浅草キッドの玉袋筋太朗の回答こそが、セクハラである
「相談室」という生活欄のQAコラム(『朝日新聞』8月11日)で、浅草キッドの玉袋筋太朗さんが回答している。この人の回答は、たいていむかつく。えらそうで説教臭くて、古臭いのである。
で、今回のはいつにもましてひどかったので一言。
先ず引用。
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「28歳女性の相談 : 女の子でくくられるのイヤ」
学生のころから「女の子はこういうもんだ」という固定観念をもつ男性と接するのが苦痛でたまりません。会社の飲み会で「料理はするの?」「女の子だから買い物好きだよね?」といわれると、ムキになって「別に料理しません」等と答えてしまいます。これはセクハラです。こんな日本から脱出したいとも考えます。腹を立てない考え方はないでしょうか。
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「それにたいする回答:玉袋さん(漫才師):気持ちに余裕もって会話を」
あなたのような女性が側にいたとしたら、逆に私、男性の立場からしてセクハラだと思います。こっちの何気ないトークを誇大に受け、ヒステリックに反応! これでは「悪気なしに会話したいのに、なんでオレが加害者?」とつらくなるからです。
人と会話することを閉じてしまって本質的な話もできないまま、一方的に硬い態度をとってしまう。会話というのは先ず、よかろうが悪かろうが糸口が会って本質的なものとして組み立てていくものなのです。
仮に海外に行っても、外国人のフランクな会話の中には、あなたが腹が立つことなんてザラです。それに今以上に、屈辱的で民族的な差別言葉が、あいさつがわりに降りかかってくるでしょう。友人が、アメリカで暮らしていますが、ドギツイ差別的ジョークに最初は戸惑い、頭にきて貝のように閉ざしたそうです。でもそれではダメだと思い、そういう会話に飛び込んで、自分のポジションを作って、今ではジョークをいってきた人間を使う側の人間になりました。それぐらいの覚悟が必要です。
くくられるのがいやなら、いっそのこと現在の日本の生活は外国での暮らしだと思ってみたら。 あなたが嫌悪感を抱く会話は汚いスラングのあいさつ程度のものと思うと気が楽になります。この余裕があると、頭にこないで、誰とでも会話できるようになるでしょう。
(引用 終わり)
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以下、イダのコメント:
私の感覚では、質問者の「女の子はこういうもんだ、という固定観念をもつ男性と接するのが苦痛でたまりません」というのはよくわかる。そりゃ、苦痛だろう。
固定観念の人といるのは苦痛だ。当然ジャン。飲み会で「料理はするの?」「女の子だから買い物好きだよね?」なんていわれるんだから、うっとーしーぜ。
僕なら、そんな場所、出て行くね。でも多くの人は、明日からの仕事のこと、職場の雰囲気などを考えて、きついことがいえない。ガマンしている。そのとき、嫌そうな顔をしても鈍感にもそれに気づかす、上司や男たちはセクハラを繰り返す。
「こんな日本から脱出したい」のも当然だろうと思う。
なのに、だ。
玉袋さんは、完全否定する。
いろいろな考えがある、正しいのは一つではないとは、一般的にはいえる。短い相談文では、判断に迷うこともある。でも、この質問者の女性の相談を素直に読めば、僕にはよくわかる。否定するというより、共感できる。その上で、どうすればいいか、一緒に考えればいい。知恵を出せばいい。
だが、玉袋さんは、まったく逆に受け取った!
「あなたのような女性が側にいたとしたら、逆に私、男性の立場からしてセクハラだと思います。」だと?
まず、玉袋さんって、セクハラのこと何も勉強せず、週刊誌レベルの使い方をしている。「嫌なことはセクハラだ」という程度の使い方じゃないか。権力関係の視点がまったくない。
相手Aを殴ったやつBが、殴られた側AがBに対して怒ったからといって、お前(A)こそ暴力だというようなもんだ。
そして「こっちの何気ないトークを誇大に受け、ヒステリックに反応!」という。
セクハラは、「こっち」が何気なくても、相手がいやなら、セクハラになる。先ずこの点でマチガイだ。
もちろん、何気ない、悪気のない言葉というものはしばしばあって、知らぬ間にそれが相手を傷つけることはある。じゃあ、ゴメンね、と謝り、次から言わなければいい。
だが玉袋さんは、そのように素直に、相手を傷つけたら謝るというのではなく、傷つく側が「ヒステリックだ」と、相手(相談者)の方が悪い、間違っているというのだ。
もう、ここで、まったくセクハラがわかっておらず、逆に、二次被害をもたらしている。加害者になっている。セクハラを重ねている。
「悪気なしに会話したいのに、なんでオレが加害者?とつらくなる」などと、典型的な反応をする。つまり、相手の気持ちではなく、自分が傷ついたという話になる。
自分の傷も大事だが、先ずは、加害者となっていることへの反省が必要だろう。そうした繊細な加害/被害への認識というのがまったくない。
でさらに、ひどいことを言われても努力して、それに負けないようになれ、そして相手を使う側になればいいというようなことを言う。ここには、まったく「対等な関係」という感覚がなく、勝つか負けるか、2つにひとつ、能力による勝負という、能力主義の観点しかない。
そもそも、「屈辱的で民族的な差別言葉が、あいさつがわりに降りかかってくる」ことを甘受しなければならないということはない。いやならそんなやつとは話さないという選択もある。怒ってもよい。どうして、ガマンしなければならないのか。
とても古臭い感覚である。「下のもの、若い者、外国人、勝っていないもの、新人、弟子などは、屈辱的にあつかわれても当然だ。その悔しさを乗り越え、自分が努力し、上に立てばいいのだ」という感覚。古い芸人世界の感覚だろう。
そういう能力主義の感覚で玉袋が生きるのはいいが、それを こうした一般紙のセクハラ的相談において言うのは間違っている。
このようにいうと、「だからフェミニストはダメなんだよ。カタクて、話にならない」「現実は厳しいんだよ。それをがんばらないで、文句ばっか言うのは甘いんだよ」と思う人が多いのもわかる。
だが、私からみれば、そのような考えこそ、差別が蔓延していてどうしようもない時代の古臭い「現実主義=敗北主義(あきらめの思想)」なのである。
昔は、セクハラがセクハラとも認識されず、法律もなく、イヤと思うほうが悪いと思わされていた。
でも今は過渡期である。今、声を出していく人が増える中で、徐々に社会は変わっていく。今、嫌なことに対し、イヤなんだよ、うっとーしーんだよ、といってもいいじゃないか。
会話は嫌なもの、と決め付けるのが、古臭い。外国だといやな目にあうというのが、途上国人の大国・先進国に対するコンプレックス時代の感覚である。
玉袋さんの言いたいことも、ポジティブに読めば、一部はわからなくはない。そのように前向きに考えることができる人には、一定有効な考えだ。でも、みなができるわけじゃない。またみながそのようになるべきともいえない。嫌なやつに腹が立ってもいいじゃないか。
そして、相手の言わんとすることを先ずは肯定的に受け止めることが必要とするなら、だからこそ、この相談者の言いたいことも、肯定的に受け止めようよといいたい。
それをこの相談者を「オトコに対するセクハラだ」などと頭ごなしに否定的にいうから、そんなこというお前こそ、バカヤロウだ、といわざるを得なくなる。
玉袋のほうこそ、「会話することを閉じてしまって本質的な話もできないまま、一方的に硬い態度をとってしまう」という典型ではないか。だが、玉袋は、一方的に相手にそのレッテルを張って、自分はそうでないと思っている。「自分は正しい、相手が間違っている。従来のやり方でいいじゃないか。文句言うな。」って。
そうした全体が、セクハラ的なんだよ! そういうやつがのさばっている日本社会がいやだ、と相談者がいっている。まさに玉袋のような鈍感で、居直る輩がいるから、セクハラがなくならないのだ。その証明だね。
私は、すべての人を愛し許するような博愛主義者ではない。うっとうしーやつには、嫌悪感を持つ。言っても判らないやつもいると思う。
玉袋さんが、学ぶ気があるなら、話し合う気があるなら応じるだろう。そうでないなら、喧嘩するだけだ。
で、『朝日新聞』社内部では、このような回答者、このような回答に対して、ちょっとまずいんじゃないのという意見はなかったのか? なかったとしたら、だめだねぇ。あったなら、その賛否両論を載せるのがいいのでは?
今からでも遅くない。そうでないと、この「回答」だけだと、とってもひどすぎるよ。