェリーナ・ジョリー
『トゥームレイダー』で有名な女優アンジェリーナ・ジョリーさん は、『トゥームレイダー』の撮影で2000年にカンボジアに滞在したとき難民や貧困に喘ぐ人々をみたことや、イギリス生活で、アメリカではあまり目にしなかったヨーロッパやアフリカに関するニュースに日々接して社会問題を考え出した。『すべては愛のために』の脚本を読んで、心を揺さぶられ、もっと深く理解したいと思ったことの影響も大きかった。
それで、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) 、ユニセフ、世界食料計画(WFP)など国連の活動に関する書物を何冊も読み、衝撃を受けた彼女は、国連・UNHCRに連絡をとり、人道活動に(無償、費用自己負担で)協力すること、難民キャンプなどで実態を学ぶ希望を申し出た。売名行為ととられないよう、彼女はどこにも公表せず、2001年2月から8月の6ヶ月間、難民キャンプを訪問する旅に出て、シェラレオネなどの難民キャンプでUNHCRの現場職員とともに厳しい経験をした。それを通じて彼女は人生観を変え(覚醒したと彼女は言う)、人道活動をライフワークにすることを決めた。
2001年8月彼女はUNHCRの親善大使に任命され、その直後に起きたNY9・11テロ事件に対しても、彼女のスタンスは、米国の立場から対テロ戦争支援をいうのではなく、アフガニスタンとその周辺諸国で大量発生するとみられた難民の救済活動支援として100万ドルの寄付を行うというものだった。映画『すべては愛のために』の撮影途中の2001年11月には、彼女はカンボジアの孤児院を訪れて、0歳児の男の子マドックスを養子に迎え、今彼女の最も大切な人となっている。カンボジアには内戦の後遺症で今でも数多くの地雷があることを知った彼女は、その後、地雷除去を訴える活動も始めている。
その他、映画『すべては愛のために』を通じてUNHCRの活動を宣伝したり、カンボジア北西部のポルポト派に破壊された広大な森林を修復し、自然保護区を設立するため、および地雷被害者の義足生産支援のために、今後15年間に渡り500万ドルを寄付しつづけることを表明するなど、多彩な活動を続けている。03年10月には国連からも表彰された。
彼女は言う。「焦点ははっきりみえている。かってはエネルギーをどこへ向けるのが良いのかわからなかった。自分がどこへ向かっているのか、何を求めているのか、自分の人生、そして周りの人から何を得ようとしているのか、見当もつかなかった。・・・(難民キャンプに行くなどの活動をした後)・・私の人生においてきわめて重要な出来事のひとつが、そこで、すべての手足を吹き飛ばされ失った4歳の小さな女の子に出会ったことだったの。そのような子どもを目の前にすると、それ以外のものはかすんで見える。・・・今の私にとって、人生はより重要な意味をもつの。」
「日本の10代の女の子がひとりでもいいからこの映画をみて“私も、何かしなくては”と思ってくれたなら、素敵なことだと思うの。小さな力でも、やりつづければいつか世界が変わることを信じて欲しいわ。」
「夜回りの水谷」
定時制高校の教員、水谷修さん は、12年前に全日制進学校から夜間高校に転勤して、簡単に教育活動できない困難な状況実態に直面し、まず生徒と人間関係を作ることが必要と思って、横浜の夜の繁華街に出て、子どもたちに声を掛ける活動を始めた。最初は自分の学校の生徒だけに声を掛けていたが、制服を着ている生徒はいっぱいいると気づき、片っ端から声を掛け、自宅の電話番号(045―822―2879)を記した名詞を配るようになった。
そうすると「警察に捕まりそうだ。何とかしてくれ」といった電話がかかってくる。それに対し、「うん、捕まろう。捕まって罪を償った上でなら何とかしてやろう」といって、自首させる。暴力団から抜け出そうとする子に関わって危ない目にもあった。また薬物問題にぶち当たり、それを学び、今では薬物相談もあって、電話は夜中でも鳴りっぱなしという。今、関わっている薬物依存者は何百人もいる。
彼は、夜の町にたむろする子どもたちや薬物依存になる子どもたちは、つらい事情を抱え、学校や昼の町から追い払われている(それに対し、夜の町はいい獲物だから優しくしてくれる)と捉え、話を聞き、低い自己肯定感自体や大人の側を変えなくてはと考える。それで、授業のない午前中と休日に年間200回の講演も行い、教員に訴え続ける。「いつでも側についている。一緒に薬をやめよう」と約束したからと、いくら忙しくても頑張りつづけている。常に自宅には、両親が刑務所にいる子どもや薬物中毒から立ち直ろうとする子など、預かっている子どもが数人いるという。
その精力的な活動の背景には、ひとつのつらい経験があった。12年前に、シンナー漬けの教え子(当時16歳)が、「先生と暮らせばシンナーをやめられる」というので、一緒に暮らしたりして関わっていた。しかし当時、水谷さんは薬物の知識がなく、その子どもが薬物乱用治療専門の病院につれていってくれといったとき、自分の子どもと同じように愛情をもって接しているのに、自分ではダメといわれたように感じて、少しむっとした。それで今晩、先生の家へ行ってもいいかと聞かれたときも、その日は彼の実家の方へ追い返した。その4時間後に彼は自宅近くでダンプに飛び込んで死んでしまった。おそらく薬物幻覚によって何かきれいなものと思ってしまったのだろうという。
もう教員を続ける資格はないと思ったが、死んだ彼が行こうとおもっていた薬物治療専門病院で「薬物をやめられないのは依存症という病気だ。病気は愛の力や罰則では治らない。医療でしか治らない。あんたは学校を辞めようと思っているが、今、青少年に薬物依存が広がっているときに、教師でこれに取り組んでいる人がいないのだから、それをやるべきだ。いっしょにやろう」と医者にいわれた。それでそれ以降、薬物について学び、病院や警察、リハビリ施設にも人脈を広げ、薬物依存症対策専門家になっていった。行動する人、しんどい人の側に寄り添う人は、ほんものにまともだ。
斎藤武さん(チャプレン)の話を聞いて
斎藤武さんのお話を日本ホスピス在宅ケア研究会のスピリチュアルケア部会で聞くことができた。その話を私なりの言葉もいれて、まとめてみると次のようになる。
人はそれぞれに、自分の道理(自分の一番心の奥底あるいは中心にある、生きる理由――これは伊田の言葉では〈たましい〉に近いと思うので、以下はそれを用いる)を持っています。ここでいう〈たましい〉は、その人が生きている根本的な道理のことであり、「本当に大切にしているもの」ともいえます。それは「宗教」ではなく、「その人が一番信じている大切なもの」、「信念」です(斉藤さんはこの信念のことを「信仰」といっていた)。
しかしその深さ(それに気づき、それを目指している程度=スピリチュアル度)は人それぞれです。死や人生の危機に臨んで、自分の道理(〈たましい〉)に触れ、それに向き合い、それが深く求めているところに向かうことで人は成長していきます。スピリチュアル度を上げていくことが成長です。
自分の〈たましい〉が見えない(生きているスピリチュアルな理由がいえない)と本当には生きていくのが苦しくなります。「ごまかし」は実はつらいものです。浅い人生は深い満足を与えてくれません。
そのことに向き合い、自分で自分の人生の〈たましい〉をみつけていき、自分の生き方を修正したりランクアップしたりして、本当の自分の人生にしていくのが、成長です。
各人が、自分の生き方に〈たましい〉レベルで責任を持って生きていくという深いところでの「成長」に、寄り添い、援助するのがスピリチュアルケアする者の役割です。それは、上から答えを与えたり導いたりするものではなく、一緒に探していく、一緒に現場で転げまわっていくということです。それは関わる人自身の成長になります。寄り添うために、そして相手を理解するために、聴く(傾聴する)必要がありますが、そのとき聴くのは、相手の〈たましい〉であると同時に、実は、自分自身の中心の声、〈たましい〉なのです。
もう少し具体的には、相手の深い部分に関わったり聞いたりするためには、まず、自分が正直に〈たましい〉を剥き出しにする必要があります。
それは、常に自分がなぜそうなのか、自分の反応の深い部分、その感情の出所(でどころ)はどこかを正直に見つめることです。そういう自分の〈たましい〉を探っていく。何を信じているから、どのような信念があるから、そういう行動をとっているのか。どういう基準で、何が基礎になって、それを言ったり行ったりしているのか。
それを“正直”に行うためには、自分の危機に直面し、自分の無力さや駄目さや〈弱さ〉を知り、ゼロになっていくことです。「偉そうな自分、自信のある、成功している自分」が行き詰まる経験こそスピリチュアルな契機です。キレイゴトや競争、能力主義の世界から離れ、自分の一番中心の生きる理由に向かうことです。頭で理解するのでなく、口先で説明するのでなく、「背中で愛を伝える」ような力が必要です。
それができてこそ、相手の、一番中心の生きる道理にも触れられます。そこに近づくような「問い」を出し、相手の自己洞察を援助することができます。問いも「どんな気持ち?」「なんでそうなの?」などと一般的に聞くのでなく、相手が答えられるように聞くスキルを鍛えることが必要です。
この観点からいうと、ホスピスで一番大切なのは、施設ではなくハート、〈たましい〉です。特殊病院になっては駄目です。狭義の医療として病気を治すという「技術」、量的数字ではかれるようなものとみるアプローチでは駄目です。在宅が基本で、施設などは拠点となるべきなのです。
「貧乏人大反乱集団」
法政大学で「全貧連(全日本貧乏学生総連合会)」初代会長として暴れまわった松本哉さん(27歳)が中心になって、街頭に進出して、新宿アルタ前や大久保などの「駅前で鍋をやる」という形で、街中に解放区を作ってしまおうという「運動」をしているのが「貧乏人大反乱集団」である 。今の日本社会が競争管理社会で金持ちばかりがのさばっており、地位も名誉もないノンエリートの貧乏人間にはとても生きにくい状況であることに異議を申し立てるのだが、そのやり方がユニークで、「貧乏人が世の中をひっくり返そう」「株価大暴落金持ちざまーみろ」という挑発的なスローガンを掲げ、「まっとうな人生」など蹴散らかし、開き直って、貧乏人の自分たちが世の中にはびこりまくるようにしようという。
そのために街頭で鍋をするという一見馬鹿馬鹿しい行動をとるのだが、それはそこに既成社会に対する異物を存在させ、そこでの異端者たちの相互交流を生み出し、アナーキーなエネルギーの中から何か新しいものを生み出す真に社会変革的で文化的な行動であると考えるのだ。そしてその意味でこれはとても新しい政治的な運動だと。
一般論を言ったり、むつかしい理屈をつけたり、大きなシステム改革を目指して運動するという既成の活動のやり方を批判して、松本さんは、今生きてる場・街を楽しくのびのびとしたものにしたいと考え、普通の人間がちょく直の人間関係を作って、直接行動に出ていくのがおもしろい、だから鍋は重大な政治的最終目標だという。ビラをいっぱい撒いて、新宿でも70人くらい集まったらしい。
おもしろい。実践しているということ、価値観をひっくり返すものであること、運動スタイルが新しいこと、禁欲的でなく楽しく、善悪・聖俗を超えてラジカルな点で、これは〈スピ・シン主義〉的とおもう。
ラコタ族からの学び
ネイティブ・アメリカンやアイヌの人々から学ぶものが多くあることは、私には「出発点」とでも形容すべき「明白な現実」である 。私が触れたものはほとんどそうだが、例えば阿部珠理氏の『アメリカ先住民の精神世界』(阿部[1994])も、アメリカ先住民ラコタ族が伝える積極的な精神世界を提示してくれる。それは〈スピ・シン主義〉の香りを提供してくれる。
ラコタ族は、自然に宿るスピリット(霊;宇宙を作った神)をワカンタンカといって尊重するが、そこには私たちが学ぶべき視点が数多く含まれている。
まずラコタ族では、癒す力をもったメディスンマンは、その力が与えられた物であるので、その力を自分のためだけに使ってはならず、また癒しに報酬を求めない(儲けない)。これは商業主義に走る日本の大方の宗教/新霊性運動の状況と大きく異なる点である。また、ラコタでは、上記の自然観をベースに、寛大(自分に大切なものを気前よく与える)、勇気(他人の困難を救うために発揮するもの。行為は心の実践である)、敬意(動物植物、山川自然すべてに敬意を払い尊重する)、智恵(心の目でものを見れば、行動は自ずと自然に調和する)の4つが美徳とされる。
こうした「利他の精神」の背景には、人は自分だけで生きているのではない、人の命はみなつながっているという「輪」の思想がある。だから日本と違って所有の多寡や、知識の優劣,社会的地位・肩書きで人を判断することはない。人が人にへつらわないし、偉そうにしない。大事なことはスピリットのある知恵ある生き方を学び、実践することである。相手から学ぶには、知識を収奪するのでなく、相手の歩調で歩くこと、相手の存在に尊敬を示すことが重要であると考える。その人の智恵や経験、寛大さ、思いやりなどの内面性が評価される。日ごろの行いが悪ければ、口で立派なことを言っても人を説得できない社会である。
以上と関係するが、ラコタでは「ミタクエオヤシン」(私に繋がるすべてのものという意味)という考え方で人との関係を捉える。つまり、「人間(自分)は一人では生きていない。すべてのものが繋がる生命連鎖・社会連鎖の輪の中の、一つの存在でしかない。すべてのものとは人間ばかりではない。人間は中心でもない。すべてのもののおかげで、自分が生かされ、また自分はそれらのもののためにいきる」と考え、他者や自然を大事にするのである。こうしたラコタ族の人々の考え方と生き方は、私たちが心に留め、自分を省みる基準とするに値するのではないだろうか。
真剣に自分の生き方をみつめる先人たち
〈スピ・シン主義〉は、真剣に自分の生き方をみつめた先人たちの生きざまから、自分の人生に向かう姿勢を学んだ結果の思想である。多くの偉大な人たちが、単に自分のためだけに生きる人生を反省している。その理由には必ずしも完全に同意することはできないが(宗教的・時代的制限がある)、各人がみな真剣に自分の人生に向き合ったことは疑いえない。そこから学ばずにはいられない。以下、その中の数人を挙げてみたい。
トルストイ
文学史上の巨匠、レフ・トルストイは、前半生の作品(『戦争と平和』『幼年時代』等)によって作家として大成功をおさめ、また裕福な地主貴族として申し分ない生活を送っていたが、40代に『アンナ・カレーニナ』の執筆終盤にさしかかる頃、人生の意義と目的をめぐって大きな精神的危機を迎えた。人生をどうすればいいか、今の社会のおかしさにどう向かうかについて極限まで悩み、それを作品(『アンナ・カレーニナ』『ざんげ』)に投影したり、社会事業(農民の生活向上、教育)に携わったりしたが、その後、トルストイズムといわれる、彼独自の宗教的見解に行き着いた。それまでの生活も作品も悲しむべき迷いであり誤りであったとし、幼年時代のキリスト教的信仰を基礎に、そこから神秘主義の側面を除いた合理的な宗教――内面的には自己完成、外面的には悪に対する無抵抗主義――を提唱した(トルストイの転向)。社会問題においては、政権や軍隊、私有権や裁判など当時の社会組織が、人間の自由を束縛する暴力となっていると批判し、宗教的無政府主義を唱えた。そして、「神聖なる土」という理念の下、神への信仰に支えられながら額に汗して働く、質素な農耕生活を理想に掲げ、みずからも一部、実践した。農民的な服を着て、酒タバコ、肉食を絶ち、野菜と黒パンを食べ、畑を耕し、水を運ぶ生活を送り、それと並行して活発な啓蒙活動を行い(宗教論、芸術論、民話形式の啓蒙等)、正教会から破門され、政府からは弾圧を受けながらも、精神的な指導者として晩年を過ごした。自己の信念にしたがって、土地や財産を貧しい人々に分け与えようとまでしたが、家族の反対を受け、言行不一致、家族内不和で悩んだ。
宗教的転向後、彼は芸術への態度も変更し、読者(大衆)の感情を通じて真理を伝える芸術、大衆にわかりやすい芸術、読者の人生に役立つ芸術であらねばならぬと考え、キリスト教の愛の教えを農民や労働者にたやすく理解してもらえる形として、民話の形で作品をいくつも作った(『人は何で生きるか』他、トルストイ[68])。民話はみな、エゴを捨てて他人を愛し、貧しいものを助け、神に感謝する生活を送れば、ゆるぎない幸福を得られることを素朴ながら説得的に説いている。こうしたトルストイ主義は、その宣伝のために刊行された廉価版叢書『仲介者』シリーズによって広がった 。
「私はこういうことを悟った。すべての人は、自分のことを思う心でなく、愛によって生きているのだ」、「私が人間になってから、無事に生き残ったのは、自分で自分のことをいろいろ心配したからではなく、通りかかった人間とその妻に愛があって、私をかわいそうに思い、私を愛してくれたからだ。…すべての人間が生きているのも、みんなが自分のことを心配しているからではなく、彼らの中に愛があるからだ」、「今こそ私は悟った。人は自分で自分のことを心配しているから、それでみんな生きていけるのだと思っているのは、ただ人間にそう思われるだけで、ほんとうは愛によって生きていけるのだ。愛のなかに住むものは神のなかに住んでいるのだ。」
「お前は憎しみのために目がくらんでおるのだぞ。他人の悪いことは目の前に見えても、自分の悪いことは背中の方に隠れているものだ」、「むこうがびんたを張ったら、こっちはくるりと向き直って、もう一方のびんたを出してな、もしそうされるだけのことがあるのなら、こっち頬もぶってくれというのだ。するとむこうも良心というものがあるから、気が折れて、こっちの言うことを聞いてくれる」
「人が自分の働きで暮らすのをやめて、他人のものをうらやましがるようになったからでございます。昔はそんな暮らし方などしませんでしたよ。昔は神様の掟どおりに暮らして、自分のものを持つだけで、他人のものに欲の皮を張りませんでしたからね」
ヘンリー・D・ソロー
自然の中に生きた記録であり、哲学の書である『森の生活』(1854年刊)を記したヘンリー・D・ソロー(1817−1862)もまた、真摯に自分の人生に向き合った人である。
湖、森、河川、丘など自然豊かなコンコード(米国、ボストン近郊)で育ったソローは、大学卒業後、小学校の教師になったが、体罰を与えることを拒否して3週間で学校を辞めた。自分で私塾をひらき、つとめて戸外での授業や観察をおこない、知識を実生活に結び付けることに重点をおいた教育を行った。そんな中で、彼はエマソンに出会い影響を受ける。超越主義(transcendentalism)を唱えたラルフ・エマソン(ソローより14歳年長)は、1836年に超越主義の綱領ともいうべき『自然』を出版して、「超越クラブ」を発足させた人物である。その主張は、自然を人間の進歩の原動力とみて、自然の偉大さと神秘性を詩的な文体で語るものであり、実在を認識するに当たって客観的経験より詩的直感的洞察力を重視する態度であった。
ソローはこの超越主義者グループの機関紙に投稿したり、その編集に関わるようになっていき、エマソンがウォールデン湖周辺の森を守るために土地を購入したことを契機に、ソローはエマソンの同意を得て、湖のほとりに小屋を建てそこで2年2ヶ月の自給自足・独居生活をはじめた。その記録とそこでの思索が『森の生活』である。この湖畔生活中、奴隷制を支持しメキシコ戦争をすすめるアメリカ政府に反対して納税を拒否したため、一時逮捕された。これに対し、「市民の反抗」を執筆し、個人の自由・良心を国家が左右してはならないとし、問題があるときには税による抵抗をしてよいと主張した。「森の生活」後も、超越主義的視点から著作活動を続けたり、博物学を深めたり、奴隷制反対運動を行ったりした。
ソロ−は当初評価されず、自然描写しているだけの地方的な、変わり者とされ、生前は2冊の著作しか発表できなかったが、死後、評価が飛躍的に高まった。今や生態学や自然保護運動の先駆者としても評価されている。寄稿していたエッセー、紀行文や未発表論文、日記などをまとめたものは死後の出版である。
『森の生活』は、手を使った労働だけで外部や貨幣経済にほとんど依存せずに無駄なもののない慎ましやかな生計を営み、多大の自由時間の中で読書と研究をしながら、自然を観察(四季の移り変わり、湖や動植物の生態)し、人生や文明や現代生活について思索を重ねた彼の集大成の作品である。「人間の第一目的は何か。人生をどう生きるか」ということを考える若い読者(貧しい学究)へ向けて書かれた。そこでは、忙しさや金に追われる人間の愚かさ、一方での一部の人間精神の崇高性、動植物たちの清らかさ、地球・大地・川や湖など自然の生命力や美への驚愕、そして、特に春の生命再生の喜びが語られた。彼は、「実在が架空のものとされる一方で、虚偽と妄想が確固たる真理としてもてはやされている」といい、衣食住も、労働、学問、宗教、芸術、慈善行為さえもが、実質より、虚栄、虚飾、無意味へと堕落していると批判した。科学技術や情報や富は便利さという幻想をふりまいているにすぎず、われわれが求めるべきものは、幻想(fancy)ではなく、実在(reality)であるといった。その実在とは、抽象的思考の内部や、虚空でなく、額に汗して働くこと、五感を大事にすること、外部にではなく労働や暮らしそのものを楽しむこと、貧しく簡素な自主独立の生活、本物の読書、生活の中の余白(時間に追われない暮らし)、生き生きとした自然との接触によって到達できるものであるとした。消費するニュースでなく、決して古臭くはならなかったもの(古典)を知ることのほうがよほど重要だと考えた。宗教に対しても、既存宗教の従属性や博愛主義を批判し、自分の体験をもとに、肯定的な生ある真実を獲得しようとしたし、「霊性」はそうした文脈で肯定されるものであった。彼は、労働によって生計をたてながら労働の奴隷とはならずに、思想を打ち立て、「より高い法則」のために奉仕すること、自然と共に生きながら、自然の摂理と自分の思想にしたがって自由に生きることが、人生の道(答え)であると理解するに至り、実践したのである 。
「世間の人々は、一般に必然と呼ばれている見せかけの運命を信じて、昔の本にもあるとおり、虫とさびにやられるか、盗人が押し入ってさらっていく財宝を積み上げることに汲々としているのである。これは愚か者の一生である」
「たいていの人は、…しなくてもいい心配や余計な重労働に煩わされて、人生の素晴らしい果実を摘み取ることができないでいる。…働き詰めの人間は、毎日を心から誠実に生きる暇などもたない。…自分の知識をいつも振り回していなくてはならない者が、人間の成長に必要な、あの無知の自覚を、どうして持ちつづけることができようか?」
「みんなが褒めたりもてはやしたりする人生は、数ある人生のひとつにすぎない。なぜ他の生き方を犠牲にして、ひとつの生き方だけを過大視しなくてはならないのだろうか」 「我々は、家を建てる楽しみを、いつまでも大工にゆずり渡したままでよいものだろうか? …この分業というやつは、一体どこまで行けば終わるのだろうか? それは結局、なんの役にたつことになるのか? もちろん、ほかのひとも私の代わりにものを考えてくれるかもしれないが、だからといって、私が自分でものを考えるのをやめたほうがいいということにはならないだろう」
「意識的な努力によって自分の生活を高める能力が、間違いなく人間には備わっているという事実ほど、我々を奮起させてくれるものはあるまい」
「その力は、見つめても見えず、耳を澄ましても聞こえない。事物の本質と一体になっているので、そこから切り離すことができないのだ。……天地の霊力は、われわれの上にも左右にも、あろゆるところに遍在し、われわれをすっかり取り囲んでいる」
「晴れやかな心が見えないようでは盲人と異なるところはあるまい!」
「人間自身の限界が乗り越えられるさまや、われわれが決して足を踏み入れないところで思いのままに草を食んでいる生き物などを目撃する必要がある。ハゲタカが、我々には嫌悪と意気阻喪しかもよおさせない腐肉をついばんで、この食事から健康と力を得ているのをみると、力が湧いてくる。…“自然”がこれほど生命に満ち溢れているために、無数の生命が犠牲になったり、互いに貪りあったりしても、なおそれが余裕綽々としているさまを見るとうれしくなる。…事故というものは起こりやすいのだから、それを軽くあしらえるようにつとめるべきなのだ。賢い人間は、宇宙に邪心がないことを知っている。毒は結局、毒ではなく、いかなる傷も致命傷ではない。同情といったものを擁護すべき論拠は、まずないのである。同情するならてきぱきと事を運ばなくてはならない」
「我々は内なるすべての新大陸や新世界を発見するコロンブスとなり、商売でなく、思想の新しい水路を切り拓こうではないか。人は皆ひとつの領土の主であって、それに比べれば、ロシアの皇帝の地上の帝国も、氷がとり残した丘陵程度のちっぽけな国家にすぎない。ところが、自己を尊敬することを知らず、卑小なもののために偉大なものを犠牲にするような人間でも、愛国者にはなれるのだ」
「たいていの人間は、町の生活扶助をうけるなんて沽券に関わることだとおもっている。ところが、不正な手段で暮らすことは別に沽券に関わることではないというわけだ。そのほうがよほど不名誉なはずなのに。賢人になら倣って、貧しさを庭園のハーブのように栽培しようではないか。…どこよりも味がいいのは、骨に近い生活である。貧しい分だけ諸君は軽薄な人間にならなくてすむわけだ。物質的に低い暮らしをする人も精神的に高い暮らしをすることによって失うものはなにもない。余分な富を持てば、余分なものが手に入るだけである。魂の必需品をあがなうのに金はいらない」
「私は、みずから評価し、決断し、自分をもっとも正しくひきつけるものの方に向かって行きたい。…私がたどることのできるたった一本の、どんな権力も阻むことのできない道をたどっていきたい」
シュタイナー
有名なシュタイナー系の主張も〈スピ・シン主義〉の具体像を伝える例としてあげられるだろう。シュタイナーは、人智学(アントロポゾフィー)創設者で、私より約100年前の人だ。彼の考えの基本は、人間の進化のプロセスと霊的な宇宙神学を結びつける霊学というところにあり、部分だけを取り上げると神秘主義や無根拠なものがあるが、後世への影響、実践を考えると 、その主張の全体は、決して単なる非合理的神秘主義ではなく、現実世界をよくする力をもったものである。
経済・法に加え、精神生活も重視する彼は、芸術的な洞察に優れていた。霊的な力が自然をとおして人間に働きかけ、現実表現となって開花するという論理で、色彩論やフォルメン線描といった美術の具他的技法を交えて展開し、芸術教育に問題を投げかけた。現代文学は治癒能力に欠けているがそれは間違いだとし、身体と芸術の関わりを考え、社会を芸術的な社会彫刻体として捉え、万人が芸術家になることをめざした。
仲間内、共同体内に閉じて満足する人ではなく、よく講演も行い、タイプの違う人、考えの異なる人とも意識的に交流し、よく聴き、否定的判断を沈黙させる行をおこなった。また彼は、並外れた実践家でもあった。厳しい状況で具体的なプランを実行しつづけた。まず理念があってそこから行動がでるのでなく、その瞬間の状況から直感的に構想を練る人で、状況や直接的コミュニケーションから行動を起こす人であったといわれている。
そういうことを学び、どちらかというと考えるだけの人生を送ってきた私は、やはり本物は実践する人だなと感じた。直感の大事さを思い、学者ではなく、様々な活動、社会運動を行っている人たちの素晴らしさに改めて目が行き、自分の人生もシュタイナーなど素晴らしい先人たちから学んで変えていく必要があるなと思った。
文献
阿部珠理[1994]『アメリカ先住民の精神世界』NHKブックス
デニス・バンクス&森田ゆり[1993]『聖なる魂』朝日文庫
Curtis, Edward S. [1997] The North American Indian, TASCHEN 1997
ジェーン・キャッツ編[1998]『風の言葉を伝えて:ネイティブ・アメリカンの女たち』舟
木アデルみさ、舟木卓也訳、築地書館
萱野茂[1990]『アイヌの碑』朝日文庫
シオドーラ・クローバー[1991]『イシ』行方昭夫訳、岩波書店
ピクマル、ミシェル編(Michel Piquemal)[1996]『インディアンの言葉』紀伊国屋書店
レフ・トルストイ[1968]『民話集:人は何で生きるか』米川政夫訳、角川文庫
ヘンリーD・ソロー[1995]『森の生活』飯田実訳、岩波文庫(Henry David Thoreau,
Walden, or Life in the Woods,1854)
スティーブ・ウォール&ハービー・アーデン[1997]『ネイティブ・アメリカン:叡智の守り
びと』舟木アデルみさ訳、築地書館(Steve Wall and Harvey Arden,
Wisdom Keepers――Meetings with Native American Spiritual
Elders,1990)
大阪経大論集55巻2号 04年7月発行
スピリチュアルに生きる人々(4)
伊田広行
目次
「ソウル・フラワー・ユニオン」と「満月の夕」、
石蕗の花咲く:ハンセン病回復者、田端明さん、
ネーネーズ、
マイケル・ムーア:『恐るべき真実』
これまでに紹介した人々
スピリチュアルに生きる人々(1)
ブルーハーツ、『八日目』、安積遊歩、今里哲、キング牧師、芸術とヘルスケア協会
大学の先生を辞めてあいりん地区へ移住(遠藤比呂通)、繊細な写真家(野寺夕子)
イスラエル徴兵拒否、落書きを消す(友人)、自分を振り返る人権論(平野広朗)
ラブ・ピース・クラブ(北原みのり)、〈たましい〉に触れる子育て(友人)
僕の姿を見ればみな勇気がわくだろう(ボブ・ウィラード)
4年3ヶ月の有給休暇(坂本達)、殺すな(ソウル・フラワー・ユニオン、中川敬)
「国境なき医師団(かんと貫戸ともこ朋子)
スピリチュアルに生きる人々(2)
ハンセン病回復者の痛み(藤森重紀)、解放の神学(ステファニ・レナト)、非暴力主義(マハトマ・ガンジー)、小さな出会いの必然性(関田寛雄)、朗読劇「この子たちの夏」
チヒロ、「ハッシュ!」の朝子、労働裁判闘争(やかび屋嘉比ふみ子、住友裁判原告)、国労の闘い、映画『人らしく生きよう』、あなたはもっと優しくてあなたはもっと強い(田中哲朗)
スピリチュアルに生きる人々(3)
アンジェリーナ・ジョリー、夜回りの水谷(水谷修)、斎藤武(チャプレン)、貧乏人大反乱集団(松本哉)、ラコタ族からの学び、トルストイ、ヘンリー・D・ソロー、シュタイナー
☆ ☆ ☆
前号に引き続き、私の提唱する〈スピリチュアル・シングル主義〉的な生き方や思想や行動に近いと思えるイメージと具体例を紹介していく。
「ソウル・フラワー・ユニオン」と「満月の夕」
「スピリチュアルに生きる人々(1)」で紹介したロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」(中心メンバーの中川たかし敬さん)を再度取り上げたい。もうずっとむかし、学生の一人が「先生と同じようなこと、中川さんってゆうてるで」と音楽雑誌を見せてくれた。そこには、「ニュー・エスト・モデル」の中川敬と「メスカリン・ドライヴ」の伊丹ひでこの2人による、シングル単位感覚あふれる男女論・ジェンダー論があった。男と女を逆にしただけでどれだけ変わるかとか、オノ・ヨーコをジョン・レノンの付属物のように見ることのおかしさの指摘とか、曲名「RESPECTABLE SINGLES」の「シングル」は、個人、結婚していない人、結婚してもシングルでいる人などの意味を含んでおり、男社会の変革において個人が覚醒していく必要があるといったことが語られていた。
中川敬さんが『不登校新聞』(2000年7月1日号)に載せている文章には、「現実問題として階級はあるけど、裸にひんむいたら、人間なんて猿の末裔やで(笑)。そこをもっとわかるべきやと思う。警官は怖いとか、学歴が高いほうがエライとか、どっかでそういうものを信じてるから、おかしなことになる。人間みんなボチボチやで」とあった。「大学に行くのは自分の人生を決められないアホがいくところや」と思って大学に行かなかった。
「学校の教育なんて国家の調教みたいなもんやからな。行かないに越したことはないと思うで。不登校をしたということはほとんどの奴らが気付かないところを気付いたということやから、すごいことやと思う」「不登校という言い方自体、相手の手の内でしょう。いろんなところに行ったらええのや。せっかくの一度の人生なんやからね。不登校とか、ひきこもりって、すごいチャンスやとおもうで。社会のすごい速い流れから、とりあえず一歩遠ざかって、ダラダラ、のんびりやれる。そこで、いろんな人間と出会って、いろんなこと考えたらいい。いちいち、すぐ答えなんか出さなくてええのや。」
(子どもたちに言いたいことは?と聞かれて)「家出しようっていいたいですね。・・学校もダメ、家もダメ、だから死ぬしかない・・・ちょっと待てや、家出があるやん。死ぬぐらいのパワーがあるんやったら、家出しよう。逆にそういう気持ちがあったら、家出しなくても、そこの場所で居直ることもできるしな。『世の中、何も怖いことありまへんで。大丈夫やで』って言いたい。・・それとな『出る杭は打たれる』というけど、マレーシアのことわざで『出すぎた杭は打たれない』という言葉がある。それを子どもたちに言いたい。『出すぎてまえ』ってね。」
阪神大震災のとき、メディアを通じて「ソウル・フラワー・ユニオン」が神戸・長田などで出前ライブをしていることを知った。それ以前から釜ヶ崎などでライブやっているということも聞いていた。そこでは「若者向け」ではなく、そこにいるおっちゃん、おばちゃんたちの心に響くような昔からの歌(民謡や、戦前の歌、歌謡曲など)を歌おうという姿勢があった。
中川さんが作詞作曲した『満月のゆうべ夕』は、そうしたライブの一光景を歌ったものだという。その〈たましい〉がこもった歌は、その後多くの人に歌い継がれていく。そして私の信頼できる友人が、「この曲いいで」とCDを貸してくれた。
『満月の夕(ゆうべ)』
風が吹く 港の方から 焼け跡を包むようにおどす風
悲しくてすべてを笑う 乾く冬の夕べ
(略)
飼い主をなくした柴が 同胞とじゃれながらみち車道を往く
解き放たれすべてを笑う 乾く冬の夕べ
(略)
星が降る 満月が笑う 焼け跡を包むようにおどす風
解き放たれすべてを笑う 乾く冬の夕べ
ヤサホーヤ うたが聞こえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ 焚き火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て いのちで笑え 満月の夕
石蕗の花咲く:ハンセン病回復者、田端明さん
ハンセン病回復者 、田端明さんにお会いした。田端さんは、国立ハンセン病療養所、長島愛生園入所者のかたで、1938年に徴兵検査で何らかの病気のために兵役を免除されたが、それがハンセン病であり、1940年に21歳で、長島愛生園に来た(来ざるを得なかった)人である。1953年施行の悪法、新「らい予防法」の影響もあり
、その後60年近くそこを出ることができず、今日に至っている。26歳の時には病気のために両目とも失明されている。
ハンセン病は、外形的な病変や機能障害のために加え、悪法の影響、国家の無為無策もあり、「らい病」と呼ばれ、(治る病気であるのに)不治の病と恐れられ、伝染力が非常に弱い病気であるため菌の培養が難しく、家族内で患者が発見されるなどのために、遺伝病と間違って思われたり、時には「「らい予防法」によって強制収用されることなどから「強い感染力を持った恐ろしい伝染病」とみられ、この病にかか罹った者は差別され続けてきた 。実際は完治しておりうつるはずがないのに、その外見や偏見・無知から怖がられてきた。その家族・親戚も偏見の目で見られる ため、ひそかに患者を家から出し、患者を戸籍から抹消したり、死んだことにしたり、名前を変えるように強制したりし、患者(回復者)は二度と故郷に帰ることができなかった。帰る故郷を奪われたのだ。手紙も送れなかった。死んで遺族が御骨を引き取りにきたときも帰りの船から御骨を入れた箱が海に投げ捨てられたという。
2001年、ハンセン病訴訟勝訴の後、療養所を出るものに対して経済支援がなされることになり、一部の者は社会復帰したが、多くは家族の元には帰れなかった。死んだことになっているから帰ってこないでくれと言われたものもいたし、家から一歩も外に出してもらえないようになった回復者もいた。
そのような環境の中に田端さんも置かれ、その激烈な人生体験を踏まえて、田端さんは心の叫びや慟哭の詩歌を作った。またその絶望の淵で『歎異抄』と出会い、その喜び、世界観も詩歌で表現された。64年ぶりにふるさと故郷に一時帰られたときの喜びや感想も表現された。それはスピリチュアルなものという他にないと私には感じられた。その著書『石蕗の花咲く』に収められているその作品のいくつかをここで紹介しておこう。
何一つできぬ病に伏せてなおなにゆえ何故に生きていかねばならぬ
形なき水にこだま木霊す魂の叫びが響く波の間に間に
ただ人のお世話になりて生きている我が人生の価値観を問う
ぜつどく舌読の点字きょうてん経典血に染めて我が人生を探る
いつどこでいかなる場所におかれてもいつも真ん中光が包む
そよそよと風が光をなでていく今の命に涙こぼれる
閉ざされし心の闇に御仏の光届いてしょうじ生路ひらかる
我が為に残せし母のふみ文読めば心は震え涙あふるる
あれこれとなんじゃかんじゃと言うけれどとどのつまりはゼロの私
人生の苦悩に目覚め生かされて生きるいのち生命の尊かりけり
大いなるいのち生命の中にある私生かされ生きる今も生かされ
眼を病みていのち生命絶とうとせしわれ我が今許されて生きる喜び
失明の重荷を今日も持ち歩き心の窓を探して回る
わからないわからないから問いかける我が人生の未来はいずこ何処
生かされて生きる命と今朝の蟻命はひとつ共に生かさるる
一匹の蚊に血を吸われ腹立てている人間のあさましさかな
ふるさと故里の空気の中にある匂い我れ賜りし乳房の匂い
田端さんにお話を聞いたとき、私は「なぜハンセン病回復者の方々は、それほどまでに〈たましい〉のこもった言葉をつむ紡げるのか」と質問した。それに対して田端さんは次のように語られた。
「私は無理なく本当に、ハンセン病になってよかったな、失明してよかったなと思うようになりました。そうなったおかげで多くの人とのご縁をいただくようになりました。失明したおかげで、もう一度人生を考えてみよう、生きるとは、死ぬとは、命とは何かを考えてみようという気持ちになれました。どん底に落ちてはじめて、差し込んできた光をみることができました。もしどん底に落ちなければその光を見ることはできなかったでしょう。流してきた涙が、私に真実のいのち生命をみせてくれました。死まで考えながら死ななかったのは、私の力でなく、私の周りの人々が私を生かしてくださったからです。私にさまざまな試練を与えてくださった。その中で、『神仏、人、自然』と出会い、魂を磨くことができたのです。」
また次のようなことも語られた。
「人生には、“上り坂”、“下り坂”、“まさかの坂”があります。意識するしないにかかわらずこの3つの坂を涙とともに通っていくのが人生です。そうした厳しいハードルを越えていくところに未来があり、また自己というものに気づかせていただく路があるのです。」
「今の社会では、連帯の心が失われています。誰かが困っていれば助ける風潮が以前はあったのに、今は打算的になり、物質的豊かさばかりに目を奪われています。教育も含め、枝先ばかりを飾っており、根っこを放置してしまっています。『エライ人になる必要はありません。少しでも真実に目を向けて人生を送ること。それが世の中も明るくすることです』ということを子どもに教えなくてはいけません。だが今はエゴイズムな人間を作る社会になってしまっています。」と。
『石蕗の花咲く』の中でも次のように語られている。
「一度は死を覚悟した私が母の慈悲により生かされ、療養を続けることができています。私のいのち生命は、私一人のためにあるのではなかったのです。光を失いながらも、生きる意味を問い、悩み、生きる価値について考えることができる。奈落の底に落ちたとき、生と死の、その人間存在のありようの深さを、この、光の届かぬまぶた瞼の奥に見せていただくことができました。深い感謝を覚えます。そして生かされているのなら、しゅぎょく珠玉のような人生を生きていきたいと思うのです。」
こうしたことをよくある言い方ととるのはたやすい。しかしそれは逃げている。その表層で捉えるのでなく、ホンモノの深さで捉えるならば、それが伝えようとしていることは、どこまでも深い。
「人は誰でも、この世に生を受けた瞬間から、人生成就の旅に出ます」という言葉を、表層レベルでなく、本当に生き方の中で実践されている人の言葉は重い。スピリチュアルな人とは、このような人をいう。
ネーネーズ
友人にネーネーズの解散ライブのCDを聞かせてもらった。ラストということもあるだろう。その歌声、言葉に〈たましい〉をとても感じた。決して、今はやり流行の流れではない。だがネーネーズは多くの人々をひきつけてきた。昔はちゃんと聞いていなかったが、今、とても染みてくる人たちの声だ。
『こがね黄金の花』 (岡本おさみ作詞)
黄金の花が咲くという 噂で夢を描いたの
家族をふるさと故郷、故郷に 置いて泣き泣き、出てきたの
素朴で純情な人たちよ きれいな目をした人たちよ
黄金でその目をよご汚さないで 黄金の花はいつか散る
楽しく仕事をしてますか 寿司や納豆食べてますか
病気のお金はありますか 悪い人には気をつけて
素朴で純情な人たちよ ことばの違う人たちよ
黄金で心を汚さないで 黄金の花はいつか散る
あなたの生まれたこの国に どんな花が咲きますか
神が与えた宝物 それはお金じゃないはずよ
素朴で純情な人たちよ ほんとの花を咲かせてね
黄金で心を捨てないで 黄金の花はいつか散る
素朴で純情な人たちよ 体だけは御大事に
黄金で心を捨てないで 黄金の花はいつか散る
黄金を捨てないで ほんとの花を咲かせてね
マイケル・ムーア:『恐るべき真実』
ブッシュに代表される米国の現実。しかし、それだけではない。ユニークな闘い方をする人がいる。それが映画『ボーリング・フォー・コロンバイン』『ロジャー&ミー』『ザ・ビッグ・ワン』を作ったマイケル・ムーアだ 。皮肉たっぷり、ブラックな、ユーモラスな表現スタイル。保守派が眉をしかめる。相手にしたくない。反論しにくい。そんなスタイルは、ユニークで創造的だ。私もそのようになりたいと思う。
その彼が、作ったテレビ番組が『Awful Truth 恐るべき真実』である。あるときは、米国で警官がサイフや携帯電話を持っていた黒人を拳銃を持っていると勘違いして射殺してしまっていることが多い現実を皮肉って、彼は街頭でマイクを持って道行く黒人の人たちに呼びかける。「危ないから黒いサイフをここに捨ててオレンジ色のサイフと交換してくださーい」と。拳銃で撃たれた跡のシールを額に貼って道端に倒れるパフォーマンスをする。黒人は道を歩くとき両手を常に挙げて歩くようにしようといって実際集まってきた警官の前で両手を上げさせたり、両手を挙げたように見える「人形の手」を体につけさせる。財布を持っている黒人たちに、「サイフを置いて両手を上げて後ろに下がれ」と命令し、そうさせる。集まってきた警官にカメラを向け、財布が何に見えるかとたずねる。白人が持っているときには携帯電話、黒人が持つと拳銃に見えるという実例をみなの前でやり、マジックだと叫ぶ。集めた黒い財布を警察署の前にぶちまける。薬物で幻覚が見える人に、簡単に幻覚を見るにはどうしたらいいか知ってるかいとたずね、答えは黒人の前に立つことだよと教える。そういう場面をつないで番組を作る。
笑える。何事かと集まってきた警官たちは、まともに相手にしては負けだし、そうかといって放置もできないしと、戸惑う。そこをカメラがとらえる。シナリオに基づく虚構や仕掛けと、現実を映すドキュメンタリーが混ざり合う。
同じようなスタイルで、死刑囚に対する死刑執行件数が高いテキサス州、その州知事の・ジョージ・ブッシュ(現在大統領になっている)を、スポーツゲームでの勝利監督になぞらえてテレビ番組的ナレーションを仰々しく付随させて皮肉る。同じくフロリダ州知事であるブッシュ弟(ジェフ)と比べ、テキサス・ブッシュのほうが監督としてすごい、やったー、両州の間でさらに差は開いた、スコアは117対2だとテキサスの執行件数を得点に見立ててたたえる。ブッシュ弟は電気椅子を改良して、兄に追いつこうとするがまだまだだ。テキサスでの死刑執行場の前には、死刑制度賛成のサポーターたちが大勢集まっている。そこにマイケル・ムーアたちの撮影チームがチアガールを引き連れて合流し、死刑制度賛成サポーターたちと盛り上がる。何も知らないサポーターたちはインタビューに嬉々として応じ、悪いやつがいなくなるとスカッとするとか、死刑にしないのは甘すぎるとかカメラの前で答える。
そんな感じの作品だ。その他、選挙に選びたい候補者がいないことを皮肉って「ファイカスという樹」を立候補させたり、大統領選を皮肉るキャンペーンをしたり、銃のぬいぐるみを着て、拳銃規制に反対する人たちの場所にいったり、子どもたちに銃の「楽しさ」を教えたりする。とにかく笑えるアイデア満載だ。その作品の力は、真正面からのマジメなものとはまたちがって、多くの人を混乱させ、考えさせ、ウケるというものだ。
(続く)
大阪経大論集55巻3号 04年9月発行
スピリチュアルに生きる人々(5)
伊田広行
目次
普通の人々
タイの修行僧、藤川チンナワンソ清弘さん
小林カツ代の父
グラミン銀行総裁
働かないってワクワクしない?(アーニー・ゼリンスキー)
☆ ☆ ☆
前号に引き続き、私の提唱する〈スピリチュアル・シングル主義〉的な生き方や思想や行動に近いと思えるイメージと具体例を紹介していく。
普通の人々
スピリチュアルに生きるというときの基本のイメージは、実は、「黙々と日々、労働に生きる人々」にある。たとえば、毎日、農作業をしている人々がいる。黙々と働く人々の姿は美しい。インテリやホワイトカラーというのでなく、額に汗し、日に焼け、腰をかがめ、風に吹かれる。身体を使って働く。
それは狭義の肉体労働だけに限定されるものではない。たとえば、安い時給のパート労働者の多くは、朝から店や工場に出て、一生懸命働いている。ビルや街角で清掃労働をしている。人や客に偉そうにいわれ、上司や「正社員」から「下」にみられ、こき使われている。客に頭を下げ、通り過ぎる人に無視され、風景の一部に溶け込まされている。そうして自分の慎ましやかな暮らしを支え、愛する人や家族を守り子どもを育てている。
そのように黙々とまじめに働く人々の姿に、「人の営みの基準」というような、スピリチュアルなものを感じる 。それをもう少し拡大して言えば、「金や地位」が基準なのではなく、自分の肉体を使い、自然から学び、自然からいただき、謙虚につつましく生きるところに、希望があるということだ。
タイの修行僧、藤川チンナワンソ清弘さん
タイの修行僧、藤川チンナワンソ清弘さん(泰国ポムケウ寺 びく比丘 )のお話を聞くことができた 。 彼は、1941年生まれで、ひどい親や先生の下でグレて、暴力を振るったり、逮捕されたりしたような人だった。ヤクザの道にはなんとか入らず、一念発起して就職し、不動産業界で最初は違法すれすれの悪どい商売をして次第にのし上がり、バブルが膨れ上がるころには「地上げ屋」として億単位のカネを手にするようになっていった。そのなかで「金と酒と女、ゴルフ」にまみれた暮らしをしていたし、それでよいと思っていたのだが、そのようなことが続くはずがない、これでは日本はダメになるとも感じていた。そしてバブルがはじける3年前、またゼロから挑戦したくなってタイに進出しそれなりの成功を収めたが、そのとき従業員から「社長に出家なんて1日たりともできない」といわれたことをきっかけに遊び半分で一時出家をした。それが1993年、51歳のことだった。その出家経験で、いろいろあって、仏教の勉強も一生懸命して、タイの人々の深い信仰心やブッダの教えにすっかり魅了され、人間ブッダにひかれ、ほれ込んでしまった。その後一時還俗するも、寺の生活が恋しくなり、ついになにもかもをすてて本格的に出家し、修行僧となった。
私は彼の話を聴いた上で、彼の本『タイでオモロイ坊主になってもうた』(現代書館、03年)などを読み、この人はインテリでもないし、むちゃくちゃなところもあるが、宗教の良質的かつ本質的なところをおさえているのではないかと感じた。
その一番のポイントは、彼がアタマで「あるべき生き方」を考えるようなまじめな人ではなく、むしろ逆に「金・酒・女」という世俗のきわみを通過した上で、体でホンモノを感じ取るスタイルを身に着けたところにあるように思う。特に私が強調したいのは、彼の著作やお話に出てくる日本の既成仏教批判(宗教批判)という点である。マジメな宗教者や穏健な人には、藤川さんのこの部分には、眉をしかめる人がいるかもしれない。だが、拙著『スピリチュアル・シングル宣言』など、私の〈スピリチュアル・シングル主義〉では、スピリチュアリティがたちあがるのは、まさに偽の「スピリチュアルなポーズ」との区別をつけ、スピリチュアリティを実践するというラディカルさにあることを強調した。その感覚と同じものを私は藤川さんに感じた。
「スピリチュアリティとか癒しとか瞑想とかスローとか優しさとか愛」など、きれいな言葉には事欠かない現代社会であるが、その実、今の日本社会の現実は、金への執着が増大し、自然環境を破壊し、戦争できる国にまいしん邁進し、「弱者」をたたき、社会運動に参加せず、エゴと自己保身に走る非連帯的な寒々とした社会になっている 。つまりスピリチュアリティの最も遠いところにある。そのような中で、ごまかしの「スピリチュアリティ的商品」の消費が進んでいるが、だからこそ、そうしたニセモノをたたき、真のスピリチュアルな生き方を示すホンモノが求められている。ヌルイ宗教や宗教者への批判は、藤川さんなりのスピリチュアリティへの誠実さの現れである。
たとえば彼が、祖母の思い出を語るとき、次のように言う。
「小学校へ入学するとき、祖父の形見の古着を潰し、晴れ着を縫ってくれた祖母。…中学へ入学するとき、…たったひとつ残しておいた祖父の形見である金の指輪を質屋に持っていき、金をこしらえ、安堵したような、誇らしいような喜色を浮かべて、制服を揃えてくれた。盲腸で入院していたとき、体力をつけさせねばと借金までして毎日肉や卵を食べさせてくれた祖母。夜も寝ず、内職で稼いだ金で、親には内緒だといって、お菓子を買ってくれた祖母。私が留置所に入れられる度に、少しでも美味しいものを食べさせてやろうと、警察署への行き帰りの電車賃を始末してまで、私の好きな食べ物を買い、京都中の警察署へ歩いて、毎日差し入れに来てくれた祖母。…暴力を振るわれ、いつも生傷が絶えなかったのに、婿養子に迎えた(藤川さんの)父を恨むこともなく、その父が霊柩車に乗せられ、火葬場へ運ばれて行く時、病で寝込んでいたのに起きだし、人目を避けるようにして私の後ろに隠れ、『必ず浄土に行くんだよ』と目に涙をため、手を合わせていた祖母。この祖母の信仰心、特別な宗教を特別熱心に信じていたわけではないが、普通に二歩足で歩くように、毎日の食事に箸を使うように身についた信仰心は、素朴ではあるが、必死こいて修行して、ああだ、こうだ、なんだ、かんだとこねくり回して得る宗教心、少なくとも、世の中にうじゃうじゃいる糞坊主よりも、こうしてなんだかんだと文句たれてる私の宗教心よりも、はるかに上等、ホンマモン、尊いと私は思う。」([2003]p54-55)
また藤川さんは、宗教者ではあるが、俗っぽい神秘主義、御利益期待、などを排する。
(四条大宮のバス停で、町を行きかう普通の人々を見て、自分のそれまでの生き方がいやになった瞬間の説明において)「日本の葬式坊主、説教タレ坊主ではなく、タイのテーラワーダ仏教を十年間修行してきた乞食坊主・比丘として、この時のことを誤解を恐れず、正確に言わねばならない。20歳前、暴力団予備軍の藤川清弘が、堅気の生活が恋しくなったのは、神仏のおかげ、奇跡ではない、ということをはっきりさせておかねばならない。私が目覚めたのは、保護司が勧めた天理教や聡子の母親が誘った創価学会の御利益ではない。人間でないものが『人間になりたい』と願ったわけではない。もともと人間だったものが、真人間になりたい、人間に戻りたい、と願っただけのことなのだ。それを奇蹟や神の御利益という言葉で片付けちゃ、人間・私(私の中の私)・魂とか仏性と呼ばれているものが浮かばれない。…どんな極悪人であろうとも、人間である限りは、人間になれるのだ。…神や奇蹟を待つのではなく、人間が人間として生きていける道とその道の歩き方は、2500年前からブッダというオッサンが教えてくれているのだ。」([2003]p38-39)
藤川さんのこうした感覚の背後には、子どものころから見てきた多くの汚い大人たちからの仕打ち、自分が京都にいるころ、汚なく金儲けをし、酒をのみ「女を買」っている僧侶を数多く見てきたこと、修行僧になったあと四国八十八か所を乞食行でまわったときのお寺と僧侶の冷たい仕打ちの数々を経験してきたことなどがある([2003]p104−106)。彼はそうした中で、タイで感じたホンモノのやさしさと、日本の宗教者(教師、弁護士、警察官、NPOを名乗る輩など)の偽善やひどさとの落差に怒っているのだ。「じゃぱゆきさん」を搾取する日本人たちや「自国の歴史の臭いものに蓋をしてじゃぱゆきさんを眉をひそめて見る」日本人たちと、「からだを売って得たお金を家族に仕送りし、僧侶に手を合わせる心のタイ人」のどっちがまともなのかと怒っているのだ。
私は最初、藤川さんかタイで急に変化したのだろうか、人は誰でもが簡単にそのようになるものではなく、彼の何らかの資質が影響したのではないかと感じた。彼の著作を読んで、やはり彼の「考え方の癖」のようなものに、彼が世界観を転換する潜在的根っこがあると思った。
それがスピリチュアルな視点ということにつながるのだが、変化する人は、根源的に人生終わりの時点の視点、人生全体を見渡す視点で考えてしまう。たとえば彼は、金儲けの絶頂にあるとき、「俺はいったい、今、何をしているのだろう。これじゃあ、ワル仲間と一緒に遊びまわっていた頃と少しも違いがないではないか。いったい俺は、何のために生きているのだろうか。いったい俺は何のために仕事をしているのだろうか」という声が聞こえてきたという。「妻や子を、家族を、豊かに、幸せにしたいから。金持ちになりたいから。仕事が好きだから。仕事に生きがいを感じているから。人としての務めだから」「合法的にやっているだけ」などといった言い訳に自分で「ウソこけ。どれもウソっぱちじゃねえか」とおもってしまう。彼は自分を観察し、自分が立派な人物でないこと、本当には幸せでないことを感じてしまう。自分の中にある不安、悩み、苦しみ、寂しさ、焦りなどをごまかして逃げてきたことに気づいてしまう人なのだ。自分が贅沢に生きたいだけ、金と女がほしいだけのエゴな人間なのだと認めてしまう。自分を差別してきた世間を見返したかっただけではないのか。それでお前の人生は充実しているというのか、心は満たされているというのか、と考えてしまう。不動産ブームに乗って金儲けしただけであり、こんなブームは続かない、まじめに働くものが損する社会はおかしいと考えてしまう([2003]p160−163)。
一旦、こういうところまで見えてしまったら、あとは進むしかない。彼がタイで出家して変化していく基礎は日本にいるときにすでにあったのだ。だからタイで一旦還俗したあと、彼はそれまでの「金、酒、女」が楽しくなくなり、「商売でひと旗もふた旗もあげてやる」という上昇志向がなくなってしまったのだ。商売する気が失せ、何もかもが空しく思えてしまう。「旗をあげてどうなる、それがどうした、あの世まで持ってゆけるではなし、なんの役に立つのだ」([2003]p218)という思考回路に行き着いたら、後戻りはできない。
彼は、何もかもを捨てることで、心の平安を得たという。彼はそれまで、「金の無い男は首が無いのと一緒」と肩を怒らせ金の修羅場で生きてきた。だが、今は、服は与えられた2枚だけ 。食事は托鉢で与えられるだけ。だからもう何も心配が要らず、心穏やかだという。心の平安(PEACE)はほとんどの宗教が目標とする価値だ。瞑想といわれるものが目指すのも、そうした心の状態だ。藤川さんの文章には、そのことがムツカシイ話ではなく――言い換えれば難解な言葉や概念でごまかすことなく――簡潔に具体的に描かれている。簡潔ではあるが、それは低レベルというのではなく、実は宗教のもっとも大事なところのひとつをうまく伝えているということである。エエカッコせずに体でつかんだ「真理」って感じだ 。
それは、彼が「悟り」というものを次のように説明するところに如実に現れている。
彼のいうところを要約すると、「悟り」とは言葉で説明することのできるものではなく、感覚的なものではあるが、少なくともいえることは、未来がわかったり、奇蹟を起こす超能力のような「何か特別な能力」が身につくことや、「普通の意識状態から離れた恍惚な状態」をいうのではない 。特別な人だけが到達できる神秘主義的なものではなく、普通の人間でも心のトレーニングをすれば到達できる状態だという。それは、自分を徹底的に見つめ、自分のことを他人を見るように客観的にみつめるということであり、この今の瞬間を深く生ききるということなのだ([2004]p85-101) 。
また、彼は、自分の行動は、自己犠牲などではなく、逆に自分のためでしかないという。笑って死にたい(だがいつ死ぬかわからない)からこそ、今の瞬間瞬間、目の前のいやなことを減らそうとして、自分の視野に入ってきたしんどそうな人を「助ける」という。そうすると、私も相手も、皆が楽しくなるからいいのだという。東南アジアで学校を援助するのも、それによって子どもたちがうれしそうになり、それを見ていると自分もうれしくなり、そこを訪れる日本人若者も元気になり、それにお金を出した人たちもいいことにお金を使えたとハッピーになるという。
私は、彼のこうした、飾らず、神秘主義的にありがたがらせない、実践的なところが好きだ。私がこの数年〈スピリチュアル・シングル主義〉でこだわってきたのも、学問的・宗教的・哲学的な理屈のこね回しでなく、普通の言葉でいかにちゃんと伝えられ実践できるかということだったので、彼のスタイルには共感するところが大きい。
そうした彼が引用するので、ブッダの言葉も素直に入ってくる。
「諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人を尊敬すること。これがこよなき幸せである。・・・深い学識があり、技術を身につけ、身を慎むことをよく学び、言葉が見事であること。これがこよなき幸せである。…耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の道の人に会うこと、適当なときに理法について教えを聞くこと。これがこよなき幸せである。・・・これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることはない。あらゆることについて幸福に達する。これが彼らにとってこよなき幸せである。」(『経集』)
「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生じる。愛するものは変滅してしまうから、ついには狂乱に帰す。世間の憂いと悲しみ、苦しみはいろいろである。愛するものに由って、ここに一切存在しているのである。愛するものが存在しないならば、このようなことは決してありえないであろう」(『ウダーヴァルガ』)
「交わりをしたらば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。」「実に欲望は色とりどりであり、心に楽しく、種々のかたちで、心を撹乱する。欲望の対象にはこの憂いのあることをみて、犀の角のようにただ独り歩め。」(『経集』)
「托鉢によって自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。たとい得たものは少なくとも、修行僧が自分の得たものを軽んずることがないならば、怠ること無く清く生きるその人を、神々も称賛する」(『法句経』)
「何人も他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。…あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの心をもつべし。また全世界に対しても、無量の慈しみの意おこすべし。」(『経集』)
藤川さんが、「坊主らしくない」にもかかわらずスピリチュアルだと思う例をもうひとつ挙げておきたい。それが、子ども・養子に関する彼の感覚だ。彼はカンボジアのシェリムアップでスナーダイクマ孤児院をやっている日本人、洋子さんと知り合いになり、そこで彼女とその夫(カンボジア人)が、虐待を受けた子や両親が貧しくて学校に行けない子ら30人ほどを、自分の子どもと分け隔てなく面倒を見ていることを知る。そして、「子どもがほしいけれどできない」と嘆いている日本人に、そんなことでグチグチ言っている暇があったら、シェリムアップの孤児院にいって、その子たちの里親なり、育て親となり、心から親として愛情を注ぎ育てればいいじゃないか、世界には親の愛に恵まれなかったり、経済的理由で不幸な子どもがたくさんいるのだ、洋子さんを見てみろ、という。「世界中のすべての子どもたちは私たちの子」と考えれば、自分の遺伝子、自分の愛する人の遺伝子にこだわって、不妊治療や代理母利用などしなくてもいいだろうという。本当に子孫がほしいなら、この地球上のすべての子どもが少しでも幸せに、健やかに育つよう、少しでも生きやすい環境を次代に残す努力をすべきだという。今この瞬間にも飢えや戦争で命を落としている子どもたちが世界中にたくさんいるのに、そのことに目もくれず、人工的にでも我が子を産もうとする行為は、我が子さえよければ、我さえよければというエゴに満ちた苦しみを招く「因」であるという([2004]p177−180)。
私は、この感覚こそ信じられる。
その他、彼の言わんとすることを伝えるスタンスをいくつか紹介しておく。
酒の席などでは話題がつき、場がしらけそうになったら「その場の人たちの共通の知人のうわさ話をすればたちまち場が賑わう」らしいが、藤川さんは、ブッタの次の言葉を紹介する。
『他人の過去を見るなかれ。他人のしたこと、しなかったことを見るな。
ただ自分のなしたこと、なさなかったことについて
それが正しかったか、正しくなかったかをよく反省せよ』(法句経)
その上で言う。「自分に自信を持って生きている人は、他人のうわさ話に興じて自分の劣等感をごまかすようなことはしないはずだ。うわさ話の落ち着くさきは、他人の悪口、陰口では。うわさ話の世界は妬みの心と虚栄心の入り込んだ、人間悪のゴミためみたいなものだ。他人の隠そうとしている欠点や過失をことさらほじくりあばいて、自分を慰めるような卑しい人間にならないようお互い気をつけて日々をおくろう。」
日本で宗教と聞くとそれだけで、毛嫌いする人がいる。宗教が遠いものになっており、それについてちゃんと考えていない。だが藤川さんは、「葬式と先祖供養という儀式ばかりにうつつを抜かしている仏教」を批判しつつも、「人生の目的を見失い、将来の夢がもてなくて、目先の快楽や損得に走る若者たち。仕事や老後の見通しがつかず不安におびえる人々。大人世界の縮図のような子ども世界のイジメ、少年凶悪犯罪などが蔓延する日本」「困難な時代にただ唖然としているだけの日本」を見て、「宗教という羅針盤」「思想をもった仏教」がいるといっている。彼自身、1941年生まれで、「とにかく復興、物質的豊かさを」と突っ走ってきた戦後日本社会の申し子で、「文化、宗教、哲学」などに目もくれずに生きてきた経済至上主義の男だった。宗教を信じている人を軽蔑さえしていた。まさに「日本」の典型であった。そうであったからこそ、その彼の「改心」は、今の日本人全体にとっても示唆に富むのではないだろうか。
その一例として、彼の女性との関係、セックスの問題にも言及しておこう。彼は、性欲自体を否定はしないが、自分自身が「女を性の欲望を満たす道具としてだけとりあつかっていた」と反省している。それは人間としてまちがっており、相手を道具として自分の欲望を処理するだけのセックスを追い求めてもいつまでたっても満足することはない、という。人間が人間らしく、性の欲望を実現するためには、互いに相手に対する信頼と尊敬に基づいた関係でなければならないという。だが今でも、「女を買う」ことを目的にタイ旅行にくる日本人男性は相変わらず多い。
お金についても同じ。日本人はすぐ「何をやるにも先立つものがいる」というし、彼も以前はそうだった。だがテーラワーダ仏教を知って、何もかもを捨てて心の安らぎを知った彼は、お金の危険性を警告する。仏教において布施とは、自分のもっている物や知識、技術を、それが社会で必要とされ、他人の役に立つのであれば、惜しみなく分け与えることとされている。金や物を与えればいいというのでなく、本当に必要なことは何なのか、金や物に頼らない「かかわり」を考えることが、金信仰に縛られてきた私たちに求められている。
「たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。『快楽の味は短くて苦痛である』と知るのが賢者である」(『法句経』)
藤川さんの紹介の最後に、「謙虚」について紹介しておこう。私がスピリチュアルな人であると思うのは、その人が自分をよく観察し、決して奢り高ぶっておらず、自分のダメさを見つめている場合である。ダメな自分を見つめ続けることによってのみ、スピリチュアル度を高め続ける人生が続くのだ。藤川さんは、「ひたすら修行をがんばります」「私は完璧に仏教をやっています」というのでなく、「エエカッコシーせんとこ」と思う人である。エエカッコシーをするから隠れて悪いことをするのだと悟り、ダメならダメでいい、できる限りのことを自分に正直にしようと思う人である。私が理解する「謙虚」とはそのようなものである。
「もし愚者がみずから愚者であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者と思うものこそ『愚者』だと言われる。あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵に対するようにふるまう。悪い行いをして苦い果実を結ぶ」(『法句経』)
小林カツ代の父
料理研究家、小林カツ代さんの父は、第2次世界大戦で中国にいたとき、中国人に残虐な行為をした上官を許さないような人だった。その上官は、戦後、帰国後、罪にも問われず、財を成し、それに取り入る人もたくさんいたという。だが、小林さんの父は、「戦友会」にわざわざ行って、その上官に「あんた、自分のやったことを忘れたんか」「命乞いしたおばあさんや赤ちゃんの顔、忘れたんか」といい続けてきたそうだ。父は酔っては、「お父ちゃんは弱虫で一人も殺せず、上官にぼこぼこにやられましたわ」、「仲良くしていた中国人一家の家を焼き払う命令が出たときははんまにつらくて」と泣いていたそうだ(『朝日新聞』04年6月)。
グラミン銀行総裁
グラミン銀行総裁、ムハマド・ユヌス氏は、米国で経済学博士号を取得後、バングラディッシュの大学の教員をしていたエリートだった。しかし、1976年、飢饉に見舞われた農村の救済の必要性を痛感し、計量経済学等の理論が現実の貧困な人々には何の役にも立たないと感じて大学教員を辞め、自らの資産を投じて小額無担保融資(マイクロ・クレジット)事業を開始した。その後、その事業を発展させ、1983年に「グラミン銀行」を設立し、それを成功に導いてきた。
私は、かなり前に無担保融資でもその多くはちゃんと返却されていると知って、そういうものなのだと思ったが、そのことを知り合いの大学教員たちにいうと「無担保でうまくいくはずがない」とかなり決め付けた対応をされた思い出がある。
だが現実は、抽象的な一般論よりも豊かだった。竹細工の製作・販売をしていた女性グループが、高利貸し利用のためにほとんど儲けることができなかったなかで、ユヌス氏は最初、無担保無利子でわずか27ドルを貸して喜ばれ、それがちゃんと返却されるという経験を持った。当時、「担保がない人に融資はできない」という民間銀行ばかりだったので、ユヌス氏は貧困な人たちの保証人にもなったが、貸し倒れはなく、そうした経験から、弱者のための無担保無利子の銀行を立ち上げたのだ。貧困層、特に女性グループの人々が融資を受けられないために貧困の悪循環から逃れられないのはおかしいと考えたのだ。 グラミン銀行は、借り手自身が返済計画を作ることを尊重するシステムで、返済率9割以上を維持してきた。これを通じて、借り手の46%が貧困層から脱出したという。
この例でも思う。行動し、現実を作り上げる人は、スピリチュアルである、と。それにひきかえ、後追いしかできない「過去の人たち」のおろかさは、対照的だ。
働かないってワクワクしない?
アーニー・ゼリンスキー[2003]『働かないってワクワクしない?』(VOICE)(Joy of Not Working,2001)は、私が〈スピリチュアル・シングル主義〉的な生き方として考えていることと重なっている部分が多い本だ。著者のアーニーは、失業をきっかけに、仕事と自由時間、創造性についてのコンサルタントになった人で、1日4−5時間、週4日働き、5,6,7,8月には仕事をしないことにしており、カナダのエドモントンに住み、お気に入りのコーヒーショップに出没し、サイクリング、テニス、読書、旅行などを楽しんでいるという。
さまざまな具体的内容が詰まっているので要約ではそのよさは伝わらないが、彼の本が伝える中で、一部、私が興味深かったところを紹介しておこう 。
まず彼がこれまで働いたことがある組織での経験に基づいて、職場のいやだった点をリストアップした「組織(職場)がきらいな理由」がおもしろい。彼はこれらを確認することで、仕事がないことに劣等感を持つ必要がなく、逆に仕事をやめたことを幸運だと感じるべきだという。
その理由とは、「リストラの結果、仕事量が多くなり過ぎている。日がさんさんと照っているのに1日中、オフィスに縛り付けられること。上にいるベビーブーム世代が辞めないので、少なくともあと15年は昇進の機会がないこと。10年前に首を切られているべき世間知らずや役立たずと一緒に働かなければならないこと。激しい競争、裏切り、作り笑いを伴うオフィス内の権力闘争。生産性は低いのに、長く勤めているというだけで自分より多くの給与を得ている人がいること。毎日、交通渋滞の中を片道1,2時間かけて通勤すること。一日中、机に向かっている(体に悪い)こと。日常業務が忙しすぎて考える時間がないこと。不必要なペーパーワーク(何の意味もないメモと誰も読まない報告書)。他の部署からの協力がないこと。上司が部下に言うことと役員に言うことがぜんぜん違うこと。通常で2時間以上の会議(それでも何も決まらない)。休暇をとれといわれてもそれを拒否する仕事中毒者と一緒に働かなければならないこと。1年で一番いいシーズンに休暇を取れない、融通のきかない休暇スケジュール。仕事が多すぎるので、従業員に休暇の権利を全部行使しないよう求める組織。他者の努力やアイデアを自分のものにする上司。他の人の2倍効率よく働き、予定より早く自分の仕事を終えても、勤務時間が終わるまで会社にいなくてはならないこと。官僚主義、形式主義、ばかげた規則、非論理的な手続き、何もしないことが専門の無気力な人々。人種、性別、身体的特徴、独身でいることによる差別。自分たちは革新的だと宣伝しているのに、革新的な人々をサポートしない組織。仕事ができる人を認め、表彰しないこと。昇給と昇進のために身を売る、胸が悪くなるようなイエスマンやイエスウーマンと一緒に働かなければならないこと。」
彼は、これらの特徴は多くの職場に見られ、それゆえ職場は人間の精神をだめにするが、それにもかかわらず今仕事がない人が昔の職場を懐かしいと思うなら、それこそ問題だという。このリストを見て物事を正しい角度から考えるようでありたいと、私も思う 。
また彼は、次のような諸点からも、「働く」ということ自体に疑問を投げかける。すなわち、現代社会が定めた人生の主な目的は、労働の報酬であるお金を使ってモノを買うことであるが、モノをたくさん買うと手狭になるのでもっと大きい家を買う。これを繰り返す。そんなモノに振り回される人生でいいのかというのだ。そして私たちの地球を救うためには、ビンやカンをリサイクルするだけでは間に合わない。人々を休みなく働かせるためだけに、不必要なものを作るのはばかげている。のんびり暮らし、少し働いて、少し消費する人は、間違いなく地球の環境を改善するのに重要な貢献をしている、と。
さらに彼の主張は、「所有するモノ、住む家、仕事」は重要性で言えば二次的なものにすぎず、私たちの本当のアイデンティティはモノとは別の次元にある、というように展開されていく。大事なことは、現在、私たちがどう生きているかということであり、何を学び、どれだけ笑い、どれだけ遊び、どれだけの愛を周囲の世界に注いでいるか。それこそ、人生で本当に大切なことだ、というのだ 。
だから彼は、仕事をやめるという行動を起こすことが大切だという。多くの人は仕事や会社が嫌いでも、高い給与が惜しくて、引退するまで同じ会社で働き続けることを、避けようがないこととして選んでいる。だが、もしあなたに、「自分のクリエイティブな部分が出せないので、仕事を好きになれない」、「今の仕事を続ける上での主な関心は、年金が受け取れるようになるまでの16年間を何とかして過ごすことだ」、「最後に自分の仕事についてワクワクしたのがいつか、思い出せない」、「単に習慣的に仕事を続けているだけである」、「大学や学校が嫌いだったにもかかわらず、大学や学校に戻りたいと思う」、「月曜日に仕事に戻らなければならないため、日曜の午後5時にストレスが急増する」などという現象が見られたなら、つまり、仕事に対する熱意がなくなっていると気づいたなら、その最初の日が、仕事をやめることを考えるべきときだというのだ。またたとえ仕事が好きでも、人生で毎週50時間も時間を奪われ、ライフスタイルのバランスが失われていることが不満ならば、やはり行動を起こすときだという。
いくら金を稼いでいても生き生きとできない仕事に注いだ時間は取り戻せない。引退してから取り戻そうとしても不可能。健康を失っても取り戻せない。重要なのは、仕事の中で成長し、好きなこと、有意義なことのために、自分の能力を活用することだ。
アーニーは言う。やめようと思えば仕事はやめられる。ただ難しいだけだ。難しいだけで、絶対無理とはいえない。本気でそうしたければできる。経済的不安定といった代償は払わなければならないが、長い目で見ればやめる価値はある、と 。
次に、アーニーは、「使命」という概念で、生き方や仕事についての優先順位を考えることを提唱する。ここは、スピリチュアルな感覚とかなり重なるところだろう。
彼は言う。幸福に生きている人は、自分の使命を持っているといえる。毎朝起きるのがつらいなら、あなたは自分の使命をまだ見つけていない。人生において重要な使命を持つことは、真に生きていることを意味する。あなたの使命は、魂によって定められる人生の務めだ。あなたの真髄であり、この世に生まれた理由だ。
ベビーブーム世代の多くが中年の危機に悩んでいるのは、自分の情熱――伊田の言葉で言えば、〈たましい〉――に従ってこなかったからだ。1980年代には、たいていの人は高給の仕事を追い求め、過剰なモノに彩られたヤッピー式のライフスタイルを送ろうとした。彼らは仕事上の成功は得たかもしれない。出世のはしごを登りつめ、大量のモノを買い込んだ。しかし結婚生活は風前の灯で、子供たちは非行に走り、自分自身も過剰なストレスと不満に悩んでいる可能性が大きい。
それに対し、自分の使命を見つけ、情熱を持ってそれを追求することができれば、あなたの人生はもっと実り多いものになる。自分の使命をないがしろにすると、あなたの不満はつのる。好きなことを避けていると、精神が混乱し、体は不調になる。本当の興味や欲望を抑えつけていると、人生の痛みや不満をまぎらせるために、アルコールやドラッグ、仕事、テレビなどの中毒になりやすい 。
「使命」といってもスピリチュアルな感覚がわかりにくい人には、同じくわかりにくいと思うが、アーニーは、次のようにそれを伝えようとする。個人の使命は、単なる目標よりも高いレベルにある。会社の本部長になるといった目標は、いったん達成してしまえば終わりだが、環境汚染を減らして世界を住みよい場所にする、というような個人的使命は、高いレベルの務めであり、全人生を通じて追及すべきことである、と。「金儲けだけが目的の仕事」や「暇つぶしのためだけの活動」は、個人の使命とはいえない。個人の使命とは、この世界によりよい変化をもたらすものだ。あなたの努力によって、人類が何らかの恩恵をこうむるというようなものが、あなたの使命であり、そういうものによって、あなたは世界と緊密に結びつくことができるという。
また「音楽家は音楽を奏でずにはいられない。画家は絵を描かずにはいられない。詩人は詩を書かずにはいられない。それぞれが安らかに自分自身でいようとするならば」という、アブラハム・マズローの言葉 を引き合いに出して、人は誰でも自分の人生の使命を見つけることができるともいう。人生におけるあなたの使命は、あなたの価値観と関心にかかわっているので、それを見つけるためには、自分自身に「自分が情熱を傾けるものは何か」「自分の強み(弱み)は何か」「自分のヒーローは誰か」「自分が発見したいこと、学びたいことは何か」といった問いを突きつけて考えればいい。
その結果の、それぞれ各人の使命は、だいそれたものであらねばならないことはない。他人の尺度からみればささやかなものかもしれないが、それでいいのだと。たとえば、友人の父上は学校の用務員だが、彼の使命は,生徒と先生のためにもっとも清潔な学校を作ることである。ほかにも、個人の使命としては、「困っている人々の支援をするための資金を集める」、「小さな子どもたちが世界の不思議を発見できるような子ども向けの楽しい絵本を書く」「深くかかわる人間関係を形成し、それを常に刺激的で活気あるものにする」などがある。
こうした考えをベースに、この後、彼は、受身的な余暇の過ごし方ではなく、のんびりできるクリエイティブな時間のある、能動的なスロー生活、ダウンシフトした生活、仕事のない世界、一瞬一瞬を生きるスタイル(1度にひとつだけのことをする)などの積極性を提唱していくのであるが、紙幅が尽きた。続きは次号で。
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