皇太子本紀 下

   太子 九  2003・7

 推古天皇五年、皇太子は二十六歳になられた。夏の四月一日、百済国の威徳王は、王子阿佐(あさ)等を使者として朝貢させた。時に阿佐は、接待役に語って「わたしはあなたの国に一人の聖人がいると聞いております。会見することができれば、願いがかなえられます」と言った。太子はこれを聞かれて、ただちに殿内に召された。阿佐は、丁寧にお辞儀をして、まじまじと太子のお顔を見て、また太子の左右の手掌、および左右の足掌を見て、さらに起きて拝み退いて庭に出て、右の膝を地に付け、合掌して恭しく敬意を表して「救世大慈、観音菩薩、妙教流通、東方日国、四十九年、伝燈演説、大慈大悲、敬礼菩薩」と言った。時に太子は、目を閉じられた。一瞬の間、眉間から白い光を放った。その長さは、二メートル四十センチほどであった。やや久しくして縮まった。阿佐は、さらに拝み伏して退いた。阿佐は、博識宏才で、儒教や仏教の書物に通じ、天文相術にも明るかった。そのため、太子は阿佐を寵愛された。阿佐もまた太子の徳をしたって久しくとどまり、常に近くに侍っていた。
 推古天皇六年、皇太子は二十七歳になられた。春の三月、天皇は大臣、大連等に詔して、兎道(うぢ)の貝蛸(かいだこ)の皇女を嫁がせ、太子の妃とされた。四男三女を生んだ。殖栗(うへぐりの)王(おほきみ)、卒丸(をまるの)王、菅手(すがでの)女王、舂米(ついしねの)女王、御財(みたからの)王、日置(ひをきの)王、手島(てじまの)女王である。この月、太子は左右に語って「わたしは、常に諸氏の女子をみるにつけ、ただ膳大娘(かしはでのおほいらつめ)は大変わたしの心にかなう」と言われた。天皇はこれを聞いてただちに詔して、膳大娘を迎えさせた。五男四女を生んだ。山背(やましろの)大兄(おほえの)王、茨田(まんだの)王、近世(ちかよの)王、桑田(くはだの)女王、磯部(きしべの)女王、三枝(さへぐさの)王、丸子(まるこの)王、馬屋(むまやの)女王、片岡(かたをかの)女王がこれである。このとき、天皇は甚だ悦んで、群臣や女官を宴に招いて賜い物をした。
 夏の四月、太子は諸国におおせごとして、良馬を求めさせた。このため諸国は良馬を献上した。凡そ数百頭に及んだ。甲斐の国の奉る驪馬(くろむま)は四つの足が皆な白かった。太子はこの馬を指差して、「これが神馬です」と言われた。ただちにこの馬を留めて、その他の馬は皆な返した。それで舎人の調子麻呂に申し付けてこれを飼育させた。
 秋の八月五日、太子は奏上して「薬草は人の命を保つ要です。それゆえ蓄えなければなりません」と言われた。天皇はただちに同意された。
 それで太子は、群臣を率いて山野に入り、薬草の種を教え、諸々の造(やつこ)に掘らさせた。この日、薬部を定めた。年毎に二月と八月に、薬草を掘らさせた。またおおせごとをして「年老い力が衰えて耕すことができない者は、薬草の根を掘って、これを薬部に売り、衣食を支給させよ」と言われた。
 また天皇に奏上して、新羅、百済、高麗に詔して、わが国の少ないところの薬を、綾衣(あやぎぬ)や錦繍(にしき)等にかえてこれを貢献させた。その後、薬蔵を造り、自国や他国の薬を蓄えた。求めに応じてこれを与えた。天下は皆な大いに悦んだ。
 この月、太子は、奏上して、「医術は世をととのい民を救う術です。当さに才能ある者にこれを学ばせるべきです」と言われた。
 これにおいて、輪毛織香(わけのをりか)、谿羽張戸(たにはのはりど)に命じて医術を学習させた。医生数十人を置いた。織香、張戸を共に薬司(くすし)に任じ、学医院を立て互にこれを担当させた。すなわち薬部を薬司に属させた。
 九月、太子は試みに甲斐の驪馬にまたがりたちまち雲に乗り空に昇った。太子は、鞭をあてて東に向かった。侍従が仰ぎみれば、調子麻呂が一人馬の右にいてただちに雲の中に入った。人は皆なこれに驚いた。三日の後、轡をめぐらして帰ってきて、ただちに左右に語って「わたしはこの馬に乗り、雲を踏み霧を凌いで、富士山に至り、ついでに陸奥に進んで、転じて信濃に入った。飛ぶことは雷電のようであり、三越をめぐっていま帰ってきたところです。お前、調子麻呂は疲れを忘れわたしに従ってくれた。まことに忠義者である」と言われた。調子麻呂は、頭を深く垂れて拝み「わたしは空を踏むことは知りませんでした。なお、陸地を歩むかのようでした。ただ諸々の山が足元にみえるのみで、それでいまだ疲れを覚えません」と言った。
 この秋、新羅王が孔雀のつがいを献上した。天皇はこれを見て、その美しさに驚かれた。
 太子は、奏上して「この鳥に驚かれるには及びません。鳳凰(ほうこう)という鳥がおります。南海の丹穴山(たんけつざん)にいる霊鳥です。聖人に徳がなければ、出現することはありません」と言われた。
 天皇は、「わたしは、夢で見ることができれば、本望である」と仰せられた。この夜、天皇は、夢で鳳凰を見られて、暁に起きてそのありさまを述べられた。太子は喜ばしいこととして「これは長寿の兆しです」と言われた。
 冬の十月、雁越の国司(くにのみこともち)が白鹿一頭を献上した。その色は白く雪のようであった。清らかなことはこの世のものとは思えなかった。頂の高さは二メートル四十センチ、身の長けは、一メートル五十センチ、角は二十四センチあり、十七の枝をもっていた。枝根ごとに皆な文字があった。琴、斗、月、台、鏡、竹、冠、契、龍、華、日、車、地、天、水、籠、鼎などと書かれていた。
 太子はこれを見られて衣冠を正し、ただちに奏上して「この白鹿は、麒麟の類です。神仙な獣です。千年経ってもなお得がたいものです。まさしく二メートル四十センチは麟の長けです。彼の麟を捕らえると雖も、この鹿を得ることはできないでしょう。十六枝の角は、これは仙鹿の王、万年を経ると雖も、またこのようなことはないでしょう。それなのに、一枝を増やして十七枝もあるのです。前代未聞というべきでしょう。その十七の数は、世法の数字です。その十の数は、これは五倫五常です。また七つの数は、五行とその生剋(せいこく)です。それで今これを得ることは、まさしく陛下の徳化が百姓に被り、四海に及んだのです。それゆえに、天は良い験をなすものです。そのようなことでもその徳は未だここに及ばなければ、反って凶となります。慎まなければならないのです。仰ぎ願わくば陛下、当に仁徳を行うべきです」と言われた。
 天皇は驚いて「わたしは休みなく己に打ち勝ち心を鎮めて臣を愛し民を養った。これはまた仁(じん)であるのではないか」と言われた。太子は首を垂れて拝み「仁の徳というものは広大にして限りないものです。その己に打ち勝って心を鎮め、臣を愛し、民を養うようなことは、すなわち人の君の常です。なんで天の験にあたりましょうや。仰ぎ願わくば陛下、今年の貢税を免除してください。その天瑞に当り希うことです」と言われた。
 天皇は大いに悦び、ただちに使いを六道に遣わして、諸国の屯倉を分けて、三つとして、その一つは臣等の田に代え、その二つは来年の料に当てて、民の今年の貢税を免除された。それで百姓は富み、四海は豊かになり、老人や稚児は嬉々として、喜びの声が巷に満ちた。。
 その後、白鹿を葛城山に放ち、長い間、ここの狩猟を禁じられた。


  太 子 十  2003・11

 推古天皇七年、皇太子は二十八歳になられた。春の三月、太子は天気をうかがわれ、「近かじか、地震が来るでしょう」」と申し上げた。ただちに天下に命じて家屋を固めさせた。夏の四月、地面が大きく振動した。家屋はことごとく壊れた。
 天皇は、群臣に詔して「わたしは皇太子の教えに従って、政を発し、仁徳を施して、天下の課税を除いたのに、天はなんでわたしをとがめるのに地震をもってし、民を苦しめられるのか」と言われた。
 太子は申し上げて「仁徳は広大であり、聖人でなければ、よく尽くすことができないのです。わたしが謹んでおもうに、乾の道は男であり、坤の道は女です。男は陽であり天に属し、女は陰であり地に属します。陰の道が足らなければ、陽は詰まって通ずることができません。陽の道が満たなければ、陰はふさがって達することができないのです。それゆえに地震がおきます。しかしながらいま、陛下は陰の体をもって陽の位におられ、徳を修めることは未だ充分ではありません。そのため、未だに四方に命じて政道の非を言うことはないのです。また、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を祭っても地震の神を祭っていません。そのため天はこれを責めています。願わくば、この二つのことを実行してください」と言われた。
 天皇は、大いに悦ばれて、天下に詔して、地震の神を祭らせ、諸国に訴へ部を置いて、民に政の非を言わさせた。 
 秋の九月、百済王は使いに朝貢させ、駱駝一頭、驢馬一頭、黒羊二頭、白雉一つがいを献上させた。この白雉は甚だ珍しく、その大きさは鵠のようであった。尾の長さは一メートル三十五センチで、花文字があった。その翼は二重で玉文字が描かれ、純白なことは雪のようであった。その書には「白雉はなおまれであるのにもまして、その大きさや羽の珍しいこと、千年と雖もいまだ聞かれず日本に向かって飛んだのです。これは陛下の徳化のしるしです。そのためこれを奉ります」としたためられていた。
 太子は、「白雉は鳳の類です。厚くこれをめでるべきです。そのほかは、かの国では普通の獣で稀有とするものではありません」と言われた。直ちに申し上げて、「天のしるしは吉であっても、しばしば現れるのは、いまだに現れないのと同じことです。去年は霊鹿が現れ、今年は霊雉が来ました。本当に慎まなければなりません。陛下におかれましてはますます仁徳を施してくださいますようにお願いいたします」と言われた。
 天皇は、「去年税を免除した。今年はまたどうすべきであろうか」と言われた。太子は、「民には田があります。課税しなければ富をうることができます。妻のない男、夫のない女、みなしご、年老いて子供のないもの、すべてよるべのない者は、狭い土地もありません。なんで贅沢を得ることができましようか。君は民の父母であります。どうして、悲しんで哀れまずにはおられましょうか。むかし、周の文王は、政をして仁徳を施すのにまずこれらの人々を先にしました。詩にも富める人がこれらの人々を哀れむことをたたえています」と言われた。
 天皇はまた悦び、大臣や大連に詔して悲田院を東門に建てられた。さらに諸国に悲養部を置いて、窮民に衣食を与えられた。そして、太子は自ら周の文王の像と祇園精舎を建てた須達長者の像を造られて悲田院に置かれた。天下の人々は大いに悦んだ。
 この月、太子は天皇に申し上げて、わが国の古い礼を、儒教や仏教の理にあわせて、これを潤色して新たに礼儀を制定された。人々は皆なこの法を守った。人の道は鮮明になった。
 冬の十月、神工と言われた鞍部鳥(くらつくりべのとり)が飛騨の国からやってきた。それより前に遡るが、鞍部多須奈(くらつくりべのたすな)が、親(みず)から深山(みやま)に入りて良材を求めた。そして、一人の神女に出会った。多須奈は悦んで愛した。遂に妊娠して子が生まれた。その首が鳥に似ていたので、鳥と名づけた。生まれつき器用でよく建物を造った。太子は鳥を寵愛した。二人で協議して、ぶんまわし、かねざし、たかばかり、みずなわなど、また建物を造る基準を定めた。それで、鳥を建築の棟梁とした。
 推古天皇八年、皇太子は二十九歳になられた。春の二月、新羅が任那を攻めた。天皇は、太子に問うて「わたしは新羅が任那を攻めたと聞いた。いま任那を救おうとおもう。どうしたらいいのだろう」と言われた。
 太子は、答えて「新羅は、油断のならない国です。勅命を受けずにしばしば任那を侵略します。滅亡しません。攻撃してくるでしょう。わたしが自ら軍を率いて、新羅を討って根絶しましょう」と答えられた。
 天皇は許されなかった。太子は重ねて許しを乞うた。それで、天皇は詔して、「このことを大神に伺がって判断したい」と言われた。巫女に命じて三輪神宮において、庭火をたき神の降りるのを待った。
 ときに大神は巫女に託して「わが国は、いままさに大経、大法が興らんとするときである。皇太子が不在ならば滅亡に至るかもしれない。その新羅の軍のごときで有利でないかもしれないが、天下に憂いあることはない。止めなさい。やめなさい。なんで皇太子を行かせて討たすのか」と言われた。
 これにおいて、境部臣(さかべのおむ)を大将軍とし、穂積(ほづみの)臣を副将軍とした。二万余兵を率いて直ちに新羅を撃ち、五城を抜いた。このため新羅王は、大いに恐怖して白旗をあげ将軍に降り、その六城を割いて降伏することを願った。将軍等は協議して、使者を送り申し上げて「新羅国王は、その罪を悟り、城を割いて降伏することを請うています。強いてこれを撃てば善くないでしょう」と言わさせた。
 天皇は、さらに浪華吉士神息(なにはのきしかみこ)を新羅に遣わし、浪華吉士木蓮子(なにはのきしいたこ)を任那に遣わして調べさせた。
 ときに新羅王と任那王はともに使者を立てて朝貢してきた。その書状に「天上には神があり、地上には天皇がおられます。この二柱の神を除いて何も恐れるに及びません。今より後は両国和睦してお互いに攻めることもなく、船の舵を乾かさず毎年必ず朝貢します」と認められていた。
 太子は申し上げて、「新羅は油断のならない国です。信じることはできませんが将軍らは気が緩んでいます。もし攻撃させれば必ず敗走するでしょう。それにすでに降伏した者を殺すこともできません。堅く十一城を守り将軍らを召し返すことにこしたことはありません」と言われた。天皇は同意された。
 秋の九月、新羅を討つ将軍らがみな帰ってきた。この年、新羅はまた任那を侵した。太子はこれを聞いて左右に語って「果たしてわたしの言ったとおりになってしまった」と言われた。
 推古天皇九年、皇太子は三十歳になられた。春の二月、太子ははじめて宮を斑鳩に建てられた。
 三月一日、太子は申し上げて「商業は天下に財を流通させる要です。市を国や県に立てて、民の交易を図るべきです」と言われた。天皇は同意された。これにおいて、はじめて市を三輪に設けて商人を集めて交易させた。これより諸々の国や県はみな毎月三のつく日と八のつく日に市を開いた。民は便利になった。
 五日、太子は申し上げて「高麗と百済に任那の緊急事態のときは救わせましょう」と言われた。それで、「大伴咋連(おほとものくひのむらじ)を高麗に行かせ、坂本糠手臣(さかもとのぬかでのおん)を百済に派遣した。詔して「任那がもし緊急事態が発生したときは、必ず支援するように」と伝えた。
 秋の九月、新羅の間者の迦摩多(かまた)が対馬に潜入した。国人がこれを捕らえて献った。天皇は酷い刑を加えようとしたが、太子は申し上げて上野(かみつけの)国に逃がされた。
 冬の十一月、新羅を攻撃することを協議した。太子が許されなかったので取りやめになった。

  太子 十一  2003.12

 推古天皇十年、皇太子は三十一歳になられた。天皇は、太子に詔して「今年は兵を興して新羅を征服しようとおもうがどうであろうか」と言われた。太子は「よろしいでしょう」と答えられた。
 春の二月、来目(くめの)皇子を征新羅将軍とした。諸々の神部(かむべ)および国造、伴造等、並びに軍勢二万五千人を授けた。夏の四月、将軍となった来目皇子は筑紫に到着し、島の郡に入り、船舶を集めて軍糧を調達した。
 六月、大伴咋連、坂本糠手臣が百済と高麗より帰ってきた。
 このとき、征新羅将軍の来目皇子は、病気に罹りいまだ征討の任が果たせなかった。太子はこれを聞いて左右に語って「新羅の奴らは将軍をいとう。恐らく新羅を討つことはできないであろう」と言われた。
 冬の十月、百済の僧である観勤(かんきん)がやってきた。暦本、天文、地理、遁甲(とんかふ)、方術の書物を献上した。このとき、書生の三、四人を選んで観勤につけて学ばせた。揚胡吏祖玉陳(やこのふびとのおやたまふる)は、暦法を学び、大友村主高聡(おほとものすぐりたかさと)は、天文と遁甲を学び、山背臣日立(やましろのおむひだち)は、方術を学んだ。その術を研究して皆なそれぞれに職業とした。
 閏の十月、三河の国司(くにのみこともち)が「わたしの国の桐生山に桐の木があります。伝えに神代からの木だそうです。その長さは百四十七メートル、太さは五十七メートル六十センチあり、枯れ枝が半分くらいあります。その中は洞穴になっていまして、あたかも大きな部屋のようです。龍がその上に住んでいて、ときどき雲や霧を出し、また大雨を降らします。その西に張り出した枝は五十四メートルあり、珍しい鳥がこの枝に住みついています。その長さは一メートル九十二センチ、尾の長さが三メートルあまり、全身が五色で金色がかった緑色をしていて、赤みがかった紫色の光が出ます。一尾が三つの茎からできており、十二色の濃淡をなしています。人はいまだその名を知りません。ある日たまたま三つの尾を落としました。それでここに献上いたします」と申し上げた。
 また、「その洞穴の中に一つの仏像があり、金属や石造ではなく、また、土や木製でもありません。手や指は宝の壷を持っているような形をしています」と申し上げた。
 太子はこれを聞いて直ちに申し上げて「これは鳳(おほとり)の尾でしょう。この鳥は丹欠にいます。これ以外の国にいることは希でしょう。この鳥は文徳を好みます。いま現れるのはきっと陛下が神皇の書物を読み、儒教や仏教をおひろめになっているからでしょう。かの仏像は薬師瑠璃光如来(やくしるりくわうによらい)で、国家を守護する仏像です」と言われた。のちに龍は去り寺が建立された。
 また申し上げて「わたしが聞いたところによりますと、中国の大舜のときに鳳凰が現れ、文王のときに鳳が岐山で鳴いたといわれます。そういうことでこの鳥は聖人が出ることがあると、のちに来るのです。しかしながらいま、陛下がいかに仁徳を施すといえいまだ尽きないところがあるのです。なんでこれを聖ということができましょうか。それゆえこの瑞祥に応えることができないのです。もしたやすくこれができたならば反って悪いことが起きるでしょう。懼れなければならないのです。願わくば陛下、いまにもまして仁徳を施されますように」と言われた。
 天皇は懼れて身の縮む思いをされて、「わたしの代にしばしば瑞祥がありました。そこで皇太子の教えに従い、ますます仁徳を行ってきました。しかしながら、まだ至らないところがあるのだろうか」と言われた。
 太子は「世には重病の者がいます。田舎には良く治す医者がいません。そのため人々の多くは成人に至らないで半数が亡くなっています。天下の王たる者は、この状況を憐れむべきです」と言われた。
 天皇はうなずかれた。それで、施薬院を帝城の西門に建立された。また、諸国に施薬部をおいて民の病苦を救った。ときに太子は、自ら大己貴大神(おほあなむちのおほんがみ)の像と、草をなめてその能毒を確かめたといわれる炎帝神農(えんていしんのう)の像とを造り、施薬院に安置された。国民は大いに悦んだ。
 この月、鳳の尾を太子に賜われ冠に加えられた。太子はこれを尊んで名づけて天皇冠と言われた。そして、再びこれをかぶることはなかった。
 推古天皇十一年、皇太子は三十二歳になられた。春の二月、征新羅将軍の来目皇子が筑紫で亡くなられた。太子は左右に語って「時節がいまだ到来しないのです。成功することはできないでしょう」と言われた。
 冬の十月、天皇は小墾田(をはりだの)宮に遷られた。天皇は諸々の僧に安宅神咒経(あんたくしんじゆきやう)を宮廷で講ずることを命じられた。
 とき太子は、申し上げて「先例には従わなくてはなりません」と言われた。まず、火焼(ほたき)の祭りを修めて、そののちに思うようになされてはいかがでしょう」と言われた。
 それで、火焼の祭りを宮廷に修めた。忌部と卜部が左右に立ち、壇を殿上に設けた。ときに神風が頻りに吹き、太麻(おほぬさ)が揺れ動き神明が降りて、隅々まで炎で明々と照らした。不思議な炎がたちまち四メートル五十センチほど立ち上り、天皇をはじめ群臣は大いに歓喜し、涙を流す者が多かった。
 十一月、太子は申し上げて大盾と矢を入れる靱(ゆき)を作らせた。また、旗や幟に絵を描いて武士の勇気を励まされた。軍旗に絵を描くことはこのときにはじまった。
 この月、秦の河勝の大連に命じて軍旅十二策を講じさせた。群臣は皆な軍旅を学んだ。
 十二月、太子ははじめて冠品を制定された。大徳小徳、大仁小仁、大礼小礼、大信小信、大義小義、大智小智、など十二階であった。これは鳳の尾の十二色に準ずるものであった。当時の色の布をもって縫ってあった。総じてその頂をつくり、袋のようにして縁取りしていた。ただ元旦にはそこに飾りを付けて節を祝った。
 ときに太子は群臣に語って、「五常がすべて備わるのを徳といい、人を愛し物を利するのを仁といい、恭敬の節あるのを礼といい、言行ともに実あるを信といい、よろしく行い私ないのを義といい、理を照らし述べるのを智といい、この六つが天下の大経、大法です。 わが国の天皇は、累代賢聖であり、言わなくともこれを行いました。異国の周公や孔子は、よく己を修めて人を教えました。いま階級の名前とすることは、階は必ずその徳によります。徳があればその階に登ることができます。群臣等は、まさに階によってその徳を忘れるこのないようにすべきです」と言われた。群臣は皆な大いに悦んだ。


  太子 十二 2004・3

 推古天皇十二年、皇太子は三十三歳になられた。春の正月、はじめて冠位を授けられた。各々差があった。
 夏の四月、太子ははじめて憲法十七条を制定された。手書きしてこれを奏上された。その十七の数は白鹿の角の十七枝の文字に準じていた。天皇は大いに悦ばれ、群臣は各々一本を写した。またこれを国々に配った。国民は皆な大いに悦んだ。
 秋の七月、朝礼を改めた。よってこれを詔して「およそ宮門を出入りするとき両手で地を押さえ両足でひざまづいてくぎりを越えれば立ってもよい」と言われた。
 八月、太子は秦の河勝の大連に語って「わたしは昨夜夢をみました。北の方角の五、六里のところに一つの美しい村がありました。楓の林がはなはだ香しく、卿が親族を率いてわたしを木の下で供応してくれました。非常なもてなしでした。わたしはそのようなところへ行ってみたい」と言われた。秦の大連が丁寧にお辞儀をして申し上げるのに「わたしの村はあたかも夢でみたようなところです」と申し上げた。その日のうちに駕籠を命じられた。大連が先導してその夕方には、泉河の北のほとりで宿営された。
 太子は左右に語って「わたしが死んだ後二百五十年経って、一人の僧侶が修行して仏法を尊び寺をこの地に建てるでしょう。その僧はほかでもないこれはわたしの後身の一つです。この弟子たちは、法を尊び灯を伝え末法のはじめに仏教が盛んになるでしょう」と言われた。
 その翌日、宇治橋に到着された。大連の親族は、盛装して馬に乗り橋のたもとに出迎え道に群がった。太子は左右に語って「大連の親族の家は裕福です。また手づからきぬ地を織り、衣服も美麗で国の宝です」と言われた。★
 木の郡に到着された。大連の親族は、各々煮たり焼いたりしてご馳走を振舞った。従者は二百人ばかりいたが、皆な満腹した。太子は大いに喜ばれた。この日は、楓野(かづらの)大関で宿営した。仮宮を蜂岡のふもとに造った。速やかに出来上がった。
 太子は左右に語って、「わたしがこの土地をみるに、優れた地形です。南は開き北は塞がっています。南は陽、北は陰、河はその前を経て東に流れて順をなしています。高い嶺は龍が棲家とし、常に守護しています。東に厳神がおり、西に猛霊がいます。二百年の後に一人の聖皇がでて都をここに遷すでしょう。王道は受けつがれて盛んになり、皇位は順調に相続され、古い仕来たりも失わずに伝えられます。そのため夢相を感じてしばしここに逗留します」と言われた。十日ほど留まって宮にお帰りになった。これより後は、年中、二だび三たび、あるいは一、二年隔てて、あるいは駕籠を待たずして、あるいは儀を整えて駕籠を召されたりした。
 冬の十二月、黄文(きぶみの)画師、山背(やましろの)画師、簀秦(すすはだの)画師、河内(かはちの)画師、猶(ならの)画師等に、諸寺の仏像を描かさせた。その戸の税は除き長く家業とされた。
 推古天皇十三年、皇太子は三十四歳になられた。夏の四月、天皇は嘗て太子の講説をお聞きになられて、篤く仏教の不思議を信じて、大誓願をおこして仏師の鞍部鳥(くらつくりのとり)に命じて、十八メートルの釈迦像を造らせた。このとき、高麗の国の大興王は釈迦像分の黄金三百両を献上した。太子は大いに悦んで天皇に奏上して、厚くこれに報いられた。
 この月、太子は申し上げて「兎道(うぢの)太子を祭るべきです。わたしが謹んでおもいますのに至富は天下を取るのに勝るものはありません。至貴は帝位に勝るものはありません。至宝は寿命に勝るものはありません。しかしながらこの太子は、義のために天下を棄てることは破れた靴を脱ぐようなものでした。悌のために帝位を辞することは草を束ねて犬の形をしたお供えを祭りが終わったら棄てますが、その飾りを打ちのめすようなものでした。道のために命を失うことは切れた絃を棄てるようなものでした。それに加えて、よく神道の極意を弘め、また周公や孔子を敬っています。まことに国民万世の師というべきです。よろしく兎道の太子を祭るべきです。およそ賢聖を祭るのには、その利は四つあります。その一つはその徳を報ずることです。その二つは天理に応えることです。三つには道を伝えることです。四つには後人に勧めることです。このように大切なことですので祭らなくてはならないのです。較べてみるべきです」と言われた。天皇も同意された。それで自ら兎道に赴いて、兎道の太子を祭られた。
 秋の閏七月、太子は会議を開いて各王や臣等に命じて皆な礼服用の付属具のひらおびを付けさせた。
 冬の十月、太子は新装なった斑鳩宮に移られた。出立するとき、天皇は涙を流して「わたしは天皇ではあるが、ただ皇太子に頼って政事を朝に夕に行っている。いま遠く斑鳩に別れることは、わたしの心は穏やかではない」と言われた。太子は辞する言葉として、「わたしは、斑鳩に離れますが、陛下を常にお守りいたします」と言われた。天皇は大いに悦び、宴をもち禄を与えられた。この後、太子は朝は驪馬(くろこま)にまたがり出仕しまつりごとを聞かれた。終われば斑鳩に帰った。怠ることはなく、人々はこれを不思議におもった。
 推古天皇十四年、皇太子は三十五歳になられた。春の三月、太子は斑鳩においでになったが直ちに駕籠に命じられて椎坂(しゐなさか)の北の岡に行き、平群(へぐり)の里を見渡し、左右に語って「ここは地形が優れています。二百年の後に都が遷ってくるかもしれません」と言われた。
 ときに平群神手臣(へぐりのかんでのおむ)は太子が近くにおいでになったことを聞き、大いに驚いて親族を集めて丁寧に挨拶に罷りこし、魚や鳥を献上した。太子は「わたしは仏法に帰依する身であり殺生は好まないのです。卿がお持ちになったものはわたしの好みではないのです。どうぞ菓子や花をよこしてください」と言われた。神手の臣は族人を率い競って花や果物を捧げて、太子の御輿の前に進んだ。太子は手をうって受け、念誦の言葉を与えられた。神手の臣等は、丁寧のお辞儀をしてあとずさりして退いた。
 太子はまた勢夜(せや)の里を望んで、左右に語って「ここには遷都するだけの気がないのです」と言われた。さらに区徳(くとく)の里を眺望して「三百年の後に、帝がお出かけになるかもしれない。平群の後は、臣下の気が感じられるのです」と言われた。
 夏の四月八日、金銅丈六釈迦仏の像を元興寺の金堂に安置した。ときに仏像は堂の戸口より高かった。そのため入れることができなかった。それで大工たちは協議して、戸口を破壊してこれを入れようとした。鞍部鳥(くらつくりべのとり)の技術は妙を極めていた。そのため戸を破壊せずに堂内に入れることができた。多くの人々はこれを不思議におもった。その日に大斎会を設け、数多の群集が押しかけた。その夕に五色の瑞雲が仏殿の甍を覆った。丈六の仏像はしばしば光明を放った。その中に火のように内外に映るものがあった。
 太子は奏上して「今年より年毎に四月八日と七月十五日には斎会を設けられますように」と言われた。
 五月、太子は奏上して仏の工の鞍部鳥が功を賞して、大仁の位と淡海の坂田の郡の水田二十町を賜った。
 秋の七月、天皇は太子に語って「わたしが世尊の説くところの仏法は味わい甚だ深く微妙で、なかんずく勝鬘経の理は奥深いものがあると聞きます。どうかわたしの前でその経を講説してほしい」と言われた。太子は断って「このごろ当に義疏を作ろうと取り掛かっているのですが、いまだ理解できないところがあるのです。五、六日熟読了解して講説したいとおもいますので、お待ちください」と言われた。
 すでに太子は試みに講説された。天皇は、諸々の名僧と大徳に命じてその妙義を質問させた。太子の答弁はとどまることがなく、滝の水の流れのようであった。
 その法を説くときに麈尾(しゆび)をもって獅子座に登り、その様子はまるで僧侶のようであった。釈迦の心をたくみに述べ、詳しく恩義を講義された。僧も俗人もみな驚いて感涙を流した。三日にしてその講説は終わった。
 この夜、天は金光を放ち賓花が降って乱れ飛んだ。その長さは六十センチあるいは九十センチくらいで、四百メートル四方の地に満ちた。翌朝、これを申し上げると、天皇は大いに不思議がられ、車駕でこれを見に出かけられた。そしてこの地に精舎を建立することを誓われた。
 天皇は太子に語って「法華経は世尊の本来の気持ちを表している。わたしのために講説してほしい」と言われた。太子は詔をいただいて、また僧侶のように身なりをととのえて岡本の宮で講説された。
 七日にしてようやく終了された。天皇、諸王、大連、大臣以下信じないものはいなかった。天皇は大いに歓喜し、播磨の国の水田四百六十ヘクタールを太子に与えられた。太子はこれを法隆寺に入れられた。
 この年、太子は略された法華経と勝鬘経の義疏を作成された。しかも独自のものであった。高麗の僧、慧慈以下、各々講場で論議が尽くされた。太子は取捨して正しい意義に合わせた。それで確定の意思を示された。


  太子 十三 2004・9

 推古天皇十五年、皇太子は三十六歳になられた。春の二月、天皇は詔して「わたしが聞いたところによると、むかしわが皇祖天皇は天を継ぎ、位に即き、賢聖が相い受けて、代々天下を治めてきた。恐れ多くもよく俊徳をあきらかにして、厚く神祇を敬い、あまねく山川を祭り、遥かに乾坤に通じて、明かに陰陽に調和していた。いまわたしの世になって神祇を祭祀することを怠ってはならない。群臣は心を尽くして神祇を祭って欲しい」と言われた。
 このため、太子をはじめとして大臣、大連等は礼を整えて天神地祇(あまつかみくにつかみ)を祭った。ときに太子は、祭祀の礼儀を正された。
 秋の七月、太子は奏上して「中国は聖賢がでて文道が大いに行われ、礼儀がよく整っています。それのみでなく、インドの隣で、僧侶が行き来し仏法が流布しています。わが国の神教はもとより足りないことはないのです。しかしながらその道が深遠で難しく、普通の人では容易に理解することはできないのです。願うことには陛下、使いを派遣して好みを結び、彼の国の書物を入れてわが道を興隆させましよう」と言われた。
 天皇は「皇太子の意見はよいことではないか。しかしながら誰を使者として派遣したらいいであろうか」と言われた。それで太子は、あまねく群臣と面接して「大礼の小野の臣妹子は知勇兼ね備えております。この者にいたしましょう」と言われた。それにおいて小野の臣妹子を遣隋使とされ、鞍作の福利(とよとし)を通訳とされた。
 ときに太子は自ら国書をお書きになられた。その文面はつぎのとおりであった。
 「日の出るところの天皇は、月の見える帝皇にうかがいます。わたくしは海のはずれであなたの消息を聞いております。海を遠く隔てていまだ国交がありません。いま謹んであなたの健康を気遣います。これは同じ天をいただいている好みとおもうからです。したがいまして、大礼の小野の妹子をして久しくおもっております心を述べさせます。ついでに土産を献上し、書翰を書くことはこの通りであります」
 秋の九月、太子は奏上して「民の命は水田にかかっています。水田の元はため池にあります。もし厳しい日照りになれば、民は天を恨みます。天は黙ってこれを知り禍を国に降します。願わくば諸国に命じて民に池を築かせますように」と言われた。天皇は大いに悦び、大臣にこれを実行させた。
 冬の十月、大和国に、高市の池、藤原の池、片岡の池、菅原の池、三立の池、山田の池、剣の池を作った。山城の国に、大溝を栗隈に掘った。河内の国に、戸刈の池、依網(よさみ)の池、大津の池、安宿(やすかべ)の池などを作った。使いを諸国に遣わして大小にしたがって池を作らせた。また、国ごとに屯倉を設置した。ことがかなって太子は「国中は、厳しい日照りの憂いがなくなり、百姓は富んで楽になりました」と奏上された。
 推古天皇十六年、皇太子は三十七歳になられた。夏の四月、大礼の小野の臣妹子が隋国より帰ってきた。ときに隋国の使者である裴世清等十二人は妹子の臣にしたがって筑紫に到着した。これより先に、隋の人は日本語に通じず、小野を蘇と言い、妹子を因高と発音した。
 六月、妹子の臣や隋の使者等はともに浪花の館に到着した。
 ときに妹子の臣は、申し上げて「わたしが百済を通過するとき、百済の人が隋の国書を奪っていきました。それで国書を奉呈することができません」と言った。群臣は協議して「妹子は不注意で隋の国書を紛失してしまったので流刑に処すべきです」と言った。
 天皇は太子に質問されて「これをどのように処断したらいいのであろうか」と言われた。太子は答えて「妹子の罪はまことに許すべきではありません。しかしながら善隣友好を築いたのは妹子の功績です。この功績は、罪をあがなうのに足ります。それのみならず隋国の使者が聞き及んだら善くはありません」と言われた。天皇は悦んで妹子の罪をお許しになられた。
 しかしながら、隋国の報書は不敬で、もしこれを上げれば友好に支障が生じるため偽って国書をうしなったと言って奉呈しなかったのでした。
 秋の八月三日、隋国の使者である裴世清等が都に入った。詔があって飾り立てられた七十五匹の馬をだして椿市の街角に迎えさせた。そのとき太子は普段着でこれを視察された。裴世清は、遥かに太子がおいでになる林の上を見上げて、左右に語って「あそこに真人の気があります」と言った。その下を通るときに馬より下りて敬意を表した。見る人は奇異におもった。
 隋帝の書はつぎのとおりであった。
 「わたし皇帝は日本の天皇にうかがいます。使者の蘇因高等が参りともに語らいました。わたしは、謹んで天命を受けて、皇帝の位に即き、徳をひろめんことをこころざし、身につけている霊妙な徳を及ぼし身に受けさせています。愛育するこころは遠近で隔てることはありません。天皇は海のかなたに住み、民を安んじ、全土を安楽に、風俗は融和し、こころは極めて誠実であり、遠く朝貢してきました。こころが誠実であることはわたしが喜びとするところです。このごろ平穏であることはいつものようです。それゆえ外交を掌る裴世清等をしてようやく使者のおもむきを述べさせます。そして土産物を贈ることは別のとおりです。」
 天皇は太子に問うて「この書はどういうことであろうか」と言われた。太子は答えて「これは天子が諸侯王に与える書式です。しかしながら、皇帝の文字は、天子の称号であり、倭皇の文字を用いています。皇帝にはその礼がみられます。いちおうありがたく収めるべきでしょう」と言われた。天皇はこれを了承された。
 四日、隋国の使者等を朝廷に召した。ときに太子は簾を巻いて裴世清等を見渡した。その威儀は整いうやうやしく堂々としていた。裴世清等はふるえ恐れて地に伏して、敢えて仰ぎみることができなかった。★
 太子はただちに裴世清等を責めて「隋帝の書は、どのような理由でこのように不敬なのですか。わが国の天皇は、日の神の末裔、天地開闢よりあい伝えられ皇位を継承してきています。それゆえ姓氏はないのです。西は三韓、東は二夷、海外の諸蕃で服従しない者はいません。古よりこのかた、他国がわが国に服することがあっても、わが国は他国に従うことはありませんでした。しかしながらいま、隋帝は遠くにいて傲慢で礼がなく、わが国をもって諸侯と同列に扱かおうとするのはどういうことですか。わが国はいまだ隋国を撃たないのはもとは貴国を臣としようとしないためです。隋国がいまだわが国を撃たないのはもと彼をもって君としようとしないからです。わが国はもと隋国の力を頼ってこの国を治めようとするのではありません。隋国はまたわが国を頼って彼の国を立てようとするのではありません。それはこのとおりです。両国は対等で高低があるのではありません。隋帝の書はなにによって不敬なのですか。文書を交換し好を結ぶようなことはお互いにその利益を欲するものだと考えます。もし、これをもって臣として従うことには容易に容認できることではありません。むかし漢の明帝は使者をインドに派遣して仏教を求めました。これは漢がくだって臣になろうというものではないとおもいます。また、インドを昇らせて君となるというものでもないとおもいます。いまわが国と隋国との関係はまたこのようなものだと理解します。隋帝の書はなにゆえ不敬なのですか。まさにいま、隋の国書を破り、あなた方を処罰して、無礼の仕返しをしようと考えたのですが、しかしながら天皇は心が広く一字の礼をもって多くの言葉の不敬をお許しになるのです。この後はその傲慢さを誡めるべきです」と言われた。これをもって、裴世清等は大いに驚きおののいて、丁寧にお辞儀を重ねて退室した。五日、隋国の使者たちを朝廷で供応した。
 九月、隋国の使者裴世清等は、皆な帰国することになった。このとき、また小野妹子を正使とし、吉士雄成(きしのおなり)を副使とし、さらに鞍作福利(のとよとし)を通訳に任じて、隋国に赴かせた。
 天皇は隋帝に書を贈ることになった。太子は筆を執って、つぎのように文面をしたためられた。
 「東の天皇が西の皇帝に差し上げます。使者の裴世清等が参り、久しく抱いていた思いが告げられました。季節は秋、少々冷たくなりましたが、ご貴殿はさわやかなこととおもいます。いま、大礼の小野妹子や吉士雄成等を再度訪問させましたのでよろしくお願します」
 ときに太子は奏上して、高向漢人玄理(たかむくあやひとくろまさ)等八人に命じて隋国に派遣した。
 この月の十五日、太子は斑鳩宮にいて夢殿の内に入り、寝るところを設けられた。月ごとに三度入浴し、翌朝海外のことを述べられた。
 諸々のお経の解説を作成する際、もし解釈に行き詰まることがあれば、ただちに夢殿にお入りになられた。ことごとに神人が現れて、しかも東のほうからこられた。教えることは妙を得ていた。この日は戸を閉めて開かなかった。飲食もとらず、近習もお召しにならなかった。妃ももとより誰も近づくことができなかった。すでに七日七夜に及んだ。皆なこれを大いに怪しんだ。
 慧慈法師は「殿下はただいま三昧定に入っています。皆さんは必ず太子を驚かさないようにしてください」と言われた。その八日の朝、机の上に一巻のお経が置かれていた。ただちに慧慈法師を召して「これはわたしの前身が衡山で修行していたころ持っていた経です。わたしはこのごろ魂を飛ばして持ってきました」と告げられた。そしてただちに脱字を指して慧慈法師に示された。慧慈法師は大いに驚いて怪しんだ。

  太子 十四 2005・2

 推古天皇十七年、皇太子は三十八歳になられた。夏の四月八日、太子は始めて勝鬘経の義疏を作成された。この月、百済の僧、道欣(どうきん)等十人が肥後の国に流着した。そこで太子のうわさを聞いて、この国にとどまることを願い出た。それで元興寺に入れた。
 この年、太子は天皇に奏上して「神儒仏の三教は、天理で人為のものではありません。もし理解できなければ政治を行うことができません。上代には人は皆な正直で、理解できなくとも政道は自ずから行われました。後世では人は邪曲になり、それゆえに理解しなければ政道は正しく行われません。もし理解しようとすれば、これを四つに分け、これを通して二つにして、これを合わせて一つにします。もし偏見があってその真理を知ることができなければ、必ず政道を損うことになります。このことを推察しなければならないとおもいます」と言われた。
 天皇は答えて「わたしはおろかですが太子の教えるところに従っておおむね理解している。たしかに儒教は人倫、仏法は奥深いもの、これは二つのもので一つのものではない。しかし、神道は元は二つであり、神代と王代である。神道は霊妙で推し量ることができない。王政は人倫の常、もとは一つでも分けて二つになる。この両ほうの二つを指して四つになるものである。
 神道と仏法とはその極みを一つにする。儒教と王政とはその人倫を一つにする。これを通じて二つとなるものである。
 神道は王政を出して、その理をあきらかにし、王政は神道に帰してその理を密にする。その理は天の真理であり、これを習得するには誠や敬虔が必要である。これを合わせて一つになるのである」と言われた。
 太子は「陛下のお言葉は優れており、よく三教に通じて政道を行うに不足はありません。仏教は奥深い道であり、その余の功は人倫を修めることができます。儒教は人倫の道です。その余の功は奥深さをあきらかにすることです。神道は、その両方の端をとり、一つにして理を等しくします。
 たしかに君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信などの五倫、仁、義、礼、智、信などの五常は、日本、中国、インドの三教の本来の道です。知る者はもとよりこれを行い、知らない者でもまたこれを行います。烏の孝鳥は長ずればその母に反哺するといわれ、虎や狼にも仁があると言われます。そのように必ずしも周公や孔子の教えによるものではありません。周公や孔子の教えは五倫の精、五常の微、これを儒といいます。知者はよく学びますが、愚者は学ぶに堪えないのです。
 仏法は、詳しく三つの世界を説きます。生前の行為の善悪により、当然に来るべき罪悪や福徳をなします。迷えば生死を長くし、悟ったならば涅槃を得ます。愚者は報いを畏れて悪事をやめ、知者は心を鎮め本来の性を取り戻します。
 神道はこの二つの教えを兼ね備えており、そのもとを明らかにします。とはいうものの人代は久しくはありません。いまだ学問として成り立たず、その教えは少ないのです。そのため儒教や仏教をひろめ、それによって神道を補うべきです」と言われた。
 推古天皇十八年、皇太子は三十九歳になられた。春の三月、高麗(こま)の僧の曇徽(どんき)と法定(ほうじょう)が来朝した。曇徽は、易経、書経、詩経、礼紀、春秋などの五経に精通していた。またよく彩色や紙や墨、それに水車をまわして粉をひく石臼を作った。それよりまえは、わが国は百済、高麗、新羅の紙を用いていた。それで、太子は曇徽にはじめて和紙四種類を作らせた。一つ目は雲紙(くもがみ)で堅くて滑らかなもので教典を書くのに用いられた。二つ目は縮紙(ちぢみがみ)で強くて柔らかで王公の書に用いられた。三つ目は白紙(しらがみ)で柔らかで厚く士分の人の書に用いられた。四つ目は俗紙(はながみ)で柔らかく薄く雑事に用いられた。また、国や郡に命じて俗紙を作るために楮(こうぞ)を植えることを教えた。こののち、世の中に紙が出回り、民はみなよろこんだ。
 秋の九月、太子は驪馬(くろこま)にまたがり小墾田の宮に出かけられた。驪馬はあやまって太子を踏んでしまった。太子は少し驚いて、斑鳩の宮に引き返えされた。そのためか、驪馬は草を食べずまた水も飲まず、両耳をおおい両目を閉ざして過ちを悔やむようであった。太子はこれを聞いて人をやって草を食べ水を飲むようにと言わさせた。するとただちに目を開け水を飲み草を食べた。
 冬の十月、膳大娘姫(かしわでのおほいらつびめ)が太子の傍に座っていた。太子は語りかけて「あなたはよくわたしの心を知り、何事も違わず、あなたを得たことはわたしの幸せです。わたしが死ぐ日に同じ穴に共に埋葬されることを望みます」と言われた。大娘姫は申し上げて「殿下の恩は深くわたしのようなものが寝室を共にしています。常に思いますのはとこしえに磐石で不動であり大山のようです。朝夕の供養をすればわたしの幸いは足ります。何で終わることがありましようか」と言われた。太子は「そのようなことはないのです。始めがあれば必ず終りがあります。生があれば必ず死があるのは自然の理です。どうして死なないことができますか。わたしはむかし数十身を経て修業して道をたかめました。わずかにわが国の皇太子となりました。しかしながら、三教を興隆することができました。わたしの願いはすでにかなえられました。わたしは久しく命濁、衆濁、煩悩濁、見濁、劫濁などの五濁に浸かっていることを好まないのです」と言われた。大娘姫は、涙を流して「殿下がお亡くなりになったのち、わたしは誰を夫としたらいいのですか」と言われた。太子は「あなたはわたしにこころをとどめてはならないのです」と言われた。膳の大娘姫の人となりは、聡明で敏捷で叡智であられた。太子のお体が痒いところがあれば、そのところを言わなくともあらかじめ知ってそこを掻かれた。群臣を召そうとされれば、これを先に察してこれを召された。太子の欲するところの諸々のことをあらかじめ察せてそのこころにそぐわないことはなかった。そのため寵愛することはもちろんのこと、同じ墳墓に葬ることを許された。
 推古天皇十九年、皇太子は四十歳になられた。春の正月二十五日に、勝鬘経義疏を完成された。ただちに慧慈法師等の大徳をしてこれを校閲させた。皆な讃歎して読み習い一字も追加することなく、また一字も削除するところもなくうやうやしくおしいただいて言葉も発する者もいなかった。
 夏の五月五日に、太子は衣冠を整えて群臣等を率いて兎田野に入り薬草を採取された。まさしく医療を重んじられたためである。これより後は年毎に薬狩りが行われた。
 この月に、天皇は兎田野に出向かれ、山や沢を管理する者たちが獣を追うのをご覧になった。太子は諌めて「殺生の罪は仏教の最も重んずるところです。孔子もようやく礼を発しています。それで釣りをすれども網を用いない、矢に糸をつけて射ることはしても、巣箱ごと獲るようなことはしないのです。釈迦の不殺生戒は、ただちに儒教では仁に当たります。陛下、願わくばこのことをやめられますように」と言われた。天皇は「わたしは女王ですが殺生を好みました。これはわたしの過ちです」と言われた。深く恥じてそれ以後、太子のためにこれを断たれた。
 このとき、間人(はしひと)の皇后は病が篤かった。太子は憂いてやつれられた。衣冠を解かず日夜看病された。十一日を経て皇后は崩御された。太子は慟哭され、ただちにもがりの宮に入ってでてこられなかった。葬送のとき太子は憔悴して枯れてしまうほどであった。みる者は皆な感じて、涙を流さない者はいなかった。
 推古天皇二十年、皇太子は四十一歳になられた。春の正月七日に、太子は奏上して「隋帝は本朝を以て諸侯王と同列に扱おうとしています。しかしながらわたしは従うことはできません。主張するのにわが国の成り立ちを説いています。恐らく隋帝は喜ばないでしょう。もしかすると攻撃してくるかもしれません。いまためしに軍をおこして三韓を撃ちましょう。もしわが軍が弱ければ隋はかならず軍を発するでしょう。わが国のほうが強ければ隋はかならず和睦を申し入れてくるでしょう。三韓は隋に近いのです。隋のほうがもし強ければ、三韓はわが国に背くでしょう。したがって備えなければならないのです。まさに番衆を十一に分け、新羅に派遣して十一城を置いて速やかに困難を救うべきです」と言われた。天皇は裁可して番衆を新羅に赴かせた。
 この日、太子は再び奏上して「先の帝よりこのかた新羅はややもすれば任那を侵しました。その罪はかえってわが国にあります。かならずしも新羅にあるのではありません。なんで先代はにわかに新羅の属国を奪って百済に附したのでしょう。これに加えて新羅は大国であり、年毎に朝貢してきます。久しく苦労がありますが、それなのに少しでも怠れば直ちに責められ、いまだかって徳のある扱いを受けていません。なんでその恨み含まれないでいましようか。いま仁徳を海内に施しても、しかしながらいまだに新羅に及んでいません。それゆえに新羅は一度は畏れて服従しますが、恨みが解けなければまた離反します。それゆえ恨みを解くには仁徳を施すにしくはないのです。願わくば陛下、新羅を怒らず、扱うのに仁徳をもって扱ってください。
 ときに蘇我の大臣は、歎じて「皇太子の言葉は素晴らしい。ただ新羅を援助するのみではなく、また隋の攻撃にも備えている」と言った。
 太子は「そうではありません。いやしくもためにするところがあって行うことは仁徳とは言わないのです。ゆえに孔子は仁は難しいものを先にし、利益になるものを後にするのです。この言葉こそ誠なのです」と言われた。蘇我の大臣は、顔を赤らめて大いに恥じた。
 これに於いて、天皇は大臣や大連などに詔して、米一万五千石を高麗、新羅、百済の諸王や国民に配布した。
 その月の十五日、太子ははじめて維摩経の義疏を作成された。
 夏の五月、百済から帰化する者がいた。その顔や体には皆な白い斑点があった。自ら「よく山岳の形を造り、また橋を架ける瀬を知っています」と言った。群臣は皆なきらってこれを採用しようとはしなかった。太子は奏上してこれをとどめられた。
 その後、この男は須弥山の形や呉橋の形を南庭に造った。太子は「よく橋を架ける瀬を知る人は国家に利益をもたらします。よく山形を造ることは、精巧を極めます」と言われた。ただちに斑人を輿に乗らして諸国に行かせて、三河の矢作の橋、遠江の浜名橋など百八十余の橋を架けさせた。これより後は、往来する旅人ははなはだ便利になった。太子は「才のない美容を愛することは、人に害のある鼠を飼うようなものであり、才あるが醜い人を憎むことは人に役立つ馬を放つようなものです」と言われた。
 この月、太子は奏上して「礼は王道の急務です。しかしながら礼があっても楽がなければ品節にかかわって、やすらぎや楽しむことを失ってしまいます。それゆえ神代には神楽があります。異国の聖人や賢人は、礼と楽をともに用います。しかし、いま神楽を人事に用いたならば畏れはばかるところがあります。なすべきこととして異国の楽を用いてみましょう」と言われた。それで周の楽人を百済の国から召された。
 この年、百済の楽人である、味摩之(みまし)、加多意(かたい)、乙中芳(いつちゅうほう)等が帰化してやってきた。申し上げるのには「私どもは舞楽を呉国に学んで得ております」という。それで、桜井村に住まわせ、少年たちを集めてこれを習わせた。真野の臣の弟子の新漢斉文(にいあやのとこふみ)等がこれを習って舞楽を伝えた。そうこうしているうちに、和韓あいまじわりこれを演奏した。しかしながら、世の人たちにはこれを楽しむ者は極めて少なかった。
 ときに太子は「楽というものはその楽しむところに目的があるのです。楽しまなければ楽とはいえないのです」と言われた。
 ただちに秦の河勝の大連と図って、六十六番の仮面、三十二番の歌舞をつくり、猿女君(さるめのきみ)の伝えに準じて、これを名づけて猿楽といった。これにおいて、新漢斉文(にゐあやのときふみ)らに命じてこれを熟習させた。のちに朝廷で演奏させた。世の人々は大いに悦びその恩恵を感じ取った。
 このとき、住吉(すみのえ)大神は巫女に託して「いま皇太子の作ったところの歌舞はこれはわがご神体である。そうであるから、よくわが気風に応じる。祭祀のときによろしくこれを奏でなさい。しかるいま願うことにはこの曲のはじめにおいて、まずわが三神の相をみせ、われはこれ高貴徳王菩薩(こうきとくのうぼさつ)、また妙幢菩薩(めうどのぼさつ)と名づける。天にありては高皇産霊尊(たかんみむすびのみこと)、地にあれば大己貴大神(おほあなむちのおほんかみ)、海にあれば彦波瀲武尊(ひこなぎさたけのみこと)、このかたがたは一体分身の神である」と話された。
 太子はこれを聞かれて、三番の仮面をお作りになった。一つは白色で、天をかたどったものである。一つは肉色で人をかたどったものである。もう一つは黒色で地をかたどったものである。これを神前で奏し、神と人が和し、天下の人々はみな楽しんだ。

  太子 十五 2005・2

 推古天皇二十一年、皇太子は四十二歳になられた。冬の十一月、太子は奏上して、掖上(わきのかみの)池、畝傍(うねびの)池、和珥(わにの)池を作られた。また、浪花より京都(みやこ)に至る大路(おほじ)を作られた。
 十二月一日、太子は片岡に出かけられた。そのとき一人の乞食が道の傍らに臥せっていた。驪馬(くろこま)がここに来て前に進もうとしなかった。太子は鞭をあてられた。しかしながら、後ずさりしてなおとどまった。太子は自ら「あいあい」と言われて馬より下りられた。舎人の調子麻呂が走り寄り杖を奉った。太子は歩行して乞食の側に寄り、語って「あなたはどなたですか。気の毒に、気の毒に」と言われ、着ていた紫の上着を脱いでその身を覆われた。
 そして、歌を賜われた。

 「しなてるや かたをかやまに いゐにうえて ふせるそのたびびと あはれおやなしに なれなりけめや さすたけの きみはやなくも いゐにうえて そのたびびとあはれ」

 ときに乞食は、首をあげて歌を返した。

 「いかるがの とみのをがはの たえばこそ わがおほきみの みなはわすれめ」

 その乞食の姿は、面は長く、頭は大きく、両耳は長く、目は細長で、目を開ければうちが金色に光った。身体ははなはだ香しかった。太子は調子麻呂に「この乞食は香しいとおもうがどうか」と問われた。調子麻呂は「はなはだ香しいです」と答えた。 太子は「あなたは必ず長生きされる」と言葉をかけられた。乞食と太子と語ること数十語、人々は理解することができなかった。宮に帰った後、使いをやってみさせられた。復命するのに「乞食はすでに亡くなっています」と云った。太子は大いに哀れみ厚く埋葬させ、墓は高く大きかった。
 ときに蘇我の大臣や七大夫等は、皆んなでこれを協議して「殿下の聖徳ははかりしりませんが、すぐれた事績には迷いやすいところがあります。しかしながら道端の乞食は卑賤な者です。どのような理由があって馬を下りて話し合われ、また歌を贈られたのですか。さらに、なくなったときに厚く埋葬したのですか。このことを天下の道とすべきではないでしょう」といった。
 太子はこれを聞いてただちに七大夫等を召して、「卿らはただちに片岡に行って墓を暴いてこれをみてきなさい」と言われた。七大夫等はその言葉をうけて、行ってその棺を開いた。墓は崩されず、棺のふたも壊れていないのに、屍はなかった。棺のうちははなはだ香しく、太子が送った紫の長い上着や供え物の飾りは皆な棺の上におかれていた。七大夫等は大いに不思議におもい、深くその聖徳と不可思議を歎じてただちに復命した。
 太子は、朝に夕に慕われ、常に乞食の歌を称えられた。ただちに舎人に仕舞ってあった着物を持ってこさせて付けられたことはもとのとおりであった。時の人は大いに不思議がられ、「ただ聖と聖のみが知ることで尊いことだ」と言い合った。
 この年の九月十五日に、維摩経の義疏が完成した。
 推古天皇二十二年、皇太子は四十三歳になられた。春の正月一日、太子は朝早く駕籠に乗って朝参された。途中、中臣(なかどみの)大夫御食子(みけご)の門前を通りかかった。その家を眺めて「不思議なことがあるものです、この家には聖人の気があります」と言われた。ただちに使いにこのことを問わせられた。すると家の主人である御食子大夫が門に出てきて丁寧に挨拶をして「わたしの家がなんで聖人の気がありましようや。ただいま、妻が子を産みましたのみです」と申し上げた。太子は「その生まれた子はきっと聖人になるでしょう。いまにいい兆しがあるでしょう」と言われた。御食子は「白狐が、鎌をくわえてきました」と答えた。太子は「さらにいい兆候があるでしょう」と言われた。御食子はただちにいい知らせを求めた。庭の松に藤が巻きついて、朝、数十糸の花をつけていた。太子は「卿の子孫は必ず繁栄するでしょう」と言われた。
 八日に、太子は始めて法華経の義疏を作成された。
 推古天皇二十三年、皇太子は四十四歳になられた。夏の四月十五日、法華経の義疏を完成された。
 冬の十一月、高麗の僧慧慈が帰国した。太子は、慧慈に対して師資(しし)の礼をもって、厚く録物(ろくぶつ)を賜わった。慧慈は、固辞して「愚僧は殿下の弟子です。何んで反(かへつ)て殿下をもって弟子としなければならないのですか」と申し上げた。別れに臨んで涙を流して申しあげて「会ひ難く、別れやすいのは人の常です。天は一つであり、同じように覆っています。魂を殿下の前に留めます。愚僧は、望むことができるならば必ず浄土でお会いいたしましょう。どうぞお体を大切になさってください」と言われた。時に太子は、目頭をあつくされた。
 推古天皇二十四年、皇太子は四十五歳になられた。夏の五月三日、天皇は病をおもくされた。太子は大いに憂へて、天皇の長寿を願って、諸々の伽藍を建てることを誓願された。するとただちに回復された。このため、大臣、大連、大夫より以下、諸国の国造、伴造等は、各々に財力に従い寺塔を建てることを誓かった。
 秋の七月、新羅国王は、使を派遣して長け二尺の金の仏像を献上してきた。ただちに蜂岡寺に置いた。この仏像は、光を放った。ときどき不思議なことがおこった。太子は、秦河勝大連に語って「この仏像には霊があり、汚してはならないのです。清浄なところに安置して、みだりに拝まさせないように。愚 民は、もし触れて過ちがあれば、その人は必ず禍を受けるでしょう。護法の善神である毘沙門天でも、応さに守護できないでしょう」と言われた。大連は、謹んでお言葉を聞き、これを記録にとどめ後世に伝えた。
 推古天皇二十五年、皇太子は四十六歳になられた。夏の四月八日、天皇は太子に勅(みことのり)して「皇太子は、先年、勝鬘経を講説された。これより天下は泰平で、国土は安穏です。わたしはいま経義を思うに、再三思念するのですが、忘れてしまいます。そのところを読むのですが、なおその意味に迷うのです。願わくはまたわたしの前でその経文を講演してほしい」と言われた。太子は今度は辞退されず、香をたいて天皇の前で講演された。外国の法師たちはともに座ってこれを聞いた。三日間続いた。天皇は大いに喜ばれた。
 蘇我の大臣は、申し上げて「皇太子の講説されたところの勝鬘経の教義は、微に入り機に出で、内に通じ、外を該(か)ねざることはなかったと思います。漢皇は、夢で仏像が東に向かって飛び去るのを見て、人はよく道をひろめます。これを知ることは今にあります。伏して思いますに、陛下は聖であり理解できないところはなく、こころは広く、該ねざるところはありません。西方におります聖人の道は妙で深く、殿下は口を開き舌を吐きます。その声は玉を振るうようです。後世の人々は変化して浄土にのぼり、劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、寿命濁などの五濁の悪い時代は還て正義の味方の転輪聖王となります。思いが及ばない功やはかることのできない労苦、もって恩に報い、徳を謝せざるをえないものです」と言った。    
 これにおいて、、天皇は、大臣に命じて太子に湯沐(ゆもく)の戸数を加え、費用は通常の二倍にした。太子は辞退したが天皇はお許しにならなかった。太子は建立中の寺々に分けあたえた。 
 六月、出雲の国司(くにのみこともち)が、珍しい瓜を三つ献上した。その長さや周りは各々二尺余りで、味は甘く蜜のようで、かぐわしかった。天皇は、不思議に思ってただちに太子に、「これをどのようにしたらいいであろうか」と尋ねられた。太子はただちに答えられて「「天からの恵みはただちにたべるべきでしょう、しかしながらただちにこれを食べるといえども王は非常には用いないのです、臣下に与えればよろしいでしょう。ただちに諸王や諸卿に与えた。諸王たちは、太子に問いて、て曰く。いただいた瓜をどうしたものであろうか。太子は、答えて、天はこれを恵み賜い、また、君がこれを与えて恵んでくれたのです。あなた方はこれを謹んで食べるべきです。            
  秋の九月、太子は、駕籠を召されて奈良の里にお出かけになられた。ただちに東の山の下を指して「わたしが死んだのち百年ばかり経って一人の天皇があらわれ篤く仏教を信じ、あの谷の前、この岡の上に伽藍を建て仏教が盛んにするでしょう。また西の原を指してあの平野に塔や廟が立ち並ぶ、あまねく四方をご覧になってこの地は都を立てるにふさわしい土地です」と言われた。
 この年、五穀が大いに実り、平年の五倍にもなった。諸国の民は平年の三倍の年貢を納入することを願い出た。朝廷はこれを許さなかった。民は強いて三倍の米を入れた。それで二倍の米を返し、一倍の米を入れた。 民はあえてこれを受け取らなかった。太子は命令を下して、その一倍を以て、これを庶民にかえしその一倍を以て、これを配偶者を亡くして孤独になった老人や隠遁者、山の中や海辺の民に与えた。残りの一倍を三つに分けその一分を神社に寄進し、その一分を諸王及び諸臣に与え、その一分を職人や商人に与えられた。
 ときに秦河勝の大連は、太子に質問して「天からの恵みものは専ら朝廷に入るものです。しかしながら、いまことごとく貴族や貧しい人に有利にして朝廷を有利にしないのはどういうことでしょうか」と言った。太子は答えて、「それ君は民の父母です。天下に利があることは、すなわち君の利です。論語に『百姓満足ならば、君もまた満足です。百姓が足らなければ、君もともに満足できないのです』」と言われた。この言葉はまことで、 秦河勝の大連は、感じ入ったのでした。
 推古天皇二十六年、皇太子は四十七歳になられた。春の二月、太子は大臣以下に語って「高句麗は、軍を興して大いに戦った。隋は将さに高句麗を滅さんとした。高句麗は防戦したのです。隋の皇帝は幼く、将軍たちは、国を滅ぼそうとしていたのです。一人の李姓がいて、将さに天下を奪おうとした。隋国の命運は今年尽きてしまうだろう。我が国は何事もなく、ただ動静を耳にするのみです」と言われた。又た「秋のうちに北方の国のことを聞くことができるだろう」と言われた。   
 夏の五月、太子は夢殿を出て、朝廷に群臣を召して、語って「悲しいことが起こってしまったのです。隋国の命運はまさに極わまった。李姓を名乗るものが自分の国を興さんとして、隋帝を助けずああ悲しいことだが、如何んともしがたいのです」と言われた。  
 蘇我の大臣は申し上げて「中国では帝系は一つではありません。遠い昔は、聖人が位を譲り、その後は戦いを交え、また狡猾なものが天下を奪うのが彼の国の常です。わが国は、遠く離れて東にあります。血を流すの乱を聞かず、刀を投げるの害を知らないのです。それゆえ孔子は外国に行こうと思ったのです。わたしは、伏して願くは仁を修めて隣を善くし、彼の礼を修することを待ちましょう」と言った。太子は、涙をながして、「あなたがたの言うことはまことに道理にかなっています。しかしながら、わたしはただ昔の交わりを惜しむものです」と言った。       
 秋の八月、高麗国の王は使者を派遣して朝貢してきた。因って奏上して「隋帝は我が国を攻めるのに三十万の大軍を差し向けました。そのときに新羅の番衆が直ちに来て我が国を救うてくれました。そのため隋軍は敗退しました。 それで捕虜の貞公と、普通ひと二人、および太鼓や笛それに武器の弩挽石(どばんせき)など十個、さらにに駱駝一匹を献上します」と申し上げた。      
 冬の十二月、太子は駕籠に命じて科長の墓所に到り、直ちに墓の内に入り、四方を見渡し墓を造る人に語って「このところは、必ず断て、こちらも必ず切ってほしい。わたしの子孫は、相続することはないと思う」といわれた。。
 この夕に、太子は妃と向き合って歎いて「遥かに過去を思いやるに因果は歴然です。わたしは未だこれを償ってはいないのです。禍は子孫に及び、家系は絶えてしまうでしょう。どうして大いなる咎を避けることができようか」と言われた。
 
 

 
  太子 十六★★ 2010・6 見直しする必要がある。
                 
 推古天皇二十七年、皇太子は四十八歳になられた。春の正月、太子は、勅を奉じて駕籠に命じ、畿内の諸国の臣、連、国造、伴造の建てる所の寺を巡検され、土地がない者には土地を与え、木材のない者には木材を賜い、田のない者には田を与え、畑のない者には畑を賜うた。二十日を経て、遂に蜂岡に到着し、塔の心柱を建てて、常住の僧十人をお決めになった。この外、戒を持たない者は、その日のうちにしりぞけられた。寺を創った河勝の大連に命じて「当さにこの例をもって、後の世に残そう」と言われた。
 すでに太子は近江に到着して、滋賀の栗本等の郡の寺々を巡察し、ついに駕籠を粟津に留め、左右に命じて言われた。「わたしが死んだのち、五十年たつと、一人の皇帝があらわれ、都をこの地に遷すだろう。天下を治めることは十年です」.。
 ときに淡海の国司が申し上げてきた。「蒲生川に怪しげなものがおります。その形ちは人のようで人ではなく、魚のようで魚ではありません」。太子は、左右に語って「それは人魚でしょう。瑞祥なものです。しかし、今飛兎がなく人魚が出たのはかえってこれは不祥です。あなたがたはこれを知るべきです」と言われた 。
 数日の後、蜂岡に帰り、また山崎に到った。北の岡の下を指して、左右に語って、「この地を汚してはなりません。伽藍を建てるのです」と言われた。 
 ただちに大河を渡り、交野(たかの)を経過し、茨田堤(まんだのつつみ)から堀江に到り、江南原(えなみのはら)に宿り、東の原を指して、左右に語って「今後百年の間に一人の天皇が都をこの地に興すだろう。しかし、十余年後には寂れてしまうでしょう」 といわれた。   そののち住吉(すみのえ)に赴き、河内に入り、茨田(まんだ)寺の東の側に駐まられた。密かに左右に語って、「わたしが死んだのち、二十年後に、一人の比丘があらわれ、知行兼備し、三論を流通し、衆生を救済して、衆のために重んじられるでしょう。この比丘こそほかでもない、これこそわたしの後身の一体です」と言われた。
 北の方、大県(おほがた)山の西の麓を望んで、左右に語って「一百年の後に、一人の僧があらわれ、精舎を建立するでしょう。また広大な像を造り、一万の袈裟を縫って大勢の比丘に配るでしょう」と言われた。
 すでに科長(しなが)の墓工を召して、命じて言われた。「わたしは巳の年に、必ず葬られることになるだろう。あなたは、速やかに墓を造ってほしい」。墓造りの土師(はじ)の連は「墓はすでにできております。ただ隧道が残っております」と申し上げた。太子は「隧道は開けなくともよい。ただ墓には二床を設けてほしい」と言われた。
 夕方に、斑鳩宮に戻られた。道を、勢益(せやの)原にとり、北の方向を顧みて左右に語って「思いをめぐらしてみるに三十年後に一人の女の信者が小寺をこの地に建るだろう」と言われた。
 ただちに歌を詠まれた。
 
  「いのちや またきひとは よりこも しげくりやまの くまがしのはを かうべのかざりに さしづかのこに」 
 
  その後ただちに椎坂(しいさか)の東に至り、本宮を望んで、また歌を詠まれた。
 
 「いかるがの みやのいらかに もゆるひの ほむらのなかに こころはいりぬ」
  
 夏の四月、摂津の国司がある物を献上した。その形は、蒲生河の物のようであった。太子は、左右に語って、「これは不祥の物です。速かに捨てなさい」と言われた。           
 この月、太子は奏上して、神武天皇より、崇峻天皇までの三十四代の天皇の諡號(しごう)を奉った。  
 秋の八月、太子は、斎戒して夢殿に入り、その後、出ておいでになって神代の占法を解説されて三百九十の章句に著された。      
 この月、太子は、早く起きて朝廷に出仕した。天皇は太子に向かって「わたしは、皇太子の姿が、通常よりあでやかに見え錦の衣を着ているのを夢見ました。これは何の兆しであろうか」と言われた。太子は、涙を流して申し上げた。「これはわたしが陛下のお側を離れるきざしです」。天皇はまたお泣きになった。涙をとめどなく流された。
 冬の十月、太子は、「わたしは久しく病気にかかっています。願わくば尊い貴薬をたまわり治療したいと思います」と願い出た。天皇は千余種の薬を下された。太子は調合して諸々の病人に施し、自分は一丸も飲まなかった。
 この年,天皇は詔して、「わたしは女子でかつ愚鈍です。しかし、はじもなく天皇の位につき幸い太子の適切な助けを得て、天下は泰平で国家は平穏です。しかしながら今、太子の病気を知り、一日中心配で、思いをめぐらし苦労しています。ただ願わくば長生きし仏法を盛んにして、天下を治めてほしいのです。 しかしながら、今となってはそれも出来なくなっている。わたしは、いまどうすべきであろうか。太子の思うところはどのようなことか、もし思うところがあれば奏上せよ。わたしはただちにこれを遂げよう」と言われた。
 それで、太子は、書状をたてまつった。その最初は次のようであった。     
 《わたくし厩戸は申し上げます。伏して陛下の慰めのお言葉をいただきました。なかなか病も思うようになおりません(労する所ろ猶を痊ゆ)。この身は無常で保つことは難しいのです。この体は、壊れやすく滅びやすいのです。天命には限りがあります。命はつなぐことはできず、伸ばすことも出来ません。わたくしは、天命を受けてみだりに高位にのぼりました。天の恵みは限りないのですがその報いはおよぶものではありません。それで先年『十七条の憲法』ならびに『天皇国紀等』を作成し、わたくしは、また国家のおんために諸寺を建立しました。ただ寺家の方便を思って、更に願いはありませんが、願わくば仏法僧を興隆し、人民を導き、国家を安穏にして、庶民を快楽させんことを願うのみです。    
 よって四つの願いがあります。その一つは天皇ならびに歴代の天皇のおんために七か寺を造営しました。すなわち法隆学問寺、四天王寺、法興寺、法起寺、妙安寺、菩提寺、定林寺がこれです。国に思想的支柱があれば毒気や妖怪などに侵されることもないのです。国に三宝が興れば何の禍も起きましょうか。願わくば陛下、伽藍を擁護して三宝を受け継いで長く国を保ってください。
 その二つは、法隆学問寺に 住する僧侶は、毎年の九旬に、まさに法華経、勝鬘経、維摩経を講義させるようにしてください。法輪を常に転じて、民を救済し、三宝を長く伝え国土を擁護してください。
 その三つは、釈迦仏の説く仏法は、田宅、稲穀、奴婢などの八畜等の経済的な援助で興隆しています。在家の者が用いれば、法は滅びてしまいます。これゆえに仏教の経典に次のようにあります。「一切の俗家は、仏家の仏法僧の財物や田園を用いてならないのです。また奴婢、牛畜を使用してはいけないのです。もし使用することがあれば、仏法を破滅することになります。仏法を破滅するがために、国家は滅亡します。願わくば、わたくしの建てたところの諸寺を、陛下および歴代の天皇は、厚く相続して、堅く房舍を造り、わたくしの子孫兄弟たりといえども、寺の建立のことに携わることのないようにしてください。恐らくはおろかな者は、財貨を用いて、伽藍を破損するでしょう。たとえ用いなくとも、事に 触れて過失があれば、必ず地獄に落ちるもとを増やすことになるでしょう
 その四つは、わたしは熊凝(くまごり)村において道場一棟を造っておりますが、未だ完成には至っておりません。願わくば陛下および歴代の天皇が相続して必ず大寺を完成して国家を守るようご指導くださいますように、わたくしはおろか者ですが、三宝に帰依してきました。謹んで遺願をしるしもって田村の皇子に託して臣下の厩戸が申し上げます》。            
 推古天皇二十八年、皇太子は四十九歳になられた。春の正月、太子は国史を編修することを申し上げ、蘇我馬子の大臣、秦河勝の大連、中臣御食子の大夫等と諮って、天皇紀、及び国紀、臣、連、伴造、国造百八十部、及び公民本紀を編修された。 
 二月の花の咲くころ、太子は、大臣、大連及び群臣を召して、斑鳩宮で供応されること三日三夜にわたり、各々に賜物をなされた。 
 三月の初めの巳の日に、太子は、申し上げて大臣、大連及び群臣を召して、曲水の宴を賜わった。ときに外国の高官ならびに中国や百済から来た文士に漢詩を詠むように言われ、恩賞が与えられた。  
 秋の九月、太子は、大宴会を設けられた。天皇もお出ましになられた。群臣はおのおの、和歌をたてまつった。  
 冬の十二月、天空に三十センチ余りの赤気があり、形ちは鶏の尾のようであった。百済の僧である観勤は、「これは蚩尤旗(しゆうき)といい、兵を形どっています。恐くは太子が薨去されたのち、すなわち二十二年後、もしかすると兵が、一族を滅すことがあるかもしれません」と申し上げた。太子はうなずかれた。   
 推古天皇二十九年、皇太子は五十歳になられた。春の二月二十二日、太子は斑鳩宮で亡くなられた。     
 これより前に太子は、膳大娘に語って言われた。「わたしはこの夕べにこの世を去ろうと思う。あなたもともにさろう」。それで二人とも入浴して,,新しい衣装に着かえ床についた。次の朝、日が高くなっても起きてこられなかった。殿の戸を開けて亡くなられたことを知った。    
 天皇はこのことをお聞きになって、車駕で駆けつけ大いに涙を流させられた。このとき、諸王、諸臣は言うに及ばず、人々はみな悲しんだ。     
 老人はいとしい子どもを失なったように鹽酢(えんそ)の味いが口に残り、幼児はやさしい父母を亡くしたように泣き叫ぶ声が道端に満ちた。農夫は耕すのをやめ、機女(はため)は布を織らなかった。みんなが「日と月は、輝きを失い、天と地はすでに壊れてしまった。今よりのち、誰を頼りとしたらいいのだろう」と言った。          
 すでに二つの棺を作り大輿(おおこし)に置き、科長の墓所に葬った。直ちに墓内に置き、南隧門(みなみずいもん)を閉じた。葬送の式は、天皇のそれと同じであった。後ろに人々は従い、各々が花をささげた。僧侶たちは詠歌を唱和し、斑鳩宮より、墓に到った。道の左右には、百姓たちが人垣を作った。そして、人々は各々花を手に持ち、或いは御詠歌を口ずさんだりした。また、通達を待たず唄いつづけた。官人の触れを待たず、皆な喪服を身につけた。           
 天皇は、大臣に勅して墓守(はかもり)十戸を置いた。葬送の後には、諸国の百姓らが、遠くから来て墓の周りを廻った。相い集まって泣いた。昼夜絶えなかった。しかし 五十日くらい経過したころからようやく減りはじめた。 
 一羽の鳥が飛んできた。その形は鵲(かささぎ)に似ていた。その色は白かった。いつも太子の墓の上に住んでいた。烏や鳶(とんび)が来ると、ただちに遠くまで追い払った。人々は墓守鳥(はかもりどり)と名付けた。しかし、三年たつといなくなってしまった。        
 太子が亡くなられた日に、甲斐の驪馬(くろこま)は、悲鳴をあげ、水も飲まず、草も食べなかった。御輿に随って墓に到り、穴を閉じたあと、墓を見て大いにいななき、一度躍ったかと思うとどっと倒れた。その屍は中宮寺の南の墓地に埋められた。
 この年、三韓の王たちは、太子の薨去されたのを聞いて悲嘆にくれ黒衣を着て喪に服した。三韓の人民たちも大いに悲しんだ。