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2002年12月
わたしは、日本に『聖書』があるとするならば『白河本旧事紀』の「皇太子本紀」こそそれに該当するものだと考えている。意訳にしても学者でも聖職者でもないわたしには恐れ多いことのようにおもえるが、これも天命であろうか。
皇太子本紀
皇太子本紀 上
太子 一
皇太子である豊聡耳尊(とよとしみみのみこと)は、また厩戸皇子(むまやどのみこ)と名付けられた。さらに八耳皇子(やつみみのみこ)とか、上宮太子(かみのみやのひつぎのみこ)とも言われた。亡くなられて聖徳太子と贈り名された第三十一代用明天皇の皇子で、母は穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのこうごう)である。
第二十九代欽明天皇の三十一年二月に、第四子の皇子の橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)は、異母の妹である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)をめとられて妃とされた。
欽明天皇三十二年元旦の午前二時ごろ、妃の間人皇女が夢を見られ、神人が現れ、容貌が端正であった。そのとき妃に「わたしに世を救う願いがある。願わくは、しばらく妃のお腹に入りたい」と言われた。
妃が「わたしのお腹は汚れています。なんであなたのような尊い方をお入れすることができましようか」と言われた。
神人が「わたしは汚れをいとはない。ただ望むことは、しばらく人間に生まれ変わりたい」と言われた。
妃が「それならばわたしはあえて辞退しません。ただ、申し出のとおりに従いましょう」と言われた。
ときに神人は、大いに喜んでこ踊りして口の中に入られた。妃は、そのとき驚いて夢から覚め、喉の中は物を飲むようでした。妃は、このことを怪しんで夫の豊日尊に告げられた。
豊日尊は「あなたは、かならず妊娠して聖人を生むでしょう」と言われた。
こんなことがあってのち、妃ははじめて妊娠することをお知りになった。ときに妃はとくに聡く賢く立ち居振る舞いはみやびやかでさわやかでした。
八月五日、お腹の中から声がして「人の世は、ただ大きい道のみである」と言われた。
皇子も妃も、そのとき大いにこのことを怪しまれた。
敏達天皇元年の元旦に、妃の間人皇女は、宮の中を巡っておられ、厩戸のところにおいでになると覚えずしてお生みになった。侍女たちは、驚いて抱き上げて寝殿にお移しした。妃もご無事で、帳(とばり)のうちに横になられた。
父の豊日皇子も、驚いて侍従と庭に会って問われた。たちまち赤色や黄色の光があって、西方よりさしてきた。殿中をくまなく照らしてしばらくして止んだ。
天皇は、この霊異をお聞になって乗物を命じてお出ましになられた。豊日皇子のお住まいの御殿の入り口にさしかかったところ、また、輝きがさした。天皇は、大いにこれを怪しんで、群臣に「この子は必ず聖徳な人になるであろう」と言われた。
ただちに司に命じて、大湯坐(おおゆさ)、若湯坐(わかゆさ)というお湯を準備する者を定めて、産湯をつかせられた。そうこうして、太子を抱き上げられた。
天皇は、自からつむぎをもって太子を受けられ、広姫の皇后に授け、皇后は豊日皇子に授け、皇子は、妃に授けられた。妃は、そのとき懐を開いて太子を受けられた。太子の体からは、なんともいえないいい薫りが漂ってきた。
このとき、御殿の棟に声がした。皇子は、怪しんで人をやって見させた。すると、一つの韓錦(からにしき)の袋があり、その中に一つの鈴があった。その上の方は五行の模様があり、中の方は開いて韓鐘(からがね)のようであった。人はみな、それが何であるかを知らなかった。
神が、「わたしは、日を司る神である。この鈴は神代の霊物であり、この子は将来、神の道を興すであろう。そのために、いまこの鈴を授けよう」と侍女に託して言われた。世の中の人は、「この皇子は、まさに神道を興すきざしがあります」とみな言った。
太子が生まれて三日たった夕べに、天皇は、群臣を宴(うたげ)に招いて、それぞれ賜い物をなされた。また、七日目の夕べには、皇后は後宮に宴をして、賜い物をなされた。大臣(おほおむ)、大連(おほむらじ)より以下の諸臣は相次て供え物を奉られた。これは、養育の費用にあてられた。
これによって、乳母を三人定められた。一人は、大伴金村大連(おほとものかなむらのおほむらじ)の娘である。一人は、物部尾輿大連(もののべのおこしのおほむらじ)の娘であり、もう一人は、蘇我稲目大臣(そがのいねめのおほおむ)の娘である。
この月のことである。讃岐の国司(くにのみこともち)は、申し上げた。「去年、羽香(はか)の県主の物部兄麻呂(もののべのえまろ)の園の中の椿の下に、一つの瓢(ひさご)が生えてきました。すぐに成長して花を開き二葉の状態がついぞありませんでした。郷人(さとびと)は、このことを怪しみました。遂に一つの瓢となりました。その形は薬を入れる嚢(ふくろ)のようでした。その瓢の腹には絵がありました。人や木が描かれ、絵の上には漢字が書いてあり、人の名前のようでした。その絵と文字は、ともに飛び抜けて優れて巧みにできていました。そのとき一匹の蛇がいました。その長さは、一メートル八十センチばかりで、常にその瓢の蔓(つる)にまといついていて、人に触れさせようとはしませんでした。厳しい冬の雪が降り積もっているときでも、その葉は枯れることもなく、その蛇も去ろうとしませんでした。また、兄麻呂の家には牝馬(めむま)がいました。十二月の満月の日に子馬が生まれました。その頭は竜のようであり、背中にうろこがありました。ついに乳を飲みませんでした。ただちに野に出て瓢の葉を食べました。この月のある日に、ただちに瓢をくわえて、それを台の上におき、雲を踏んで飛び去りました。それでいまこれを奉るのです」
天皇はこれを見て言われた。「この瓢は最も霊異である。その文字と絵は、ともに巧みで、いまだかつて聞かれなかった。わたしはつらつら思うに、橘豊日皇子の子は、この月にまさに生まれた。まれな祥(しるし)であった。その生まれたところの験(しるし)か」
そのとき、これを太子に賜われた。太子はこれを受け取ってはじめてお笑いになった。そのたなごころに一つの瓢の種があり、これにおいて、蔓をよじってこれを引けば、瓢の上の部分が蔓についてとれた。そのなかに一つの肉があり、その形は、お供えの台のような形をしていた。破ってこれを見れば、芯をはずすところがある。その持ったところの芯をこれを入れるに少しもたがうところがなかった。みんなこれを怪しんだ。
ときに太子は、左右に語って言われた。「これは孔子、栄啓期(えいけいき)、四皓(しかう・東園公、綺里季、夏黄公、用里先生)、鬼谷先生、蘇秦(そしん)、張儀(ちやうぎ)ら9人の像です。孔子は、正聖です。鬼谷先生は奇聖です。栄啓期と四皓は実賢です。蘇秦、張儀は偽賢です。その行いは似ているといえますが、少し考えればそうではないのです。怪しいな。この瓢は孔子の『春秋』を読んでいるのでしょう」
みなの衆は、ますますもってこのことを怪しんだ。この瓢を怪しんで「賢聖の瓢」といい、また「竜馬(りゅうめ)の瓢」と言った。さらに「初笑みの瓢」といった。また「初開きの瓢」とさらにまた「春秋の瓢」といった。世の人は「この皇子を、まさに儒教を興す瑞でしよう」とみな言った。
こののち、太子はものも言われなかった。四月になって、よく話しよく語った。人の動きを知り、みだりに泣くようなこともされなかった。
太子 二 2003・3
敏達天皇二年、皇太子は二歳になられた。春の二月十五日の朝、太子は東に向かいはじめて左の手を開らかれた。その掌には釈迦の霊骨があった。大きさはあずきくらいで、その色は、青白や紫かかった黄の光を放ち、あまねく宮中を照らした。ときに太子は、掌を合わせ二度拝まれ「南無仏」と称えられた。世の人は、「この皇子は、当さに仏法を弘める瑞(しるし)である」とみな言った。
敏達天皇三年、皇太子は三歳になられた。春の三月、桃の花の季節に、橘豊日尊は、その妃・間人皇女と太子を連れて、裏にあるみ園に遊ばれた。太子は抱かれて父に近づいた。皇子は太子に問うて「わが子よ、桃の花をめでるか、または松の葉をほめるか」と言われた。太子は、「松の葉です」と答えられた。皇子は「どうしてそのように言うのか」と言われた。太子は「桃の花は一時の紅、なんでこれをほめる必要がありましょうか。松の葉は千年も緑を保っています。まことにほめるべきものです」と言われた。
皇子は大いに喜んでそのとき頭をなぜて太子を抱かれた。その身ははなはだ香しかった。太子は皇子をみて、「わたしはいまはなはだ恐れをなしているのです。また、はなはだあやういと感じており、非常に高い岩に登り、またはなはだ大きな波に浮かんでいるようです」と言われた。皇子は大いに笑われた。
敏達天皇四年、皇太子は四歳になられた。春の正月、皇子の宮のなかで王子たちが喧嘩をされた。皇子はこれを聞いて、むちを持って追われた。多くの王子たちは驚いて逃げた。しかし、太子だけは一人衣を脱いで進み出た。
皇子は太子に問うて「兄弟は仲良くせず喧嘩をして、いま、わたしがむちを加えて教えようとすればことごとく逃げ去り、おまえがなんで一人進み出るのか」と言われた。太子は深々とお辞儀をして「天に梯子をかけて昇ることはできませんし、また、地に穴を掘って隠れることもできません。それで、自ら進んでむちを受けようとおもいました」と言われた。皇子は大いに悦んで「おまえの才知が優れていることは今日に限ったことではない」と言われた。
妃は懐を開いて太子を抱かれた。その身ははなはだ香しかった。おしなべて、一度太子を抱けば数ヶ月はその懐が香しかった。そのために、後宮では競って太子を抱こうとした。
夏の四月、高麗王は使者を立てて、貢物を届けてきた。このとき、博士の覚煤iかくか)がやってきた。去年、太子が覚狽フ才智のあることを伝え聞いて、皇子を通じて天皇に申し上げ、覚狽召し、それで今来たのである。
敏達天皇五年、皇太子は五歳になられた。春の三月、天皇は、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)尊を立てて皇后とされた。すなわち、太子のお姑である。
この日、太子は乳母に抱かれて皇后の御前におでになった。群臣はまさに入って拝まんとしました。太子は乳母に語って「まさに大臣が拝まんとするときに、わたしを膝から放してください」と言われた。大臣が入ってまさに拝まんとするときに及んで、乳母は太子を膝から放した。太子は自ら衣服を整え、そろそろと後ずさりして北むきに再拝された。その威儀は成人のようでした。天皇と皇后は太子を寵愛された。
ときに乳母が問いて、「わが皇子、なんで群臣と同じく拝むのですか」と言った。太子は密かに乳母に語って「これはわたしの天皇です。おまえの知るところではない」と言われた。
秋の八月、太子は乳母に語って「わたしはまさに文書を習いたいのだ。なんで筆と墨を持ってこないのか」と言われた。乳母はそれで皇子に告げ、皇子はすぐに文筆と書法を与えた。それで、太子は、日ごとに数千字を写された。三年にして、後に王右軍の書を学び、その骨体を得られた。筆を流すことは稲妻のようであった。人はみなこれを怪しんだ。
この年、太子は皇子に「わたしの願いは、韓国の貢いだところの経書を読みたいのです」と申し上げた。皇子はただちに八経を与えた。太子は一人論語を取って常に好んで読まれた。天皇は、これを聞いて太子を召して問われて「わたしは聞いた。王子は常に論語を好むと。これは、どのようなこころであろうか」と言われた。太子は答えて「論語の書は、孔子が人を教える言葉です。その要はただ仁のみです。その仁というのは、徳の本です。道の由って生まれるところです。この書は、それで読まないわけにはいきません。天皇は「わが先皇の道もこれまた仁であろうか」と言われた。太子は「わが国、また異国は、同じ天地の間です。東の儒者、西の儒者は何で道を異なりましょう」と言われた。天皇は、大いに悦ばれ「太子はいいことを言う」と言われた。世の人々は、「太子は五歳なのに、よく儒教の大意を悟っている」と言った。
敏達天皇六年、皇太子は六歳になられた。冬の十一月、百済の国が経論二百余巻を献上した。ときに、天皇が試みに太子に命じて、これらを見させられた。そして問いて「経論の大意とはどのようなものか」と言われた。太子は答えて「経論は多いとはいえども最高の真理、世俗的な真理などがあるのでもなく、ないのでもないのです。諸悪を作るのでもなく、多くの善を行うことを説くのです。これがその大意です」と言われた。天皇は、それでよしと言われた。世の人は、「まだ太子は六歳なのによく仏法の大意を悟っている」と言った。
十二月、高麗の儒教の博士や百済の仏教の沙門が蘇我大臣の家に集まり、儒教と仏教の優劣について議論した。やかましくて、通訳が話せないほどであった。ときに、太子が傍らでこれを聞いていて、乳母に語って「博士、沙門はともに見識がなく、妄りに自己主張し、それで聖経を汚す哀れなことだ」と言われた。
敏達天皇七年、皇太子は七歳になられた。春の三月十九日、天皇は太子に語って「わが国は、神道で既に十分である。それで、他に求めるべきではない。まさにいま、儒教と仏教の二教が西からやってきてまさに隆盛になろうとしている。わたしは、敢えて信じない。王子は幼くはあるが、聡明達識である。そのこころがどのようにおもっているのか知らない」と申された。太子は、頭を深くたれて「陛下は、その一つを知っていますが、いまだその二つを知らないでおられます。わたしは、神史および儒教や仏教の書物をよく読んでそのこころを理解し、疑問におもうところはありません。それ神道は根本であります。儒教は枝葉であり、仏法は果実です。それでなくてはならないものです。陛下に乞います。神道をもって根本として、儒仏をもって羽翼としてください」と言われた。天皇は、よいことだと言われた。
この年、太子は、香をたいて百済の貢ぐところの経論を閲覧された。二月より冬に至り、一度終了した。
また、申し上げて「月の八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日、これを六斎日とし、この日、梵天帝釈が、国の政をかんがみられた。それゆえに殺生を禁ずるのは、これは仁の本なのです」と言われた。天皇は、ただちに天下に詔して、六斎日に殺生することを禁じた。
太子 三 2003・3
敏達天皇八年、皇太子は八歳になられた。冬の十月、新羅の国が仏像を献上した。太子は皇子を通して申し上げ「西方の聖人である釈迦牟尼仏の像を、末世にこれをあがめば、すなわち禍を消して、福となるのです。これをないがしろにすれば、すなわち災いを招き命がちぢみます。いまの仏像は、これです。かつわたしが仏典を読むに、その旨は微妙です。願くば、陛下、仏像を崇敬して、説くところのように修行してください」と言われた。天皇は大いに喜んで安置し、これを供養された。
敏達天皇九年、皇太子は九歳になられた。摂津の国司(くにつかさ)が申すのに「土師(はし)の連八島という者がいました。よく歌い妙を極め、世にならびなく優れていました。夜毎に人がやってきて、相い和して歌いました。その声は尋常ではありませんでした。八島はこれを怪しんで、その行くところについていきました。住吉の浜に到り、空が明けがかったころに海に入りました」と言いました。
太子は、傍らに侍べっていて、「これは火星でしょう」と申し上げた。天皇は大いに驚いて太子に問われた。太子は答えて「天に五つの星があります。五行を司り、五色を象どります。木星は色が青く、東を司り、木です。火星は色は赤く南を司り、火です。この星は、降ってかわって人となって童の間に遊ぶのです。好んで歌を作り、未来のことを歌います。まさしくこの星でしょう」と言われた。天皇は大いにこれを恐れられた。
この月、群臣を大殿に呼んで宴を開いた。ときに、蘇我の大臣と物部の大連は、極めて威勢がよかった。すでに天皇は太子に問いて「この二人の大臣はいずれが優れているのか」と言われた。太子は答えて「馬子(むまこ)はこれ才が徳に優っています。守屋はすなわち気が徳に優っています。まさしく気が徳に優る者は早く滅び、才が徳に優る者はおそく滅びます。その徳は才気に勝ち、才徳が兼ね備える者のごときは、すなわち子孫、世をかさね、家門は永く栄えます。それともし火はまさに消えんとするときに光をまし、人まさにほろびんとしておどしを増すものです。徳が少なくおどしあるものは、滅びることはかならず久しくはありません。なんら恐れることがありましょうか。ああ、両家の先祖のたくさんの徳は、久しからずして滅びることでしょう。悲しいことです」と言われた。天皇はこれを聞いて、ただため息をついてお嘆きになるのみでした。
敏達天皇十年、皇太子は十歳になられた。春の閏二月、数千の蝦夷が辺境を荒らした。天皇は群臣を召して征討のことを諮られた。
太子は傍らにいて、群臣の会議のありさまを聞いていた。天皇は太子に問いて、「吾子(あこ)は意見があるのか」と言われた。太子は答えて「わたしは子供ですのでなんでこのような大事なことを諮るに足りましようか。しかしながら、いま群臣が論じていることは、みな人を殺すことばかりで、民の父母の道ではないようです。わたしがおもうには、まず頭目を召しだして深く教えて、その盟約をとり、国へ返して、重い禄を加え、その貪欲を奪えばいいようにおもいます」と言われた。
天皇は大いに悦び、ただちに群臣に詔して、頭目の綾糟(あやかす)らを召して、これに詔して「ああ、おまえ蝦夷、景行天皇の御代に、まさに殺すべきものは斬り、赦すべき者は解き放った。わたしは、いま先例に従って、元悪を処罰しようとおもう」といわれた。
これにおいて、綾糟らは大いに恐れて、ただちに泊瀬川に至り、三諸山に向かい誓いを立てて、「わたしども蝦夷は、いまよりのち、子々孫々、忠誠心をもちいて、天皇におつかえします。わたしどもがもし誓いに違うことがあれば、天地の諸神、天皇のみたまが、わたしどもの種を絶滅するでしょう」と言った。これよりのち、久しく辺境を荒らすことはなかった。
敏達天皇十一年、皇太子は十一歳になられた。春の二月、太子は子供たち三十六人を率いて、裏にある園の中で遊び、左に二人を侍らせ、右に二人を侍らせ、左に四人を立たせ、右に四人を立たせ、二十四人をもって両陣として、庭先に列ねて子供らをして共に声を揚げておのうのその志を言わさせた。あるいはたわごとを言い、あるいはまじめに話し、あるいは長く、あるいは短く、太子は長椅子に座って、頭を上げてこれを聞き、一つひとつに答弁し、反復するに一つも違えることはなかった。このようなことが数日続き、子供たちはおのうの帰って父母に告げた。父母たちは難しい言葉でもって質問させた。太子はまたよく答弁され、人の及ぶところではなかった。皇子は尾行して、しばしばその言葉を聞いたが、理解できないものが多く、妃に語って、「わが子は殆んど聖人のようだ」と言われた。
また、太子はよく強弓を引かれたが世に並ぶ者がなかった。あるいは軽くあがって雲気のようで数十メートルの上にあり、あるいは早く走ることは雷電のようで、前にいるかとおもえば忽然として後ろにいたりした。
その身ははなはだ香しく、沐浴のあとのお湯は香気が漂い、一たび衣につけば数日は消えなかった。
太子 四 2003・4
敏達天皇十二年、皇太子は十二歳になられた。天皇は、諸王及び諸臣と任那を興すことを諮られた。
ときに太子は、申し上げて「わたしは幼くして愚かな者です。なんで大事を議することに預かりましょうや。しかしながら、なんで本心を尽くさない。いま、任那を興すことを考えるならば、賢将を用いるにこしたことはありません。わたしが伝え聞くのに百済の火の葦北の国の阿利斯登(ありしと)が子の日羅は文武を兼ね備え、雄しく気丈夫で尋常ならざる者のようです。願わくば陛下、まさに日羅を召して大将軍とすべきで、そうすれば任那のことは万事うまくいくでしょう」と言われた。天皇はこれを認め、ただちに紀の国造の押勝、吉備の海部(うむべの)直羽島をして、百済の達率日羅を召された。
冬の十月、紀の国造押勝等が百済から帰ってきた。ただちに復命して、「百済国王は、日羅の才能を惜しんで、敢えて聞こうとはしません」と言った。それで天皇はまた吉備の海部の直羽島を遣わして強いて召すことをされた。百済国王は天皇を恐れてあえて詔に違はなかった。ただちに恩率、徳爾(とくに)、余奴(よぬ)等をして日羅に副えてこさせた。
ただちに進んで吉備の児島の屯倉に着いた。天皇は、大伴糠手子(おほどものぬかでこの)連を遣わして、慰労させた。また、諸々の大夫をして、日羅を浪花館に訪問させた。
このとき、日羅は鎧を着て馬にまたがり、そして門に至り、ただちに庁舎の前に進み、膝まついてお辞儀をし、「宣化天皇のときに、我が君が大伴の金村の大連に、国家の御為に外国に使いすることを命じられた。火の葦北の国造、刑部靭部(おさかべゆきへ)、阿利斯登が子、わたし達率日羅、天皇の詔をたてまつり恐れて参りました」と申し上げた。ただちに鎧を解いて天皇に献上した。
太子は、日羅が尋常でない相の持ち主であると聞いていたので、天皇に申し上げて「わたしは望むことならば、使者たちに従って、浪花館に行き、彼の人なりを見たいのです」と言われた。しかし、天皇はお許しにならなかった。
太子は密かに皇子と諮り、貧しい身なりをして、諸々の童とともに館に入り日羅をご覧になられた。
日羅は、椅子に腰掛けて四方をみて、太子を指して「この童は神人である」と言った。ときに太子は、貧しい着物をはおり顔を垢にし縄を帯にして、牧童と肩を並べておられた。日羅は人をやって太子を引いてこさせようとした。太子は驚いて逃げ出した。日羅は遥かに拝み靴を脱いで走り出した。諸々の大夫はこれを怪しみ門をでてみれば、これは太子であった。
これにおいて、太子は衣を着替えてでてきた。日羅は、太子を迎えて丁寧にお辞儀をした。大夫たちもまた驚き、罪の許しを乞い、拝んだ。太子もまたへりくだってただちに日羅の部屋に入った。
ときに日羅は、地に膝まついて合掌し「世を救う観世音に敬礼する。灯を東方に伝える粟散王(ぞくさんわう)しかじか」とつぶやいた。聞く人は理解できないでいた。太子は身振りを整え、深く謝した。
それで日羅が身に光明を放つことはあたかも炎のようであった。太子もまた眉間から光を放つことは太陽のようで一瞬の出来事であった。
それで太子は日羅に語って「あなたは久しからずして殺される運命のようです」と言われた。日羅は、「聖人もまた免れることはできないのです。いわんやわれわれにおいてをや免れることはできません」と言われた。貴重な話合いは一晩中続いた。しかし、他の人は理解できなかった。
翌日、太子は宮に帰えられた。
それで、館を阿斗桑市(あとのくわいち)に営み、そして日羅を滞在させた。与えるものは欲しいままにした。また、阿部目臣(あべのめのこのをん)、物部の贄子(にえこの)連、大伴糠手子連をとおして、国政について日羅に質問させた。
冬の十二月晦日の夜、徳爾等が日羅を殺した。人はみな新羅の人が日羅を殺したとした。日羅はたちまち生き返って「これは我が使等がするところであり、新羅の人たちがやったことではない」と言い終わって死んだ。このとき、新羅の人々が日本(やまと)にきていたので、そのようにいうのである。
太子は、これを聞かれて左右に語って「日羅は神人です。彼は常に日天を拝みます。そのため身から光明を放ちます。身に覚えのないあだで、命を断って償うのです。生を捨てたのちは、かならず天上に蘇るでしょう」と言われた。
敏達天皇十三年、皇太子は十三歳になられた。秋の九月、百済国王が使者を立てて朝貢し、弥勒の石像一体を献上してきた。蘇我の大臣の馬子の宿禰(すくね)はこれを礼拝し、ただちに信じ心を起こし、仏像をいただきたいと奏上した。天皇はただちに馬子に与えられた。
これにおいて、蘇我の大臣は、鞍部村主司馬達等(くらべのすくりしばだたう)、池辺直水田(いけべのあたひみた)を四方に行かせて、仏法を修行した者をたずね求めさせた。ただちに播磨の国において、高麗の僧、慧便が俗に帰った者を求めることができた。
それで蘇我の大臣は、慧便を師として、司馬達等が娘である島女(しまめ)を仏門に入らせ、名を善信尼と名乗らせた。年は十一歳であった。また、善信尼の弟子二人を仏門に入らせた。一人は漢人夜菩(あやひとやぼ)の娘で、豊女(とよめ)、名を禅蔵尼と言った。もう一人は錦織の壷の娘である石女、名を慧善尼と言った。大臣は三人の尼を崇敬して水田の直と達等とにつけて四つの供養に備えた。仏殿を宅の東方に営み、弥勒の石造を安置した。三人の尼に要請して大斎会を設けた。大臣はまた仏殿を石川の宅に建て、仏像を礼拝した。このとき、司馬の達等は仏舎利を斎食の上で得ることができた。それで、太子はときどき密かにおとずれて、花を散らす供養をされた。
ときに太子は大臣に語って、「一般に仏法には三つの諦があります。それは、真諦であり、俗諦であり、中諦です。真諦これは空虚にして静寂な理であり,俗諦は特徴や属性があり、中諦これは空に即し、有に即します。まことによく倫理を修め、もって煩悩の炎の鎮められた究極の安らぎの理に通じます。これはすなわち菩薩の道です。その仏像を供養するありさまは、すなわちただ前修の方便のみです」と言われた。
この年、太子は申し上げて「高麗の覚狽ヘよく儒教に精通しています。ついて儒教を学びたいのです」と言われた。天皇は「王子は生まれながらにして聡明である。なんで学ぶことがありうるのか」と言われた。太子は「莵道の太子は、これ至聖であっても、なお王仁(わに)に学んだのです。わたしのような愚か者はなをさら学ばなければなりません。儒教は、尭、舜、湯王、文王、武王、周公、孔子と伝えて、国家を治め天下を平定する道であり、もって学ばなければならないものです」と言われた。天皇はこれをお許しになられた。
太子はまた申し上げて「中臣の御食子(みけご)の連は、その祖先である天児屋の命は、よく瓊瓊杵(ににぎ)の尊に仕え、天の種子の命は、また磐余彦の尊に仕え、嫡子嫡子に神道を伝え、代々みな忠臣であり、将来の子孫も、またこのようになるべきものです。願わくばついて神道を学びたいのです」と言われた。天皇はまたこれをお許しになられた。
太子は、申し上げて博士を召して儒教を朝廷で講義することを望んだが、物部の守屋の大連は、これを許さなかった。そのためにいまだ実現していない。
太子 五 2003・4
敏達天皇十四年、皇太子は十四歳になられた。蘇我の馬子の大臣は、塔を大野の嶽の北に建て、大斎会を設けた。
ときに太子は、出掛けていってこれをみられ、ただちに大臣に語って「これは仏舎利の器です。舎利を置かなければ、塔となることはできません。釈迦如来が入滅したのち、こなごなになった舎利は、感じるに応じてでてきます。大臣は、まさに舎利を感じ得て、これを置いてください。もしそうしなければ、この塔は必ず倒れるでしょう」と言われた。
それで、蘇我の大臣は、慧便をもって師と仰ぎ、二十一日間八斎戒を実践し、舎利を感ぜんことを願った。二十一日ののち、斎食の上に、舎利一粒を得た。大きさは胡麻のようであった。その色は紅白、紫の光が四方にめぐった。水に浮かべても沈まず、なかばへこんでいた。これを水に投げてみると、心の願うところに随い、浮き沈みする。叩いても砕けず、やや怪しげな光を放った。大臣はこころみに舎利をもって、鉄しつの中において、つちを振ってこれを打ってみた。かなとこ、つちともに砕けてしまったが、舎利は依然として砕けなかった。瑠璃壷に入れて朝夕これを礼拝した。あるいは二つ、三つとなりあるいは五つ、六つとなった。数が定まっているというのでもない。太子は出掛けいってこれを礼拝した。ただちに大臣に語って「これはまことの骨舎利です」と言われた。これにおいて、大臣は会を設け、その感ずるところの舎利を塔の柱頭に納めた。
このとき、大臣は病に罹っていた。占う人に問うと答えて「父のときに祭るところの仏神の祟りである」と言った。ただちに身内の者をもってそのありさまを天皇に申し上げた。
天皇は太子に語って「わが国の基は神道をもって主とする。しかしながらいま大臣は、異国の神を祭らんことを請うている。まさにこれを如何にすべきか」と言われた。太子は申し上げて「諸仏世尊のその道は微妙で、諸神はこれに従い、敢えて仏に逆らえません。いま大臣は仏法を興隆せんことを願っています。これは国家にとって良策です」と言われた。それで天皇は詔して「よろしく占う者の言葉に従って、父の祭るところの神を祭るべきである」と言われた。大臣は、詔をたてまつり、石像を礼拝して、寿命を延びんことを願った。
このとき、国中疫病が流行し、民は死ぬ人が多かった。三月一日、物部の守屋の大連、中臣の勝海の大夫(まちぎみ)は申し上げて「陛下はなんで敢えてわたしどもの意見を用いようとしないのです。さきの天皇より陛下に及び、疫病は流行し、民はまさに絶えんとしています。これは蘇我の臣等が仏法を弘めようとするためでないのですか。なんで速やかに仏法を断滅なさらないのですか」と言った。天皇は言葉を遮って「それでよい」と言われた。
太子は申し上げて「二人はいまだ嘗て因果の理を知らないのです。それ善を修れば、幸いに至り、悪を行えばすなわち災いが起こるのです。これが自然の理であり、如来の教えです。わたしは聞いています。妖は徳に勝たず。古の聖人は、よく徳をもって災いを消します。それゆえに唐尭の徳をもって洪水の災いを消し、殷湯の徳をもって大旱の災いを去らした故事もあります。そのようにいまの疫病も徳をもって除くべきのみです。なんでまさに起ころうとする仏法を滅して、よくまさに死なんとする命をのがれましょうや」と言われた。
蘇我の大臣は、また申し上げて「欽明天皇のとき、物部の尾輿と、中臣の鎌子が天の心の知らない理屈を用いて、仏像を焼き、堂塔に火をつけました。その日に天は大殿を焼き、疫病はますます盛んになりました。翌年の夏、天が霊材を賜い、仏像を造り、疫病はたちまち止み、天下は平穏に戻りました。こののち、陛下は天の心に背いて、仏法を信ぜず、そのためにいままた疫病が流行しています。願わくば陛下、仏法を広く普及して、これによって災いを除きたまえ」と言われた。しかし、天皇は遂に聞かれなかった。
それで物部の守屋の大連は自ら寺に参り、腰掛に座り、手下どもに命じて堂塔を切り倒し、仏像を破壊し、火を放って、余尽の仏像はこれを浪花の堀江に投げ込んだ。この日、雲はなかったが、大いに風が吹き雨が降った。大連はただちに合羽を着て、蘇我の大臣の輩を叱り付けた。すなわち佐伯の造御室(みやつこみむろ)をして善信等の尼を召した。蘇我の大臣は、敢えて命令に違わず、ひしひしと心に迫るものを感じて泣いて、尼等を呼び出して、御室に渡した。役人はただちにその法衣を奪い、海石榴市(つばきいち)の東屋につけてみな鞭を加えてこれを辱めた。
太子は皇子に語って「災いはここに始まったのです」と言った。このとき、国中で疱瘡が流行して、死ぬ者は数え切れないほどであった。その疱瘡を患うものは、みな「焼くがごとく、打つがごとく、砕くがごとく」と言い、泣きながら死んでいった。国中の老いも若きもみな「これは仏像を焼く祟りである」と言い合った。
太子は、皇子に語って「如来の教法は滅してまた興り、興ってはまた滅するものです。いまのごときの二人は法を破る報い、この疱瘡になることでしょう。まさしく祈祷してこれからのがれるべきです」と言われた。これにおいて、皇子と太子はともに香をたき、仏を供養された。
夏の六月、蘇我の馬子の大臣は申し上げて「わたしの病気は、いまに至るがいまだなおらない。三つの宝の力をいただかねばなおることは難しい」と言った。
これにおいて、天皇は馬子の大臣に詔して「大臣が一人仏法を修めるべきで、その他はすなわち禁ずるところである」と言われた。ただちに三人の尼を大臣に返した。大臣は大いに喜び、新たに精舎を営み、三宝を供養した。仏法の流布はここに始まったのである。
秋の八月、天皇は崩御された。九月、太子の父である橘の豊日の尊が天皇の位に即かれた。これが用明天皇である。
用明天皇元年、皇太子は十五歳になられた。春の正月、異母妹の穴穂部の間人の皇女を立てて、皇后とされた。すなわち太子の母である。
天皇の人なりは、質朴倹約で酒を好まなかった。また、狩を楽しむこともなかった。守屋の大連は、おごり高ぶって、酒を好み、はなはだしく遊猟を楽しんだ。穴穂部の皇子の人なりは甚だ大連に似ていた。それで常に相談してこの皇子を君にすることを望んだ。しかし、橘の豊日の尊が天皇の位に即いた。そのため大連は悦ばなかった。
太子は申し上げて、「わたしが天体を伺うに、聖寿は久しくないようです。兄に次いで天皇の位にのぼったのに。願わくは仁徳を施したまえ。喪に服している間といえども、勤めを怠らないようにしてください」と言われた。
天皇は、密かに太子に告げて、「わたしはただ子孫の繁栄が続かないことを憂うのみである。わたし自身の寿命が長くないことを憂うのではない」と言われた。
太子は答えて「これは過去の因縁です。わたしの身はわずかにのがれることができても、子孫に及びます。しかばねが上天し、魂が蓮華に宿れば、またなんの恨みもありません」と言われた。
二月、太子は申し上げて「秦字と国語とは音を異にして意味を同じくします。しかしながら、人は未だこれを知りません。ただいたずらに他音を用いるのみです。昔、兎道の太子は一人よくその意味を理解しました。そして、史家がほそぼそと伝えて家の秘密として、これを教えなかったのです。そのため、世にこれを知る者はごくまれです。仰ぎ願わくば国音をもって、これを秦字に附して、漢の書を読んで、もってその意味を明らかにしようとしたいのです」と言われた。天皇はこれをお許しになった。
これにおいて、太子は、秦字一万三千字を選んで、国音をもってその傍らに付けた。これを名づけて点と言う。まず論語を点ずるに、論語の左の傍らに呂牟期(ろむご)と付け、右の傍らに阿解都羅比護登(あげつらひごと)と付ける。学而第一の左の傍らに、雅久慈陀伊以知(がくじだいいち)と付け、右の傍らに摩那尾鉄斯伽毛都為途比登都珥阿多留(まなびてしかもつゐつひとつにあたる)と付ける。以下の文言は、意味にしたがって点を付けることはみなこのごとくであった。これよりのち、わが国は漢の文を読んでその意味を理解することができ、国中の人々はみな悦んだ。
この月、太子は密かに申し上げて「叔父は先の皇后と不和であります。守屋と馬子は天下を二分して不和であります」と言われた。天皇は、これを聞いて、天下穏やかでないことを嘆かれた。
秋の八月、太子は儒学を興隆することを望んで、ただちに申し上げて群臣を朝廷に集め、八経を机の上におき、孔子の画像を掛け、太子自ら香を焚き、敬礼して、覚狽して孝経を講演して、鞍作福利(くらつくりのとよとし)に訳させた。守屋の大連はこれを聞いて大いに怒り、杖を持ってきて覚狽打つまねをしてこれを叱り付けて「わが神道は奥深く遠く測ることはできない。周公、孔子はなにをもってこれを理解できよう。皇子は聡明といえどもいまだ瓢髪の少年である。なんぞよく大道の微を知ることができようか。今よりのち、外国の書を朝廷に入れてはいけない」と言った。諸臣は皆な退席した。
太子は、落ち着いて大連に語って「天は人の留まるところではありません。地は人の振るうところでもないのです。ときがいたれば、すなわち誰かよくこれを遮ることができよう。理極まれば、すなわち誰かこれをなくすことができよう。大連よ、更に引き比べて考えよ」と言われた。大連は黙って退いた。ときに覚狽ヘ涙を流して太子に訴えた。太子は「時節いまだいたらない。他日を待たんことを請おう」と言われた。
太子 六 2003・5
用明天皇二年、皇太子は十六歳になられた。夏の四月、天皇は磐余の河上流(かわかみ)に新嘗し、たちまち病に罹り、宮へ帰られた。
それで、太子は昼夜看病し、衣帯を解かず、天皇が一たびご飯を口にすれば、自分も口にし、天皇が再び食事をすれば、また同様に食事をされた。医の術のないことを憂い、祈りの験(しるし)ないことを悲しまれた。自ら香炉をかかげ、仏神を祈祷される声の響きが絶えなかった。
ときに天皇は、群臣に詔して「わたしは三宝に帰依することを望む。卿等はまさにこれを議論して欲しい」と言われた。
物部の守屋の大連と中臣の勝海の連は「まさに国の神を崇拝すべきです。なんで他国の神を敬う必要がありましょうや。臣等は由来、いまだ嘗て、このようなことは知らないのです」と言った。
蘇我の大臣は、「いまこの詔は、皇位継承に関わるものではない、ただ死後のためのことのみで、なんぞ詔を奉じないで、異議を申し立てることができるのか」と言った。
これにおいて、皇太子である押坂彦人(をしさかひこ)の尊は、豊国法師を引いて天皇に拝謁させた。
天皇は法師を礼拝し、その法を説くことを聞いて生死の迷闇から離れ、煩悩の炎を消して悟りを開かれた。
ときに太子は大いに喜び、蘇我の大臣に語って、「三つの宝の妙理について、人はこれを知りません。妄りに邪悪な考えを生じ、これを誹謗します。ただいま大臣は、三宝に帰依して詔を奉ります。わたしは大いに喜び、悲しみが喜びにかわり感謝します」と言われた。大臣は、頭を叩いて、「殿下の聖徳をたよって三宝を興隆します。わたしは死んだ日にまた生き返るでしょう」と言った
これにおいて、守屋の大連は、睨みつけて大いに怒った。太子は左右に語って、「大連は因果の理を知らず、いままさに滅びんとしているのです、悲しいことだ」と言われた。
このとき、穴穂部の皇子は、守屋の大連と相談して、天皇の位につくことを望んでいた。大連はもとより穴穂部の皇子と緊密になろうとし、彦人の太子の人なりは寛大で仁恕であることを憎んで、彦人の太子を殺して、穴穂部の皇子を天皇に立てんことを欲した。群臣はみなその陰謀を知りことごとく大連に背いた。
ときに押坂部史(をしさかべのふびと)の毛尿(けぐそ)は密かにきて大連に告げて、「いま群臣等は守屋をおとしいれ、まさに退路を断んとしている」と言った。大連は、大いに驚き、ただちに阿都の宅に退き、人を集めた。
中臣勝海の連は、また家に人を集めもって大連を助けんとおもった。ついに彦人の太子像と、竹田の皇子像を作って、これをのろった。すでにことを無事に済ませられないのを知り、彦人の太子のいる水汎(みまた)の宮に従った。蘇我の大臣は、太子の舎人である迹見赤檮(あとみのいちひ)をさしむけて殺させた。
守屋の大連は、八坂の大市(おほち)の造(みやつこ)、小坂の漆部(ぬりべ)の造をして、蘇我の大臣にいわさせて、「われは聞く、群臣わたしをおとしいれようとしている。そのためことさらに退くのだ」と言った。
すでに天皇は、病が重かった。ときに鞍部(くらつくりべ)の多須那(たすな)は、天皇のおんために出家し修道に入った。また、丈六の仏像や坂田寺を造った。太子は、涙を流してその手を握り「わたしは愚かですが、あなたを頼り仏法を崇めています。千秋万歳の後、わたしはなにをもって冥土の土産を与えましょうか」と言われた。
この月の九日、天皇は大殿で崩御された。ときに太子は、身をもだえて泣いていまにも死にそうになり、それがいくたびかあった。天皇のご臨終の時に、太子は大臣の首を携えて、泣き叫び絶えてまた蘇った。大臣は太子を抱いて慰めた。
六月、守屋の大連は人を使って皇太子である押坂彦人の尊を殺させた。太子はこれを聞き、嘆いて「皇太子は天下の王たるに足る人物であるのに、なんで不幸にして殺される羽目になったのか、大連は代々忠臣の家柄であるのに、なんで悪逆なことこの如くである、ああ悲しいことです」と言われた。
この月、炊屋姫(かしきやひめ)の皇后は、蘇我の大臣に詔して「穴穂部の皇子は、わたしの親族である。しかしながら、悪逆無道で守屋の大連に味方し、天皇をのろい、また三輪の逆(さかる)を殺す。宅部(やかべ)の皇子は、それに加担している。大臣は、速やかに二人の皇子を殺して、天下の逆乱を平定するべきである。大臣は、ただちに佐伯の連丹経手(にぶて)、土師(はじ)の連磐村、的臣(いくばのおん)の真噛(まぐひ)をやって二人の皇子を殺させようとした。
ときに太子は大臣に語って「人が最も重んじるものはみな生命にあるのみです。かの二人の皇子は天皇の親族です。その罪の源を議するのに、まさに軽い罰に処して、願わくば寛大に、他国に流罪にするように」と言われた。
大臣はそれを聞かず、「大義は親でも殺さなければならない」と言って、遂に二人の皇子を殺してしまった。それで、太子は、左右に語って、「大臣もまた因果の理にくらいのです。また、免れることは難しいでしょう」と言われた。
秋の七月、炊屋姫の皇后は、泊瀬部の皇子等および蘇我の大臣に詔して「物部の大連は代々重臣であるけれども、悪逆無道で天皇をのろい太子を殺害した。その罪は、許すことはできない。皇子や大臣等は速やかにこれを討伐し、もって天下の乱を平定すべきである」と言われた。
これにおいて、泊瀬部の皇子を大将軍として、蘇我の大臣を副将軍として、竹田の皇子、浪華の皇子、春日の皇子、紀臣の男麻呂(をまろ)、巨勢の臣比良夫(ひらぶ)、膳臣の賀陀夫(かたぶつ)、葛城の臣烏那羅(うなら)、秦の連河勝等ともに軍兵を率いて、守屋の大連を討たした。また、大伴の咋子(くひご)の連、阿部の臣(おむ)平群(へぐり)、神手(かんで)の臣等が兵を率いて志紀の郡から、渋河に集合して、共に大連の討伐に立ち上がった。
これより先、守屋の大連は、あらかじめ諸国の兵を集め、ことごとく子弟一族を率いて、稲城を築いてこれに立てこもった。夜毎に光の玉が流れた。大連は、左右に語って、「これはなんの兆しであろうか」と言った。ある者が答えて、「大連は、にぎの速日の尊の後裔で、天下の王たるに足りる人物であります。しかるにいま、君臣ともに異国の神を敬おうとしています。しかるにいま、一人大連は深く神祇を敬っています。ゆえに八百万諸神擁護して、まさに皇位を大連に授けんとする兆しでしょう」と言った。大連はこれを聞いて大いに喜んだ。
その戦いをするにおよんで、賊軍は強勢にして家に満ち、野にあふれた。君の軍は、恐れをなして三回も敗北した。
これより先、太子は喪に服していたので、官軍に預からなかった。ときに炊屋姫の皇后は太子に詔して「ただいま官軍は、賊のために不利になり、あまつひつぎはまさに滅びんとしている。わたしはおもうに、あなたは年は若いけれども、文武兼ね備え、人の想像するところではない。願わくば行って官軍を救って欲しい」と言われた。
これにおいて、太子は、殯(もがり)の宮を出て、軍後に従い、その策をめぐらして「官軍は少ないとはいえ、みな勇気があり、かつ賢い、来て囲んで、敵を討つ。賊軍は多いかもしれないがみな愚か者でかつ乱れており、囲われて不利と悟るのです。しかしながら、乱れる者はかえって盛んになり、勇気あるものが恐れることにもなるのです。愚か者がかえって強く、賢い者がかえって弱くなるのです。よく囲む者は、かえって追われる羽目になるのです。囲む者は追う方になるのです。これは国中の凶神邪鬼の力を合わせて、勢いづくを知るのです。天の霊に頼るのでなければ、勝つことができないでしょう」と言われた。ただちに秦の河勝の連に命じて、ぬるちの木で、四天王の像を刻み、これを髪の上におき、願いを高らかに叫び、「いま、わたしを勝たすならば、必ず護世四天王のおんために精舎を建立しましょう」と言われた。蘇我の大臣もまた同様な願いを称えた。
すでに軍を進めて、相い戦った。太子は、進んで先鋒におられた。ときに守屋の大連はこれをみて、自ら榎の木の枝の股になったところに登り、大音を出して、「この矢はわしの射るものでなく、物部の大明神の射る矢であるぞ」と言った。ただちに弓を引いてこれを射た。その矢は太子の鎧にあたった。
太子は、ただちに舎人の迹見赤檮に命じて四天王の矢をもって大連を射させた。その矢は、たちまち大連の胸にあたり、石のように木の下に落ちた。賊軍は、驚きおののいた。秦の河勝の連は、ただちに城内に入り、大連の首を切った。
これにおいて、将軍、軍卒はみな大連の家に入った。賊軍は敗北し、子弟一族は、四方へ離散した。大連の資材や宅地や田畑はことごとくみな仏寺に寄進した。ただ、大連の私田の万頃(けい)をもって、秦の連河勝、迹見赤檮に与えた。さっそく、玉造の岸上に、四天王寺を営み、大和の飛鳥の地に、法興寺を造営した。
この月の二十一日、天皇を河内の科長中尾山の陵に葬った。ときに太子は、背の開いた喪服を着て歩行して、これに従った。両足から血が出ていた。御輿をかかげて強いて進み、梓の棺を下げるときは踊り叫んで悲しみが極まり、死んだようになり、また蘇った。見る者は大いに悲しんで、涙を流さない者はいなかった。このとき、空はかげり小雨がときどき降った。人はみな、「これは太子の孝行の表れである」と言った。
八月二日、炊屋姫の皇后および群臣は、泊瀬部の皇子を推して天皇の位につかせた。これが、崇峻天皇である。
太子 七 2003・5
崇峻天皇元年、皇太子は十七歳になられた。春の三月、百済国王は、恩率首信、徳率蓋文(がいもん)、那率福富(ふくふ)、味身等を使いとして朝貢し、並びに仏舎利、および僧慧聡、令斤、慧寔(ゑしよく)、聆照、令威、慧衆、慧宿、道厳(だうごん)、令開等、寺の工(たくみ)、太良末(たらま)、太文賈(たもんけ)、古子、鑪盤(ろばん)の博士、将徳白、昧淳、瓦の博士、麻奈父、奴陽貴、文陵貴、文昔、麻帝彌(またいみ)、画の工、白如を貢がせた。
その表につぎのように書かれていた。
百済国王、謹んで申し上げます。承るところによりますと陛下は皇位につかれ、はじめて仏教を興されました。後漢の孝明帝が夢で西域に仏法を求めさせた故事や釈迦が西からやってくることはいま確かなことであります。法灯を伝える聖皇は、また富士山の下に生まれ、憧れを立てる哲人は重ねて日本に出現しました。私どもは喜びに耐えません。経律論に通じた僧や律を学んでいる僧侶を献上いたします。伏して請います。陛下が釈迦の威光を日本に照らし、慈雲が大和を覆いますようにとしかじか。
ときに太子は大いに喜び、諸々の僧に対して、大義を以って接し、言葉を交わされた。
天皇は密かに太子に語って、「人はみな、皇子は神通力があって、よく人相をみるという。わたしの相はどうであろうか」と言われた。太子は答えて、「陛下は敏利に過ぎ恐らく命を落とすことがたちまち訪れるでしょう。願わくば寛大にして人を入れてよく左右を守り, 悪人を寄せ付けないようにしてください」と言われた。天皇は、「なにを以ってこれを知るのか」と言われた。太子は「赤い血管が瞳を貫いています。これは傷害の相です」と言われた。天皇は鏡を引いてこれを見て、大いに驚ろかれた。
太子は左右に語って、「主上の相はこれ過去の因縁であり、他に転嫁することはできないのです。もし三宝に帰依して心を智慧の世界に置けば、あるいは免れることを願うのみです」と言われた。
これにおいて、天皇は群臣や近習に命じて皇居を護衛させ、近習に交代で守らせた。
崇峻天皇二年、皇太子は十八歳になられた。秋の七月、太子は申し上げて「八方の政は、使いを以ってこれを知ります。願わくば使いを三道に遣わして、国境を視察させることが必要です」と言われた。これにおいて、天皇は淡海の臣蒲(かま)を東山道に行かせ、肉人(ししど)の臣雁を東海道に行かせ、阿部の臣枚吹(ひらふき)を北陸道に行かせ、その国境を視察させた。三人の使者はみな復命した。天皇は大いに悦んで、太子に語って「皇子の力がなければわたしは外国の境を知ることができなかった」と言われた。
八月、天皇は左右に語って「臣に権威があれば君の威が衰える。そのため明君に権臣はいないものである」と言われた。諸臣はみな黙っていた。ときに太子は申し上げて「国に権臣がいなければ君を補佐することができません。明君にどうして権臣が不要でしょうか。ほんとうに古の明君はよく仁徳を修め、君に仁があれば臣は必ず義を好みます。臣が義であれば、自ずから権威をほしいままにすることはないでしょう。もし君が妄りに臣の威を奪わんとすれば、必ず反逆する臣が出るでしょう。もし一人の臣が背けば、多くの臣がみな背くようになります。多くの臣がみな背けば、兵が動くことになります。どうして慎まないでいられましょうか」と言われた。天皇は黙ってしまわれた。
この後、太子は近臣を避けて密かに申し上げて、「明君はよく徳を修めて、自然と臣を統率します。そのつぎは、よく相談してその臣を統率することを図ります。そのつぎは、言葉を発して威勢を先にして反って臣のためにやられてしまうのです。陛下、この三つのものを選んでください」と言われた。
この年、太子は申し上げて、「大昔はみな純朴で正直であり、未だ教えなくとも道がその中にありました。そのためにただ一つの神道でことが足りました。その後は、人の心にやや邪気が生まれ、そのため仁義の教えにより道はこれにおいて行われました。これが儒教のよってくるところです。さらにその後は、人の心はますます邪悪に因果応報の理を説くのでなければ道を行うことはできなくなりました。これが仏法のよってくるところです。願わくば陛下は詔を下して、神道を根本にして儒教や仏教を助けとすることにしたらいかがですか」と言われた。
崇峻天皇三年、皇太子は十九歳になられた。春の三月、求法の比丘尼の善信尼等が百済から帰ってきた。太子は、天皇の御前で試みに戒律の意義を問われた。しかし、善信尼等は、答弁することができなかった。天皇は、「ただいま目の前に三蔵の大師がいる。なんで必ずしも遠く外国を尋ねる必要があろうか」と言われた。
冬の十一月、太子は元服された。群臣はみなこれを祝った。
崇峻天皇四年、皇太子は二十歳になられた。秋の八月、天皇は、群臣に詔して「わたしは、いま任那を建てんとおもうが、いまだどうしてよいかわからない。卿等はどうおもうか」と言われた。群臣は申し上げて「これは先の帝の志であります。なんで建てないでいられましようか」と言った。
ときに太子は、一人申し上げて「新羅は山犬や狼のように貪欲であり、外には相い従うといいながら、内にはじつは背きます。いま軍を興しても恐らくは成功しないでしょう。それどころか、宮廷に近じか傷害事件が起こるかもしれないのです」と言われた。
冬の十二月、紀の男麻呂の宿禰、巨勢の比良夫の臣、大伴の噛(くひ)の連、葛城の烏奈羅の臣を指名して将軍とし、諸々の臣、連等は小部隊を編成し、二万六千人を筑紫の国に派遣した。
ときに太子は、左右に語って、「このたびの戦争は、目的を達成しないでしょう。行っても無駄でしょう。いたずらに人力を費やすだけで中止するにこしたことはありまん」と言われた。天皇はこれを聞いて悦ばれなかった。
崇峻天皇五年、皇太子は二十一歳になられた。春の二月、天皇は密かに太子に語って「天は高く地は低くして乾坤が定まっている。君は南面して、臣は北面し、貴賤が位取りする。これは理の常である。それで蘇我の臣は、内には私腹を肥やし、外には仁義を偽り、天下を安んずる功績や、仏教を興すことはやっているが従順で謙虚な心がない。わたしは術をしらない。皇子ならどうするか」と言われた。
太子は、申し上げて、「君臣、父子、夫婦の関係、仁義礼智信の道は、聖人といえどもまっとうすることは難しいものです。陰陽災変のとき、愚かな臣は必ず害をなします。ただいまは大臣は、おごり高ぶった臣というべきでしょう。それ仏教は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧があります。とりわけ忍辱は仏教の深く教えるところです。願わくば陛下は、よく忍辱を行い、忍んでいただきたい。的確な言葉は栄辱の主であり、失言は四頭立ての馬車でも追わないのです。どうしても慎まないわけにはいかないのです。願わくは陛下、口を結んで軽々しく言うことのないようにしてください」と言われた。
天皇の人柄は、勇壮にして道理が判らず、太子は諫めを入れることがしばしばであった。
冬の十月、ある人が野猪を献上してきた。太子は傍らに侍っていた。天皇は自ら剣を抜いて猪の頭を斬り、悦んで「いずれの日にか、わたしが憎むところの人を斬ることこの如くなるであろうか」と言われた。太子は驚いて密かに申し上げて「災いはここに始まります。謀は密でなければなりません。まさに宴を群臣にふるまい、その口を塞ぐべきでしょう」と言われた。それで、群臣や左右の宿衛の人を宴じ、各人に賜い物をした。太子はこれを戒めて「卿等は必ず今日の言葉を他人に告げてはならない」と言われた。
ときに妃である大伴の小手子姫(さでこびめ)は、寵愛が衰え甚だ天皇を恨んでいた。それで人をやって蘇我の大臣に告げさせた。蘇我の大臣はこれを聞いて大いに驚き恐れて、東漢(やまとあや)の直駒をよんで、語って「卿はわたしのために天皇を殺害しろ。その報償は卿の意にまかせる」と言った。
駒の人柄は、ばかげて傲慢でありまた胆力があった。その後、禁中に出入りすることができた。そして、夜、守衛の中に入り、天皇が起きているかどうかを問い、寝ていることを聞き出してただちに寝室に入り剣を抜いて天皇を殺害した。ときに十一月三日である。それで蘇我の大臣は、人をやって諸々の怪しい者を捕らえさせた。人々はみな知ってはいたが言わなかった。
太子はこれを聞いて、大いに語って「主上はわたしの言葉をいれず、ついに殺害されてしまわれた。これは過去の報いでしょう。しかしながら、大臣もその報いをいつかはのがれることができないでしょう。駒は大臣にへつらうことがあってもまたのがれることはできないでしょう」と言って嘆かれた。
すでに蘇我の大臣は、駒に報いることは甚だ厚かった。賜物はおびただしかった。邸宅に出入りし、奥の出入りも自由であった。密かに大臣の娘である河上嬪(かわかみびめ)を犯した。
大臣は大いに怒り、「漢(あや)の奴(やつこ)、わたしが言葉を用いて主上を殺すといえどもなんでわたしの娘を犯すのか。かつこの奴、手ずから主上を殺してわたしの悪名を永久に伝えてしまった。誠に憎むべきことだ」と言った。ただちに物部に命じて、その庭先において、髪を木の枝に掛け、大臣自ら弓を引いてこれをせめて、「おまえはわたしが言葉を実行したとはいえ主上を殺してしまった。その罪一である。おまえの性格はばかげて傲慢であり、わたしの怒りを諌めず、奴の手をもって帝を殺してしまった。その罪二である。おまえが性格淫乱、密かに天皇の嬪を犯した。その罪三である」と言った。一つの罪を数えるたびに、一本の矢を放った。駒は声を大きくあげて「わたしはそのときに当たり、ただ大臣の権を知り、いまだ天皇の尊いことを知らなかった。その余は、敢えて弁解はしない」と言った。大臣は大いに怒り剣を抜いて腹を裂き、遂に首を斬った。
太子はこれを聞いて、左右に語って「君を殺す悪名は、このいましめがあるといえども永久に拭い去ることはできないのです」と言われた。また「蘇我の大臣は儒教を好むといえども、文王が大悪人である殷の紂王に仕えた義を忘れ、仏教を信じるとはいえ、釈尊の従弟であるが邪法を修め、阿闍(あじや)世王を進めてその父である頻婆遮羅(ひんばしやら)王を殺させた調達に似ている。哀れな者だ」と言われた。
十二月、炊屋姫の皇后が天皇の位に即かれた。これが推古天皇である。
太子八 2003・6
推古天皇元年、皇太子は二十二歳になられた。春の正月、法興寺の刹柱を立てた。太子は出掛けていってこれを拝み、百済の献上したところの舎利をその芯に置いた。舎利は光を放つこと再三であった。見る者は大いに歓喜した。
夏の四月、天皇は群臣に詔して「わたしは女である。生来ものの理解に疎い。政治は日々しげく国務は月々たいそう多く、天下のことは悉くよろしく東宮に申し付けたい」と言われた。その日のうちに太子を立てて皇太子として、政務を悉く委ねられた。
ときに太子は、固辞して「わたしは、生まれながら愚かであり、志は奥深い極みに耽っています。魂は彼岸に遊び、心は道場にしたっています。過去の世界では、身体は数十を経て、中国に生まれ、王族となり、法を勉強して、正しい悟りに通じ、浄土に到ることを希望しています。そのようなわけでいまみだりに皇太子になって、国政を引き受ければ、天下は治まらず、国は傾くことは容易です。おもいますに陛下、徽号を継ぎ、皇居に侍し、国を統治するに仁道をもって治めれば、天地人を安んずるに柔順温和な徳を天下に施す政道をもってしてください。そうすれば海外は従い、国土の足跡によります。よい知らせがしきりにきて、豊作になるでしょう。願わくば陛下、賢良を選んで、政治を助けさせ、善哲を用いて国民を治めれば、国は悉く安らかで、四海は皆な安寧となるでしょう。わたしは家を出て道に入り、衆生を導き、仏法を興隆して、王風を継ぎ輝かすことを望みます」と言われた。
天皇は、お許しにならなかった。ただちに詔して「わたしは、あなたを耳目とする。あなたがもし敢えて聞かなければ、何によって天下を治めることができようか」と言われた。太子はやむなく立って皇太子になられた。人民はこれを聞いて、大いに喜ぶことは慈父慈母に会っうようであった。
この年、四天王寺を荒陵地に移した。
推古天皇二年、皇太子は二十三歳になられた。春の二月二日、太子は、自ら神教経(かみおしえののりこと)、宗徳経(かんつもとののりこと)を著して、これを天皇に奏覧され、神道を興隆された。
三日、太子は、奏上して「農業は天下の根本であり、民の第一の任務です。このために古の聖王は、皆なすべてのことに先んじて教え、これを励まされた。天には二十四節があり、地に陰陽辺中があるのです。あるいは節に応じて耕作し、あるいは先にしあるいは後にします。これを治めるのに人力をもってして、怠慢することはありません。これを耕し、あるいは培い、水をもってこれを育てます。のちに収穫することができます。王は常にこれに配慮して、慈しみを垂れ、憐れみを加えて、教えてこれを勧めるべきです。もしそれをしなければ、民は愚かになります。何により天に合せて節に応じ、、気候を凌いで収穫を興すことができましょうか。しかしながら王が怠慢にして教えなければ、民は遊んで穀物は実らず、税を取ることを責め、下民を損ないます。これは王の罪です。積んで天に届けば、必ず禍を降らします。これはいったい誰の過ちでしょうか。いま当に農部を国や郡に置いて、農業を勧めるべきです」と言われた。天皇は大いに悦んで、大臣に命じて諸国に農部を設置させた。
この日、太子及び大連、大臣に詔して、三宝を興隆させた。それで、諸々の臣、連等は各々君親の恩のために競って仏殿を造った。これを名づけて底羅(てら)と言った。
この年、太子は天皇に申し上げて、博士である覚狽ゥくか)に命じて経書を東宮の南殿で講じさせた。これは儒教を興隆させる者であった。
推古天皇三年、皇太子は二十四歳になられた。春の三月、土佐の南の海に夜な夜な、大きな光がみえた。また、その声は雷鳴のようであった。それから三十日が経過して、夏の四月、異木が淡路島の南岸に漂いついた。その大きさはひと囲みで、長さは二メートル四十センチくらいあり、島の人は、それが何の木か知らなかった。薪にまじえて竈にくべた。その煙の匂いが薫育として遠くまで漂った。それでこれは珍しいと、朝廷に献上した。太子は、これをみて大いに喜び、ただちに奏上して「これは沈水香です。この木は栴檀と言います。南の天竺国の南海の岸で育ちます。夏の月、諸々の蛇がまといつきます。それはこの木が冷たいからです。人は矢でこれを射ます。冬の月、蛇は冬眠に入るので、これを切り出します。その実は鶏舌(けいぜつ)、その花は丁子(ちようじ)、その脂は薫陸(くんりく)、その水に沈むことが久しいものを沈水香とし、久しくないものを浅香(せんかう)とします。そしていま陛下は仏法を興隆し、はじめて仏像を造られた。そのため、釈迦が徳を感じ、この木を漂い送ってきたのです。これは仏法の繁盛の兆しです」と言われた。天皇は、また喜び、百済の工に命じて、観世音菩薩の像を刻造させた。ときどき光明を放った。
五月、高麗の僧、慧慈、百済の僧、慧聡等が帰化してやってきた。この二人の僧は、広く内外にわたり、最も釈義を深く研究していた。それで皇太子は、これらの僧について道を問われた。一を聞いて十を知り、十を聞いて百を知るありさまでした。二人の僧は、互いに語って「太子はまことの真人です。おもうことなく達し、識見は論の外まで及びます」と言った。三年して業は終わり、道を普く修得された。
六月、政をお聞きになる日、滞っている訴えでいまだ裁決を受けていない者が八人、声をともにして事件を申し上げた。太子は一つひとつ答弁されて、各々その情緒を理解して、再び質問するようなことはなかった。
秋の七月、太子は神教経(かみをしへののりこと)、宗徳経(かんつもとののりこと)をもって、物部の獲小子(えさこ)の連に与え、ただちにこの連をして神道を講じさせた。また、忌部(いむべ)と卜部(うらべ)に命じて互いに宗徳斎元(かんつもとかんついみ)を修めさせた。このときより家に秘伝の類はなくなり、神教は盛んに行われた。
八月、大臣や大連、及び群臣は共に尊号を奉り、豊聡八耳(とよとしやつみみの)皇太子と言い、また大法王皇太子と言った。しかし、太子は、辞してお受けにならなかった。
推古天皇四年、皇太子は二十五歳になられた。夏の五月、太子は慧慈法師に語って「法華経の中に、この句脱字があります。師の見ているところの経はどのようになっていますか」と言われた。法師は申し上げて「他国の経に脱字があることはありません」と言った。太子は「わたしが昔持っていたところの経は、この文字がありました」と言われた。法師は「太子が持っていたところの経は何れの地にあるのですか」と言った。太子は微笑して「隋国の衡州の衡山寺の般若台の上にありました」と言われた。法師は大いに驚いて、掌を合わせて礼拝した。
冬の十一月、法興寺が落成した。慧慈と慧聡に詔して、はじめて法興寺に住まわせた。太子はただちに奏上して財施や法施を五年に一度行う無遮(むしや)の法会を設けられた。ときに一つの紫雲が湧き上がった。形は花笠のようであった。天上より降りてきて塔の上に丸くなり、また仏堂を覆うた。変じて五色となり、あるいは龍や鳳凰の形になり、あるいは人畜のようであった。やや久しくして西に向かって去った。太子は、掌を合わせて目送して、左右に語って「この寺は天に感じます。ここに験があります。しかしながら三百年の後に、草露が衣を濡らすほど荒れ果て、五百年の後に、殿堂は廃亡するでしょう」と言われた。
つづく