| (伝承年代推定法) 2003・2 ー第1代神武天皇から第26代継体天皇までー 歴代天皇の推定即位年次一覧表 (単位:代・年・) |
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| 代 数 | 天皇名 | 即位元年 | 退位年A | 伝承最長年次B | A−B | 左の内10の倍数C | A−C | 推定在位年数 | 推定即位年次 |
| 1 | 神 武 | 辛酉・BC660 | 76 | 33 | 43 | 40 | 36 | ☆33 | 甲寅・BC127 |
| 2 | 綏 靖 | 庚辰・BC581 | 33 | 元年 | 32 | 30 | 3 | 3 | 庚寅・BC91 |
| 3 | 安 寧 | 癸丑・BC548 | 38 | 18 | 20 | 20 | 18 | 18 | ★壬辰・BC89 |
| 4 | 懿 徳 | 辛卯・BC510 | 34 | ー | 34 | 30 | 4 | 4 | 辛亥・BC70 |
| 5 | 孝 昭 | 丙寅・BC475 | 83 | 53 | 30 | 30 | 53 | 53 | 丙辰・BC65 |
| 6 | 孝 安 | 己丑・BC392 | 102 | 31 | 71 | 70 | 32 | 32 | 己酉・BC12 |
| 7 | 孝 霊 | 辛未・BC290 | 76 | 9 | 67 | 60 | 16 | 16 | 辛巳・21 |
| 8 | 孝 元 | 丁亥・BC214 | 57 | 30 | 27 | 20 | 37 | 37 | 丁酉・37 |
| 9 | 開 化 | 甲申・BC157 | 60 | 2 | 58 | 50 | 10 | 10 | ★癸酉・73 |
| 10 | 崇 神 | 甲申・BC97 | 68 | 65 | 3 | 0 | 68 | 68 | 甲申・84 |
| 11 | 垂 仁 | 壬辰・BC29 | 99 | 54 | 45 | 40 | 59 | 59 | 壬辰・152 |
| 12 | 景 行 | 辛未・71 | 60 | 58 | 2 | 0 | 60 | 60 | 辛卯・211 |
| 13 | 成 務 | 辛未・131 | 60 | 21 | 39 | 30 | 30 | ☆21 | 辛卯・271 |
| 14 | 仲 哀 | 壬申・192 | 9 | 9 | 0 | 0 | 9 | 9 | 壬子・292 |
| 14−2 | 神 功 | 辛巳・201 | 摂政69 | 摂政11 | 58 | 50 | 19 | ☆摂政11 | 庚申・300 |
| 15 | 応 神 | 庚寅・270 | 41 | 41 | 0 | 0 | 41 | 41 | 庚午・310 |
| 16 | 仁 徳 | 癸酉・313 | 87 | 76 | 11 | 10 | 77 | 77 | 癸丑・353 |
| 17 | 履 中 | 庚子・400 | 6 | 6 | 0 | 0 | 6 | 6 | 庚午・430 |
| 18 | 反 正 | 丙午・406 | 5 | 3 | 2 | 0 | 5 | ☆6 | 丙子・436 |
| 19 | 允 恭 | 壬子・412 | 42 | 8 | 34 | 30 | 12 | 12 | 壬午・442 |
| 20 | 安 康 | 甲午・454 | 3 | 2 | 1 | 0 | 3 | 3 | ★癸巳・453 |
| 21 | 雄 略 | 丁酉・457 | 23 | 23 | 0 | 0 | 23 | 23 | ★丙申・456 |
| 22 | 清 寧 | 庚申・480 | 5 | 御代等 | 5 | 0 | 5 | 5 | ★己未・479 |
| 23 | 顕 宗 | 乙丑・485 | 3 | 元年 | 2 | 0 | 3 | 3 | 乙丑・485 |
| 24 | 仁 賢 | 戊辰・488 | 11 | 御代等 | 11 | 10 | 1 | ☆11 | 戊辰・488 |
| 25 | 武 烈 | 己卯・499 | 8 | 御代等 | 8 | 0 | 8 | 8 | ★戊寅・498 |
| 26 | 継 体 | 丁亥・507 | 25 | 20 | 5 | 0 | 25 | 25 | 丁亥・507 |
注1:即位元年、退位年は、坂本太郎ほか校注『日本書紀』及び三重貞亮訓解・松下松平解題『旧事紀白河家三十巻本』により作成した。 注2:伝承最長年次は、神社本庁調査部編『神社名鑑』記載の最長在位年次である。ただし、「神武天皇80年」及び「成務天皇50年間」は除外した。 注3:伝承最長年次の欄で、「御代等」とあるのは年次の伝承がなく御代、御時、朝等となっているものである。 注4:懿徳天皇については、伝承が見当たらない。 注5:左の内10の倍数C欄は、A−Bの数のうち、10の倍数の最大値である。 注6:☆印は調整した数値である。ただし、神武天皇の即位年次は『宋史』により、また成務天皇21年は空位年次と解釈した。さらに反正天皇の在位年数は『旧事紀白河家三十巻本』の6年を採用した。 注7:★印は即位年次の翌年が即位元年である。 注8:これは試案であるので、今後さらに検討を加える必要がある。 |
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☆ 1 神功皇后に関わる神社の伝承の最長年次は摂政11年で、摂政期間はその前後の天皇の在位年数と重なり、『日本書紀』記載の摂政期間の69年は60年上乗せされているものと考えられ、歴代の天皇の在位年数についても干支の関連から10年単位の短縮を考えた。
わたしは、景初三年(239)は景行天皇19年(『日本書紀』記載では89)にあたると考えているが、第19代允恭天皇の在位年数は、伝承最長年次が8年で30年を差し引き、第16代仁徳天皇は伝承最長年次が76年で10年、神功皇后は摂政11年で60年、第13代成務天皇は21年で40年、これまでが140年であり、あと10年が合わない。しかし、おそらくは仁徳天皇のマイナス10年がマイナス20年になるのではないかと考えている。
したがって、景初3年の239年は景行天皇の19年にあたり、この年の6月には天皇は九州にいたと考えられる。しかし、その10年をどこへもってくるかという問題がありなかなかうまくいかないのである。
☆ 2 神武天皇の即位年次のBC127年甲寅は、継体天皇の即位年次507年丁亥を基点に『日本書紀』記載の在位年数Aから伝承最長年次Bを差し引き、その数のうちで10の倍数の最大値Cを求め、その値を改めてAから差し引き、部分的に多少の調整を加え推定在位年数を割り出して遡ったのである。神武天皇の即位年次の干支辛酉では不都合が生じたが、『宋史』の甲寅では空位3年も無理なく捻出できた。
☆ 3 仁徳天皇の在位年数が77年とまだ長すぎること、景初3年が景行天皇29年に当たること、『伊賀国風土記・逸文』の「伊賀国は、往昔、伊勢国に属す。大日本根子彦太瓊天皇の御宇、葵酉、分て伊賀国とす」との整合性が保たれていない点などが問題である。
参考文献
全国歴史研究会編『在野史論・第四集』所収「神社の伝承からみたー歴代天皇の推定即位年次」
全国歴史研究会編『邪馬台国謎の最前線』所収「壱与と五百野姫命」
拙著『神社の伝承にみるー神功皇后の摂政期間』
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★卑弥呼より前に王がいた?! 前1世紀の近畿に王権か 平成16年12月12日追加
新聞記事
《紀元前1世紀(弥生時代中期後半)の巨大な神殿跡が見つかっている大阪府和泉市の環濠集落、池上曽根遺跡の中心部で、整然と配置された大型の掘っ立て柱建物群跡が見つかり、和泉市教育委員会が9日発表した。
市教委は集落の中枢にかかわる倉庫群と推定。神殿から約100m離れたこの一帯に、支配者の特別区画を設けて政務や宗教、収税など権力機関を集めたとみている。
邪馬台国の女王卑弥呼が現れるより約200年前で、北部九州以外はまだ農村のような共同体社会とみられていたが、既に権力を一手に握る「王」が誕生していたらしく、弥生時代像の見直しを迫る貴重な発見だ。
見つかった建物跡は4棟あり、2時期に2棟ずつ建てられ、東西に並んでいた。
柱の直径は30〜35cm。立てるため1辺1.5mの方形の穴を掘っていた。うち1棟は約80平方メートルあり、当時としては最大級という。》
(共同通信)
☆ 「伝承年代推定法」では、神武天皇の即位年次をBC127年甲寅と推定しています。紀元前1世紀(弥生時代中期後半)の巨大な神殿跡は興味を抱きます。
★奈良・箸墓古墳・築造期・卑弥呼と一致 平成21年(2009)5月29日・静岡新聞 6月1日追加
《邪馬台国の女王卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の箸墓古墳の築造時期が、土器などの科学的分析で二四〇−二六〇年と推定されることが、国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の研究グループの調査で二十九日分かった。中国の歴史書「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は二四八年ごろに死亡したとされる。研究グループの春成秀爾同館名誉教授(考古学)は「時期が一致し、卑弥呼の墓の可能性が極めて高くなった」と指摘。畿内説と九州説に二分される邪馬台国の所在地論争に大きな影響を与えそうだ。》
★3世紀 大型建物跡 奈良 卑弥呼の宮殿か 平成21年(2009)11月11日・読売新聞 11月13日追加
《邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纏向遺跡で、女王・卑弥呼が活躍した時代にあたる3世紀前半〜中頃の大型建物跡が見つかったと、市教委が10日、発表した。当時としては国内最大の規模であることから、「卑弥呼の宮殿だった可能性がある」とする研究者もおり、邪馬台国論争に一石を投じそうだ。見つかった大型建物跡は南北19・2メートル、東西6・2メートル以上(推定12・4メートル)の規模で、柱の直径は約32センチ。掘っ立て柱の建物で、高床式とみられる。》
☆『日本書紀』のよれば、纏向は垂仁天皇の珠城宮や景行天皇の日代宮が置かれたところである。
★22,1,3
あけましておめでとうございます。
『白河本旧事紀(旧事紀白河家三十巻本)』の皇太子本紀に次のような記載があります。
《二十有八年庚辰、皇太子四十九歳、春正月、太子、国史を編修することを奏し、乃ち蘇我ノ馬子の大臣、秦ノ河勝の大連、中臣ノ御食子(ミケゴ)大夫等と相ひ議して、天皇紀、及び国紀、臣、連、伴造、国造百八十部、并に公民本紀を編修したまふ》(原文はルビ付きの漢文)
ところで、『日本書紀』に書き写す際、次のように改訂されたと考えられます。
《是歳、皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す》
『日本書紀』がこの文言を削除できなかった理由を考える時期に来ていると思います。
なお、インターネットで『日本古代史最前線』をご覧いただければ幸いです。
平成二十二年元旦
★ 平成22年1月12日追加
読売新聞1月8日 銅鏡破片81面分 国内最多 卑弥呼時代の鏡も 奈良・桜井茶臼山古墳 大和王権初期の大王墓とされる奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初め、全長200メートル)で、石室を覆っていた土の中から、少なくとも13種81面分の銅鏡の破片331点が出土したと、県立橿原考古学研究所が7日、発表した。一つの古墳に副葬されていた鏡の数としては最多。邪馬台国の女王・卑弥呼が中国・魏の皇帝から銅鏡百枚を贈られた年に当たる、魏の年号「正始元年(240年)」銘が入った三角縁神獣鏡と同じ型で作成された鏡も含まれ、初期大和王権が邪馬台国と直接結びつく可能性を示唆する極めて重要な成果として注目される。
★ 平成22年3月1日
★ 平成23年1月7日追加
謹賀新年
『白河本旧事紀(旧事紀白河家三十巻本)』の天皇本紀・孝霊天皇三十六年六月の条に次のような記載があります。
《是の月、駿河(ノ)国東西南北に割(われ)裂て大海を成す。一夜(ひとよ)、大山湧出(わきい)ず。其の海は則ち埋りぬ。一日、天よりして磐土を雨して以て其の嶺ねへ続(つ)ぐ。其の山形、八坂瓊(やさかに)の如し。亦た精米を累(かさね)るが如し。之を名づけて降土(フヂノ)山と曰ふ。》
『古事記』や『日本書紀』には富士山らしき記載はいっさいなく、それらはいい加減な古典だったと考えられます。 なお、インターネットで『日本古代史最前線』をご覧いただければ幸いです。
平成二十三年元旦
★ 平成23年1月21日追加
邪馬台国と壱与 平成13年5月13日・東京
邪馬台国と纒向遺跡 平成13年9月30日・静岡
纒向遺跡と『日本書紀』 平成22年5月22日・静岡
瀬織津姫命と天照大神 平成22年10月17日・那須
★ 平成23年4月28日
静岡新聞 《また大型建物跡発掘 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡で27日までに、「女王卑弥呼の宮殿」とも指摘される大型建物跡(3世紀前半)のそばから別の大型建物跡の一部が見つかった。》23.8.10
★ 平成25年1月12日追加
本年もよろしくお願いします。
『白河本旧事紀(旧事紀白河家三十巻本)』の允恭天皇五年の条には次ぎのような記載があります。
《五年丙辰秋七月丙子の朔己丑、地震殿屋を損す。是より先き、葛城襲津彦命の孫玉田宿祢に命じて反正天皇の殯を掌しむ。地震の夕に方て、尾張連吾襲をして殯の宮の消息を察しむ。》
また『日本書紀』の允恭天皇五年の条には次のような記載があります。
《五年秋七月丙子の朔己丑、地震。是より先に葛城襲津彦の孫玉田宿禰に命て瑞歯別天皇の殯を主しむ。則ち地震の夕に当て尾張連吾襲をして殯の宮の消息を察せしむ。》
どちらの文が先にできたのでしょうか。
平成二十五年正月
★ 平成26年1月1日追加
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
さて、『日本書紀』の允恭天皇五年の条には次のような記載があります。《五年秋七月丙子の朔己丑、地震。》また『白河本旧事紀(旧事紀白河家三十巻本)』の允恭天皇五年の条には次ぎのような記載があります。《五年丙辰秋七月丙子の朔己丑、地震殿屋を損す。》
東京天文台編の『理科年表』には「被害の記述はないが、わが国の歴史に現れた最初の地震」と記していますが、被害地震だからこそ記録が残ったのはないでしょうか、「殿屋」とはどのような建物だったでしょうか。
平成二十六年元旦