単なる多数決ではなく、一人一人の不幸の質も考える
『朝日新聞』09年6月10日の「水俣病の政治学」というインタビュー記事について。
熊本県知事の蒲島郁夫さんに対して、水俣病のことがよくわかっている記者がインタビューしている。今国会ですすみつつある与野党が提出している救済法案をすすめるべきという蒲島知事に対し、記者が、最終決着としてしまおうという意図が政府案には見えるというような、反対がある案であり、意見が分かれてるものを現場の意見を十分聞かず、政権交代も待たず、中央ばかり見て拙速過ぎないかと問うている。
民主党等の理想主義によって全部を流してしまう危険性を批判し、妥協もして実際の人を助けることが必要という、知事の現実主義には一理あるところもあるが、この知事の判断が正しいのかどうかは今の私には判断しかねる。個人的直感としては、原則を理想主義と排して、「最終決着」を急ぐのはおかしいように思う。
全体の印象は、この知事は、「総幸福量増大が大事」というように、上から目線で全体を見ていて、学者あるいは政治家、エリート、官僚の視線であって、地べたの弱者の一人一人の視点ではないなと感じた。
この知事が言う一般論の次の部分は正しいと思う。
「学者のころ、私は世論調査で大きな間違いをしていました。一人一人の世論は均一だと考えていたのです。たとえば幸福を感じる程度はみな同じだと。違うんです。たとえ人数は少なくても、その人たちが抱える不幸の量が多数の人たちの幸福の量よりも重い場合がある。世論調査の数字を眺めるだけではそれはわかりません。どんなに少数であろうとも、不幸の大きさを測って対処することが、政治家としては大切なのです。」
しかし、それに対して、鋭く記者が次のように問うと、知事の答えは腰砕けになっている。
記者「水俣病はその典型です。多数意見に従って決定しても、そこからもれた少数者の不幸は重い。とすれば、最終決着とはいえないのではありませんか?」
知事「完璧な理想をいえば他の案もあるでしょうが、現在できる範囲で決着するしかない。もちろん少数者に思いをいたしつつ、総幸福量を最大にするよう努めたいと思っています。」
ここに、この知事の限界が出ているようにおもう。一般論では全体を均一に見て量だけで観るのではだめだといっていたのに、その意味をわかっていないかのように、「総幸福量を最大にする」ということをまたいってしまって、実践的には少数派の痛みを軽視するような視点を正当化している。
総幸福量を最大にするというのは、とても危険な発想であり、少数派が切り捨てられるときにはよく使われる発想だ。
多数派決で決めるというのと本質的な原理は同じである。個人個人の不幸や幸福の量を考慮するから多数決とは違うというだろうが、それ〔各人の量〕をどれだけとみなすかは主観的・思想的なものである。いくら少しくらい少数派・弱者の不幸・幸福量を重視しても、全体として加重平均すれば、やはり多数派の幸福や不幸が力を持つからである。
弱者一人を見るというのは、量の視点ではなく、質の視点である。痛みや人権というのは、量的にはかれるものではない。
質でしかないものを「量」に換算するとき、そこには主観や政治的判断が入る。一人の痛みを100人の利権より重いと見るなら別だが、通常はそこまでの質の量への変換をみとめないだろう。
そこを自覚しない限り、「総幸福量の最大」とは多数決と同じ程度のものになる。
たとえば、強盗で銀行や会社や金持ちたち100社〔人〕から合計10億円奪う犯罪と、ひとりの人をレイプする犯罪のどちらを重いとみなすか。
この知事のような「総幸福量」「総不幸量」の視点では、前者を大きいとみなすだろう。
だが、私は、後者のほうこそひどいとおもう。
あなたはどう考えるだろうか?