『日本書紀』のいい加減さ

 通説では、『日本書紀』は国の正史を編纂する抱負をもって、多くの人々が何回もの検討を加え、できるだけ統一を保ち、進歩した形にすることをめざして骨折ったものとされるが、『白河本旧事紀』と比較すると、数多くのいい加減さを指摘することができる。しかし、ここでは『日本書紀』の記述に限定し、比較的わかりやすいものを五つ選んでみた。
 第1、第5代孝昭天皇の埋葬年月日は、孝安紀につぎの第6代孝安天皇の38年8月14日と記述している。
 革命でもおきたために、こんなに遅れたかと調べてみたが、そんな形跡はない。
 第2、第13代成務天皇の立太子年は、景行紀に景行天皇51年、そのいっぽうで成務紀には、景行天皇46年と記載する。通説がいうようには統一などとれていないのである。
 第3、第14代仲哀天皇の聖寿の52歳は、いい加減で、仲哀天皇の父は日本武尊であり、その尊の父である第12代景行天皇の崩御後、尊の腹違いの弟である成務天皇が即位し、60年在位している。
 日本武尊は成務天皇即位前に薨去しており、これでは仲哀天皇は日本武尊の御子でなくなってしまう。
 景行天皇の在位年数は60年、日本武尊は景行天皇40年に東征の途についており、仲哀天皇即位前の空位1年、仲哀天皇自身の在位年数9年などを考慮すると90歳以上にならなければならない。
 第4、允恭天皇の皇居は、『古事記』では遠飛鳥宮とあるのに、『日本書紀』にはその記載がない。
 『古事記』は『日本書紀』に先立って編纂されたのであるから、当然に記載があっていいはずである。
 第5、聖徳太子の薨去月日は、法隆寺が伝える2月22日であるのに、『日本書紀』は2月5日と間違えている。
 故意か過失か。『日本書紀』の編纂に参画している人々のうちには、当然ながら聖徳太子の薨去月日を知っていたものもいたとおもわれる。
 なぜこのようないい加減さが存在するのか、それには理由があるとおもう。それが解けないと『日本書紀』が理解できたとはいえないだろう。
 まずは、『日本書紀』は多くの人々が何回もの検討を加え、できるだけ統一を保ち、進歩した形にすることを目ざして骨折ったものとされるという常識を、根底から疑ってみる必要がある。

  ★ 『古事記』はデタラメで、『日本書紀』はいい加減で・追加2004・9・29

 『古事記』はデタラメで、『日本書紀』はいい加減で、『白河本旧事紀』はそれらよりいくらかましである。
 その根拠はつぎのとおりである。

 第一に、 『日本書紀』記載の仲哀天皇の聖寿52歳は、『古事記』からのカンニングであり、『日本書紀』に当てはめると誤りである。
 すなわち成務天皇の在位年数が60年では、仲哀天皇は成務天皇の即位前に薨去した日本武尊の王子ではなりえない。
 また、日本武尊は景行天皇の40年に東征の途について帰途薨去しており、景行天皇の在位年数が60年、成務天皇の在位年数60年、空位1年、仲哀天皇自身の在位年数が9年である。60ひく40たす60たす1たす9では90となり、仲哀天皇の聖寿は90歳以上でなければならない。
 かりに仲哀天皇の聖寿52歳が正しいとすれば、成務天皇の在位年数を縮める必要がある。すると当然に景行天皇の在位期間を引き下げる必要に迫られる。順に遡って神武天皇の即位年次紀元前660辛酉を引き下げる必要がある。それは大げさな作業になる。
 さて、仲哀天皇の聖寿90歳以上と記載した古典がある。その古典こそ『古事記』や『日本書紀』より前に編纂されたものと考えられる。
 
 第二に、岩佐正校注『神皇正統記』岩波書店の69頁と70頁にかけて、つぎのような記載がある。

《第二十四代、顕宗天皇は…天下を治給こと三年。四十八歳をましましき。
 第二十五代、仁賢天皇は顕宗同母の御兄也。…天下を治給こと十一年。五十歳をましましき。》

 兄弟の年齢差をXとおいて、Xを求めてください。 

 『古事記』や『日本書紀』は、いずれも顕宗天皇を弟であるが先に位に即いたとしている。
 顕宗天皇を兄とする古典があるとすると、その古典のほうが『古事記』や『日本書紀』に先立って編纂された可能性がある。

 第三に、日本武尊の御子の各古典の記載状況はつぎのとおりである。

 一 『古事記』の記述

 1、布多遅能伊理毘売命との子、帯中津日子命
 2、弟橘比売命との子、若建王
 3、布多遅比売との子、稲依別王
 4、大吉備建比売との子、建貝児王
 5、玖玖麻毛理比売との子、足鏡別王
 6、一妻との子、息長田別王。
 妃6人、御子6人。

 二 『日本書紀』の記述

 1、両道入姫皇女との子、稲依別王、足仲彦天皇、布忍入姫命、稚武王
 2、吉備穴戸武媛との子、武卵王、十城別王
 3、弟橘媛との子、稚武彦王
 妃3人、御子7人。

 三 『白河本旧事紀』の記述

『白河本旧事紀』の景行本紀の最後の部分に皇子、皇女の系譜が載っている。
 その小碓尊のところの記載はつぎのとおりである。

 《男小碓尊
  亦た日本童男尊と名づく。後に日本武尊と称へる。此の尊、垂仁天皇の皇女、両道入姫命を娶り元妃と為して四王子を生む。
  男稲依別王
   此の王は、乃ち犬上君、武部君の祖なり。
  男足仲彦天皇
  女布忍入姫命
  男稚武王
   此の王は、乃ち近江君、宮道君の祖なり。
  次の妃、吉備武彦の女、吉備穴戸武媛、二王子を生む。
  男武卵王
   此の王は、乃ち讃岐綾君、伊勢別、登遠別、麻佐首、官首別等の祖なり。
  男十城別王
   此の王は、乃ち伊予別君の祖なり。
  次の妃、穂積忍山宿祢の女、弟橘媛、九王子を生む。
  男稚武彦王
   此の王は、乃ち津揮田君、武部君の祖なり。
  男稲入別王
  男武養蚕王
   此の王は、乃ち波多臣等の祖なり。
  男葦@竈見別王
   此の王は、乃ち竈口君等の祖なり。
  男息長田別王
    此の王は、乃ち淡粟君等の祖なり。
  男五十日彦王
   此の王は、乃ち讃岐君等の祖なり。
  男五上彦王
  男武田王
   此の王は、乃ち尾張国丹羽建部君等の祖なり。
  男寒木王
   此の王は、乃ち三川御使連等の祖なり。》

 注、「@」の文字は、口へんに敢。
  妃3人、御子15人

  ☆ 『白河本旧事紀』がたとえ偽作だとしても弟橘媛の御子を8人も追加する理由が見当たらない。

  ☆ 従来の日本古代史の研究者たちは野口英世のように思い込みの激しい人たちだったのだろうか。
 

  
★ 顕宗天皇と仁賢天皇の年齢差  平成16年11月19日追加 

 『神皇正統記』につぎのような記載がある。

《第二十四代、顕宗天皇は…天下を治給こと三年。四十八歳をましましき。
 第二十五代、仁賢天皇は顕宗同母の御兄也。…天下を治給こと十一年。五十歳をましましき。》

 兄弟の年齢差をXとおいて、解を求めよ。 

 『古事記』や『日本書紀』は、いずれも顕宗天皇を弟であるが先に位に即いたとしている。
 顕宗天皇を兄とする古典があるとすると、その古典のほうが『古事記』や『日本書紀』に先立って編纂された可能性がある。

 この問題を大卒でも解いてくれる人は稀である。わたしも何人かに当たったがすんなりと解いてくれたひとは二人だけ。答えはつぎのとおりである。

 ☆兄弟の年齢差たす弟の聖寿48歳たす兄の在位年数11年は、50歳。 兄弟の年齢差をxとおくと、つぎの数式が成り立つ。 

 x+48+11=50
 x=50−(48+11)
 x=−9
 したがって、顕宗天皇と仁賢天皇の兄弟の年齢差は−9歳となり、逆転して顕宗天皇は仁賢天皇の9歳年上の兄になる。

 しかしながら、『神皇正統記』はこれらの数値をどこからもってきたのか。『日本書紀』には、顕宗天皇の在位年数3年、仁賢天皇の在位年数11年が記載してあるだけである。なお、『古事記』にも顕宗天皇の在位年数8年、聖寿38歳と記載してあるが当てにならない。

 『神皇正統記』より50年ほど前に成立した『皇代記』にはつぎのように記載されている。
  
 《顕宗天皇、弘計天皇と号(な)づく。履中天皇の孫。磐坂市戸押羽皇子の第三子。母は@媛、蟻臣の女なり。允恭二十九年庚辰に生まる。…
 《仁賢天皇、諱大脚。億計天皇と号づく。父祖(ちちおや)並びに母、顕宗と同じ。允恭三十八年己丑に生まる。…》
 注:@の文字はくさかんむりに夷。
 
 しかしながら、『白河本旧事紀』にはつぎのようにある。

 《(允恭天皇)二十九年庚辰、市辺押磐皇子の妃、@媛(ハエビメノ)命、雄食尊を生む。是れ顕宗天皇たり。》
 《(允恭天皇)三十七年戊子、市辺押磐皇子の妃、@媛命、大脚尊を生む。是れ仁賢天皇たり。》
 注:@の文字はくさかんむりに夷。
 (『旧事紀白河家三十巻本』543頁。)

 『皇代記』の顕宗天皇9歳年上のルーツは、仁賢天皇の聖寿が51歳のところを50歳に誤って記載した可能性がある。いずれにしても『白河本旧事紀』が『古事記』や『日本書紀』よりも先立って編纂されたようである。これがオーソライズされれば世紀の大発見と考えられる。

 
 《時に熊之凝といふ者有り。忍熊王の軍の先鋒為る。<葛野城首の祖なり。一に云はく、多呉吉師の遠祖なりといふ。>則ち己が衆を勧めむと欲ひて、因りて、高唱く歌して曰はく、

 烏智箇多能、(ヲチカタノ) 阿邏〃摩菟@邏(アララマツバラ) 摩菟@邏珥(マツバラニ) 和多利喩祇?(ワタリユキテ) 菟区喩彌珥(ツクユミニ) 末利椰塢多具陪(マリヤヲタグへ) 宇摩比等破(ウマヒトハ) 于摩譬苔奴知野(ウマヒトドチノ) 伊徒姑播茂(イトコハモ) 伊徒姑奴池(イトコドチ) 伊装阿波那 和例波(イザアハナワレハ) 多摩岐波@(タマキハル) 于池能阿層餓(ウチノアソガ) 波邏濃知波(ハラノチハ) 異佐誤阿例椰(イサゴアレヤ) 伊装阿波那 和例波(イザアハナワレハ)》

 平成20年6月20追加
 日本古代史はまだ戦後を迎えていないのではないかと思う。思考力を働かせてほしい。

 ★平成21年4月13日追加
 
 『白河本旧事紀』と他の『旧事紀』との比較について、『旧事紀訓解』の巻頭で三重貞亮が見解を述べているのでここに掲載する。

 《貞亮謹テ按ズルニ先代旧事本紀ト云フ者ノ三本アリ、一ツニハ、世間流布ノ先代旧事本紀十巻アリ、此ハ、聖徳太子ノ撰ジ始メ玉ヒ、蘇我ノ馬子ノ宿禰等ガ、成就シタル者也トイヘリ、二ツニハ、先代旧事本紀ト名ヅケ、大成経ト名ヅケ、七十二巻アリ、此ハ、大(オホ)方ハ、聖徳太子ノ撰ジ玉ヒ、推古天皇及ビ秦ノ河勝ノ大連等ノ成就シラレタル者也トイヘリ、三ツニハ、白河ノ神祇伯ノ家ニ、先代旧事本紀三十巻アリ、此ハ、誰レ人ノ所作タルコトヲイハズ、聖徳太子ノ製作ナリト伝説セリ、然ルニ、今此三本ヲ閲(ケミ)スルニ、白河家ノ本ハ事理倶ニ全備シ、文章モ、顛倒錯字アルコトナク、誠ニ太子ノ製作トモ謂フベシ、世間流布ノ本ハ、神代ハ、略(ホボ)詳ナリトイへドモ、但ダ事相ノミナリ、王代ハ、甚ダ粗略ニシテ、脱漏多シ、文章ニハ、顛倒錯字多シ、太子ノ製作ニ、アラザルベシ、大成経ハ、事理ヲ説クコト、甚ダ詳ナリ、然レドモ、九天六地ノ説ハ、周易道家ノ説ヲ模(ウツ)シ、四天ハ、仏書ノ成住壊空ノ説ヨリ出ヅ、伊勢神宮ノ説、三百六十王ト、王代ヲカギリ、通変占ヲ以テ、太占(フトマニ)本紀トシ、此外、不経ノ甚キモノ、枚挙スルニ遑アラズ、文章ハ、甚ダ鄙拙ニシテ、顛倒錯字多クシテ、太子ノ製作シ玉ヘル、十七個ノ憲法及ビ勝鬘維摩法華経ノ義疏ノ文ト、照観スルニ、宵壊懸(ハル)カニ隔リ、黒白大イニ異ナリ、似ルベキモノニ非ズ、後人、白河家ノ本ノ意ヲ偸スミ、附会杜撰セルモノニシテ、決シテ、太子ノ製作ニアラザルナリ、今ママサニ訓解スルモノハ、白河家ノ先代旧事本紀ナリ、然ルニ、此書ハ、神代皇代ノ事迹ヲ詳カニ録シ、神道ノ事理ヲ、明カニ示シ、君臣ノ格言ヲ、アラハセリ、誠トニ天下ノ大経大法ト謂フベシ、蝦夷入鹿ガ乱ニヨリケルカ、脱亡スルモノ多ク、其全部タルコトヲエズ、甚ダ歎惜スベシ》


 この3本の『旧事紀』のうちで三重貞亮が最も高く評価しているのは『白河本旧事紀』である。

 なお、『鷦鷯伝旧事紀大成経』についてはここで触れていないが、刊行年次の前後はあるにせよ仲哀天皇および神功皇后の聖寿を比較すれば、『鷦鷯伝旧事紀大成経』は『延宝本旧事紀大成経』より派生していることは明らかである。



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