詩とCM

 09年07月31日ブログより)

友人が、谷川俊太郎が自分の詩を日本生命のCM(平成16年〜18年放映)に提供した件で意見を言ってくれて、以下少し考えたことを書きます。

 

先ずその詩は「愛するひとのために」というもので、今もHPで見られます。
http://www.nissay.co.jp/okofficial/kojin/present/cm/index.html
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「愛するひとのために」
        文:谷川俊太郎   朗読:田口トモロヲ

保険にはダイヤモンドの輝きもなければ、
カラーテレビの便利さもありません。
けれど目に見えぬこの商品には、人間の血が通っています。
人間の未来への切ない望みがこめられています。

愛情をお金であがなうことはできません。
けれどお金に、愛情をこめることはできます、
生命をふきこむことはできます。
もし愛する者のために、お金が使われるなら。
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この詩とCMに関して、友人は以下のようなことを言ってくれました。


「きれいなことば、うつくしい響き、みみざわりのいいやさしいフレーズ、真実を覆い隠してしまう言葉や、その時点で人の思考を停止させて、疑問を抱かせない、批判的に考える力を奪ってしまうような言葉は、わたしたちのまわりにいっぱいある。

エコ、リサイクル、ボランティア、愛、民主主義・・・
この言葉で包まれてたら、それをわざわざ剥がして、中身が正義かどうか確認しようとする人はほとんどいないかも知れない。

「人道的介入」なら戦争とは違うと云い張れる、
「付帯的損害」なら一般市民が巻き添えになってると気づかれにくい・・」

そして、この詩だってそうしたごまかしの一つではないかという。

友人は、消費者センターへの苦情から、生命保険会社のある一面の現実を知っていて、次のように教えてくれた。

 

「生保の不払いは相変わらず続いていて、消費者センターには多数の苦情がきている。生保会社という巨大な組織に、1人の、しかも病気を抱えた人や、大切な人を失って、悲しみのまだ癒えない遺族が戦っていくのは本当に大変である。
生保会社が100%非を認めたとして、彼らから引き出せる最大の譲歩は「これまでの掛け金をそのまま返金すること」でしかない。(40年前の掛け金5000円の価値が今と比較にならないことは100も承知の上で。)
この全額返金という和解に至るのすら、1%にも届かないぐらいである。嘘や偽りでお金を集めておいて、肝心のときには、理由をつけて払わない、こんな業界のどこに、「人間の血が通っている」のか、と思う。」

そういう現実を知っているから、谷川俊太郎という、「ことば」の力をだれよりもよく知っているはずの人が、生保会社のために「ことば」を使った、というふうに感じたという。

 

そして関連ブログとして、谷川さんの生保の詩を「販促の詩」というicchanさんのブログを教えてくれた。 

http://d.hatena.ne.jp/icchan0000/20051221/p1

 

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以下、僕の感想。


「ことば」がほんとうに誰にどう利用されるのか、意識しておかないと危ない。

そして生保の不払いという現実を知っているのが、あなたの意見のすばらしいところ。

とにかく多くの人は現実をみない。谷川俊太郎さんとて、同じ。

だから利用されちゃう。

企業のCM にでるって、実はとても責任の伴う行為だと思う。でも多くの人が芸能人化していて事務所が仕事をとらせて、あとはそれに従がうだけ、というようなことがある。あまり考えない人が多いんだろう。視聴者もCMにでる有名人に甘い。

ちゃんとかんがえて「CMにでない人」もいるだろうけど、それは見えない。

結果、CMに出る人だけが、目立つ。


「生保が100%非を認めたとして、彼らから引き出せる最大の譲歩は「これまでの掛
け金をそのまま返金すること」で、それすら本当に少ない」

という実態は、明確には初めて知った。


icchan
さんというひとのブログをざっとみた。

鋭いところもあり繊細な人だなと思い近い感覚の人とみたが、過剰に、「意見を言う」「政治的な主張をする」ということに言い訳する人だな、今っぽいな、何を怖れているんだろうとなとも思った。

 

何かをいうと、ウェブ世界では「その一面性、カタヨリを批判される」ということがあるので、「私は正しいことなどいいません。ただの愚か者です。ただこうも思うけど、ちがうのかな」程度の謙虚な主張の仕方が安全なのである。それをicchanさんたちは、し過ぎで鼻につく。

そういう時代の風潮、いまの日本社会のメディア〔テレビやウェブ〕の「“○○たたき”〔バッシング〕を怖がる」風潮に影響されすぎているように思えた。

 

今の金儲け思想を批判するのは左翼的な古い価値観だ、という決め付けがあって、そこから距離をとって安全でいようとするのは、保身的な姿勢という面があると思う。

「えらそうに単純に決め付けない」という、ステキな姿勢は、必ずしも、一つの見解をいわないということにはつながらないとおもうのだけれど。

 

icchanさんというひとのブログとそこにコメントしている人の意見に欠けていて違和感があったのは、CMにでて大金を得ているということへの批判的検討である。

 

生命保険のCMだからだめ、珈琲のCMなら良いというわけではない。

どのような商品なのか、その企業の姿勢はどうなのか、そしてそのCMに出てどういう影響を自分は与えるのか、何に加担するのか、そしてそれにいくらもらうのか。

そういう全体を考え、把握した上での責任がある。

生命保険が有効なときも人助けのときもあるだろう。だが、問題点を無視していいか。また、「自分はなぜ、その企業のその商品のCMに出るのか? 金のためなのか?」という問いをもたないでいいのか? 

 

それを、「好みの問題ですよね」「何が正しいなんていえない。明確な答えがみつかるわけない問題。」「お金儲けもいいよねー」「命を金に換算する保険の販促を卑しいものとみるのってまちがいだよね」「これは、私の『言いがかり』だと重々承知している」などといって逃げているのは腰が引けすぎと僕はおもう。 

 

「クレーマーだ」、「負け犬や左翼崩れが遠吠えで言っている言いがかりだ」、「あなたの意見はイデオロギッシュだ」といわれるのが怖くて何もいえなくなっていくのは、ナサケナイと思う。谷川俊太郎さんくらいの大物に対しては、どんどん批判したらいいじゃないかとおもう。


吉野弘の詩がいい、とストレートに言って、谷川さんの詩も、詩だけとしたらそれもありだけど、このCMにでる〔販売促進に使われる〕という行為には、批判をはっきりいっていいと僕は思う。

 

それでも谷川俊太郎の他の詩でいいものはいいといえばいい。

 

そして異なる意見があっていい。生命保険会社擁護の意見があってもいいし、谷川俊太郎の詩がCMにでたことを擁護する人がいてもいい。問題は、批判する人がいてもいいということ。

 

まあ、皮肉っぽくとか笑いにまぶしてとか、「高度に」主張するのも確かに大切だとは思う。たとえば、コメント欄での「谷川さんは、世相世相のニーズを読み取って、その時代の人々が求めているものに敏感に応えて行ける、プロ意識の高い冷静な職業芸術家、とおもっていた」というような皮肉っぽい意見は笑えて、僕は好きである。

 

でも皆が高度に表現できなくても、もっと単純に素朴に表出してもいい。

 

「イデオロギッシュ」って、一体どういう意味で使っているのか、ちゃんと考えずに使うのは愚かだと思う。相手を批判する道具として使ってそれで何かがいえていると思うのは思考停止的である。

僕はもちろん、異なる意見や立場に耳を傾けず、ある立場だけを正しいと信じて教条的に上から目線で決め付ける(相手を罵倒する)ような意見の出し方はキライである。

 

でも、その逆だといって、なんでも相対化して何もいえないといって、結局現状肯定、いまの秩序に無批判的になり、実は自分がその維持に加担している、いまの秩序にちゃっかり位置づいている、というのも嫌いである。

今の秩序に従属することを肯定する意見は、イデオロギッシュではないのだろうか?

「明確な意見がないような、腰が引けている姿勢」は、イデオロギッシュではないのか?

「美しいもの、善きもの、尊いもの、それらをあまりに真っ直ぐにぶつけて来られると、物事の裏面を読もうと疑ってかかる癖の付いている現代人」への批判的視点は、どこにあるのだろうか?

 

☆  ☆  ☆  ☆  

最後に、icchanさんのブログで紹介されていた、の詩を添付しておく。確かに、こっちのほうがずっとずっといい。

 

吉野弘 「初めての児に」

 

お前がうまれて間もない日。

禿鷹(はげたか)のように

そのひとたちはやつてきて

黒い皮鞄をふとを

あけたりしめたりした。

生命保険の勧誘員だつた。

(ずいぶん お耳が早い)

私が驚いてみせると

そのひとたちは笑つて答えた。

<匂いが届きますから>

顔の貌(かたち)さえさだまらぬ

やわらかなお前の身体の

どこに

私は小さな死を

わけあたえたのだろう。

もう

かんばしい匂いを

ただよわせていた というではないか。

 

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