白河本旧事紀研究会

2002年12月


 平成14年11月9日土曜日、静岡県島田市のプラザおおるりにおいて、第2回白河本旧事紀研究会を開催した。この会が、スタートしたのは平成12年11月11日である。その年の11月5日から7日にかけてみちのくのホテルメトロポリタン盛岡でホツマツタエ発見35周年特別記念講演会があり、その案内状がホツマ出版記念会実行委員会事務局から届いた。わたしの頭の中では、『ホツマツタエ』より『白河本旧事紀』のほうが遥かに確かな古典であると思っていたので、「白河本旧事紀研究会」をとにかくスタートさせてみようと企画した。

 
日本書紀稿本発見とし宣言式典

 「日本書紀稿本発見とし宣言式典」では、趣旨説明、質疑応答などのあと、日本書紀稿本発見の年を2000年とし、日本書紀稿本とは白河本旧事紀である、日本書紀稿本発見の都市を静岡県島田市にする、などを宣言した。その宣言趣旨説明は、およそつぎのとおりである。
 
 日本書紀稿本発見とし宣言趣旨説明
の概要

  1 はじめに 
 平成元年、島田市立図書館に『旧事紀白河家三十巻本』があることを見出した。この原文は、金谷町に住んでいた松下松平さんが、昭和15年に京都の大谷大学で発見した三重貞亮撰『旧事紀訓解』という72冊の書物を一冊にまとめて解題を付し、昭和60年に新国民社から出版したものである。これを研究すると『日本書紀』の稿本であることが明らかになった。このことは、『日本書紀』成立以来の大発見であり、『白河本旧事紀』を日本の文化的財産として多くの人々に理解を深めていただき天下の至宝として明日への糧にしていただきたいと考えた。
 この『白河本旧事紀』は、明治初期まで宮中の祭祀を司ってきた白河家にひそかに伝えられたものであり、江戸時代の伊藤仁斎の門人である三重貞亮によって『旧事紀訓解』が著わされ、この一部が戦争さなかの昭和19年(1944)に出版され、さらに「天皇本紀」が加えられて世に出たのはじつに昭和60年(1985)で、つい最近のことである。
 しかしながら、『旧事紀訓解』の解説のなかで、松下松平さんが「古代史の史料としては殆んど価値ないもの」と記載してしまい、昭和60年にこれを改めたのであるが、一度出した悪評は学界を汚染し読む人がいなくなってしまったようである。

  2 わたしの著作
 わたしのこれまでの著作は、おもに『白河本旧事紀』を多くの人びとに理解していただくためのものであった。すでに発表した古代史論から数点を挙げればつぎのとおりである。
 ①「紀と本紀の即位、退位、埋葬年月日の比較」 『学と文芸第68集』平成8年4月、所収。☆ 孝安紀には、第5代孝昭天皇の埋葬年月日は、次の孝安天皇38年8月14日となっているが、どんな特殊事情があってこんなに遅くなったのかを調べたところ、『日本書紀』の杜撰さがわかった。
 ②「神皇正統記の記載ミスー記紀は偽書かー」 新人物往来社『在野史論』平成8年6月、所収。『神皇正統記』の記述からすると第23代顕宗天皇は、第24代仁賢天皇の兄になる可能性がある。 
 ③望月古亶著『記紀漏文Ⅰ』近代文芸社、平成8年8月。面白くて楽しい話/八島篠見神こそ大国主命/神武天皇の定功行賞と即位年代/崇神天皇の皇太后/日本武尊の御子/阿佐孺遠斎/聖徳だった反正天皇/同天の好。神武天皇の時代に諌諍の職があった。第18代反正天皇の言葉に、「史書は天下の至宝なり。賢善を見ればすなわち悦びてこれを学び、愚悪を見ればすなわち省みてこれを戒しむ。」とあり、天皇は儒者で聖徳であった。
 ④「履中本紀」新人物往来社『在野史論第7集』平成11年2月、所収。「履中本紀」と「履中紀」を比較すると「履中天皇と諡す」や天皇の反省の弁、太皇太后などを除いて内容がほとんど同じであり、『白河本旧事紀』は『日本書紀』の稿本とおもわれる。 
 ⑤ 「数表で解く日本古代史」 新人物往来社『在野史論第8集』平成12年3月、所収。☆ 『白河本旧事紀』が記述する第14代仲哀天皇の聖寿100歳や神功皇后112歳は、『日本書紀』の権威を主張すればするほどのちの訂正されたとは考えられないので、『白河本旧事紀』は、『日本書紀』の稿本と考えられる。

  
⑥ 『異伝聖徳太子』近代文芸社、平成12年7月。☆ 『白河本旧事紀』の第20巻、第21巻の「皇太子本紀・上下」と第22巻の「経典本紀」のうちの最後の「憲法」を読み下し文にし、若干の注を付し、さらに解説を加え、聖徳太子の実像に迫るとともに 『白河本旧事紀』が『日本書紀』の稿本であることを提唱した画期的な冊子である。これが日本版『聖書』ともいうべきものと考えられる。

  3 漢風諡号太子撰
 本居宣長や坂本太郎さんは、正安3年(1301)ころ卜部兼方の著した『釈日本紀』の記述をもとに、漢風諡号(しごう)は、『古事記』や『日本書紀』が成立したのち、淡海御船が文部少補の任にあったころ(762-764)に撰上されたと説いている。しかしながら、『釈日本紀』の記載する「私記曰く。師説く。神武等の諡名(おくりな)は、淡海御船、勅を奉じて撰するなり」には多くの問題があり、本居宣長の『古事記伝』や坂本太郎さんの「列聖漢風諡号の撰進について」のように強弁できるものではなく、森鴎外の「帝謚考」にみる消極論のように、『釈日本紀』の記事を除いては考えるべきものがないので従わざるを得ないということになる。
 ところで、『白河本旧事紀』の「皇太子本紀」いわゆる『異伝聖徳太子』の推古天皇27年4月の是の月の条には、つぎのように記載されている。
 ≪是の月、太子奏して、磐余彦(いはれひこの)天皇より、泊瀬部(はつせべの)天皇に至りて、共に三十四代の天皇、倶に其の諡号を上る≫
 そして、「天皇本紀」の見出しは神武天皇ではじまる。まさに、推古天皇28年に『天皇紀』を撰修するために必要があって、その前年の4月に崇峻天皇までの諡号を聖徳太子が奉ったのである。

 ★平成18年3月21日追加
 
 漢風諡号淡海御船撰上説には、多くの問題点が指摘され、すでに静岡県歴史研究会編『歴史叢書』(第6号)所収「日本書紀稿本の発見』で10項目を挙げたところであるが、さらに次の一項目を追加したい。
 『続日本紀』の延暦4年(785)7月17日の条をみると、淡海真人三船が卒したことが記載され、その中にかつて勅で譴責処分を受けたことが記されている。このような人物に歴代天皇の漢風諡号の撰上を命じることが妥当であろうか。★

 ★平成19年2月25日追加

 漢風諡号は『日本書紀』編纂後に撰上されたのであれば、その諡号は『日本書紀』の記述にもとづいて贈られたと考えなければならない。たしかに神武、綏靖の諡号は、神武紀、綏靖紀から連想できるが、孝昭、孝安、孝霊、孝元などは不可能である。ほかにも記述と諡号が一致しないものがある。
 懿徳紀からも「懿徳」という諡号は浮かんでこない。本居宣長や坂本太郎は漢風諡号は『古事記』や『日本書紀』成立後に淡海御船が撰上したとする説を支持している。これが正しいのだろうか。
 
 塚田敬章さんのhpの「諡号の秘密」の「懿徳天皇」項で次のように記載している。

《4、懿徳(大日本彦耜友天皇)
 
 「美徳」という意味です。大字典には「好是懿徳(詩経)」という言葉があります。綏靖、安寧、懿徳という諡号は漢文から荘厳さを感じさせる好字を選んだものです。欠史八代は、ほとんど事務的な系譜の記述だけで終わるのですが、綏靖、安寧にはまだ根拠らしきものがありました。懿徳に至って、もう根拠も何も見いだせません。和風諡号は「ヤマトの男、鋤の友」?はっきりしません。
 しかし、旧唐書には懿徳太子重潤という名が見えます。701年、十九歳で則天武后に暗殺されていますから、文字は立派でも、天皇にふさわしい良い諡号とは言えないでしょう。神功皇后の神功は、神助を得た成功という意味を含めて則天武后(*)時代の紀元、神功(697)から採られたようです。懿徳太子が暗殺された数年前の年号ですから。諡号の選定者が、懿徳太子について知らなかったとは思えないのに、なぜ使ったのか?《*/唐の高宗の皇后、唐を簒奪し周を建てた。十四年後、唐が復活。》

 この疑問を解消しなければならない。

  『白河本旧事紀』の「皇太子本紀」いわゆる『異伝聖徳太子』の推古天皇27年4月の是の月の条には、つぎのように記載されている。
 ≪是の月、太子奏して、磐余彦天皇より、泊瀬部
天皇に至りて、共に三十四代の天皇、倶に其の諡号を上る≫
 そして、「天皇本紀」の見出しは神武天皇ではじまる。まさに、推古天皇28年に『天皇紀』を撰修するために必要があって、その前年の4月に崇峻天皇までの諡号を聖徳太子が奉ったのである。

 漢風諡号は、懿徳太子がなくなる前にすでに撰上されていたのである。シンジラレナイ?理解するということは馴染むことが必要なのかもしれない。★


  4 おわりに
 以上のように検討してくると『白河本旧事紀』は、『日本書紀』に先立って編纂された可能性がある。
 なお、「数表で解く日本古代史(二)」 新人物往来社『在野史論第9集』平成13年8月、所収。☆ 『白河本旧事紀』と『日本書紀』の聖寿起算年次別分析表からすると、『日本書紀』が記述する第10代崇神天皇や第11代垂仁天皇の聖寿は『白河本旧事紀』をカンニングしているものと考えられる。これは、日本古代史の根底からの見直しを迫るものである。
 

 ☆ 会長に望月古亶氏が就任した。

 
 第1回研究会

 平成13年11月10日、第1回研究会が島田市立プラザおおるりで開催された。
 テーマⅠ 神社の伝承からみた邪馬台国 発表者 望月古亶氏
 
   はじめに
 白河本旧事紀研究会は、「神社の伝承」についても研究を深めていきたい。
 ハインリッヒ・シュリーマン著『古代への情熱』。
 シュリーマンのように信ずれば大いなる古代ロマンを掘り当てることができるかもしれない。
 神社庁調査部編『神社名鑑』昭和38年。
 当分は、これを基礎資料としたい。

   1  邪馬台国と邪馬壱国
 邪馬台国に関わる中国側の記載状況
    ① 『三国志』「魏志倭人伝」・・・.邪馬壱国

       
② 『後漢書』・・・邪馬台国<細書の注・案今名邪摩惟音之訛也>
       
③ 『隋書』・・・邪摩堆則魏志所謂邪馬台也
 したがって、「邪馬壱やまい)国」が「邪馬台国<邪摩惟>」に変化し、さらに「邪摩堆.・邪馬台」に化けたのであり、この経過からすると邪馬壱(やまい)国」とするのが最も自然である。
 これには問題が二つあって一つは『後漢書』の細書の注がいつ入ったのか、もう一つは大宰府天満宮にある『翰苑』が記述する「馬台」「邪馬嘉国」および「宗女台与年13」である。
  これらの問題については全国歴史研究会編『邪馬台国謎の最前線』所収「壱与と五百野姫命」で触れているのでそちらに譲る。

    2 神社の伝承
 全国の神社数は83,000余社、その6・7パーセントにあたる5,588社を調査した。第1代神武天皇から第26代継体天皇の伝承数は、866条である。天皇以外に日本武尊、神功皇后および武内宿祢を加えた。綏靖天皇から開化天皇のいわゆる欠史8代の天皇の伝承も56条ある。

    3 年次伝承
 866条の26パーセントにあたる226条が年次伝承である。なかには神武天皇80年や成務天皇50年間など史実とおもえない伝承もある。また、『日本書紀』が入り込んでいるとおもわれる伝承もある。

     4  伝承年代推定法  
 神功皇后の『日本書紀』記載の摂政期間は69年である。しかしながら、伝承最長年次は摂政11年どまりであり、とすると、摂政元年は仲哀天皇9年と、また摂政11年は応神天皇元年と重複していると考えられ、69年には干支の一巡の60年が上乗せされていると推理した。それで、干支の十干または十二支の単位で歴代天皇の在位年数が延長されているとおもえた。この両方を試してみると12年単位より10年単位のほうがより適合すると考えられた。
 問題は第17代仁徳天皇の聖寿が長いことである。『日本書紀』には仁徳天皇の在位年数は87年とあるが伝承最長年次は大阪府池田市にある呉服神社の76年である。この伝承は比較的新しいらしいので無視してもいいが、68年は平塚八幡宮にある地震が発生したという伝承である。これも第17代履中天皇とその弟・住吉皇子との皇位継承争いなどの関係で仁徳天皇68年が履中天皇元年と解釈できればさらに10年短縮することができる。
 したがって、景行天皇の御代は211年からではなく、10年繰り下がって221年からの60年間と考えられる。
 とすれば、景行天皇19年は西暦239年になる可能性がある。
 すなわち、安康天皇元年の453年までは歴代天皇の年次伝承と『日本書紀』が記載する在位年数とは矛盾しないが、それを遡ると允恭天皇の30年、仁徳天皇の20年、神功皇后60年、成務天皇40年がそれぞれ上乗せされていると考えられるのである。
 なお、成務天皇21年は空位年かもしれない。


     5 邪馬壱国と纏向(まきむく)遺跡
 景行天皇紀には、4年11月の条に「都を纒向に遷す。是を名づけて日代宮(ひしろのみや)といふ」とある。
 平成13年5月31日の新聞に、邪馬台国は古墳時代・勝山古墳・築造3世紀初頭・弥生時代説さかのぼる・ヒノキ年輪測定・ヒノキ材は203年から211年に伐採されたことが明らかになったと報じていた。
 伝承年代推定法からすると、景初3年(239)は、景行天皇19年に当たると考えられる。とすると、卑弥呼は、景行天皇の妹の日本(倭)姫命、壱与(いよ)は、日本姫命の姪で、景行天皇の皇女である五百野姫命(いをのびめのみこと・五百野皇女)であると推定される。
 なお、五百野姫命は、景行天皇20年(240)に伊勢の斎宮に上がっている。さらに、人名であるが「夷守・ひなもり」が登場するのは景行天皇紀のみである。

    まとめ
 『魏志倭人伝』について、もし治安が悪ければ使者の争奪戦が繰り広げられたと考えられる。使者が相当の奥地まで旅ができたということは治安が確保されていた証拠である。従来、『魏志倭人伝』のいわゆる瞬間風速で全体を解釈していたのは問題があるとおもう。
 つまり倭王は、九州の北部、瀬戸内海、中国地方、四国、畿内などを支配しており、逆に九州南部、関東、東北地方は勢力外であったと考えられる。
 したがって、邪馬台国は、狭く考えれば纏向を含む大和と伊勢と推定される。大きく考えれば治安の及ぶ範囲を考えていいとおもう。大和朝廷は、伝承年代推定法からすれば紀元前から存在していたと考えられる。歴代天皇の在位年数は10年単位で上乗されていると考えられるが、天皇そのものは追加されているとはおもえないのである。


   テーマⅡ その他 発表者 桜井紹一氏・望月古亶氏

 桜井紹一氏が明日香村に所在する石舞台、飛鳥板蓋宮、天武・持統天皇陵、高松塚古墳などについて地図をもちいて説明した。
 望月古亶氏が、当日のNHK放映、聖徳太子のドラマに関連して、聖徳太子は敏達天皇元年に生まれ推古天皇29年に薨去したこと、山背大兄王の母は膳大娘姫命であることなどを話した。

 ☆ 桜井紹一氏が事務局長に就任した。

  第2回研究会

 平成14年11月9日、第2回研究会が島田市立プラザおおるりで開催された。
会長の望月古亶氏から「日本古代史最前線」のタイトルでホームページを開設した旨の話があった。
 続いて、常葉学園大学の田辺久之教授が紹介された。教授の専門は図書館情報学であるが、ヤマトタケル東征の火難の地を草薙とする伝承について、「静清平野の局地気象、特に地上風の変化に着目し、地形の変化、古代の道、雲見、風見などを論拠としてヤマトタケルが優れた兵法家であり、天候予知の達人でもあったとする論を展開したい」旨の発言があった。

 テーマⅠ 「孝安本紀の謎」は、発表者は事務局長の桜井紹一氏であったが、氏が所要で欠席したため急遽望月古亶氏に代わった。「孝安本紀」は「天皇本紀」のなかでは最も短いが、「孝安紀」と比較するとその特徴が著しく、たとえば、「孝安」の諡号の由来が判明する。すなわち、「孝安本紀」には、『古事記』や『日本書紀』にないつぎの文面がある。

 
《天皇、嘗て群臣に謂て曰く。大なるかな孝か。心、天に類せざれば、則ち孝にあらざるなり。躬、天に類せざれば、則ち孝にあらざるなり。群臣を愛せざれば、則ち孝にあらざるなり。庶民を恵せざれば、則ち孝にあらざるなり。大いなるかな孝か。斯れ其の至りなり》

 なお、崇峻天皇までの漢風諡号は聖徳太子が撰上した。
 つぎに孝昭天皇の埋葬年月日が『日本書紀』では孝安天皇の38年8月14日となっているが、『白河本旧事紀』には元年8月20日とある。どちらがもとか歴然である。


 
テーマⅡ 「四旧事紀の前後関係」について、望月古亶氏はつぎのように話した。まず、『延宝本先代旧事本紀大成経』と『鷦鷯伝先代旧事本紀大成経』について、『延宝本大成経』は『鷦鷯伝大成経』の稿本として先に編纂されている。それは物部氏の系図がほぼ一致することや仲哀天皇の聖寿すなわち前者が100歳、後者が52歳を比較すれば明らかである。
 現在の『延宝本大成経』は、相当に加工されていると考えられる。たとえば、煬帝は聖徳太子が送ってきた国書をみて「其報簡無礼」と激怒したとあるが、それは『隋書』が日本に入ってきてから記載されたものであろう。しかしながら、『延宝本大成経』の稿本は、物部氏の系図から相当古いものと考えられる。また、『十巻本旧事紀』は、『白河本旧事紀』記載の系図からさらに追加された状況をみれば、この部分のみは物部氏ゆかりの人物によるものとおもわれ、また『十巻本旧事紀』にも稿本が存在したと考えられる。
 結論としては『四旧事紀』の前後関係は、『白河本旧事紀』が最も早く、つぎは『延宝本大成経』や『鷦鷯伝大成経』の稿本であり、最後に『十巻本旧事紀』が編纂されたと考えられる。

 *常葉学園大学の田辺久之教授が当会の顧問に就任し、学術的にいっそう充実することになった。

  第3回研究会

 平成15年11月9日、第3回研究会が島田市のプラザおおるりにおいて開催された。会長の望月古亶氏から白河本旧事紀研究会を「日本古代史最前線」のタイトルのホ―ムペ―ジ(アドレスは末尾)に登載し、アクセスカウントも2600を超え、また、ヤフ―歴史掲示板、日本史、「日本古代史を変える」というトビックを設定した旨の話があった。

 テ―マⅠ 「ヤマトタケル向火考」の発表者は顧問の元常葉学園大学教授の田辺久之氏である。ヤマトタケルは第12代景行天皇の40年、東夷を征するため命を受け10月に東国に向かう途上火難に遭う。ここでは火難の野火に対して向火を放ち賊衆を滅ぼしたとする『記紀』等の所伝を、静岡平野の静清地域に位置する草薙の局地気象、特に地上風の変化に着目し、気象学的に論証し、あわせてヤマトタケルが雲見、風見による天候予知に通じた兵法家でもあったとする仮説を展開したい、と前置された。
 向火(むかいび)は燃えてくる火に向かって、こちらから火をつけて、先方の火の勢いを弱め消し止めるための農耕、防災また護身、兵法上の古くから知られた技術であった。弥生後期、登呂集落のころの静岡平野の景観は安倍川が幾条かの支流をもって駿河湾に注いでいた。静岡市街地が未だ形成されていない明治初期陸地測量部2万分の1地形図は沖積平野の地貌を明瞭に浮上させる。特に海進低地とされる巴川流域は雨期には広く沼地と化したであろう。『日本書紀』の10月ヤマトタケル東征を採るならば、当地の通過時期は初冬であり、この低湿の沼地に多くの潅木が育成し鹿をはじめ野性動物が生息し狩猟がおこなわれていたと考えられる。水利堤防など土木工事が可能になったころは造成され東海道の原型と考えられる古墳期の古道は、ヤマトタケルの東征経路からやや北に寄った低湿地を通過し、現在東海道線東静岡駅付近で発掘された道跡がこの古道であるとの案内表示がなされている。
 ヤマトタケルは沖積平野に形成された低い分水嶺となった鞍部のけものみちを通って有度山北麓の草薙の地に歩を進めたと推定される。『古事記』に《火着其野》とする野を静清地域の草薙付近と仮定して、王を殺すため賊衆が草むらに火を放って戦果を得る位置を求めると、前面に沼地を眺望する有度山北麓地域に限定される。猟期は現在鳥獣保護の観点から毎年11月から2月と制限されているが、古代も冬季日中の狩猟は好個の時期であったであろう。この地域には、昼前には弱い東よりの海風が入り込む。この時刻に沼地に向かって火を放つと火勢は平地を這うように広がると想定されるが発火時にあっては進行は遅い。冬季晴天の場合、早朝放射冷却が発生するとき煙は低く広がり、延焼に先駆け煙のみ早く到来すると考えられる。煙や臭気を感知しての対応であるから、周辺の枯草を広く刈り取り背後をかためて向火を放つ余裕も生じる。弱い海風に乗って押し寄せる野火への向火は想定できても、強い風下で消火のための技術は成立しがたい。
 向火は風の穏やかなことが条件となる。『古事記』に《於是先以其御刀苅撥草》とある草を苅り撥った御刀は『日本書紀』において草薙と号けられている。向火の兵法によって攻め火から身を守ってヤマトタケルは逆に賊衆を火により焼き滅ぼすことになる。『記紀』の所伝にあっては逃避した後、火により賊衆を殲滅するが、いずれにあっても火により賊が一気に攻め滅ぼされる状況が伝わる。なお、1940年1月の「静岡大火」をも参考に論証され、ヤマトタケルが季節風の到来を予期し、強風が瞬時に吹き出すところに着目して火攻めの戦法を持って反撃したと想定すれば、向火や草薙の所伝も説話の領域から解放される。また兵法家としての武将ヤマトタケルの面目も躍如たるものがあり、タケル英雄譚の形成に一石を投じることになろうとむすんだ。田辺氏は30年の長きにわたり静岡市足久保の自宅で気象観測を続ける気象研究家でもある。著書には『静岡県のお天気』(静岡新聞社)ほか。

 テ―マⅡ 「白河本旧事紀と古今和歌集」の発表者は会長の望月古亶氏である。月曜日の晩、テレビで里見浩太朗が演ずる「水戸黄門」が放映されている。「この紋所が目に入らぬか」の名セリフの前に、ときおり書状が城中の国家老に届けられるシ―ンがあり、その書状の裏に 「梅里」の署名がある。そのル―ツの話である。
 徳川光圀は、家康の十一男・頼房の三男(頼重―亀丸―光圀)であるが、水戸の藩主になった。そのいきさつは、長男の頼重が生まれたとき、尾張の義直や紀州の頼宣に未だ男子が生まれず、それを憚って頼重は正式に披露されなかったと伝えられる。儒教を重んずる光圀には、長子でないのに藩主になるのは筋ではないと思っていたのか。それで、兄の子の綱方を高松藩から迎えた。綱方が早死にするとその弟の綱条を迎えた。
 この「梅里」は、『古今和歌集』にでてくる王仁の「おほさざきの帝をそへたてまつれる歌」によるといわれる。おほさざきの帝とは、第16代仁徳天皇のことである。かりにこの歌が『古事記』や『日本書紀』の前に存在したとすると、紀貫之が宮中の祭祀を永年務めてきた白河家に伝わる『先代旧事本紀』すなわち『白河本旧事紀』の原本をみていた可能性がある。
 『古今和歌集』は、第60代醍醐天皇(897~929)のときに、勅撰和歌集の第1号として編纂された。撰進の勅命は延喜5年(905)にだされ、受けたのは大内記・紀友則、御書所預・紀貫之、前甲斐少目・凡河内躬恒、右衛門府生・壬生忠岑の四人である。しかし、友則は撰進中に死亡しているので、その後は紀貫之が代表で進められたと考えられ、完成したのは延喜16年ころである。
 『古今和歌集』には、《難波津の歌は帝の御初めなり》として、細書で〈おほさざきの帝、難波津にて皇子ときこえける時、東宮をたがひに譲りて、位につきたまはで3年になりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける歌なり。「この花」はむめの花をいふなるべし〉と記載し、「難波津に咲くやこの花 冬ごもり今は春べと 咲くやこの花 と言へるなるべし」とある。この歌は『古事記』や『日本書紀』にはない。ところが、『白河本旧事紀』の「天皇本紀」の 「仁徳本紀」にはある。即位前紀の辛未年の10月の条につぎのように記載されている。

 《冬十月、皇太子菟道稚郎子尊を兎道の山上に葬る。是の後、大鷦鷯尊、尚を皇太子、位に即かざるを以て薨ずるを悲しみて、未だ天皇の位に即きたまはず。時に百済の王仁、奏して曰く。皇太子薨ずるは、此れ天命なり。之を如何ともすることあたはず。大王天相あり。須からく速かに天皇の位に即きたまふべし。乃ち歌を献て曰く。
 那迩波都迩 佐久耶許能波奈 布由許毛理 伊麻波波留遍仁 磋久耶許農波奈》
 
 『白河本旧事紀』は、 『古事記』や『日本書紀』に先立って編纂されたものである。それは第14代仲哀天皇の聖寿52歳が物語っている。(『在野史論・第十集』所収「数表で解く日本古代史」)また、成立時点は白雉元年(650)より以前と考えられる。(『異伝聖徳太子』解説五・白河本旧事紀の成立年代)。この歌には「と」と「仁」の違いがあり、またある人の言うのにここの「農」は「の」と読んで万葉仮名でないので、『古事記』や『日本書紀』以後に作られたものだという。「の」の読みは、第一次的な読みで万葉仮名より前の聖徳太子の作った仮名いわゆる「聖徳仮名」であり、万葉仮名とは完全に一致するものではないと考える。『古今和歌集』の序の作成者で、宮中の図書係である紀貫之は、900年ころ『白河本旧事紀』の原本をみていたのではないだろうか。なお、『白河本旧事紀』を永年保存していた白河家は、第65代花山天皇の皇子清仁親王に発し、親王の王子延信王が万寿2年(1025)源姓を賜わって臣列に下り、寛徳3年(1046)勅定によって神祇伯に任ぜられたのがはじまりと伝えられる。

 ☆ 後日談 この歌は、いくつかの木簡の出土状況からして『日本書紀』が成立する前から存在していたらしい。しかし、『古今和歌集』の序と同様に「と」と記載され、「仁・に」と記載している『白河本旧事紀』とは別ルートのようである。もとは一緒と考えられるが、紀貫之が『白河本旧事紀』をみていなくとも書けた可能性はある。平成16年10月追加。

  第4回研究会 平成16年12月追加

 平成16年10月30日 、静岡県島田市のプラザおおるりにおいて第四回研究会が開催された。会長の望月古亶氏から「日本古代史最前線」のホ―ムペ―ジのカウントが5200に達したこと、また日本史掲示板・トビック・「日本古代史を変える」のカウントも1000をこえた旨の話があった。
 予定では、①テ―マ「蘇我一族について」の発表者は赤池隆義氏であったが、所用で欠席したため繰り上がって顧問で元常葉学園大学教授の田辺久之氏から②テ-マ「日本音楽―その源流」と題する話がなされた。
 歌謡や舞踊で神や死者をまつる習俗は、世界に共通なものであるが、日本の縄文・弥生・古墳時代の遺跡から発掘された埴輪には琴を弾いたり太鼓を抱えて右手で撥を打ち鳴らす像がある。いずれも小型の楽器で、静岡の登呂遺跡で出土した和琴も1メ-トルほど。古代人は生活の周辺にある材料を用いてさまざまな音色を表現する知恵をもっていたと考えられる。竹笛、土鈴、鳴子から革を使った太鼓、やがて鉄器、青銅器などを素材にして金属の音色による楽器を創り出していったであろう。日本の音楽で最初に発達したのは、これらの素朴な楽器の音色やリズムによる個人の娯楽や習俗、祭祀への適用などが考えられよう。同時に日常の言語や音声が音楽発生の重要な機能を果たしたであろう。文献では記紀歌謡に始まる。古代人は日常生活の中での喜怒哀楽や会話をその場で節づけして歌唱する風習があったと考えられる。今でも中国少数民族に残る歌垣の歌謡形態も類推のひとつとなろう。その後の日本音楽にみる単調でしかし伸びやかな歌謡の伝承もその源流を考察する素材であろう。
 5~6世紀にはいって日本古来の音楽の土壌に大陸の音楽が伝えられる。『白河本旧事紀』の「皇太子本紀」の推古天皇20年の条に「この年、百済の楽人、味摩之、加多意、乙中芳等が帰化して来た。太子は秦河勝と図って、仮面や歌舞を造り猿楽を創造した」と伝えられ、正倉院には三韓楽に使われたと思われる楽器が今も残されている。
 神楽は古代から神祇を祭る歌舞として古くは「神遊び」ともいわれた。現在宮中で奏するものを「みかぐら」、諸国の神社のものを「おかぐら」または「里神楽」と呼んで区別している。その沿革起源は、天照大神が天の石屋戸に隠れたとき、天宇受売命が岩戸の前で舞ったことに付会するを通説とするが、上古から祭祀用の舞楽としての習俗が神楽に発展したと考えられるのが妥当であろう。大宝律令に歌師、舞師、笛師などが記載され、『類聚三代格』にも琴生、神笛生の記事が見受けられる。
 民間に伝承する神楽は、神座を設け、これに神々を勧請し、老衰、病弱の者などを頭人として人々相寄り長命を祈る招魂や鎮魂を行なった古代人の呪術的習俗にあったと考えられる。神楽にはさまざまな口承、秘伝、故実があるが、古来衰退せずに今日に伝承しており、音楽史上の価値は高いと話した。
 なお、田辺氏は若いころ神楽にも興味をもち、ご自分で採集された静岡県大井川町に伝わる「藤守の田遊」をはじめとして、全国の代表的な神楽をテ-プを持ち込まれ披露され出席者はいっとき遠い古代の音楽にしたった。
 ③テ―マ「系図年代推定法と邪馬台国」について、望月古亶氏は、「孔子の世系」と「天皇家の系図」とをクロスして大雑把な日本古代史の年代を推定し、景初3年(239)の邪馬台国すなわち邪馬壱(い)国はどこかをさぐってみたものであると前置きして話をはじめた。中国の史料は「邪馬壱国」から「邪馬台国・邪摩惟」へ、さらに「 邪靡堆・邪馬台国」に変化した。また、邪馬壱国に関する日本側の史料は、遡って江戸時代の『古史通或問』には「耶馬台国」と「邪馬台国」、『神皇正統紀』は「耶馬台国」、『聖徳太子伝暦』や『白河本旧事紀』は「馬台」と記載されている。「馬台」は百済から輸入したものと考えられる。
 孔子の系図では、一世が約33年、『大漢和辞典』で「孔子世系」をみると、第20世完、第21世羨が魏の時代、第32世が隋の時代。この間は丁度10世。推古天皇から男親を11世たどると、欽明天皇―☆1―継体天皇―汗斯王―大郎子―若野毛二俣王―応神―☆2―仲哀天皇―日本武尊―景行天皇となる。なお、欽明天皇と父継体天皇との年齢差、また応神天皇と父仲哀天皇の年齢差を考慮して二世補正した。また、継体天皇から若野毛二俣王までの系図は『上宮記・逸文』を用いた。したがって、景初3年は日本では景行天皇の御代、邪馬壱国は大和であり、伊勢も直轄地と考えられるなどと話した。

 なお今回、顧問の田辺久之氏はご夫妻で、清水からは静岡県詩人会会長の堀池郁男氏が原稿の締切りの迫る忙しいなかをご出席いただいた。

 第5回研究会 平成17年12月追加

 平成17年10月22日 、静岡県島田市のプラザおおるりにおいて第五回研究会が開催された。会長の望月古亶氏から「白河本旧事紀」がウィキぺデア百科事典に登載され、徐々にではあるが『白河本旧事紀』が知られるようになった旨の報告があった。

 ①テ―マ「ヤマトタケルの地名伝承」は顧問の元常葉学園大学教授田辺久之氏の研究発表である。
 地名はその土地固有の性格をあらわす。特に古地名をたずねることは、その地の歴史を紐解くことに通じる。地名の成立をみると地形から生まれるもの、政治的に決まるもの、社会や経済の拠点として命名されるもの、信仰や伝承、衣食住などの社会生活に根ざして発生するものなどさまざまである。ここでは歴史上の人物の足跡や事跡が地名として伝承する例としてヤマトタケルと地名の関係を考えてみたいと前置きされておおむね次のような話をされた。
 1、足跡や事跡の地として残る地名
 ヤマトタケルは古代日本の英雄武人と、また天皇制が確立する時期の王子として捉えられる一方、記紀の歌謡などからその文人的な側面を挙げることもできる。このヤマトタケルと地名との関連は、主に景行天皇の命による夷狄征討の旅において生ずる。小碓命の荒ぶる心に恐れをなした天皇は背き従わぬ熊襲を撃たせる。次いで東夷蝦夷の征伐を命じる。
 ここに現われる古地名は、『記・紀』『風土記』『旧事紀』『源平盛衰記』『神皇正統紀』等の記述に見出されるものであるから、各書の編纂当時にすでに現存した地名である。しかし、地名を伝える語り部の発音採取や漢字の表記が一定せず、四世紀とされるヤマトタケル時代の地名と即断することはできない。熊襲は熊の国と襲の国であり、焼津も『古事記』では焼遣と表記されている。ヤマトタケルの足跡や事跡の地として『記・紀』に見られる地名は、征討経路図を参照されたい。(上田正昭著『日本武尊』吉川弘文館)
 2、ヤマトタケルを祭神とする神社の地名
 ヤマトタケルは蝦夷を平定して能褒野にて薨じた。享年三十歳であった。景行天皇は胸を打ち悲しんで、タケルは白鳥と化して倭国に向かって飛翔する。棺の中には衣のみで屍骨は無かったと『日本書紀』は道教の尸解(しかい)説で説明している。やがて神格化され、現在ヤマトタケルを祭神とする神社は全国で二千二十社あり、静岡県においても五十二社を数える。(桜井満編『日本武尊』桜楓社)
 神社創建にはそれなりの由緒があり、神社周辺には祭神とのかかわりある地名が存在する。ちなみに静岡市清水区草薙に鎮座する草薙神社の場合、周辺地には景行天皇が鳳輿を留められた所の「天皇原」、ヤマトタケルが狩のとき松を折り敷いて休んだ「御座松の森」、狩のとき敵に襲われ向い火を放ったところで今は犬のすみかがある「御犬が谷」、また狩のとき柳を神箸として折って食事をした「柳が沢」、野火の難に会って駒から下りた「鐙が谷」や「鞍卸が谷」、馬を放し秣飼を与えた「駒が原」などが江戸文政期刊行の『駿国雑志』に記されている。そのいくつかの小字は現在の『土地宝典』にも見られ、静鉄草薙駅南部から草薙川西側に拡がる天皇原は今でも地元に生きているなどと話された。

 ②テ―マ「記紀はいい加減で白河本は」の発表者は望月古亶氏。『古事記』はデタラメで『日本書紀』はいい加減で『白河本旧事紀』はまあまあと切り出し、『旧事紀』は四種類、『白河本旧事紀』はもっとも遅く世に出た。成立当時三十巻あったものが現在では十七巻。日本武尊の御子は、『古事記』は六人の妃に一人あて六人、弟橘比売命にも一人と記載し、『日本書紀』は三人の妃に七人の御子、弟橘媛にも一人と記載する。しかし『白河本旧事紀』には三人の妃に十五人の御子を儲け、弟橘媛には九人の御子を儲けたと記載する。いかに偽作でも八人も追加する必要性が見当らないので『記紀』より古いと結んだ。 次回は10月21日を予定。

 第6回研究会 平成18年12月追加

 平成18年10月21日、静岡県島田市のプラザおおるりにおいて第6回研究会が開催された。会長の望月古亶氏から全国歴史研究会近江大会の様子と次回は長野で開催される旨の報告があった。
 
 ①テ―マ「私と先代旧事本紀」は事務局長の桜井紹一氏の研究発表である。
 『先代旧事本紀』は基本的には三種類ある。『白河本旧事紀』すなわち『旧事紀白河家三十巻本』は文字が小さく、分量も多く、かつ難しく、はじめに『十巻本旧事紀』を研究することとし、大野七三氏の本を中心に進めている。『旧事紀』はなんらかの形で偽書扱いにされているが、その時代の権力者たちの都合や時代的背景で廃止されたり処分されたりするものもある。『扶桑略記』には天智天皇は殺害されたとあるが、『日本書紀』には病気で死亡したと書かれている。全十巻の構成で、第六巻の物部氏の遠祖の饒速日尊(にぎはやひのみこと)のところに特色があり、神武天皇系より兄貴系の点に興味を引いた。今後は他の『旧事紀』と比較して研究を深めたいと話した。

  ②テ―マ「開化神名帳と式外社」の発表者は望月古亶氏。『白河本旧事紀』の開化本紀登載の神社のうち阿蘇、丹波の豊食、出雲の杵築、伊勢の飯井、筑波の五つの神社が式内社、宮崎の吾田、羽黒、塩釜の三つが式外社である。式外社で有名なのは京都の八坂、長野の戸隠、横須賀の走水、宮城の塩釜などである。吾田神社は、神武天皇の妃である吾田津姫命と第二代綏靖天皇に殺された長男の手研耳命(たぎしみみのみこと)が祀られており、式内社にするには問題があったのだろう。式外社には知名度もさることながら延喜式に登載するには都合が悪い神社もあったのではないか。その解明のためにも今後、式外社の研究を進める必要があると結んだ。 次回は10月20日土曜日を予定。

 なお、開化本紀の二十八年の条は次のとおりである。

 《二十八年辛亥(かのとゐ)春正月癸巳(みづのとみ)の朔丁酉(ひのととりのひ・五日)、御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエノ)尊を立てて皇太子(ひつぎのみこ)とす。 癸卯(みづのとうのひ・十一日)、詔して曰く。神日本磐余彦(カムヤマトイハレヒコノ)天皇の時、西国、中国皆な已(すで)に服従して、王化に帰す。東国辺国、已に帰服(きふく)すと雖(いへ)ども、未だ、朝貢に及ばず。磯城津彦玉手看(シギヅヒコタマテミノ)天皇の時き、諸国皆な已に朝貢すと雖ども、而(しか)も未だ王道(わうだう)、正淳(せいじゆん)、誠敬(せいけい)の徳を知らざるなり。

 夫(そ)れ宗徳(かんつみもと)は則ち正(タダ)しきなり。斎元(かんついみ)は則ち淳(スナホ)なり。霊宗(かんつむね)は則ち誠(マコト)なり。総(す)べて之を言(い)はる、唯だ敬のみなり。苟(まこ)とに能く此(これ)を知りければ、則ち人なり。否(いな)されば、則ち人にあらざるなり。豈(あ)に慎(つつしま)ざるべけんや。

 故に朕(われ)、方(ま)さに諸国に於て神主(かんぬし)を置(おき)て、以て王道を弘通(ぐつう)して人民をして之(これ)を知らしめんと欲す。是(これ)に於て、筑紫に阿蘇(アソ)の神主を置き、日向に吾田(アタ)の神主を置き、丹波に豊食(トヨケ)の神主を置き、出雲に杵築(キヅキ)の神主を置き、伊勢に飯井(イヰ)の神主を置き、常陸に筑波(ツクバ)の神主を置き、奥北(オクギタ)に羽黒(ハグロ)の神主を置き、奥東(オクヒガシ)に塩釜(シホガマ)の神主を置きて、之(これ)をして斎元(かんついみ)の道を修め以て人民に教へしむ。夫(そ)れ是(こ)の如し。故に天下始(はじめ)て王道を知りけり。》


 第7回研究会 平成19年11月追加

 平成19年10月20日、静岡県島田市のプラザおおるりにおいて第7回研究会が開催された。会長の望月古亶氏から全国歴史研究会北信濃大会の様子と次回は島根で開催される旨の報告があった。
 
 ①テ―マ「大国主命と大物主命」は事務局長の桜井紹一氏の研究発表であったが、所用のため欠席。
  ②テ―マ「聖徳太子の実在性」の発表者は望月古亶氏。
その概要は次のとおり。
 はじめに
 聖徳太子は実在の人物である。『隋書』に記載された「日出ずる処の天子」とはいったい誰なのか。『日本書紀』の推古紀に「東宮聖徳」と記載されているがいったい誰なのか。
『白河本旧事紀』は『古事記』や『日本書紀』よりも前に作成された。『日本書紀』記載の仲哀天皇の聖寿52歳は、『古事記』からのカンニングであり、『日本書紀』では90歳以上でなければならない。『日本書紀』は仲哀天皇の聖寿を100歳と記載する『白河本旧事紀』の焼き直しである。
 1、『日本書紀』のカンニング現場写真 《『白河本旧事紀』と『日本書紀』における歴代天皇の聖寿起算年別分析表》この表は偶然からの発見である。『日本書紀』は懿徳天皇から孝元天皇までの聖寿の記載がない。そこで立太子年の御年から計算したり、『白河本旧事紀』の数値を採用したのであるが、日を置いて確かめると合わない。起算年別の計算をしたところ一致しないところが多々あることを発見した。
『白河本旧事紀』は、聖寿の正当性を主張するためこれでもかこれでもかと御年を記載している。それに比べて『日本書紀』のほうは時代が下がるにしたがって省略されていて、いわゆるぼかしとか紛れを求めていて、『白河本旧事紀』のほうが原始的であると考えられる。

 第一、崇神天皇の聖寿について、『白河本旧事紀』と『日本書紀』は、立太子年から計算すると崩御年に119歳になるにもかかわらず、崩御年の聖寿を120歳と記載して同じ誤りを犯している。どちらかがカンニングしていることになる。
 第二、垂仁天皇の聖寿について、『白河本旧事紀』と『日本書紀』の生年から計算すると139歳になるにもかかわらず、崩御年の聖寿は140歳と記載して同じ誤りを犯しており、カンニングしていることになる。 
 第三、景行天皇の聖寿について、『白河本旧事紀』と『日本書紀』では退位年次の聖寿は一致しない。前者が143歳であるのに対して、後者は106歳である。生年、立太子等の起算年から計算すれば、『白河本旧事紀』のほうが正しく、いちおうは『日本書紀』を改定したといえよう。しかし、権威ある『日本書紀』をだれが改定できるであろうか。
 ただし、崇峻天皇までの漢風諡号は、推古天皇二十八年に『天皇国紀等』を編修するためにその前年に、聖徳太子が撰上したものであることを念頭に置かなければならない。従来の日本古代史は構造計算に誤りがある。誰かが言い出さなければ官製談合をやめさせることはできない。
 第四、成務天皇の聖寿は、『日本書紀』の立太子年の景行天皇46年から計算すると98歳になるのに退位年次の聖寿は107歳と記載され、明らかに間違いである。『白河本旧事紀』は、それらの矛盾を是正したととれる。しかし、『白河本旧事紀』が正しいとするならば、『日本書紀』より権威あるものと考えざるを得ない。
 第五、仲哀天皇の聖寿は、『日本書紀』の成務天皇48年から計算すると53歳になるのに退位年次の聖寿は52歳と記載されている。これは52歳が先に設定されていたための計算違いの公算が高い。つまり『古事記』の52歳をもってきたのである。権威ある『日本書紀』を改定して、わざわざ100歳にしたとは考えられない。
 なお、仲哀天皇の父である日本武尊が景行天皇の40年に東征の途について帰途薨去しているとなると、景行天皇の在位年数60年、成務天皇60年、空位1年、仲哀天皇自身の在位年数9年では、60ひく40たす60たす1たす9で90、したがって、仲哀天皇の聖寿は90歳以上でなければならない。『現行・日本書紀』の52歳は、『古事記』をカンニングしており、それには理由があったはずである。
 第六、神功皇后の聖寿について、『日本書紀』は100歳、その権威に逆らって112歳とわざわざ改定するであろうか。    
  2、漢風諡号太子撰
 『白河本旧事紀』の「皇太子本紀」いわゆる『異伝聖徳太子』の推古天皇27年4月の是の月の条には、つぎのように記載されている。

 ≪是の月、太子奏して、磐余彦(イハレヒコノ)天皇より、泊瀬部(ハツセベノ)天皇に至りて、共に三十四代の天皇、倶に其の諡号を上る≫
 そして、「天皇本紀」の見出しは神武天皇ではじまる。まさに、推古天皇28年に『天皇国紀等』を撰修するために必要があって、その前年の4月に崇峻天皇までの諡号を聖徳太子が奉ったのである。このことに早く気づいてほしいと思う。 
 3、聖徳太子の存在
 聖徳太子は皇太子であって天皇ではないので、天皇紀である『日本書紀』からは外れている。『先代旧事本紀』には「皇太子本紀上」「皇太子本紀下」があり、いわゆる「聖徳太子本紀」は別巻で存在したのである。

 白河本旧事紀の目次
 第一巻  神代本紀 第二巻  陰陽本紀  第三巻  神祇本紀   第四巻  天神本紀 第五巻  地祇本紀  第六巻  天孫本紀  第七巻 皇孫本紀 第八巻  天皇本紀第一 ~ 第十九巻  天皇本紀第十二 
  第二十巻  皇太子本紀上
  第二十一巻 皇太子本紀下 第二十二巻 経典本紀  第三十巻  国造本紀

 平成12年、ある大学の先生が聖徳太子は実在しないといわれた。問題提起としてまことに結構だとおもう。現在、それを肯定する史料も否定する史料も存在しないというのが大学の常識である。じつは、『隋書』にでてくるが裴世清が会ったのは推古天皇ではなく、まさに聖徳太子その人である。
 『異伝聖徳太子』の97頁、推古天皇16年8月4日の条は、つぎのとおりである。
 《四日、隋国の使等を朝廷に召す。時に太子、簾を巻て、裴世清等を見たまふ。其の威儀、穆々巍々(ぼくぼくぎぎ)たり。裴世清等、戦懼(せんく)して地に伏し、敢て仰ぎ膽(み)ず》
 裴世清等が拝謁したのは、聖徳太子ご自身である。学界は真贋は別にしても、このような文言があることぐらいは承知してほしい。わたしは、学界は短絡かつ怠慢だとおもっている。なお、「聖徳太子」は、漢風諡号そのものであり、『日本書紀』記載の東宮聖徳や豊耳聡聖徳および上宮厩戸豊聡耳太子などから「聖徳太子」という諡号が連想できないのは、よほどの無理が必要であり、この諡号は『日本書紀』成立時点にすでに存在していたと考えられる。『異伝聖徳太子』は、『皇太子、豊聡耳尊、又た厩戸皇子(うまやどのみこ)と名づく。又た上宮太子と号す。聖徳太子と諡(をくりな)す」ではじまる。これがまさに正史であったと思う。
『隋書』にある「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや、云々」に対応する日本側の史料は、次の文言だと考えられる。

 《時に太子、親(みづ)から其の簡を書したまふ。其の辞に曰く。
 日出る天皇、月見ゆる帝皇に問ふ。朕、海蕃に在て貴風を聞く。万蒼相ひ隔てて未だ通ぜざりけり。今ま謹んで将さに宝体安全を聞んとす。是れ同天の好を慮るのみ。仍て大礼小野妹子をして、謹んで久情を宣述せしむ。次て方物を進て、信を為すこと斯の如し》
太子が自ら筆を執って書かれたものと考えられ、太子の対等外交の象徴であり、『古事記』や『日本書紀』から漏れてしまったのは、これらの編纂時には、天智天皇2年(663)に日本・百済軍が、唐・新羅軍によって白村江で大敗し、朝貢外交に転じたからだと考えられる。
 4、十七条憲法の改正
 『白河本旧事紀憲法』と『日本書紀憲法』とはともに十七条から成っており総じてみればよく似ているが、違いは真贋の範疇ではなく、改正なり改訂だと考えられる。特に異なるのが、『白河本旧事紀憲法』の第十七条と『日本書紀憲法』の第二条である。 <白河本旧事紀憲法第十七条>
 《十七に曰く。篤く三@(さむぼふ)を敬へ。三@は、神儒仏なり。是れ百姓の総帰、万国の極宗、何れの世、何れの人、是の@を貴(たと)ばざらん。人、尤も悪きは鮮(すくな)し。善く教ふれば之に従ふ。三@を敬はずんば、何を以て枉(まがる)を直(なほ)くせん。》 注、@の文字は、法の旧字でさんずいに薦のくさかんむりをとり、下に去を書く。なお、『白河本旧事紀憲法』は別巻になっている。
 <日本書紀憲法第二条>
《二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは、仏・法・僧なり。則ち四生の終帰(をはりのよりどころ)、万の国の極宗なり。何の世、何の人か、是の法を貴びずあらむ。人、尤(はなはだ)悪しきもの鮮(すくな)し。能(よ)く教ふるをもちて従ふ。其(そ)れ三宝に帰(よ)りまつらずは、何を以(も)てか枉(まが)れるを直(ただ)さむ。》

 主な相違点
 第一、「神儒仏」と「仏法僧」推古天皇12年の時点では、神教や儒教が色濃く残っていたし、『日本書紀』の構成もそのように構成され、仏教が一色に近くなったのは天武天皇のころかと思う。
 第二「百姓(ひやくせい)」と「四生(ししよう)「百姓」は百の姓で人を指す。「四生」は仏教語で、生物を生まれ方の違いによって4種類に分類したものすなわち、胎生、卵生、湿生、天人や地獄の衆生も含む化生などで、「四生」と「何れの人」とではちぐはぐである。
 第三、『日本書紀』の「この法を貴(たふと)びずあらむ」の「法」は「仏法僧」の「法」を指しているのだろうか。そうでないとするとここもちぐはぐである。

 神教と儒教を無理に削除したために文脈が乱れたようである。
  おわりに
 日本古代史学会は、虚説定着談合集団と考えられる。歴史は限りなく直接経験に近いものでなくてはならない。秦の始皇帝の出自のように真実を語らなければならない。日本の歴史は大本営発表を基にしている。『日本書紀』しかりである。
 『白河本旧事紀』の反正本紀に、反正天皇の言葉として次ぎのような文言が記載されている。
《それ史書は天下の至宝なり。賢善を見ればすなわち悦びてこれを学び、愚悪を見ればすなはち省みてこれを戒しむ。多玉は賢善を作すりなし。多金は愚悪を解せず。ただ善く書を読めば、すなはちもつて道に入るべかりぬ。》

 『日本書紀』は『白河本旧事紀』を改訂して作られている。『日本書紀』の仲哀天皇の聖寿52歳がそれを物語っている。その改定の背後には中国の国威が感じられる。
 『日本書紀』によって封印された「日本古代史の謎」がいま解き明かされようとしていると結んだ。
 
  次回は08年10月11日土曜日を予定。

 第8回研究会 平成20年11月追加
 平成20年10月11日、静岡県島田市のプラザおおるりにおいて第8回研究会が開催された。会長の望月古亶氏から全国歴史研究会出雲大会が24日から26日にかけて島根県で開催される旨の報告があった。
      テ―マ「足坏神社の伝承」の研究発表は顧問の元常葉学園大学教授田辺久之氏である。
 静岡市足久保に所在する足坏神社は、『式内社調査報告第九巻』に「アシツキノ」とルビが振られているが、昭和38年の『神社名鑑』には「あべ」とある。なお、氏は足久保に住んでいる。本殿は神明流造四坪、例祭は10月16日である。
 この神社は安倍川の支流に当たる足久保川の左岸に建ち、霊亀元年(七一五)の創立と伝えられ、祭神は蛭子大神である。なお、出口延経撰『神名帳考證』では「足坏神社、大彦命、日本紀云、大彦命、安倍臣之始祖也」とある。(『式内社調査報告・第九巻』)駿河国安倍郡に鎮座する式内社は足坏神社のほかに神部神社、建穂神社、中津神社、小梳神社、白沢神社、大歳御祖神社である。
『総国風土記』には「足都幾神社所祭蛭児也、卜部兼臣承而祭之也」とあり、蛭児は『古事記』によると伊邪那美命と伊邪那岐命の間に生み損じた水蛭子(ひるこ)のことで葦船に入れて流し捨てられたとあり、葦の繁茂する川筋は絶えず洪水に見舞われ、これを治めるために蛭子大神を祀ったものと考えられる。
 近くに住む佐藤家は明治期まで「鍵取」と呼ばれ、神社の扉の鍵を保管する家で、慶長九年(一六〇四)の『検地帳』には、「禰宜弥六太夫」と記され、舞楽に用いられたと思われる古色蒼然の翁面や御神酒の徳利が保管されている。(『美和郷土史』)
      テ―マ「飽波神社の例祭」の発表者は岩井忠志氏、神社総代である。飽波神社は藤枝市藤枝、通称岡出山に位置し、志太平野最古の社とたたえられ、創建は仁徳天皇6年,旧藤枝一円の鎮護の神として祀られた。
 祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)  相殿 瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)  蛭子命(ひるこのみこと) 天忍穂耳命(あめのおしほのみみのみこと)
 なお、少彦名命は大国主命と共に国を開き、産業を勧め、医薬の術を教えたと伝えられる。瀬織津姫命は天照大神の別名か。天忍穂耳命は天照大神の長男である。
 平成20年度の例祭は10月3日(金)午後七時前夜祭、10月4日(土)午前10時例祭拝殿にて式典(浦安の舞奉納)、10月5日(日)午前8時40分発輿神輿渡御(本年は西廻り)、午後6時30分 還御、10月6日(月)午後3時終祭。神輿の渡御は、都合により宮に直接参拝できない方のための神事である。
行列順序 先導車 金棒 武者 大真榊 猿田彦命 従者 区旗 大太鼓 社名旗 御矛 御盾 賽銭唐櫃 日旗 月旗 四神旗 御弓 御太刀 金幣  高張提灯 随神 舞姫 輿丁 神輿 警衛 宮司・禰宜・神職 総代 舞姫付添 連絡車 総勢約三百名。
 参考資料 『飽波神社参拝のしおり』『平成20年度飽波神社御例祭についてのお知らせ』。
 ③ テ―マ「八坂神社と大国主命」の発表者は望月古亶氏。『白河本旧事紀』の地祇本紀(クニツカミノモトツブミ)には次のような記載がある。
  《男大己貴命(ミコオホアナムチノミコト)
 大己貴命(オホアナムチノミコト)は、又た大物主神(オホモノヌシノカミ)と名づけ、又た大国主神(オホクニヌシノカミ)と名づけ、又た造国大穴牟遅神(クニツクリオホアナムチノカミ)と名づけ、又た八島殿大神(ヤシマドノノオホンガミ)と名づけ、又た八島凌神(ヤシマシノギノカミ)と名づけ、又た大国玉神(オホクニダマノカミ)と名づけ、又た顕国玉神(ウツシクニダマノカミ)と名づけ、又た八千戈神(ヤチホコノカミ)と名づけ、又た葦原醜男神(アシハラノシコヲノカミ)と名づく。母(イロハ)は奇稲田姫命(クシイナダビメノミコト)
此の奇稲田姫命(クシイナダビメノミコト)、乃ち出雲ノ国簸()の御崎(ミサキ)に在す大神(オホンガミ)なり》。(原文はルビ付きの漢文)
 また、京都の八坂神社社務所編『八坂神社由緒略記』には次のような記載がある。
 《中御座 素戔嗚尊 東御座 櫛稲田姫命 御同座 神大市比売命、佐美良比売命
 西御座 八柱御子神(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売神)傍御座 稲田宮主須賀之八耳神 》。
『古事記』は大国主命を須佐之男命の六世の孫としているがでっちあげと考えられる。
 次回は09年11月初旬を予定。

★ 第9回研究会 平成21年12月追加

 平成21年
11月7日(土)静岡県島田市のプラザおおるりにおいて第九回研究会を開催。会長の望月古亶氏から全国歴史研究会は東京で開催され、静岡県歴史研究会の6月の見学会に、近松道雄理事と会長が参加した旨の報告。
 ▲  「美和の地名考」の発表は顧問の田辺久之氏/土地に集落が発生し、やがて人々の交流や交信が行われ、その土地に対する共通認識が生まれる。地形や生活、信仰との関連、位置関係などが地名の呼称に反映され、やがて土地支配や法制化による言語の標準化などが行われる/「美和」地名の調査は伝承調査、吉田東吾著『大日本地名辞典』など現行の地名文献による調査、さらに『和名類聚抄』『古地図』『地誌類』『古文書等』などの典拠調査を行った/ 「美和」という地名が文献に登場するのは10世紀の「和名類聚鈔」で、「美和郷」という形であらわれる。古代は50戸をもって一郷として数えていることからある程度の人家が集中していたことがわかる/「美和郷」は駿河国にあり、川辺、美和、横太など八つの郷の一つであった。美和郷に比定される地域内の安倍川流域賎機山西側の下地区に三輪神社がある。現在静岡県指定有形文化財となっているが、神社名が美和、三和、三輪と変化しており、ミワの呼称が時々の勢力によって甲斐の美和神社や大和の三輪神社の影響を受けているものと思われる/ミワの発音はヤマやカワ同様に和語としても近親感があり、神の呼称とも相まって全国に神、三輪、美和、三和、弥和、神部などの表記で分布している。その根源としては大和の大神(おおみわ)としての大物主神であり、その鎮座する山を神山、転じて三輪山とする草案もある。『古事記』や『日本書紀』にも見える三輪山の神との聖婚伝承は各地に三輪説話として伝播し、当地三輪神社の周辺域においても、毎夜通う男の裾に糸をさして糸をたどって池の竜や山の蛇にたどりつく異伝となっている。
 「木枯の森と八幡神社」の発表は理事の近松道雄氏/ 静岡駅の西に安倍川が流れ、支流の藁科川の中州に「木枯の森」があり、そこに八幡神社が祀られている。祭神は誉田別尊、すなわち応神天皇であるが、創建年次は不詳/『安倍郡服織村羽鳥の古記』によると、持統天皇の御代、この森で皇族が薨去されたとの伝えがある。後に清少納言の『枕草子』にも登場し、枕詞にもなり小野小町や藤原定家らもこの森にちなんだ歌を詠んでいる/江戸時代に下って、天明8年(1788)羽鳥の名主石上長隣が友人野沢昌樹らと相談して、国学者の本居宣長を招いて、万葉仮名で石碑を造った。しかし拓本や写真は残っているのだが、本体は昭和に入って忽然と消えてしまった。また、大杉の精と八千代姫にまつわる悲恋物語も伝えられている。その碑文は次のとおりである/ 木枯の森碑《木枯の森は駿河国に在る事は、古今六帖の歌もて知らえ、阿倍郡に在る事も風土記に見えてうつもなし。抑この森は、彼の六帖なるを始めとして、後撰集なる歎きの歌、又定家の卿の下露の言葉なにと、古より世に名高く聞えて今もさだかに服部の村と云ふ村の地に在りて、いと神さびたる処になもありける。いつき祭る神はしも、かけまくも畏き広旗の八旗の大神、然ばかりなる名所にし鎮まりいますは、此れもいとひささなる社にこそはいまそかるらめ。此の社近き年頃、ゆゆしく荒れまししを、村の長なる石上長隣伊、いそしみある人にてかしこく歎き愁ひて、心をおこし力を致して、又うるはしく修造まつれる、神いつきのおむかしさは更にも言はず、古偲ふみやび心をも世の人の心あらむ、聞き喜び見喜びて、森の木の葉の年のはにしみさかえて、絶ゆる世なき事の如く、万代までに偲はざらめや仰がざらめや、かく言ふは、天明の七年と言ふ年の五月のついたち 伊勢人 本居宣長》
「おどろおどろしい話」の発表は会長の望月古亶氏/「不気味で恐ろしい話」が『日本書紀』の武烈紀に記載されている。たとえば、「孕める婦(をみな)の腹を刳きて、其の胎(このかたち)を観(みそなは)す」「女をして裸形(ひたはた)にして、平板の上に坐(す)ゑて、馬を牽(ひ)きて前に就(いた)して遊牝(つるび)せしむ。女の不浄(ほとどころ)を観るときに、沾濕(うる)へる者は殺す。濕(うる)はざる者は没(から)めて官婢(つかさやつこ)とす。此を以て楽(たのしみ)とす」などである。この話と『白河本旧事紀』と比較したいのであるが、『白河本旧事紀』の天皇本紀は雄略本紀の二十一年十月で途切れ、残念ながら欠落している。ただし、これらの内容は『延宝本旧事紀大成経』や『鷦鷯伝旧事紀大成経』にも載っているので『白河本旧事紀』も存在したと考えられる。『白河本旧事紀』にはおどろおどろしい話は第七巻皇孫本紀(スメミマノモトツブミ)に4本ほど集中している。その一つを紹介したい。カタカナのルビは原文によるもの。なお、『延宝本旧事紀大成経』にも順序は異なるが、ほぼ同じ内容が載っている。根は同じかもしれない。《陸奥ノ国に、神(カミ)あり。夷子別神(エビコワケノカミ)と名づく。其の容貌(カタチ)醜陋(ミニク)く、面(オモテ)尤も長く、太だ肥ゆ。諸神(モロガミ)の女、皆な肯て嫁(トツ)がず。其の地(トコロ)に馬あり。其の色白くして甚だ美し。見る者(も)の皆な之を悦ぶ。夷子別神(エビコワケノカミ)、乃ち之に淫(タハ)る。是に於て、百里(モモサキ)の内、其の気(イキ)歘(たちま)ちに変(カハ)り、其の神力(カンチガラ)失ひぬ》なぜこのような物語が記載されているのか。一つには勧善懲悪、二つには他種族蔑視、三つには政権交代に伴う前政権への誹謗中傷、四つには事実の投影などが考えられる/このような話が『白河本旧事紀』に存在するということは、『白河本旧事紀』が『日本書紀』に先行して編纂された証左だと考えられる。確かな事実認定に基づいて、日本古代史を見直す必要がある。 次回は平成22年11月上旬の予定。

 ★ 第10回研究会 平成23年2月20日追加

平成22年11月6日(土)静岡県島田市のプラザおおるりにおいて第一〇回研究会を開催。会長の望月古亶氏から全国歴史研究会は和歌山県田辺市で開催され、顧問の田辺久之氏、理事の近松道雄氏と会長が参加した旨の報告。10月22日の午後近松と望月が田辺市を散策、初め闘鶏神社に、次いで南方熊楠記念館を訪れた。闘鶏神社はこれまでにも幾度か名称が変更された。 その翌日、田辺氏を加えて、1号車に同乗し、熊野本宮大社を参詣、熊野古道の散策を体験、最後は駅前のラーメン屋で、塩味をかき込み特急に乗りこみ、途中奈良方面に向かう田辺氏と天王寺駅で別れ、大阪駅では山形から参加した管野祐一氏と出あい、土産物をさがした。
 ▼「田辺から熊野古道を散策」の発表者は近松道雄氏、熊野古道とは、熊野本宮大社(本宮)、熊野速玉大社(新宮)熊野那智大社(那智)への参詣道で、紀伊路・小辺路・中辺路・大辺路・伊勢路・大峰奥駈道の6ルートがある。田辺からの参詣道は本宮へ直接向かう中辺路のルートで、平安時代から鎌倉時代にかけての熊野詣の公式参詣道であった。全国大会での見学会は、田辺市のホテルからバスで中辺路ルートを経て熊野本宮に参詣、途中、滝尻王子を過ぎたころ牛馬ふれあいパーキングか近露王子までの約75分熊野古道を散策、世界遺産の雰囲気を味わいながら山中の古道を箸折峠~牛馬王子~近露王子への道程である。道中で一番印象深かったには、花山法皇が熊野行幸した際の逸話。それは、「984年花山天皇は17歳で即位、藤原氏の策動により在位2年を待たずに19歳の若さで出家させられ退位し法皇となった。皇位を追われた法皇はわずかな供を連れて熊野に向かった。中辺路を旅して峠までやってきた時ちょうどお昼になった。ところが弁当を食べようとしたが箸がない。供の者が忘れてきたという。供の者はとっさに路傍の萱を折って箸として差し出した。その萱の箸から汁が出て軸が赤くなっているのをご覧になった法皇は「これは血か露か」とお尋ねになられた。この故事から、そこを箸折峠と言い、峠の麓の集落を近露と言うようになったという。 宮中に渦巻く権謀術数に疲れ、権力闘争にやぶれた花山天皇の気持ちをしのばせる。語り部の女性からこの萱の実物を示された。本当に芯が血のように赤く染まっている。通常の萱の軸は薄い乳白色であるが、熊野の萱は軸芯に赤い斑点が点在するようである。 感動のスポットは、大齊原(おおゆのはら)である。明治22年まで熊野本宮大社があった所で、熊野川の中州」にある。日本一の大鳥居をくぐると、鬱蒼といた森の中に大きな広場がある。洪水で流失する前は12の社殿が横一列に並んでいたという。この地に入ると本宮以上の霊感を感じる。熊野本宮は日本三大パワースポットの一つといわれるが、わたしはこの大齊原こそが千年以上の歴史に包まれた、いや縄文・弥生時代から信仰の対象であったと想われる大パワースポットと感じる。(近松氏)
 ▼「観阿弥最期の法楽能の社はいずこ」の発表は顧問の田辺久之氏/『風姿花伝』のみる観阿弥・世阿弥の芸論年代考/と題して、その書の第一にあたる「年来稽古条々」を現代語訳で発表した。本研究会からは違和感があるが、観阿弥が最後に演能した神社の検証に関心を抱いていただこうと考えた。観阿弥、世阿弥は南北朝時代・室町時代の能役者・謡曲作家として能楽史上に輝く父子である。世阿弥の『風姿花伝』によると観阿弥は至徳元年(一三八四)五月四日に駿河の国せんげんの御前にて法楽仕り、この時にさるがくはことのほか花やかで見物の上下一同ほめたたえたとあり、観阿弥は十九日に五十二歳で没したと記している。観阿弥の没年については『常楽記』にも典拠とされる。この駿河の国せんげんは、その地が駿河国一宮である富士山本宮浅間神社《富士宮市宮町》か駿河国総社としての静岡浅間神社』(静岡市葵区宮ケ崎町)かは判明していない。県都として賑わいをみせる静岡浅間神社の境内には、現在、観阿弥を能楽観世流の始祖とする宗家観世清和(二十六世)による顕彰碑がある。静岡浅間神社を故地とする根拠としては、駿河今川氏の初代となった守護範国が総社浅間神社への崇敬の念が篤かったこと(『難太平記』)また、孫に当たる守護康範が範国の病気平癒の祈祷に京より観阿弥、世阿弥父子一座を招いて法楽能を舞わせたという推測である。また、何の因縁か、齢九十の範国と五十二歳の観阿弥が同日に死去している。範国の墓は磐田市常光寺にあるが、将軍義満の信任も篤く、後継ぎもある観阿弥の墓が見当たらないのも不思議である。一方、富士山本宮浅間神社は室町のみやこびとの渇望した富士遊覧の目的地でもあった。世阿弥が申楽を舞った日を五月四日と明確に記述しているのは神社祭事の縁日だったこともある。この日に始まる流鏑馬は同社の伝統的かつ盛大な祭事であった。庶民の中に芸を見いだした観阿弥がこの社殿で法楽能を舞うことも大いにありうることであろう。長旅と社頭での申楽が大好評で安堵したであろう観阿弥の死は謎に満ちている。駿河の国せんげんの御前とはどこであろうか六百数十年前のことであるが。(田辺氏)
 ▼「聖徳太子の薨去」jの発表は会長の望月古亶氏/これはhp「日本古代史最前線」の『白河本旧事紀』第二十一巻「皇太子本紀下」の口語訳に基づいている。聖徳太子は推古天皇二十九年二月二十二日に五十歳で薨去されている。生まれたのは敏達天皇元年元旦である。推古天皇二十七年己卯《すでに科長の墓工を召して、命じて言われた。「わたしは巳の年に、必ず葬られることになるだろう。あなたは、速やかに墓を造ってほしい」。墓造りの土師(はじ)の連は「墓はすでにできております。ただ隧道が残っております」と申し上げた。太子は「隧道は開けなくともよい。ただ墓には二床を設けてほしい」と言われた。秋八月、《太子は、早く起きて朝廷に出仕した。天皇は太子に向かって「わたしは、皇太子の姿が、通常よりあでやかに見え錦の衣を着ているのを夢見ました。これは何の兆しであろうか」と言われた。太子は、涙を流して申し上げた。「これはわたしが陛下のお側を離れるきざしです」。天皇はまたお泣きになった。涙をとめどなく流された。《冬の十月、太子は、「わたしは久しく病気にかかっています。願わくば尊い貴薬をたまわり治療したいと思います」と願い出た。天皇は千余種の薬を下された。太子は調合して諸々の病人に施し、自分は一丸も飲まなかった》。推古天皇二十八年庚辰 二月供応、三月曲水の宴、九月大宴会。推古天皇二十九年辛巳《春の二月二十二日、太子は斑鳩宮で亡くなられた。これより前に太子は、膳大娘に語って言われた。「わたしはこの夕べにこの世を去ろうと思う。あなたもともにさろう」。それで二人とも入浴して,,新しい衣装に着かえ床についた。次の朝、日が高くなっても起きてこられなかった。殿の戸を開けて亡くなられたことを知った。このことから聖徳太子と膳大娘姫命は服毒心中したのだと考えられる。次回は平成23年11月上旬の予定。


 ★ 第11回研究会 平成24 年4 月30 日追加

*平成23年11月12日(土)静岡県島田市のプラザおおるりにおいて第一一回研究会を開催。会長の望月古亶氏から全国歴史研究会は、岡山市で開催され、顧問の田辺久之氏、理事の近松道雄氏ら三人が参加した旨の報告。▲「アメとアマ」の発表は望月古亶氏。天照大神は、「あまてらすおおみかみ」と読み、「あめてらすおおみかみ」とは読まないのはなぜか。  

『白河本旧事紀』すなわち『旧事紀白河家三十巻本』の冒頭の部分を示す。原文は『日本書紀』と同様、和製漢文、ほとんどにカタカナのルビが付されている。
 《先代(サキツヨ)旧事本(フルコトノモトツ)(ブミ)

 神代本(カンツミヨノモトツ)(ブミ)
 (イニシヘ)は、元気(モトツイキ)渾沌(マロガレ)て、陰陽(ギミ)未だ(ワケレ)ず。(ナヲ)鶏卵(トリノコ)(ゴト)し。(クク)(モリ)(キザシ)(フク)む。
 ()(キノ)(スメル)は、(カロ)(ノボリ)て、(アメ)()り、(ミノニ)(ゴレル)(オモ)(シヅミ)(ツチ)()る。(タトヘ)(アソ)(ウヲ)(ミヅ)(ウへ)(ウケル)(ゴト)きなり。
 (カレ)(アメ)()()りて(ツチ)(ノチ)(サダマ)る。(シカ)ありて(ノチ)神聖(カミ)()(ナカ)(アレ)ましけり。(ミナ)(アメ)(ユヅル )日天(ヒアメ )狭霧地(サギリツチ)(ユヅル)月地(ツキツチノ)狭霧(サギリノ)(ミコト)(マウ)す。

(ソレ)より、以降(コノカタ)独化(ヒトリナル)(ホカ)に、(トモ)()二代(フタツギ)(タグ)()五代(イツツギ)所謂(イハユル)(カミ)()七代(ナナヨ)(コレ)なり。

* (アメ)(ユヅル)日天(ヒアメ)狭霧地(サギリツチ)(ユヅル)月地(ツキツチノ)狭霧(サギリノ)(ミコト)は、又た常世(トコヨ)(トコ)(スベノ)(ミコト)と名づけあげる。
 ()(カミ)虚無(ミソラ)(キハ)()し、(タへ)(サダミ)(カギリ)(タチ)(モツ)(モノ)主宰(ツカサドリ)()りて、()れに(サキダ)(モノ)()ることなし。 

* 大甘味葭芽彦(オホムマシアシガヒヒコ)(ヂノ)(ミコト)は、又た(アマノ)御始化(ミハジメナリノ)尊と名けあげる。
  (アマノ)御中主(ミナカヌシノ)(ミコト)は、又た(アマノ)(トコ)(ダチノ)(ミコト)と名けあげる。
 ()二神(フタバシラノカミ)は、造化(ミツクリナス)本始(ハジメ)にして、万物(モロシナ)主宰(ツカサ)なり。

* 伊弉諾(イザナギノ)(ミコト)は、又た天降(アマノクダリ)(ヲノ)尊と名けあげる。又た神生(カンウム)(ヲノ)尊と名けあげる。伊弉冉(イザナミノ)(ミコト)天降(アマクダリノ)(ビメノ)尊と名けあげる。又た国生(クニウミ)(ビメノ)尊と名けあげる。此の神夫婦(メヲト)、始めて(ミトノ)(マグバヒ)して、以て生産(コウムコト)を成したまひけり。

*(アマ)(テラス)大日靈(オホヒルメノ)(ムチノ)(ミコト)は、又た日徧(ヒノアマ)(テラス)大神(オホンガミ)と名づけあげる。又た上天主(タカマガハラノミヌノ)大神(オホンガミ)と名づけあげる。伊弉諾(イザナギノ)(ミコト)伊弉冉(イザナミノ)(ミコト)と、既に大八州(オホヤシマ)、及び山川草木を生たまひ、然して後に、(アマ)(テラス)大神(オホンガミ)、及び月夜(ツキヨ)(ミノ)(ミコト)素戔嗚(ソサノヲノ)(ミコト)を生たまふ.

「アメ」を冠せられる神は天譲日天狭霧地禅月地狭霧尊のみ、ほかは「アマ」と考えられる。

▲「わが郷土とヤマトタケル」の発表者は堀池郁男氏。『古事記・日本書紀事典』『有度郷土誌』『駿河村誌』などをもとに話した。氏の住む静岡市清水区馬走の由来は『有度郷土史』によると、「馬走(マバセ)」、「村名の起原」として、次のように記載している。

「往古日本武尊御東征の際草薙の野に土賊を討伐せられ鎮定の後軍馬を憩はせんが為に鞍を卸し東南の駒ヶ原に放ちたるに馬は激戦の余勢に逸りて東の谷に走り兵は之を追ひ行きしに水清らかにして人棲むに適したる谷を発見した此戦に神兵如何に強くとも猶若干の傷きたる兵も馬もありしかば之を癒する恰適なる谷となし馬に飲ひ兵を養ふ所となし給ひ其後尊は兵馬を整へ東国に進発せられ傷ける兵馬は尚ほ療養せしか癒えたるは尊の後を慕ひて東に進み進む能はざる者は此の地に残りて遂に土着となりたるに依つて村名を馬走と呼ひなしたると口碑に伝つてゐる」

「日本平」「太古日本武尊東夷平定の後此処に登りて四方眺めさせられた旧跡であると言伝へられている降てて徳川家康駿府在城の時毎年正月此所から雌雄の小松を根こぎとし水引を掛けて大御所に献上したとの故事も残つてゐる此処はもと徳川幕府の直領で反別三十八町一反五畝六歩の面積を有する高台にして鬱蒼たる森林であつたが明治の初年伐採して土地は民有となり開墾され現在は茶園となつている先年新聞社の催によつて日本二十五勝に当選した結果洽く世人の注目の的となり日曜祭日等の休日には遠近より来遊する者引きもきらず先年文豪徳富蘇峰先生夫妻の来遊あり時の村長、校長等が案内した先生は頂上より遠くは富嶽、伊豆、半島、近くは興津三保の松原等を望み見てこんな住い所であったかと頗る感に入つた様である山を下つて草薙神社と結び付けて懐古の情に堪へぬ風に見受けられた。最近東京毎日新聞(昭和二十五年)主催で日本百景を選挙した所が見事に平原第一位の栄冠を獲得した是より登攀者頓に多きを加ふるに至り静岡清水両市地本有度村の二市一村合同して県立公園の実現に努力しつゝあり」

草薙(クサナギ)」名の起原 草薙といふ名の起りは世人のあまねく知つて居る通り日本武尊が東夷を御征伐しようと東国に御出ての時土賊が佯り此の野原には大変な獣物が棲息して居るから御狩を催たらと誘ふて四方から枯草に火を放つて命を焼き殺さうとした此時尊は御姨倭姫命から頂いて来た宝剣を以て草を薙ぎ払ふて之に火をつけたところ不思議にも風向き変つて其火勢が賊の方向に向ひ返つて其賊をほろぼし 難を遁れたといふ史蹟から名づけられたといふことは動かぬことの出来ぬことである猶史蹟に就ては後に稍々詳しく述べようと思ふ」 

ほかに、「駒ヶ原」「鞍卸」「冷水(ヒヤミズ)」などの地名が残っている。なお、草薙神社について次のように伝えている。

 「草薙神社」 「祭神 日本武尊 創建 景行天皇五十三年 景行天皇日本武尊の東夷を平定せられ都へ皈り給はず伊勢の能褒野に薨じ玉ひしを深く嘆かせ玉ひせめて愛子日本武尊の勲功の地を臠はす目的を以て東国に行幸あらせられ皇輿を今の天皇社の地点に駐めさせられ尊が草を薙いて火難を免れ給ひし此の地を相し一社を建立し草薙の剣を御霊代として日本武尊を奉祀し草薙神社と崇め祀つたと言ひ伝へられてゐる(現在の古宮の地)其後馬に乗つて此社前を過ぐる者は必ず落馬す之れ或は神威を瀆すには非ずやと尊が本陣を構へたと言ひ伝へらるる現在の境内に平安朝の頃奉遷されたものと口碑が残されてゐる 皇紀千三百四十六年(天武天皇朱雀元年)此の草薙の宝剣は勅命に依つて熱田神宮に移されたことは同社の為には誠に惜しむべきことである」


     つづく

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