有史八代
『白河本旧事紀』の「天皇本紀」のうち綏靖天皇から開化天皇までの八代の読み下し文を、比較的短いものから掲載することにした。これらはすでに多少のコメントをつけて『記紀漏文』『学と文芸』および『在野史論』にも登載している。多少手直しをしたところもある。ルビのうち片仮名は原文にあるもの。
客観性を損なうとおもいコメントは差し控えていたが、少しずつ言わせていただくことにした。神社の伝承を科学的に抹消することは、学説を科学的に抹消することより難しい。欠史八代は、懿徳天皇以外は神社の伝承の上で存在している。
欠史八代と言われるゆえんは、儒教色を薄めたためであり、四代にわたって「孝」の文字が冠せられた理由もここにあるとおもう。また、崇峻天皇までの漢風諡号は聖徳太子が撰上したと理解できるとおもう。
これらの八代紀は、『日本書紀』に比較して優れているとおもう。このような文言が残っていること自体素晴らしいとおもう。
注 <>内は細書になっている。
綏靖天皇 2006.6.16追加
皇太孫(スメミマゴ)、神渟名川耳(カムヌナカハミミノ)尊、綏靖天皇と諡(をくりな)す。神武天皇の第三(つづきみはしら)の皇子(みこ)。母(いろは)は媛@1鞴五十鈴姫(ヒメタタライスズひめノ)尊、事代主(ことしろぬしノ)神の長女(はつむすめ)なり。神武天皇二十九年己丑(つちのとうし)の歳にして生(アレ)ましけり。年(みと)し十四、立(たち)て皇太子(ヒツギノミコ)となる。風姿岐嶷(ふうしきぎよく)にして雄抜(いうばつ)の気あり。壮(さかり)に及んで、容貌魁偉(ようばうくわゐ)、武芸、人に過ぎて、志尚況毅(ししやうきやうき)なり。
年し四十八、神武天皇崩ず。皇太子、天性至孝(てんせいしかう)にして、悲慕(ひぼ)已(や)むことなし。特(ト)に心を喪葬(さうさう)の事に尽したまひけり。庶兄(ままいろえ)、手研耳(タキシミミノ)命、行年已(すで)に長じ、久く朝機を歴(えら)ふ。故に仍(より)て事を委(ゆだ)ねて之(これ)を親(みづ)からせん。然るに手研耳(ノ)命立操(ココロバヘ)@2懐(ココロヲキ)本より仁義に乖(そむ)く。遂に諒闇(りやうあん)の間だを以て威福自由(ゐふくじいう)、禍心(くわしん)を苞蔵(ほうぞう)し、以て二弟を殺して帝位を簒(うばは)んことを図る。
太歳(たいさい)己卯(つちのとう)に在り。冬十一月、皇太子、兄(いろえ)神八井耳(ノ)命と素(もと)より手研耳(ノ)命の陰謀あるを知りて、善く之(これ)を防ぐ。已(す)でに四年事無かりぬ。
是の時に至(いたり)て、山陵の事畢(をは)る。乃(すなは)ち弓部稚彦(ユケベノワカヒコ)をして弓を造らし、大和(ヤマト)の鍛部(キタヒべ)、天之真浦(アマツマウラ)をして真@3鏃(マカゴノヤサキ)を造らし、矢部(ヤハギべノ)狭躬子(サミコ)をして箭(や)を造らしむ。而(しかう)して弓箭既に成りぬ。是に於て、皇太子、以て手研耳(ノ)命を射殺さんと欲す。手研耳(ノ)命、片丘(カタヲカ)の大@4(オホムロ)の中に独り大床に臥(ふ)すことあるに会ふ。時に皇太子、神八井耳(ノ)命に謂(いひ)て曰(いは)く。今ま適(ま)さに其の時なり。夫(そ)れ言は密を尊び、事は宜(よろし)く慎(つつし)むべし。故に吾が陰謀、本と預かる者はなし。今日の事は、唯だ、我、君と自(ミづから)これを行ふのみ。我れ当さに先づ@4の戸を開くべし。君は則ち之を射よ。因りて相ひ随(したがひ)て進み入る。皇太子、乃ち其の戸を突き開く。神八井耳(ノ)命、則ち手脚戦慄(せんりつ)して矢を放つこと能はず。時に、皇太子、其の兄の執(と)る所の弓矢を@5(ひ)き取て、以て手研耳(ノ)命を射たまふ。一(ひと)たび発して胸に中(あた)り、再たび発て背に中(あたり)て、遂ゐに之を斃(たふ)す。是に於て、神八井耳(ノ)命、懣然(まんぜん)として、自服す。皇太子に譲(ゆづ)りて曰く。我れは是れ君の兄なれども懦弱(だじやく)、以て事を成すこと能はず。君は則(すなは)ち我が弟なれども、神武特挺(とくてい)す。自(ミづから)元悪(げんあく)を誅す。宜(う)べかな君の天位に光臨(くわうりん)して、以て皇祖の業(わざ)を承(うけ)るなり。我は当(ま)さに君の政(まつりごと)を輔(たすけ)て、以て神祇を奉祀すべし。此(こ)の命(みこと)は、乃ち多臣(オホノオミ)の始祖(はじめのをや)なり。
是より先き、手研耳(ノ)命、陰(ひそか)に帝位を簒(うばは)んことを謀(はか)る。故に恩を布(し)き、党を結ぶ。手研耳(ノ)命、誅せらることに逮(をよん)で、則ち党属数千人、其の子、彦耳(ヒコミミノ)命を以て主として畝傍(ウネビ)山に在(あり)て、以て朝廷に敵す。皇太子、親(みづ)から官軍を帥(ひき)ゐて、畝傍山を囲む。党属の中に舎人(とねり)欲雄(エキヲ)、弟彦(ヲトヒコ)といふ者(も)のあり。勇力双(なら)び無し。生牛(いきうし)の角を折り、生鹿(いきしか)の角を割(さ)く。自(ミづから)以て皇太子は是れ君の讐(かたき)とす。乃ち直(ただち)に皇太子を撃(うた)んと欲す。其の勢、当るべからず。皇太子、親から大弓を引て欲雄を射殺(いごろ)し、斧(をの)を以て弟彦を撃殺(うちころ)す。党属之を見て、大いに怖畏(ふゐ)して進むこと能はず。乃ち彦耳(ノ)命を殺して以て降(くだ)る。
元年庚辰(かのえたつ)春正月壬申(みづのえさる)の朔(ついたち)己卯(つちのとうのひ・八日)、皇太子神渟名川耳(かむぬなかはみみノ)尊、天皇の位に即(つ)きたまふ。時きに年し五十二。都を大和(ノ)葛城(ノ)郡に遷(うつ)す。是(これ)を高丘(タカヲカノ)宮と謂(い)ふ。皇后(キサキ)を尊んで皇太后(オホキサキ)と曰ふ。
二年辛巳(かのとみ)春正月、五十鈴依姫(イスズヨリビメノ)尊を立てて、皇后とす。此の尊は、乃ち皇太后の妹にして、天皇の姨母(ミオバ)なり。後に磯城津彦玉手看(シギヅヒコタマデミノ)尊を生む。
三年壬午(みづのえうま)春正月、元湯彦友(モトユヒコトモノ)命を以て白食国政大夫(ケクニノマツリゴトマウスマウチギミ)とす。此(こ)の命は、乃ち宇摩志麻治(うましまじノ)命の子なり。
四年癸未(みづのとひつじ)夏四月、皇兄(ミイロエ)、神八井耳(ノ)命、薨(ミウセ)たまふ。畝傍山の北に葬(おさめまつ)る。
二十五年甲辰(きのえたつ)春正月壬子朔(みづのえねのついたち)甲寅(きのえとらのひ・三日)、皇太孫(スメミマゴ)の大神(オホンガミ)、皇后に託(カカリ)て曰(まう)す。朕は代々の天皇を擁護せんがために、而して魂を地に留めて以て天に登る。盍(なん)ぞ廟を建てて、以て之を奉祀せざるか。天皇、乃(すなは)ち使(つかひ)をして日向(ノ)国鵜門窟(ウドノイハヤ)に於て、而(しかう)して皇太孫の大神を奉祀せしめけり。畔田(ウタ)大社(おほやしろ)、是(こ)れなり。
甲子(きのえねのひ・二十五日)天皇、群臣と相ひ議して皇子(ミコ)磯城津彦玉手看(ノ)尊を立て皇太子とす。
三十三年壬子(みづのえね)夏五月癸丑(みづのとうしの)朔壬申(みづのえ・二十日)、三更(さんかう)に至り、天皇、不豫(ミヤマヒ)したまふ。癸酉(みづのととりのひ・二十一日)、高丘(ノ)宮に崩す。聖寿八十四、位の在(ましま)すこと三十三年。
明年癸丑(みづのとうし)冬十月丙戌(ひのえいぬの)朔丙申(ひのえさるのひ・十一日)、大和(ノ)国桃華(ツキ)島田(ダノ)岳上(ヲカノウエノ)陵きに葬る。
男磯城津彦玉手看(ノ)尊
注、@1の文字はあしへんにつめかんむりのしたに臼。@2の文字はがんだれに昔。注3の文字は鹿の下に弓と耳。@4の文字は穴の下に音。@5の文字は制の下に手。
安寧天皇 2006・6・21追加
皇太孫(スメミマゴ)、磯城津彦玉手看尊(シギツヒコタマデミノミコト)、安寧天皇と諡(をくりな)す。綏靖天皇の皇子(みこ)。母(いろは)は五十鈴依姫(イスズヨリビメノ)尊、事代主(ことしろぬしノ)神の少女(ヲトムスメ)なり。綏靖天皇五年、甲申(きのえさる)の歳にして生(アレ)ましけり。二十五年甲辰(きのえたつ)の歳、立(たち)て皇太子(ひつぎのみこ)となる。時に年(みと)し二十一。三十三年壬子(みづのえね)の歳、天皇崩ず。是(こ)の年秋七月癸亥(みづのとゐ)の朔(ついたち)乙丑(きのとうしのひ・三日)、皇太子、天皇の位に即(つ)きたまふ。時き年し二十九。
元年癸丑(みづのとうし)冬十月丙戌(ひのえいぬの)朔丙申(ひのえさるのひ・十一日)、綏靖天皇を大和(ノ)国桃花島田(ツキダ)の丘(ヲカ)の上(かみ)の陵に葬(おさめまつ)る。是の月丙午(ひのえうまのひ・二十一日)、皇后(きさき)を尊んで皇太后(おほきさき)と曰(い)ふ。
二年甲寅(きのえとら)、都を大和の片塩(カタシホ)に遷(うつ)す。是(これ)を浮孔(ウキアナノ)宮と謂(い)ふ。
三年己卯(つちのとう)春正月戊寅(つちのえとらの)朔壬午(みづのえうまのひ・五日)、妃(みめ)、渟名底仲姫(ヌナソコナカツビメノ)尊を立てて皇后とす。是より先き、三皇子(みたりのみこ)を生む。息石耳(イキシミミノ)命、大日本彦耜友(オホヤマトヒコスキドモノ)尊、磯城津彦(シギツヒコノ)命、是なり。
四年丙辰(ひのえたつ)夏四月、出雲色(イヅモシコノ)命を以(もつ)て白食国政大夫(ケクニノマツリゴトマウスマウチギミ)とす。大禰(オホネノ)命を侍臣(マチギミ)とす。倶(とも)に宇摩志麻治命の孫なり。
天皇、嘗(かつ)て群臣に謂(いひ)て曰(のたま)ふ。太祖天皇、能(よ)く賊虜(ぞくりよ)を平(たいら)げて、皇極(くわうぎよく)を建つ。皇考(くわうかう)天皇、能く暴逆(ぼうぎやく)を除(のぞき)て、以て宝祚(あまつひつぎ)を嗣(つ)ぐ。朕(われ)、今ま第三代(つづきみよ)に中(あた)る。当(ま)さに一(ひとつ)に祖考(そかう)の法(のり)に遵(したが)ひて、臣(おむ)を愛し、民を恵み、仁(じん)を施(ほどこ)し、恩を布(し)くべし。則ち天下平(たいらか)ならんぞ。然(しか)るに、遠国(をんごく)、但(た)だ服することを知れども、未だ朝(てう)及び貢(こう)を知らず。若し武勇を以て之に臨(のぞ)まば、則ち財(たから)費(つひ)え、民、羸(つか)れぬ。自(ミづから)反して徳を修めて、其の自(ミづから)朝貢(てうこう)するを待つにはしかざるなり。
又た曰く。王は既に位にありて、其の法、無(なく)んばあるべからざるなり。豈(あ)に緩(ゆるや)かるべんかな。今より已後(のち)、朕(わ)が言ふ所ろ、行ふ所ろは、小悪なりと雖ども、群臣(まうちぎみたち)、当さに之を責(せ)むべし。若し心思に、正しからざることあらば、朕(われ)、則ち自(ミづから)之を責(せめ)ん。群臣、万歳を称ず。
十有一年癸亥(みづのとゐ)春正月壬戌朔(みづのえいぬのついたちのひ・一日)、大日本彦耜友(おほやまとひこすきどもノ)尊を立てて皇太子(ひつぎのみこ)とす。
是(こ)の歳(とし)、東国始(はじめ)て王化に伏して来朝(らいてう)す。天皇、喜(よろこび)て曰く。朕(わ)が思ふ所ろ今ま則ち遂(と)げぬ。乃(すなは)ち厚く賞して深く美(ほ)め、教(おしへ)るに天礼を以てす。是より悦服(えつふく)して、悉(ことごと)く、皆な朝貢す。
三十八年庚寅(かのえとら)冬十二月庚戌(かのえいぬの)朔乙卯(きのとうのひ・六日)、天皇崩ず。聖寿六十七。位に在(ましま)すこと三十八年。明年辛卯(かのとう)の秋八月丙午(ひのえうま)の朔己酉(つちのととりのひ・四日)畝傍山(うねびやま)の南、御陰井(ミカゲヰ)の上(カミ)の陵に葬(おさめまつ)る。
男(ひこ)息石耳命(イキシミミノみこと)<亦た常津彦(トコツヒコノ)命と名づく。>
男大日本彦耜友(ノ)尊
男磯城津彦(シギツヒコノ)命
此の命は、乃ち豬使連(ヰヅカシノムラジ)、新田部等(ニヰタベラ)の祖(をや)なり。
男手研彦奇友背(タキシヒコクシトモセノ)命
此の命は、乃ち父努別等(チヌノワケラ)の祖なり。
懿徳天皇 2006・6・23追加
皇太孫(スメミマゴ)、大日本彦耜友尊(オホヤマトヒコスキドモノミコト)、懿徳天皇と諡(おくりな)す。安寧天皇の第二の皇子。母は、渟名底仲姫(ヌナソコナカツビメノ)尊、事代主(ノ)神の孫、鴨玉(カモタマノ)命の女(むすめ)なり。綏靖天皇二十九年、戊申(つちのえさる)の歳にして、生(アレ)ましけり。安寧天皇十有一年癸亥(みづのとゐ)春正月壬戌(みづのえいぬの)朔(ついたちのひ・一日)、立(たち)て皇太子となる。時き年し十六。三十八年庚寅(かのえとら)冬十月庚戌(かのえいぬの)朔乙卯(きのとうのひ・六日)、天皇崩ず。皇太子年し四十三。
元年辛卯(かのとう)春二月己酉(つちのととり)の朔壬子(みづのえねのひ・四日)、皇太子、天皇の位に即く。時に年し四十四、秋八月丙午(ひのえうま)の朔己酉(つちのととりのひ・四日)、安寧天皇を畝傍山の南、御陰井(ミカゲヰ)の上(カミ)の陵に葬る。九月丙子(ひのえね)の朔乙丑(きのとうしのひ・五十日)、皇后を尊んで、皇太后と曰ふ。
天皇、嘗て群臣に謂て曰く。朕(われ)、常ねに大祖及び皇考の遺訓を思ふに、其の極(きはみ)は、則ち心あるのみなり。夫(そ)れ心の物(も)のなるや、其の体(からだ)は、是れ天。其の用(はたらき)は、是れ方(みち)。其の変(かはり)は、即ち禍(わざはひ)ありぬ。盖(けだ)し、天の体なる言ひ難し。敬(うやまひ)は、用(はたらき)なり。逸(あそふ)は、変(かはり)なり。廉(きよき)は、用なり。貪(むさぼり)は、変なり。誠(まこと)は、用なり。偽(いつはり)は、変なり。智(さとる)は、用なり。愚(おろか)は、変なり。恵(めぐみ)は、用なり。害(そこなふ)は、変なり。聖人、其の体を体し、君子は、其の用を明(あきらか)にす。小人は、其の変に処(よ)る。体を体するものは、用は則ち自(ヲのづから)ありけり。変に処るものは、体用あることなかりけり。一(ひとつ)は則ち常人の知らざる所ろなり。一は、則ち常人の能(よ)く知る所ろなり。而(しかう)して、其の用に於(おけ)るなり。則ち紛@(ふんうん)として相濫(あひみだ)しける。人を諂(へつら)ふを敬とす。欲の為めに廉と見はる。苛察(かさつ)を智とす。好(このむ)を愛するを恵とす。謀計(ぼうけい)して誠と見はす。智ある者(も)のにあらざれば、則ち孰(いづ)れか能く之を弁(わきまへ)ん。朕、いま天の体を得て、以て方(みち)の用を立(たて)んと欲す。而(しかれ)ども未だ能(あた)はざるなり。群臣少も仮借(かしやく)することなくして、之(これ)を諌諍(いさめあらそ)はば、則ち幸ひなり。
二年壬辰(みづのえたつ)春正月甲戌(きのえいぬ)の朔戊寅(つちのえとらのひ・五日)、都を軽地(カルノトコロ)に遷す。是を曲峡(マガリヲノ)宮と謂ふ。二月癸卯(みづのとう)の朔癸丑(みづのとうしのひ・十一日)、天豊津姫(アマトヨツビメノ)尊を立てて皇后とす。
是の月丙寅(ひのえとらのひ・二十四日)、白食国政大夫(ケクニノマツリゴトマウスマウチギミ)出雲色(イツモシコノ)命を以て大臣(オホイマウチギミ)とす。大臣(オホイマウチギミ)の官(つかさ)、是よりして始りぬ。
五年乙未(きのとひつじ)、皇后、観松津彦香殖稲尊(ミマツツヒコカエシネノミコト)を生みたまふ。
二十二年壬子(みづのえね)春二月丁未(ひのとひつじ)の朔戊午(つちのえうまのひ・十二日)、観松津彦香殖稲(ノ)尊を立てて皇太子とす。
三十四年甲子(きのえね)秋九月甲子の朔辛未(かのとひつじのひ・八日)天皇、崩ず。聖寿七十七歳。位に在(ましま)すこと三十四年。是の時、天下太平、万国朝貢、百姓、快楽す。
明年乙丑(きのとうし)冬十月戊子朔(つちのえねのついたちのひ・一日)、畝傍山の南、繊沙渓(マサゴノタニ)の上の陵に葬る。
男観松津彦香殖稲(ノ)尊
注、@の文字はいとへんに云。
孝昭天皇 2003・7
皇太孫(スメミマゴ)、観松津彦香殖稲尊(ミマツツヒコカエシネノミコト)、孝昭天皇と諡(をくりな)す。懿徳天皇の太子。母は、皇后、天豊津姫(アマトヨツビメノ)尊、息石耳(イキシミミノ)命の女なり。懿徳天皇乙未(きのとひつじ)の歳にして生(あれ)れましけり。二十二年春二月丁未(ひのとひつじ)の朔(ついたち)戊午(つちのえうまのひ・十二日)、立(たち)て皇太子となる。時(と)き年し十八。三十四年甲子(きのえね)秋九月甲子(きのえね)の朔辛未(かのとひつじのひ・八日)、天皇崩(かむあがり)たまふ。皇太子、年し三十歳。明年乙丑(きのとうし)冬十月戊子(つちのえね)の朔庚午(かのえうまのひ・四十三日)、懿徳天皇を畝傍(ウネヒ)山の南、繊沙谿(タナゴノタニ)の上の陵に葬(おさめ)まつる。皇太子、年し三十一。
元年丙寅(ひのえとら)春正月丙戌(ひのえいぬ)の朔甲子(きのえねのひ・三十九日)、皇太子、天皇の位に即(つ)く。時に年し三十二。是の月癸酉(みづのととりのひ・四十八日)、天皇、群臣(まうちぎみたち)に詔りして曰(のたまは)く。朕(われ)、東宮に在(あり)て、昼夜(ヒルヨル)嘗て思ふ。太祖(たいそ)天皇、気(いき)、神代を続ぎ、皇孝(くわうかう)天皇、気、三代に続き、倶(とも)に神聖の徳あり。朕、吾が身を省るに、天皇に及ばざること遠かりぬ。故に恒に其の用を存し、精(た)だ其の変を過(すぎ)んと欲すれども未だ能(あた)はざるなり。乃(すなは)ち自(ミづから)誓を建つ。若し、存過(そんくわ)に能はざれば、皇太子を辞せん。然(しか)して後に恍然(くわうぜん)として、其の法(のり)を得るに似たりけり。変の過るに方(みち)あり。腹を虚(す)かし、肝(きも)を空(か)らす。微を貫くに方にあり。心思、理を正(ただし)くす。理に入り虚に住すれば、則ち虚理(きより)、致(ち)を一(ひとつ)にして応用窮(かぎ)りなかりぬ。
夏四月乙卯(きのとう)の朔己未(つちのとひつじのひ・五日)、皇后を尊んで皇太后と曰ふ。
秋七月、都を腋上(ワキガミ)に遷す。是を池心(イケゴコロノ)宮と曰(い)ふ。出石心(イズシゴコロノ)命を以て大臣(おほいまうちぎみ)とす。此の命は、宇摩志麻治(うましまじの)命の後(のち)なり。
是の月、大物主大神(オホモノヌシノオホンガミ)出現し、乃ち天皇に奏して曰く。我れ神代より已来(このか)た、三諸山(ミムロヤマ)に在(あり)て、国家を衛護(ゑいご)すること既に久しかりぬ。而(しか)るに、太祖天皇、文武の徳ありと雖ども、尚を未だ知らざる所ろありけり。能(よ)く天祖諸神を祭れども、未だ吾が廟を建てざるなり。亦た、闕如(けつじよ)たらざらんや。夫(そ)れ天祖は已(すで)に国を生むと雖ども、而(しか)も国、未だ開かず。父の大神は、已(すで)に国を開くと雖ども、国、未だ成さず。吾れ能く国を修(をさめ)て、以(もつ)て之を成しぬ。其の功、亦た大ならざらんや。夫れ然(しか)り。故に八百万(やをよろづの)神の社(やしろ)を建つと雖ども、吾が神廟(しんべう)を建ることなかりけり。則ち国家威(い)からず。国主、寿(ながいき)せず。国穀、登(みの)らず。国民、穏(おだ)やかならず。国賊、熄(や)まざりぬ。是(これ)に於て、天皇、三輪(ノ)大社(おほやしろ)を建立(こんりう)し、又た内殿に於て、天照大神(あまてらすおほんがみ)と同く大物主(ノ)大神を祭りたまふ。
天皇、天性至孝にして、専(もは)ら皇太后に事(つかへ)まつりて、政務を事(つ)かへたまはず。然(しか)れども天下泰平、国土安穏(あんをん)、此れ聖徳(せいとく)の然(しか)らしむる所ろなり。
二十九年甲午(きのえうま)春正月甲辰(きのえたつ)の朔(ついたちのひ・一日)、世襲足姫(ヨソタラシビメノ)尊を立てて皇后とす。後に、二皇子を生みたまふ。天足彦国押人(アマタラシヒコクニヲシヒトノ)命、日本足彦国押人(ヤマトタラシヒコクニヲシヒトノ)尊、是れなり。
三十一年丙申(ひのえさる)、瀛津世襲(オキツヨソノ)命を以て大臣とす。是の命は、乃ち皇后の兄なり。
六十八年癸酉(みづのととり)春正月丁亥(ひのとゐ)の朔庚子(かのえねのひ・十四日)、日本足彦国押人(ノ)尊を立てて皇太子とす。
八十三年戊子(つちのえね)秋八月丁巳(ひのとみ)の辛酉(かのととりのひ・五日)天皇、崩ず。聖寿一百十三.位に在(ましま)すこと八十三年。明年己丑(つちのとうし)の秋八月辛巳(かのとみ)の朔庚子(かのえねのひ・二十日)、脇上博多(ワキガミハタカノ)山の上の陵に葬(おさめ))まつる。
男(ひこ)天足彦国押人(アマタラシヒコクニヲシヒトノ)命
此(こ)の命は、乃ち春日臣(カスガノオム)、大宅(オホヤケノ)臣、粟田(アハタノ)臣、小野柿本(ヲノカキノモトノ)臣、壱比韋(イチヒヰノ)臣、大坂(オホサカノ)臣、阿那(アナノ)臣、多紀(タキノ)臣、羽栗(ハグリノ)臣、牟邪(ムヤノ)臣、都怒山(ツヌヤマノ)臣、知多(チタノ)臣、伊勢飯高君(イセノイヰタカノキミ)、壱師(イチシノ)君、近淡海国造(チカツアフミノクニヅコ)の祖(をや)なり。
男日本足彦国押人(ノ)尊
☆和風諡号が、「津」が一つ余分に入っていて『古事記』や『日本書紀』と異なる。
☆日付で三十日を超える部分がある。干支の転記違いとおもわれる。『日本書紀』にない部分もかなりの量を占める。
☆《天皇、天性至孝にして、専(もは)ら皇太后に事(つかへ)まつりて、政務を事(つ)かへたまはず。然(しか)れども天下泰平、国土安穏(あんをん)、此れ聖徳(せいとく)の然(しか)らしむる所ろなり。》は、素晴らしい言葉だとおもう。漢風諡号に「孝」の文字が冠せられた理由がここにあると考える。
☆『日本書紀』にない尾治氏や物部氏の系譜がここにはある。
☆天足彦国押人(アマタラシヒコクニヲシヒトノ)命は、『古事記』では「天押帯日子命」、『日本書紀』では、天足彦国押人命で『白河本旧事紀』と同じである。系譜は、『古事記』に登載されているが、小野柿本(ヲノカキノモトノ)臣は、『古事記』のように分離するのが正しいのかもしれない。
孝安天皇 2003・7
皇太孫(スメミマゴ)、日本足彦国押人尊(ヤマトタラシヒコクニヲシヒトノミコト)、孝安天皇と諡(をくりな)す。孝昭天皇第二の皇子。母は、皇后、世襲足姫(ヨソタラシビメノ)尊、尾張(ヲハリノ)連(ムラジ)の祖(をや)、瀛津世襲(オキツヨソノ)命の妹なり。孝昭天皇四十九年甲寅(きのえとら)の歳にして生(あれ)ましけり。六十八年葵酉(みづのととり)春正月丁亥(ひのとゐ)の朔庚子(かのえねのひ・十四日)、皇太子に立つ。時き年し二十。八十三年戊子(つちのえね)秋八月丁巳(ひのとみ)の朔辛酉(かのととりのひ・五日)、天皇崩ず。皇太子、年し三十五。
元年己丑(つちのとうし)春正月乙酉(きのととり)の朔辛卯(かのとうのひ・七日)、皇太子、天皇の位に即きたまふ。時き年し三十六。秋八月辛巳(かのとみ)の朔庚子(かのえねのひ・二十日)、孝昭天皇を腋上博多(ワキガミハタカノ)山の上の陵に葬(おさめ)まつる。皇后を尊んで皇太后と曰ふ。
天皇、嘗て群臣に謂て曰く。大なるかな孝か。心、天に類せざれば、則ち孝にあらざるなり。@(み)、天に類せざれば、則ち孝にあらざるなり。群臣を愛せざれば、則ち孝にあらざるなり。庶民を恵せざれば、則ち孝にあらざるなり。大いなるかな孝か。斯れ其の至りなり。
二年庚寅(かのえとら)冬十月、都を室地(ムロノトコロ)に遷す。是を秋津島(アキツシマノ)宮と謂ふ。
三年辛卯(かのとう)秋八月、宇摩志麻治(うましまじの)命の裔孫(えいそん)、六見(ムツミノ)命と三見(ミツミノ)命兄弟を以て、倶(とも)に足尼(ソコネ)とす。然して後に、宿祢(すくね)とす。
二十六年甲寅(きのえとら)春二月己丑(つちのとうし)の朔壬寅(みづのえとら・十四日)、押姫(ヲシヒメノ)尊を以て皇后とす。後に二皇子を生みたまふ。大吉備諸進(オホキビモロズミノ)命、大日本根子彦太瓊(オホヤマトネコヒコフトニノ)尊、是れなり。
三十三年庚申(かのえさる)、大己貴(おほあなむちノ)命、出雲(ノ)国に出現したまふ。杵築(キツキノ)明神と称ず。
七十六年甲辰(きのえたつ)春正月己巳(つちのとみ)の朔癸酉(みづのえとりのひ・五日)、大日本根子彦太瓊尊、立てて皇太子とす。
一百有二年庚午(かのえうま)春正月戊戌(つちのえいぬ)の朔丙午(ひのえうまのひ・九日)、天皇崩ず。聖寿一百三十七。位に在(ましま)すこと一百二年。秋九月甲子(きのえね)の朔庚午(かのえうまのひ・七日)、玉手丘上(タマデノヲカノカミ)の陵に葬(おさめ)まつる。
男(ひこ)大吉備諸進命
男大日本根子彦太瓊尊
注1: @の文字は、身と呂の合体した字である。
☆ ここでは孝安天皇元年に孝昭天皇を腋上博多山の上の陵に葬まつるとある。孝安紀の三十八年と比較して、どちらがもとか検討していただきたい。
☆「孝」の文字が六回も繰り返し登場し、儒教色の濃い文言である。「孝安」の諡号とセットだったとおもう。
孝霊天皇 2003・7
皇太孫(スメミマゴ)、大日本根子彦太瓊尊(オホヤマトネコヒコフトニノミコト)、孝霊天皇と諡(をくりな)す。孝安天皇第二の皇子。母は押姫(オシビメノ)尊、天足彦押人命(アマタラシヒコヲシヒトノミコト)の女なり。孝安天皇五十二年、庚辰(かのえたつ)の歳にして生(あれ)ましけり。七十六年甲辰(きのえたつ)春正月己巳(つちのえみ)の朔(ついたち)癸酉(みづのととりのひ・五日)、立(たち)て皇太子となる。時き年し二十六。一百二年庚午(かのえうま)春正月戊戌(つちのえいぬ)の朔丙午(ひのえうまのひ・九日)、天皇崩ず。皇太子時きに年し五十二。
元年辛未(かのとひつじ)春正月壬辰(みづのえたつ)の朔癸卯(みづのとうのひ・十二日)、皇太子、天皇の位に即きたまふ。時き年し五十三。甲寅(きのえとらのひ・二十三日)、皇后を尊んで皇太后と曰(い)ふ。
天皇、天性至孝にして、善く皇太后に事(つか)ふ。晨(と)きに起きて衣冠し、必ず先づ皇太后に謁す。然して後に朝に臨で政を聴く。其の朝を退くに及で亦た必ず先づ皇太后に謁し、然して後に宮に還る。新嘗には則ち親(みづか)ら木を大神に献(たてまつ)り、水を皇太后に献る。年の祭、時の祭、神の祭、已(すで)に畢(をはり)て暫くも留めず、速かに之を皇太后に献て、皆な之を親らにして、未だ嘗て人をして之を献らしめざるなり。
二年壬申(みづのえさる)春二月丙辰(ひのえたつ)朔辛酉(かのととりのひ・六日)、都を黒田(クロダ)に遷す。是を廬戸(イホドノ)宮と謂ふ。甲寅(きのえとらのひ・十一日)、押姫(ホソビメノ)尊を立てて皇后とす。皇后、一(ひとり)の皇子を生みたまふ。大日本根子彦国牽(オホヤマトネコクニクルノ)尊、是(これ)なり。
妃(みめ)和国香媛(ヤマトノクニカビメ)、亦た@某姉(ハヘイロネ)と名づく。二の皇子、二の皇女を生む。和迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソビメノ)命、彦狭刺肩別(ヒコササシカタワケノ)命、彦五十狭芹彦(ヒコイサセリヒコノ)命、和迹迹稚屋姫(ヤマトトトワカヤビメノ)命、是なり。妃、@某弟媛(ハヘイロトビメ)、三の皇子を生む。彦狭島(ヒコサシマノ)命、稚武彦(ワカタケヒコノ)命、弟稚武彦(オトワカタケヒコノ)命、是なり。
三年癸酉(ミヅノエトリ)春正月、宇摩志麻治(うましまじの)命の四代の孫、大水口(オホミナグチノ)命、大矢口(オホヤグチノ)命を以て宿祢(すくね)とす。
六年丙子(ひのえね)、天御影(アマノミカゲノ)神、出現す。淡海(アワミ)の益須(ヤスノ)郡三上神社(ミカミノかみやしろ)に奉祀(ほうし)す。
三十六年丙午(ひのえうま)春正月己亥(つちのとゐ)の朔(ついたちのひ・一日)、大日本根子彦国牽尊を立てて皇太子とす。乙巳(きのとみのひ)、天皇、嘗(かつ)て天を望みて其の異気あるを見たまふ。乃(すなは)ち詔して曰く。今年、国中当(ま)さに火を雨(ふら)す。須(すべから)く諸国をして以て窟穴を造らして之に居らしむべし。朕、若し徳ありて天心に合せば、畿内則ち雨らず。六月に至て果して火を雨す。国民、窟に居て皆な難を免ることを獲(え)たり。唯だ大和、河内火雨らず。人、皆な帝の徳を感ず。
庚戌(かのえいぬのひ・十二日)、詔に曰く。人に三品ありけり。聖人なり。賢人なり。凡人なり。而して其の以て異なることある所の者の、唯だ知行に在るのみなり。盖(けだ)し五鎮は五極を成し、五極は五行を成し、五行は五生を成し、五生は五法を成す。其の本末究竟す。苟(まこ)とに能(よ)く此を知り行ふ者は、乃(すなは)ち聖人なり。中に就て人倫、人法を能く知りて之を行ふ者は、則ち賢人なり。能く行と雖へども之(これ)を知らざる、亦た能く知ると雖ども之を行はざる者は、則ち凡人なり。然れども苟に能く勉強して以て此を学びなば、則ち凡は升(のぼ)りて賢とし、賢升りて聖となりぬ。大いなるかな学や。五鎮の道、斯(こ)れ要たりぬ。
是の月、駿河(ノ)国東西南北に割(われ)裂て大海を成す。一夜(ひとよ)、大山湧出(わきい)ず。其の海は則ち埋りぬ。一日、天よりして磐土を雨して以て其の嶺ねへ続(つ)ぐ。其の山形、八坂瓊(やさかに)の如し。亦た精米を累(かさね)るが如し。之を名づけて降土(フヂノ)山と曰ふ。
七十六年丙戌(ひのえいぬ)春二月丙午(ひのえうま)の朔癸丑(みづのとうしのひ・八日)、天皇崩ず。聖寿一百二十七。位に在(ましま)すこと七十六年。孝元天皇六年壬辰(みづのえたつ)秋九月戊戌(つちのえいぬ)の朔癸卯(みづのとうのひ・六日)、片丘馬坂(タカヲカノムマサカ)の陵に葬(おさめ)まつる。
男(ひこ)大日本根子彦国牽(オホヤマトネコヒコクニクルノ)尊
女(ひめ)和迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソビメノ)命
男彦狭刺肩別(ヒコササシカタワケノ)命
此の命は、乃ち高志(コシ)の利波(トナミノ)臣、豊国(トヨクニ)の国前(クニサシノ)臣、五百原君(イヲハラノキミ)、角鹿海直(ツヌガノウミノアタヒ)の祖( をや)なり。
男彦五十狭芹彦(ヒコイサセリヒコノ)命、亦た吉備津彦(キビツヒコノ)命と名づく。
此の命は、乃ち吉備臣等(キビノオムラ)の祖なり。
女和迹迹稚屋姫(ヤマトトトワカヤビメノ)命
男彦狭島(ヒコサシマノ)命
此の命は、乃ち針間宇自可(ハリマウジカノ)臣の祖なり。
男稚武彦)(ワカタケヒコノ)命
此の命は、乃ち吉備上道臣(キビノカンミチノオム)、笠(カサノ)臣の祖なり。
男弟稚武彦(ヲトワカタケヒコノ)命
注:二つの@の文字は糸へんに亘を書く字。
☆『日本書紀』にない神教や儒教に関わる記事が多く見受けられる。
☆「天皇、天性至孝」が諡号に「孝」の文字が冠せられるゆえんであろう。
☆富士山の語源は、降土山であろうか。
孝元天皇 2003・7
皇太孫(スメミマゴ)、大日本根子彦国牽尊(オホヤマトネコヒコクニクルノミコト)、孝元天皇と諡(をくりな)す。孝霊天皇の太子。母は皇后、細姫(ホソビメノ)尊。磯城県主大目命(シギノアガタヌシオホメノミコト)の女なり。孝霊天皇十有八年戊子(つちのえね)の歳にして生(あれ)ましけり。三十六年丙午(ひのえうま)春正月己亥(つちのえゐ)の朔(ついたちのひ・一日)、立(たち)て皇太子となる。時き年し十九。七十六年丙戌(ひのえいぬ)春二月丙午(ひのえうま)の朔癸丑(みづのとうしのひ・八日)、天皇崩ず。皇太子年し六十歳。
元年丁亥(ひのとゐ)春正月辛未(かのとひつじ)の朔甲申(きのえさるのひ・十四日)、皇太子、天皇の位に即きたまふ。時き年し六十一。皇后を尊(たふとび)て皇太后と曰ふ。
天皇、至孝にして善く皇太后に事(つかへ)まつる。飲食、皇太后に随ひ、未だ嘗て自(みづから)の好味を食たまはず。既に崩ずるの後と雖ども、而も亦復(ま)た此の如し。
四年庚寅(かのえとら)春三月甲申(きのえさる)の朔甲午(きのえうまのひ・十一日)、都を軽地(カルノトコロ)に遷す。是を境原(サカヒバラノ)宮と謂ふ。
五年辛卯(かのとう)春正月、天八意(アマノヤツココロノ)命、其の子、手力雄(タチカラヲノ)命と倶(とも)に信濃(ノ)国に降り、親(みづ)から吾道(アヂノ)宮を建てて居ましけり。手力雄(ノ)命、戸隠(トガクシ)山に遷り、親から巖窟を営みて居しけり。
六年壬辰(みづのえ)春正月、天(ノ)八意(ノ)命、手力雄(ノ)命、倶に内に参りて、以(もつ)て天皇に謁して、其の状を奏す。天皇、乃(すなは)ち祭供を設けたまひけり。
秋九月戊戌(つちのえいぬ)の朔癸卯(みづのとうのひ・六日)、孝霊天皇を片丘馬坂(タカヲカノムマサカ)の陵に葬(おさめ)まつる。
七年癸巳(みづのとみ)春二月丙寅(ひのえとら)の朔丁卯(ひのとうのひ・二日)、欝色謎(ウツシコメノ)尊を立てて皇后とす。皇后、二(ふたり)の皇子、一(ひとり)の皇女を生たまふ。大彦(オホヒコノ)命、稚日本根子彦太日日(ワカヤマトネコヒコフトヒヒノ)尊、和迹迹姫(ヤマトトトビメノ)命、是れなり。
妃、伊香色謎(イカシコメノ)命、一の皇子を生む。彦太忍信(ヒコフトヲシマコトノ)命、是れなり。妃、凡河内青玉繋(ヲウシカハチノアヲタマガケノ)命の女、埴安姫(ハニヤスビメノ)命、一の皇子を生む。武埴安彦(タケハニヤスヒコノ)命、是れなり。
八年甲午(きのえうま)春正月、宇摩志麻治(ノ)命の裔孫(えいそん)、欝色雄(ウツシコヲノ)命を以て大臣とす。太綜杵(フトヘソキノ)命を太祢(オホネ)とす。
二月、皇太后を尊んで太皇太后を贈る。
二十二年戊申(つちのえさる)春正月己巳(つちのとみ)の朔壬午(みづのえうまのひ・十四日)、稚日本根子彦太日日(ノ)尊を立てて、皇太子とす。是の日、群臣に詔して曰く。人は苦あることを貴ぶ。楽あることを貴ばず。庶民下に在(あり)て、春は則(すなは)ち田を耕し、麦を培ひ、夏は草を除き、桑を採る。秋は則ち稲を刈り、穀(かち)を収む。冬は則ち後の年を度(はか)る。日にし勤労せざることなし。百工商賈(しやうこ)、各々其の事に務む。県主(アガタヌシ)則ち四民を治め、善を勧め、悪を懲す。国造(クニヅコ)は則ち上に事(つかへ)まつりて忠、下を教て以て恵(めぐみ)を施す。大臣は則ち政を輔け君を諫めて、百官を宰(ただ)す。天皇は則ち位に在りて、有極を建つ。天下の安危、其の@1にあり。一善の生ずるや、天下善を成す。一悪の生ずるや、天下悪を成す。故に身、妄りに動かず。言、妄りに出さず。昼は則ち萬機を聴きて、其の心肝を推す。夜は萬機を思ひて、安寝すること能はず。夫れ百庶の苦を以て、一の県主の苦とす。百の県の苦を以て、一の国造の苦とす。百の造の苦を以て、一の大臣の苦とす。天下の苦を以て、一の天皇の苦とす。嗟乎(アア)慎まざるべしかな。
辛卯(かのとうのひ・二十三日)、諸国に勅して、以て父母に孝なる者(も)のを召す。勅使孝子十八人を獲て、以て禁庭に至る。天皇乃ち正安殿(みあらか)に御して親から其の行状を聴きて、之(これ)を御書したまふ。
群臣に謂て曰く。夫れ孝は倫道の本なり。忠、是に由りて出(い)でけり。悌(てい)、是に由りて起りけり。仁(じん)、是に由りて施しけり。義、是に由りて成りけり。凡そ百行、是によりてか出でぬ。勉めよや、怠ることなかれ。
三十五年辛酉(かのととり)春正月、伊香色謎(イカシコメノ)命を納(い)れて妃とす。伊香色謎命、乃ち物部(モノノベ)の祖、大綜杵(オホヘソギノ)命の女なり。容顔美麗、聡明温恵、婦徳の秀なる者と謂ふべかりぬ。
天皇乃ち群臣に謂て曰く。朕(われ)、諸(これ)を天皇に聞けり曰く。人の善悪、多くは婦人に由(よ)る。故に聖王、明君、必ず后妃を択ぶに色を舎(す)てて徳を取る。夫(そ)の闇庸(あんよう)の主の如きは、則ち徳を舎てて色を取りて、我れ一人の目を悦ばして、以て萬古の大道を失ふ。而して億兆の憂苦を作(な)す。懼(おそれ)ざるべけんや。
又曰く。人の子の心、必ず其の父母に肖(に)る。父は是れ善と謂ども、母若し是れ悪ならば、則ち其の子安んぞ純善を得んかな。夫れ王は天下の本なり。故に天皇悪(あ)くなれば、則ち天下皆な悪を興す。是に於(おい)てか国家乖乱(かいらん)し、人民穏ならざりぬ。是を以て賢聖の君は、其の后妃を立(たて)るに、必ず容色を択ばずして其の徳を択ぶ。
朕、今ま之(これ)を思ふに、伊香色謎は、唯だ嬋娟(せんえん)のみにあらずして、聡明温恵にして、女徳の尤(もつとも)なる者(も)のなり。乃ち之を皇太子に賜ひて、以て其の賢嗣(けんし)を得んことを願ふ。然(しかり)と雖ども、父の妾を以て子の婦とすること、亦た乱とならざらんや。而して今ま朕、自(みづから)乱の咎(とが)を取(とり)て、以て宝祚(ほうそ)の賢嗣を作(な)して、億兆の歓楽を成さんや。将(は)た仍(な)を其の常を守りて、以て天の興廃に任せて、民の苦楽を忘れんや。此れの是非、朕、之を能く決することなかりけり。群卿請ふ、之を相ひ議(はか)れ。
群臣、奏して曰く。夫れ賢嗣を求めて天下の泰平を期するは、乃ち其の大なるものなり。妃を遷して乱となし、節を舎てて非を取るは、則ち其の小なるものなり。而して今ま小を舎てて大を取る、是れ聖賢のする所にして、凡庸のする所にあらざるなり。今ま則ち宜く以て叡慮に任すべかりけるのみ。
是に於て、伊香色謎(ノ)命を以て之を皇太子に賜ふ。已にして、五月を経て天皇の子、彦太忍信(ヒコフトヲシマコトノ)命を生む。開化天皇の時き、立(たち)て皇后となりて、崇神(すうじん)天皇を生む。果して是れ賢聖の君なり。
五十七年癸未(みづのとひつじ)秋九月壬申(みづのえさる)の朔癸酉(みづのととりのひ・二日)、天皇、崩(かむあがり)たまふ。聖寿一百十七。位に在すこと五十七年。開化天皇五年戊子(つちのえね)春二月丁未(ひのとひつじ)の朔壬子(みづのえねのひ・六日)、剣池島(ツルギノイケノシマ)の上(ウエ)の陵に葬(おさめ)まつる。
男(ひこ)大彦(オホヒコノ)命
此の命は、乃ち阿部臣(アベノオン)、謄(タリノ)臣、阿閇(アヘノ)臣、狭々城山君(ササキノヤマノキミ)、筑紫国造(ツクシノクニヅコ)、越(コシノ)国造、伊賀(イガノ)臣、凡そ七族の始祖なり。
男稚日本根子彦太日日尊(ワカヤマトネコヒコフトヒヒノミコト)
男彦太忍信(ヒコフトヲシマコトノ)命
此の命は、嘗て尾張連等(ヲハリノムラジラ)の祖、意富那毘(オホナヒ)の妹、葛城高千那媛(カヅラキノタカチナビメ)を娶り、味師内宿祢(ムマシウチノス クネ)を生む。此の宿祢嘗て紀伊国造(キノクニヅコ)の祖、宇豆彦(ウヅヒコ)の妹、山下影媛(ヤマトカゲビメ)を娶り、武内(タケウチノ)宿祢を生む。此の 宿祢、子九人あり。波多八代(ハタヤシロノ)宿祢は、波多臣(ハタノオム)、林(ハヤシノ)臣、波美(ハミノ)臣、黒川(クロガハノ)臣、淡海(アウミノ)臣、長 谷部君(ハセベノキミ)の祖なり。次に許勢小柄(コセノオカラノ)宿祢は、許勢(コセノ)臣、雀部(ササキベノ)臣、軽部(カルベノ)臣の祖なり。次に蘇賀石 河(ソガノイシカハノ)宿祢は、蘇我(ソガノ)臣、川辺(カハベノ)臣、田中(タナカノ)臣、高向(タカムクノ)臣、小治田(ヲハリタノ)臣、桜井(サクラヰノ)臣、 岸田(キシダノ)臣等(ラ)の祖なり。次に平群都久(ヘグリノツクノ)宿祢は、平群(ヘグリノ)臣、佐和良(サハラノ)臣、馬御@2連(ムマミクヰノムラジ)等の 祖なり。次に木角(キノツノノ)宿祢は、紀臣(キノオム)、都奴(ツノノ)臣、坂本(サカモトノ)臣の祖なり。次に久米能摩伊刀媛(クメノマイトビメ)、次に怒能 伊呂媛(ヌノイロビメ)、次に葛城長江曾都彦(カヅラキノナガエソツヒコ)は、玉手(タマデノ)臣、的(イタバノ)臣、生江(イクエノ)臣、阿芸那(アキナノ)臣等 (ラ)の祖なり。次に若子(ワカゴノ)宿祢は、江沼(エヌマノ)臣の祖なり。
男(ひこ)武埴安彦(タケハニヤスヒコノ)命
此の命は、乃ち岡屋臣等(オカノヤノオムラ)の祖なり。
女(ひめ)和迹迹姫(ヤマトトトビメノ)命
注1、@1の文字は身に呂を合体した字。
注2、@2の文字は職の左が耳でなく木の字。
☆五年と六年の条はどう考えても異質であるが、それはそれで大いに意義があるとおもう。
☆この文面が『古事記』や『日本書紀』より先行することはあっても、後に作成されたとはわたしには考えられない。
★平成19年1月27日追加。
『白河本旧事紀』と『日本書紀』の孝元天皇紀を比較すれば、どちらが先に編纂されたか判明する。
『日本書紀』の記述は次のとおり。ルビは除く。< >内は細書。
《大日本根子彦国牽天皇 <孝元天皇>
大日本根子彦国牽天皇は、大日本根子彦太瓊天皇の太子なり。母をは細姫命と曰す。磯城県主大目が女なり。天皇、大日本根子彦太瓊天皇の三十六年の春正月を以て、立ちて皇太子と為りたまふ。年十九。
七十六年の春二月に、大日本根子彦太瓊天皇崩りましぬ。
元年の春正月の辛未の朔甲申に、太子、即天皇位す。皇后を尊びて皇太后と曰す。是年、太歳丁亥。
四年の春三月の甲申の朔甲午に、都を軽の地に遷す。是を境原宮と謂ふ。
六年の秋九月の戊戌の朔癸卯に、大日本根子彦太瓊天皇を片丘馬坂陵に葬りまつる。
七年の春二月の丙寅の朔丁卯に、欝色謎命を立てて皇后とす。后、二の男一の女を生れます。第一をば大彦命と曰す。第二をば、稚日本根子彦大日日天皇と曰す。第三をば、倭迹迹姫命と曰す。<一に云はく、天皇の母弟少彦男心命といふ。妃伊香色謎命、彦太忍信命を生む。次妃河内青玉繋の女埴安媛、武埴安彦命を生む。兄大彦命は、是阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣・凡て七族の始祖なり。彦太忍信命は、是武内宿禰の祖父なり。
二十二年の春正月の己巳の朔壬午に、稚日本根子彦大日日尊を立てて、皇太子としたまふ。年十六。
五十七年の秋九月の壬申の朔癸酉に、大日本根子彦国牽天皇、崩りましぬ。》★
開化天皇 2005・6
皇太孫(スメミマゴ)、稚日本根子彦太日日尊(ワカヤマトネコヒコフトヒヒノミコト)、開化天皇と諡(おくりな)す。孝元天皇第二(つづきふたはしら)の皇子(みこ)。母(いろは)は皇后(きさき)、欝色謎(ウツシコメノ)尊、物部欝色雄(もののべノウツシコヲノ)大臣(おほいまうちぎみ)の女(むすめ)なり。孝元天皇七年癸巳(みづのとみ)の歳にして生(あ)れましけり。二十二年戊申(つちのえさる)春正月己巳(つちのとみ)の朔壬午(みづのえうまのひ・十四日)、立てて皇太子(ひつぎのみこ)となる。時(と)き年十六。五十七年癸未(みづのとひつじ)秋九月壬申(みづのえさる)の朔癸酉(みづのととりのひ・二日)、天皇、崩(かむあがり)たまふ。皇太子年し五十一。
元年甲申(きのえさる)春正月庚午(かのえうま)の朔癸酉(みづのととりのひ・四日)、皇太子、天皇の位に即きたまふ。時に年し五十二。乙酉(きのととりのひ・十六日)、皇后を尊んで皇太后と曰ふ。皇太后を尊んで太皇太后と曰ふ。
冬十月丙申(ひのえさる)の朔戊申(つちのえさるのひ・十三日)、都を春日(カスカ)の地(トコロ)に遷す。是を卒川(イサカハノ)宮と謂ふ。
五年戊子(つちのえね)春二月丁未(ひのとひつじ)の朔壬子(みづのえねのひ・六日)、孝元天皇を劔池島(ツルギノイケジマ)の上(ウエ)の陵に葬(かく)しまつる。
六年己丑(つちのとうし)春正月辛丑(かのとうし)の朔甲寅(きのえとらのひ・十四日)、伊香色謎(イカシコメノ)尊を立てて皇后とす。後に御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニヱノ)尊、御間津姫(ミマツビメノ)命を生みたまふ。是より先、丹波(タニハ)の県主、湯切(ユキリノ)命の女、竹野姫(タケノビメノ)命を納(い)れて妃(みめ)となして、彦湯産隅(ヒコユムスミノ)命を生む。次の妃、和珥臣(ワニノオム)の遠(とほツ)祖(をや)姥津(ヲヂツノ)命の妹、姥津姫(ヲヂツビメノ)命、彦坐王(ヒコマスノキミ)を生む。次の妃、葛城垂見(カヅラキノタルミノ)宿祢の女、@1媛(タカビメノ)命、武歯頬(タケハズラノ)命を生む。
夏四月、相模(ノ)国柄野海(エノウミ)大いに震動し、猛鬼(まうき)数千、海の上に群集し、火を放ち風を起し雷電霹靂(らいでんひやくりやく)して、潮(うしほ)を抉(ゑぐ)り、巌(いはほ)を割(さ)く。一夜(ひとよ)忽(たちま)ち一(ひとつ)の島を出(いだ)して、群鬼(ぐんき)一時に去る。即(その)時に天晴(あめは)れ、波静まる。紫雲靉靆(しうんあいたい)し、音楽高く聞(きこ)ゆ。而(しかう)して、一(ひとり)の天女、金車八龍に駕(か)する者のに乗じて来(きた)る。天兵神卒(てんぺいしんそつ)、四辺を囲繞(いぜう)す。巍〃乎(ぎぎたり)、堂〃乎(だうだうたり)。遠山より之(これ)を観(み)れば、則(すなは)ち日輪の島の上に在(あ)るを見る。近郷より之を観れば、則ち天女、天童在るを見けり。島の上に至りて視れば、則ち一(ひとつ)も見る所ろなかりぬ。人皆な怖畏(ふゐ)して、島に到ることを得ず。若し、人ありて斎戒祓禊(さいかいふつけい)して以て祈求(ききう)しければ、願ふ所ろ成就、福、唐損(たうそん)ならず。
是(こ)の後に、七百有七年を経て、欽明天皇六年乙丑(きのとうし)四月上(かみ)の巳(み)の日に至れば、則ち大神(おほんがみ)、大殿(おほとの)に出現して、乃(すなは)ち天皇に告げて曰く。我れは是れ東方、相模(ノ)国柄野島(エノシマ)なり。而して我れ天に在(あり)ては則ち日輪の魂(みたま)なり、地に在ては富貴財宝の魂なり、我が名を天富姫(アマノトミビメ)と曰(い)ふ。而して天皇は乃ち吾が胤(たね)なり。我れ四月上(かみ)の巳(みのひ)を以て国土に降臨して、以て万福を成就す。十月の上の亥(ゐのひ)を以て、天上(たかまがはら)に帰る。以て群生を育成す。当(ま)さに巳の日に我を迎え、亥の日に我を送るべし。是の時、詔して神廟を島の南の海際(ナギサ)に建つ。
八年春正月、大祢大綜杵(おほねオホヘソギノ)命を以て大臣(おほいまうちぎみ)とす。武建(タケタツノ)命、大峰(オホミネノ)命を並びに大祢(おほね)とす。二月、伊香色雄(イカシコヲノ)命を大臣とす。
二十八年辛亥(かのとゐ)春正月癸巳(みづのとみ)の朔丁酉(ひのととりのひ・五日)、御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエノ)尊を立てて皇太子(ひつぎのみこ)とす。 癸卯(みづのとうのひ・十一日)、詔して曰く。神日本磐余彦(カムヤマトイハレヒコノ)天皇の時、西国、中国皆な已(すで)に服従して、王化に帰す。東国辺国、已に帰服(きふく)すと雖(いへ)ども、未だ、朝貢に及ばず。磯城津彦玉手看(シギヅヒコタマテミノ)天皇の時き、諸国皆な已に朝貢すと雖ども、而(しか)も未だ王道(わうだう)、正淳(せいじゆん)、誠敬(せいけい)の徳を知らざるなり。
夫(そ)れ宗徳(かんつみもと)は則ち正(タダ)しきなり。斎元(かんついみ)は則ち淳(スナホ)なり。霊宗(かんつむね)は則ち誠(マコト)なり。総(す)べて之を言(い)はる、唯だ敬のみなり。苟(まこ)とに能く此(これ)を知りければ、則ち人なり。否(いな)されば、則ち人にあらざるなり。豈(あ)に慎(つつしま)ざるべけんや。
故に朕(われ)、方(ま)さに諸国に於て神主(かんぬし)を置(おき)て、以て王道を弘通(ぐつう)して人民をして之(これ)を知らしめんと欲す。是(これ)に於て、筑紫に阿蘇(アソ)の神主を置き、日向に吾田(アタ)の神主を置き、丹波に豊食(トヨケ)の神主を置き、出雲に杵築(キヅキ)の神主を置き、伊勢に飯井(イヰ)の神主を置き、常陸に筑波(ツクバ)の神主を置き、奥北(オクギタ)に羽黒(ハグロ)の神主を置き、奥東(オクヒガシ)に塩釜(シホガマ)の神主を置きて、之(これ)をして斎元(かんついみ)の道を修め以て人民に教へしむ。夫(そ)れ是(こ)の如し。故に天下始(はじめ)て王道を知りけり。
六十年癸未(みづのとひつじ)夏四月丙辰(ひのえたつ)の朔甲子(きのえねのひ・九日)、天皇崩(かむあがり)たまふ。聖寿一百十一。位に在(ましま)すこと六十年。冬十月癸丑(みづのとうし)の朔乙卯(きのとうのひ・三日)、春日(カスガ)の率川坂(イサガハサカ)の上(カミ)の陵に葬(おさめ)まつる。
男彦湯産隅(ヒコユムスミノ)命、〈亦た彦@2簀(ヒココモスノ)命と名づく。〉
此(こ)の命は、乃ち品治部君等(ホンヂベノキミラ)の祖(をや)なり。
男御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニヱノ)尊
女御間津姫(ミマツビメノ)命
男彦坐王(ヒコマスノキミ)
此の王は、乃ち伊勢の品遅部君(ホンヂベノキミ)、伊勢の佐那造(サナノヅコ)、比売陀(ヒメダノ)君、当麻勾君(タヘママガリノキミ)、佐々(ササノ)君、日下部連(クサカベノムラジ)、甲斐の国造(クニヅコ)、葛野別(カドノノワケ)、淡海の蚊野(カノノ)別、若狭の耳(ミミノ)別、三河の穂(ホノ)別、淡海の安置(ヤス)、美濃の本巣(モトスノ)国造、長旙部(ナガハタベノ)連、吉備品遅(キビノホンジノ)君、針間阿宗(ハリマノアソノ)君、但馬の国造の祖なり。
男武歯頬(タケハヅラノ)命
此の命は、乃ち道守臣(チモリノオム)、忍海部造(ヲシウミベノヅコ)、御名部(ミナベノ)造、因幡の忍海部(ヲシウミベ)、丹波の竹野別(タケノノワケ)、依網阿毘古等(ヨサミノアヒコラ)の祖なり。
注1、@1の文字は亶に鳥を合体した字。
注2、@2の文字は、くさかんむりに将の字