『四天王寺御朱印縁起』の謎を解く        2004・1・1

  はじめに

 大阪市天王寺区にある四天王寺が所蔵する『四天王寺御朱印縁起』は、聖徳太子の直筆である。したがって、そこに記載された欽明天皇十三年(552)の仏教公伝は正しい。 また、署名日の「L卯歳正月八日」は「推古天皇二十七年己卯(619)正月八日」にあたり、この時点では聖徳太子は敏達天皇までの漢風諡号しかできておらず、用明天皇と崇峻天皇の漢風諡号ができあがったのは4月に入ってからである。さらに推古天皇27年4月の条に聖徳太子が「磐余彦天皇より、泊瀬部天皇に至りて、共に三十四代の天皇、倶に其の諡号を上る」と記載する『白河本旧事紀』は、『古事記』や『日本書紀』に先立って編纂されたものである。以上のことが判明した。


一、『寛文本・聖徳太子伝暦』の写真 (寛文十二年板)

 『四天王寺御朱印縁起』は『聖徳太子伝暦』より前に作成されたものである。
 「本願縁起云」以下の文字は細書で記載され、『聖徳太子伝暦』が『四天王寺御朱印縁起』を引用しているのは明らかである。


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  1の写真は、この本は『聖徳太子伝暦』の寛文12年板と記載した部分である。
  2の写真は、『聖徳太子伝暦』の冒頭の部分である。
  3の写真は、細書の「本願縁起云」が頁ごと太文字の後に2箇所でている。
  4の写真は、3の写真の右上の部分を拡大した。真ん中ほどに箱で囲ったなかに「本願縁起」とあり、つぎの行に「天王寺縁起也」と記載されている。
  5の写真は、細書で「本願縁起云臣忝禀儲君位」と記載されている部分である。
  6の写真は、引用文の最後の部分で右の2行目のところに「歳次乙卯」と記載されている。
 

二、荒陵の「陵」の文字は『四天王寺御朱印縁起』では「さんずい」

 『四天王寺御朱印縁起』のはじめのほうにある荒陵の「陵」の文字は、朝日新聞社編『日本の国宝』でみると6箇所にでてくるが、「こざとへん」であるべきところがすべて「さんずい」になっている。しかしながら、このことが意外と事実認定がなされていない。太子の直筆とするとおかしい。しかし、偽作ではなおさらおかしのである。
 
三、9つの年次のうち欽明天皇、敏達天皇二つのみの漢風諡号

 その9つの年次はつぎのとおりである。
 1 丁未の歳(用明天皇二年)を以て、始めて玉造の岸の上りに建つ。
 2 癸丑の歳(推古天皇元年)荒陵の東に壊し遷す。
 3 百済国にありしの時の仏の像、経律論、法服、尼等、是の朝に渡り越す。欽明天皇天下治す壬申の歳(欽明天皇十三年)に相ひ当るなり。
 4 律師、禅師、比丘、比丘尼、呪師、造仏の工、造寺の工等、相ひ重て渡送せり。敏達天皇天下治す丁酉の歳(敏達天皇六年)に相ひ当るなり。
 5 乙卯の歳(推古天皇三年)儲の君の功封の内を割分し、永劫の勅納、既に畢んぬ。
 6 丁未の歳(用明天皇二年)、守屋臣の所領田地、両国内都合十八万六千八百九十代。
 7 戊申の歳(崇峻天皇元年)、修多羅供料地三千代。
 8 壬戌の歳(推古天皇十年)、官施入、仏聖灯明衆僧供料地十二万七千五百六十代。
 9 L卯の歳(推古天皇二十七年)正月八日、皇太子仏子勝鬘。

 『古事記』や『日本書紀』成立後に漢風諡号ができたのであれば、推古天皇は別にしても、用明天皇や崇峻天皇の漢風諡号を記入すると考えられる。したがって、このとき太子は諡号を作成中であったと考えるしかない。 これが正しいとすると、仏教の公伝は欽明天皇十三年壬申(552)になる。
 
  『白河本旧事紀』の第21巻目は「皇太子本紀下」で、その太子十六の推古天皇27年夏4月、是の月の条につぎのような文面がある。

 《是の月、太子奏して、磐余彦天皇より、泊瀬部天皇に至りて、共に三十四代の天皇、倶に其の諡号を上る》
 
 これと、『四天王寺縁起』とクロスさせれば、まさに聖徳太子が推古天皇28年の『天皇国紀等』を編修するために必要があって、神武天皇から崇峻天皇までの漢風諡号を推古天皇27年4月に撰上したのであり、同年1月8日の時点では、用明天皇と崇峻天皇の諡号は出来上っていなかったのである。
 したがって、卜部兼方撰『釈日本紀』の「私記曰く。師説く。神武等の諡名は淡海御船勅を奉じて撰するなり》は誤りである。
 また、この文言は『日本書紀』より前に書かれたものと考えざるを得ない。

四、L卯の歳

 この縁起はその時点で署名されているので、L卯の歳は壬戌の歳(推古天皇十年)より後でなければならない。
 また、同じ年とされる5と9を比較した場合、1月8日までの8日間で儲の君の功封を分割して、永劫の勅納がこんな短期間に完了するはずがなく不可能である。
 したがって、通説のようにこのL卯の歳を推古天皇3年とするのは間違いで、推古天皇27年(619)己卯とするのが正しい。
 これが理解できない場合は、L卯の歳を乙卯の歳と仮定して考えると比較的わかりやすい。8の7年後の「官施入」が記載できるのだろうか。また、同じ歳になるが5の「儲の君の功封の内を割分し、永劫の勅納、既に畢んぬ」が可能かどうか。既に完了し過去形になっている。

五、皇太子仏子勝鬘の署名

 「皇太子仏子勝鬘」の署名は、偽作だとすると若干ひねったような気がする。

六、25個の御朱印
 
 1 25箇所に押された手形の朱印は薄く文字を大切にしていることがわかる。
 2 朱自身が特殊なもので、後醍醐天皇でもすぐには入手できなかったと考えられる。
 3 普通は「宸翰本」の朱のように濃いものを使用するとおもう。
 4 偽作だから25箇所なのか、このように多いのも不思議である。偽作にしてもくどい感じがする。
 5 偽作なら「宸翰本」のように濃い朱印を二つも押せば事足りると考えられる。
 
七、その他、消えた文字等

 まとめ

 『四天王寺御朱印縁起』はまさにまさに聖徳太子の真筆である。

  『歴史読本』の2004年1月号の「欠史八代」に志田茨城キリスト教大学名誉教授がつぎのように書いている。

 《鉄剣銘からわかることは、雄略天皇の時代に大彦命に関する伝承が存在したらしいことだけであって、大彦命の実在は証明されていない、とされる。しかし、伝承であっても『記紀』編纂のころの伝承と五世紀に鉄剣に刻銘された伝承とは史料の質が異なり、限りなく史実に近いのではないだろうか。そうするとオホヒコにつながる大倭根子日子国玖琉命の存在も再検討の余地があるように思われる》
 
 日本古代史は、根底から見直す時期にきているとおもわれる。
  

   つづく