憲法本紀 2003・6
『白河本旧事紀』の第22巻「経典本紀」は、中臣祓(なかどみはらひ)、神文伝、神教経(かみをしへののりこと)、宗徳経(かんつもとののりこと)、憲法(以下「憲法本紀」という)で構成されている。『日本書紀』記載の憲法(以下「憲法紀」という)との大きな違いは、天皇本紀の本文に入らず別巻となっていること、それに第十七条に「篤く三法を敬へ。三法は、神儒仏なり。…」がきていることである。
わたしは「憲法紀」は、「憲法本紀」を改ざんしてできていると考えている。その根拠は、「憲法本紀」の第4条中の「饕(たう)を絶ち餮(てつ)を棄て」の成句を「憲法紀」では第5条中の「餮を絶ち欲を棄て」と変更していると考えるからである。「饕を絶ち餮を棄て」の「饕…財のむさぼり」の文字が嫌われたのだろう。
なお、読み下し文の片仮名のルビは原文にあるもの。
憲法
一に曰く。和(ヤハラギ)を以て貴(タトキ)こととなし、忤(サカフ)ことなきを宗(モトタル)こととせよ。人、皆な党(タムラ)あり。而(しかし)て達者(トホレルモノ)少し。是を以て、或は君(キミ)にも父(オヤ)にも順(したが)はず。亦た隣里(サトドナリ)に違(たが)ふ。然(しか)るに、上み和らぎ、下も睦しく、事を論(アゲツラフ)に諧(カナヒ)ぬれば、則ち事(コト)の理(コトハリ)、自(ヲのずから)通る。何に事か成らざりぬ。
二に曰く。詔を承(うけたまはり)ては必ず謹(つつし)め。君は則ち天なり。臣は則ち地なり。天は覆ひ地は載(のり)て、四時順行し、万物通ることを得。地、天を覆(おほは)んと欲(ほつ)すれば、則ち壊(やぶ)るることを致すのみ。是以(これもつ)て、君、言(のたま)へば臣承け、上、行えば、下、效(なら)ふ。故に詔を承ては必ず謹む。謹まざれば、自(ミづから)敗る。
三に曰く。群卿百僚(マチギミタチツカサツカサ)、礼(イヤ)を以て本(モト)とし、夫れ民を治むるの本は、要(カナラ)ず礼にあり。上、礼なければ、下、斉(ととのは)ず。下、礼なければ、必ず罪あり。是(これ)以て君臣礼あれば、位の次(つぎ)、乱れず。百姓(オンタカラ)、礼あれば、国家、自(ヲのずから)治(をさま)る。
四に曰く。饕(たう)を絶ち餮(てつ)を棄て、明かに訴訟を弁(わきま)へよ。夫(そ)れ百姓の訟(うつたへ)は、一日に千事。一日すら尚を然り。況や累年をや。今の訟を治る者は、利を得るを常とし、賄を見て@(さばき)を聴(ゆる)し、饗(あへ)に会て僻(ひがむ)を忘る。故に財(たから)あるの訟は、石を水に投げるが如く、乏(とぼし)き者の訟は、水を石に投るが似たり。是を以て、窮民は、則ち因る所を知らず。民の道も亦た於(ココ)に闕(か)けぬ。
注…@の文字は、ごんべんに献の旧漢字である。
五に曰く。悪を懲(こら)し善を勧(すすむ)るは、古(いにしへ)の良典。是を以て、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)す。夫れ諂詐(てんさ)の者は、国家を覆すの利器たり。人民を絶つの鋒劔(ほうけん)たり。侫媚(ねいび)の者は、上に対しては則ち好(このみ)て下の過を説き、下に逢(あひ)ては則ち上の失を誹謗(ひぼう)す。此(この)如き人は、君に忠なく、民に仁(じん)なし。是れ大乱の本なり。
六に曰く。人、各々任掌(にんしやう)あり。相濫(あひみだ)すべからざるなり。夫れ賢哲(けんてつ)、官に任ずれば頌音(しようおん)則ち起る。奸佞(かんねい)、官に在れば禍乱(くわらん)則ち繁(おほ)し。世に生知(せいち)少し。克(よく)く念(おもひ)て聖と作(な)る。事大小なし。人を得れば必ず治る。時に緩急なし。賢に遇えば自(ヲのづから)寛(ゆるや)かなり。是に由て、国家永久にして、社稷(しやしよく)危きことなし。故に古の聖王、官の為めに以て人を求め、人の為めに官を求めず。
七に曰く。群卿百僚、早く朝(マイ)り晏(おそ)く退(マカ)でよ。王事@(モロイ)ことなし。終日(ヒネモス)尽し難し。是を以て、遅く朝(マイ)れば急に逮(およ)ばず。早く退(マカ)れば必ず事尽きず。
注…@の文字は、皿にひだりうえは臣、みぎうえは午のしたに口を書く。
八に曰く。信は是れ行の本(もと)、当(ま)さに事毎とに信あるべし。夫れ善悪成敗、要は信に在り。君臣、倶(とも)に信ならば、何の事か成らざらん。君臣、信なくんば、万物悉く敗(やぶ)る。
九に曰く。忿(ふん)を絶ち瞋(しん)を棄て、人の違(たが)へることを怒らざれ。人、皆な心あり。各々執(と)ることあり。彼れ是(ぜ)とすれば、則ち我非とす。我是とすれば、則ち彼れ非とす。我必しも賢にあらず。彼れ必しも愚にあらず。共に是れ凡夫のみ。是非の理、@(た)れか能(よ)く定むべき。相ひ倶(とも)に賢愚なること、環(たまき)の端なきが如し。是を以て、彼の人瞋(いか)ると雖ども、還(かへつ)て我が失(あやまち)を恐れよ。我独り得ると雖ども、衆(あまた)に従て同く挙(あぐ)せよ。
注…@の文字は、ごんべんに巨を書く。
十に曰く。明かに功過を察して、賞罰必ず当てよ。昔は功あれば必ず賞。罪あれば罰を糾す。今は賞、功に在らず。罰、罪に在らず。事を執(ト)る群卿、宜く賞罰を明(あきらか)にすべし。
十一に曰く。国司(クニノミコトモチ)国造(クニノミヤツコ)、百姓を斂(をさむ)ることなかれ。国に二君なく、民に両主なし。卒土兆民、王を以て主とす。任(よさ)する所官司は、皆な是れ王の臣、何んぞ敢て公と与(とも)に、百姓を賦斂(ふれん)せん。
十二に曰く。諸司、官に任ずる者は、当さに共に職掌を知るべし。或は病ひし或使ひすれば事に闕(かけ)ることあり。然れば知ることを得るの日、相ひ和して素(もと)より知れるが如くせよ。与(あづ)かり聞にあらざるを以てして公務を廃せざれ。
十三に曰く。群臣百僚、嫉妬あることなかれ。我れ既に人を嫉(そね)めば、人も我を妬(ねた)む。嫉妬の患(わづらひ)は、其の極(きはみ)を知らず。所以(ゆ)へに智、己より勝れば則ち悦びず。才、己より優れば則ち嫉妬す。是を以て、良哲を出すことなし。五百歳の後、縦令ひ賢に遇ふも、千載以て、一聖を得難し。其れ賢聖を得ずして、何を以て国を治んや。
十四に曰く。私に背き公に向ふは、是れ臣の道。凡そ人、私あれば必ず謀(はかる)ことあり。謀ことあれば則ち誠を失ふ。誠を失へば則ち私を以て公を妨(さまた)ぐ。制に違(たが)ひ法を犯す。故に古典に云(いは)く。夫子(ふし)の道、忠恕(ちゆじよ)のみぞ。其れ斯(こ)の謂(かたら)ひか。
十五に曰く。民を使ふに時を以てするは、古の良典。故に冬月、間(イトマ)あり。以て民を使ふべし。春より秋に至ては、農桑の節、民を使ふべからず。農(なりはひ)ならずんば何をか食、桑(こかひ)ならずんば何をか服せん。
十六に曰く。夫(そ)れ事は独り断(ことは)るべからず。必ず須く衆と論ずべし。小事是れ軽(かろ)し。必ずしも衆なるべからず。唯だ大事を論ずるに逮(およ)んで、或は失(あやまち)あらんことを恐る。故に衆と相ひ弁ずれば、則ち其の理(ことはり)を得(エ)けり。
十七に曰く。篤く三@(さむぼふ)を敬へ。三@は、神儒仏なり。是れ百姓の総帰、万国の極宗、何れの世、何れの人、是の@を貴(たと)ばざらん。人、尤も悪きは鮮(すくな)し。善く教ふれば之に従ふ。三@を敬はずんば、何を以て枉(まがる)を直(なほ)くせん。
注…@の文字は、法の旧漢字で、さんずいに「薦」のくさかんむりをのぞき下に去を書く。珍獣を島に押し込めておくという意味がある。ゆえにさんずい。
☆第14条の「古典に云(いは)く。夫子(ふし)の道、忠恕(ちゆじよ)のみぞ。其れ斯(こ)の謂(かたら)ひか」を見るに、わたしには権威ある憲法紀に追加されたとはおもえないのである。
聖徳太子憲法の改正時期 平成17年4月7日追加
推古天皇十二年(六〇四)四月に、聖徳太子が作られたとされる『日本書紀』記載の十七条憲法は、七〇〇年前後に改正されていると考えられる。
一 主な改正内容
1、第十七条関係
改正前(『白河本旧事紀』第二十二巻、経典本紀のうちの憲法)第十七条は、改正後第二条に繰り上がり、改正前第二条以下は一条ずつ繰り下がっている。
改正前第十七条
《十七に曰く。篤く三法を敬へ。三法は神儒仏なり。是れ百姓の總帰。万国の極宗。何れの世、何れの人、是の法を貴ばざらん。人、尤(もつと)も悪きは鮮(すくな)し。善く教ふれば之れに従ふ。三法を敬はずんば、何を以て枉(まがる)を直くせん。》
改正後第二条(坂本ほか校注『日本書紀』。以下同じ)
《二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝は仏・法・僧なり。則ち四生(よつのうまれ)の終帰(をはりのよりどころ)、万(よろづ)国の極宗(きはめのむね)なり。何(いづれ)の世、何れの人か、是の法(みのり)を貴びずあらむ。人、尤(はなはだ)悪しきもの鮮し。能く教ふるをもて従ふ。其れ三宝に帰(よ)りまつらずは、何を以てか枉れるを直さむ。》
仏教国家の建設のために、「三法の神儒仏」を「三宝の仏・法・僧」に改正したのはいいとしても、「仏・法・僧」の「法」と「是の法を貴びず」の「法」との関連や、また「百姓」を生きとし生けるものの仏教用語「四生」に変えると、「何れの人」との関連でおかしく、矛盾がでてくる。
2、第十四条関係
改正前第十四条
《十四に曰く。私に背き公に向ふは、是れ臣の道。凡そ人、私あれば必ず謀(はかる)ことあり。謀ことあれば則ち誠を失ふ。誠を失へば則ち私を以て公を妨ぐ。制に違ひ法を犯す。故に古典に云く。夫子の道、忠恕のみぞ。其れ斯(こ)の謂(かたら)ひか。》
改正後第十五条
《十五に曰はく、私を背きて公に向(ゆ)くは、是臣(やつこら)が道なり。凡て人私有るときは、必ず恨(うらみ)有り。憾(うらみ)有るときは必ず同(ととのほ)らず。同(おなじか)らざるときは私を以(も)て公を妨ぐ。憾起るときは制(ことわり)に違(たが)ひ法(のり)を害(やぶ)る。故(かれ)、初の章(くだり)に云へらく、上(かみ)下和(あまな)ひ諧(ととのほ)れ、といへるは、其れ亦是の情(こころ)なるかな。》
改正前の「夫子の道、忠恕のみぞ」は、『論語』の里仁第四に載っており、儒教を捨てたために削除されたものと考えられる。
「三法」と「三宝」を比較すれば、国家仏教の樹立のためになりふりかまわず神教や儒教を除いたものと考えられる。
二 聖徳太子憲法の改正時期
平成十七年二月二十一日の新聞に、「天武天皇の経蔵か・川原寺跡で礎石確認」と題して、奈良県明日香村の川原寺跡で、七世紀後半とされる創建時の礎石が見つかったと奈良文化財研究所が発表した旨を報じていた。
『日本書紀』には天武天皇二年(六七三)三月、是の月の条につぎのように記載されている。
《是の月に、書生を聚て、始めて一切経を川原寺に写す。》
また、天武天皇十四年(六八五)三月二十七日の詔にはつぎのようにある。
《諸国に、家毎に、仏舎を作りて、乃ち仏像及び経を置きて、礼拝供養せよ。》
また、『続日本紀』の文武天皇四年(七〇〇)三月十五日の条にはつぎのようにある。
《諸王臣に詔して令の文を読み習はしめたまふ。また、律の条を選ひ成さしむ。》(青木ほか校注『続日本紀』)
天武天皇が志向した国家仏教を貫くには、神教や儒教を捨て聖徳太子憲法を改正する必要に迫られ、大宝律令の成立時点の七〇〇年前後に改正され、『日本書紀』に繰り込まれたものと考えられる。
三 国史の改訂
神武天皇の即位年次を約五〇〇年も鯖読んだ(hpの伝承年代推定法)のは、隋との対等外交を展開しょうとした聖徳太子その人だったと考えられる。その紀年体系は踏襲されたが、孝昭、孝安、孝霊、孝元の漢風諡号と儒教的な事績とがセットであったいわゆる『国史』は、儒教色の強い事績が削られた。しかし、その諡号はすでに流布されていたので改正後の『日本書紀』では細書で残したものと考えられる。
『日本書紀』は、「一書」が六つあるかのように記載し、日本で最初に作られたかのように見せかけているが、推古天皇二十八年に『天皇国紀等』のいわゆる『国史』を基本にその後の史料を追加し、神教色や儒教色を薄めて、改訂されたものと考えられる。