日出る天皇

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 静岡県歴史研究会会報第94号(平成13年6月15日)に登載された文はつぎのとおりである。多少訂正した。 

 昨年(平成12年)2月、ある大学の先生が、聖徳太子は実在しないといわれた。問題提起としてまことに結構だとおもう。現在、それを肯定する史料も否定する史料も存在しないというのが大学の常識である。
 じつは、『隋書』にでてくるが裴世清が会ったのは推古天皇ではなく、まさに聖徳太子その人である。
 望月古亶校注『異伝聖徳太子』の97頁、推古天皇16年8月4日の条は、つぎのとおりである。
 《4日、隋国の使等を朝廷に召す。時に太子、簾を巻て、裴世清等を見たまふ。其の威儀、穆々巍々(ぼくぼくぎぎ)たり。裴世清等、戦懼(せんく)して地に伏し、敢て仰ぎ膽(み)ず》
 裴世清等が拝謁したのは、聖徳太子ご自身である。学界は、真贋は別にしても、このような文言があることぐらいは承知してほしい。わたしは、学界は短絡かつ怠慢だとおもっている。
 なお、「聖徳太子」は、漢風諡号そのものであり、『日本書紀』をみて東宮聖徳や豊耳聡聖徳および上宮厩戸豊聡耳太子などから「聖徳太子」という諡号が連想できないのは、よほどの無理が必要であり、『日本書紀』成立時点にすでに存在していたと考えられる。
 『異伝聖徳太子』は、「皇太子、豊聡耳尊、又た厩戸皇子(うまやどのみこ)と名づく。又た上宮太子と号す。聖徳太子と諡(をくりな)す」ではじまる。これがまさに正史であったとおもう。
 《日出る天皇、月見ゆる帝皇に問ふ》
 これが,『隋書』にある「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」に対応する日本側の史料であると考えられる。
 この文言は、つぎの文で始まる。
 《時に太子、親(みづ)から其の簡を書したまふ。其の辞に曰く。
 日出る天皇、月見ゆる帝皇に問ふ。朕、海蕃に在て貴風を聞く。万蒼相ひ隔てて未だ通ぜざりけり。今ま謹んで将さに宝体安全を聞んとす。是れ同天の好を慮るのみ。仍て大礼小野妹子をして、謹んで久情を宣述せしむ。次て方物を進て、信を為すこと斯の如し》
 太子が自ら筆を執って書かれたものと考えられ、太子の対等外交の象徴であり、『古事記』や『日本書紀』から漏れてしまったのは、これらの編纂時には、天智天皇2年(663)に日本・百済軍が、唐・新羅軍によって白村江で大敗し、朝貢外交に転じたからであろう。
 ちなみに『古事記』が献上された和銅5年(712)には、唐では玄宗皇帝が即位している。

 なお、『異伝聖徳太子』については、本のところで検索されたい。


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