『日本書紀』のカンニング現場写真
2003・2
第10代崇神天皇と第11代垂仁天皇の聖寿の算出状況を分析すると、『日本書紀』は、『白河本旧事紀』の間違えた聖寿をそのまま採用しており、『日本書紀』の編者は『白河本旧事紀』をカンニングしていることは明らかである。
ー第1代神武天皇から第26代継体天皇までー
『白河本旧事紀』と『日本書紀』における歴代天皇の聖寿起算年別分析表
(単位;代・西暦・歳)
| 代 数 | 天皇名 | 白 河 本 旧 事 紀 | 日 本 書 紀 | ||||||||||
| 生 年 A |
立太子年 と御年 B |
先帝崩御年 と御年 C |
即位元年 と御年D |
退位年 と聖寿E |
備 考 | 生 年 a |
立太子年 と御年 b |
先帝崩御年 と御年 c |
即位元年 と御年 d |
退位年 と聖寿 e |
備 考 | ||
| 1 | 神 武 | ー | 甲寅 45 |
ー ー |
前660 52 |
前585 127 |
ー | 甲寅 45 |
ー ー |
前660 ー |
前585 127 |
||
| 2 | 綏 靖 | 前632 | 前619 14 |
前585 48 |
前581 52 |
前549 84 |
ー | ー ー |
前585 48 |
前581 ー |
前549 84 |
||
| 3 | 安 寧 | 前577 | 前557 21 |
前549 29 |
前548 ー |
前511 67 |
ー | 前557 21 |
ー ー |
前548 ー |
前511 57 |
b 67 |
|
| 4 | 懿 徳 | 前553 | 前538 16 |
前511 43 |
前510 44 |
前477 77 |
ー | 前538 16 |
前511 ー |
前510 ー |
前477 ー |
b 77 |
|
| 5 | 孝 昭 | 前506 | 前489 18 |
前477 30 |
前475 32 |
前393 113 |
ABCD 114 |
ー | 前489 18 |
前477 ー |
前475 ー |
前393 ー |
b 114 |
| 6 | 孝 安 | 前427 | 前408 20 |
前393 35 |
前392 36 |
前291 137 |
ー | 前408 20 |
前393 ー |
前392 ー |
前291 ー |
b 137 |
|
| 7 | 孝 霊 | 前341 | 前317 26 |
前291 52 |
前290 53 |
前215 127 |
BCD 128 |
ー | 前317 26 |
前291 ー |
前290 ー |
前215 ー |
b 128 |
| 8 | 孝 元 | 前273 | 前255 19 |
前215 60 |
前214 61 |
前158 117 |
AB 116 |
ー | 前255 19 |
前215 ー |
前214 − |
前158 ー |
b 116 |
| 9 | 開 化 | 前208 | 前193 16 |
前158 51 |
前157 52 |
前98 111 |
|
ー | 前193 16 |
前158 ー |
前157 ー |
前98 115 |
b 111 |
| 10 | 崇 神 | 前148 | 前130 19 |
前98 51 |
前97 52 |
前30 120 |
ABCD 119 |
ー | 前130 19 |
前98 ー |
前97 ー |
前30 120 |
b 119 |
| 11 | 垂 仁 | 前69 | 前50 20 |
前30 40 |
前29 41 |
70 140 |
ABCD 139 |
前69 | ー 24 |
前30 ー |
前29 ー |
70 140 |
a 139 |
| 12 | 景 行 | 前13 | 8 21 |
70 83 |
71 84 |
130 143 |
ー | 8 21 |
70 ー |
71 ー |
130 106 |
b 143 |
|
| 13 | 成 務 | 83 | 121 39 |
130 48 |
131 49 |
190 108 |
ー | 116 24 |
130 ー |
131 ー |
190 107 |
b 98 |
|
| 14 |
仲 哀 | 101 | 178 78 |
190 90 |
192 92 |
200 100 |
ー | 178 31 |
190 ー |
192 ー |
200 52 |
b 53 |
|
| 14−2 | 神 功 | 158 | 193 36 |
200 43 |
201 |
269 112 |
ー | 193 ー |
200 ー |
201 ー |
269 100 |
||
| 15 | 応 神 | 200 | 203 4 |
269 70 |
270 71 |
310 111 |
200 | 203 3 |
269 ー |
270 ー |
310 110 |
a 111 |
|
| 16 | 仁 徳 | 257 | ー ー |
310 54 |
313 57 |
399 143 |
ー | ー ー |
310 ー |
313 ー |
399 ー |
||
| 17 | 履 中 | 329 | 343 15 |
399 71 |
400 72 |
405 77 |
ー | 343 15 |
399 ー |
400 ー |
405 70 |
b 77 |
|
| 18 | 反 正 | 352 | 401 50 |
405 54 |
406 55 |
411 60 |
ー | 401 ー |
405 ー |
406 ー |
410 ー |
||
| 19 | 允 恭 | 376 | ー ー |
411 36 |
412 37 |
453 78 |
ー | ー ー |
410 ー |
412 ー |
453 若干 |
||
| 20 | 安 康 | 401 | ー ー |
453 53 |
454 ー |
456 56 |
ー | ー ー |
453 ー |
454 ー |
456 ー |
||
| 21 | 雄 略 | 419 | ー ー |
456 ー |
457 ー |
☆ 61 | ー | ー ー |
456 ー |
457 ー |
479 ー |
||
| 22 | 清 寧 | ー | 478 ー |
479 ー |
480 ー |
484 若干 |
|||||||
| 23 | 顕 宗 | 440 | ☆ 48 | ー | ー ー |
484 ー |
485 ー |
487 ー |
|||||
| 24 | 仁 賢 | 448 | ☆ 51 | ー | 482 ー |
487 ー |
488 ー |
498 ー |
|||||
| 25 | 武 烈 | ー | 494 ー |
498 ー |
499 ー |
506 57 |
|||||||
| 26 | 継 体 | 450 | ☆ 82 | ー | ー ー |
506 ー |
507 ー |
531 82 |
|||||
注1:三重貞亮訓解、松下松平解題『旧事紀白河家三十巻本』及び坂本太郎ほか校注『日本書紀』により作成した。
注2:『白河本旧事紀』の「天皇本紀」は、雄略天皇21年10月で途切れている。
注3:神武天皇欄の「甲寅」の年は、立太子年ではないが、紀元前667年に当たる。その後は西暦に直した。
注4:神功皇后欄の「立太子年」は、「立后年」と読み替えるものとする。
注5:備考欄の「A114」とあるのは、A欄の条件で算出すると114歳になるという意味である。以下これに準ずる。
注6:☆印の数値は、Aの条件と『日本書紀』の在位年数により算出した聖寿である。なお、顕宗天皇は仁賢天皇の兄になっている。
この表は偶然からの発見である。『日本書紀』は懿徳天皇から孝元天皇までの聖寿の記載がない。そこで立太子年の御年から計算したり、『白河本旧事紀』の数値を採用したのであるが、日を置いて確かめると計算しても合わないので、起算年別の計算をしたところ一致しないところが多々あることを発見した。『白河本旧事紀』は、聖寿の正当性を主張するためこれでもかこれでもかと御年を記載している。それに比べて『日本書紀』のほうは時代が下がるにしたがって省略されていて、いわゆるぼかしとか紛れを求めているといえよう。この点から『白河本旧事紀』のほうが原始的であると考えられる。とくに仲哀天皇の聖寿は、『白河本旧事紀』は100歳、『日本書紀』は52歳で、『日本書紀』編纂後に権威ある『日本書紀』を無視して記載することは考えられないことである。
☆1、崇神天皇の聖寿について、『白河本旧事紀』と『日本書紀』は、立太子年から計算すると崩御年に119歳になるにもかかわらず、崩御年の聖寿を120歳と記載して同じ誤りを犯している。カンニングしていることになる。
☆2、垂仁天皇の聖寿について、『白河本旧事紀』と『日本書紀』の生年から計算すると139歳になるにもかかわらず、崩御年の聖寿は140歳と記載して同じ誤りを犯している。カンニングしていることになる。
☆3、景行天皇の聖寿について、『白河本旧事紀』と『日本書紀』では退位年次の聖寿は一致しない。前者が143歳であるのに対して、後者は106歳である。生年、立太子等の起算年から計算すれば、『白河本旧事紀』のほうが正しく、いちおうは『日本書紀』を改定したといえよう。しかし、権威ある『日本書紀』をだれが改定できるであろうか。
この部分だけでもどちらが先に記載されたか判断できよう。H18.9.14追加
『白河本旧事紀』と『日本書紀』における景行天皇の聖寿に関わる記載は次のとおりである。
『白河本旧事紀』の記載
12−A 《垂仁天皇十有七年、戊申の歳にして生れましけり。》
12−B 《三十七年戊辰春正月戊寅の朔、立て皇太子となる。時に年し二十一。》
12−C 《九十九年庚午の秋七月乙巳の朔戊午、天皇崩たまふ。時に年し八十三》
12−D 《元年辛未秋七月己巳の朔己卯、皇太子天皇の位に即きたまふ。時に年し八十四。》
12−E 《六十年庚午冬十一月乙酉の朔辛卯、天皇穴穂(ノ)宮に崩たまふ。聖寿一百四十三、位に在す六十年。》
『日本書紀』の記載
12−b 《活目入彦五十狭茅天皇の三十七年に、立ちて皇太子と為りたまふ。〈時に年二十一。〉》 〈 〉は細書。
12−e 《六十年の冬十一月の乙酉の朔辛卯に、天皇、高穴穂宮に崩りましぬ。時に年一百六歳。》
ただし、崇峻天皇までの漢風諡号は、推古天皇二十八年に『天皇国紀等』を編修するためにその前年に、聖徳太子が撰上したものであることを念頭に置かなければならない。従来の日本古代史は構造計算に誤りがある。誰かが言い出さなければ官製談合はやめさせることはできない。
漢風諡号太子撰
本居宣長や坂本太郎は、正安3年(1301)ころ卜部兼方の著した『釈日本紀』の記述をもとに、漢風諡号は、『古事記』や『日本書紀』が成立したのち、淡海御船が文部少補の任にあったころ(762−764)に撰上されたと説いている。しかしながら、『釈日本紀』の記載する「私記曰く。師説く。神武等の諡名(おくりな)は、淡海御船、勅を奉じて撰するなり」には多くの問題があり、本居宣長の『古事記伝』や坂本太郎の「列聖漢風諡号の撰進について」のように強弁できるものではなく、森鴎外の「帝謚考」にみる消極論のように、『釈日本紀』の記事を除いては考えるべきものがないので従わざるを得ないということになる。
ところで、『白河本旧事紀』の「皇太子本紀」いわゆる『異伝聖徳太子』の推古天皇27年4月の是の月の条には、つぎのように記載されている。
≪是の月、太子奏して、磐余彦(イハレヒコノ)天皇より、泊瀬部(ハツセベノ)天皇に至りて、共に三十四代の天皇、倶に其の諡号を上る≫
そして、「天皇本紀」の見出しは神武天皇ではじまる。まさに、推古天皇28年に『天皇国紀等』を撰修するために必要があって、その前年の4月に崇峻天皇までの諡号を聖徳太子が奉ったのである。このことに早く気づいてほしいものである
☆4、成務天皇の聖寿は、『日本書紀』の立太子年の景行天皇46年から計算すると98歳になるのに退位年次の聖寿は107歳と記載され、明らかに間違いである。『白河本旧事紀』は、それらの矛盾を是正したととれる。しかし、『白河本旧事紀』が正しいとするならば、『日本書紀』より権威あるものと考えざるを得ない。
☆5、仲哀天皇の聖寿は、『日本書紀』の成務天皇48年から計算すると53歳になるのに退位年次の聖寿は52歳と記載されている。これは52歳が先に設定されていたための計算違いの公算が高い。つまり『古事記』の52歳をもってきたのである。権威ある『日本書紀』を改定して、わざわざ100歳にしたとは考えられない。改定には手続きが必要である。なお、仲哀天皇の父である日本武尊が景行天皇の40年に東征の途について帰途薨去しているとなると、景行天皇の在位年数60年、成務天皇60年、空位1年、仲哀天皇自身の在位年数9年では、60ひく40たす60たす1たす9で90、したがって、仲哀天皇の聖寿は90歳以上でなければならない。『現行・日本書紀』の52歳は、『古事記』をカンニングしており、『旧本・日本書紀』は、90歳以上でなければならない。
☆6、神功皇后の聖寿について、『日本書紀』は100歳、その権威に逆らって112歳とわざわざ改定するであろうか。
☆7、応神天皇の聖寿は、『日本書紀』の数値にブレがある。原因があるとおもう。
☆8、履中天皇の聖寿について、『日本書紀』の70歳は単なる記載ミスかそれとも何かを含んでいるのだろうか。
★数字はウソをつかない。人はウソをつく。大学の教授は人間である。大学の教授はウソをつく。21・7・17追加
★22,1,3
あけましておめでとうございます。
『白河本旧事紀(旧事紀白河家三十巻本)』の皇太子本紀に次のような記載があります。
《二十有八年庚辰、皇太子四十九歳、春正月、太子、国史を編修することを奏し、乃ち蘇我ノ馬子の大臣、秦ノ河勝の大連、中臣ノ御食子(ミケゴ)大夫等と相ひ議して、天皇紀、及び国紀、臣、連、伴造、国造百八十部、并に公民本紀を編修したまふ》(原文はルビ付きの漢文)
ところで、『日本書紀』に書き写す際、次のように改訂されたと考えられます。
《是歳、皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す》
『日本書紀』がこの文言を削除できなかった理由を考える時期に来ていると思います。
なお、インターネットで『日本古代史最前線』をご覧いただければ幸いです。
平成二十二年元旦
★22,1,11 追加
読売新聞 銅鏡破片81面分 国内最多 卑弥呼時代の鏡も 奈良・桜井茶臼山古墳 大和王権初期の大王墓とされる奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初め、全長200メートル)で、石室を覆っていた土の中から、少なくとも13種81面分の銅鏡の破片331点が出土したと、県立橿原考古学研究所が7日、発表した。