トロツキー『文学と革命』の邦訳
トロツキーの『文学と革命』邦訳はこれまでに三氏による訳業が刊行されているが、
珍しくもどれもロシア語からの翻訳である。原書自体がトロツキーがまだソ連で枢要
な地位にあったときに、当のソ連でロシア語で刊行されていたという事情が幸いした
のであろう。
最初の邦訳は、茂森唯士によるもので、昭和6年(1931年)に、平凡社刊行の『社会思
想全集』第19巻に、武藤直治訳の『無産者文化論』とあわせて収録された(もっとも訳者の
序文によれば、部分的かつ不備な形では1925年にすでに公刊されていたという)。
第二の邦訳は、内村剛介氏によるもので、1964-65年に現代思潮社から刊行された。「解
題」によれば、数名の訳者が訳業を分担しているが、内村が他の訳者の訳文にかなり手をい
れ、ときには原形をとどめないほどになったところもあるという。訳業の責任はすべて内村
氏にあるというので、本稿ではだれの担当かを無視して内村訳としてあつかう。
第三は、桑野隆氏によるもので、1993年、岩波書店から「岩波文庫」の一部として刊行さ
れた。拙訳の『裏切られた革命』に続く同文庫でのトロツキー著作の第2弾であった。
私はかねてから初期ソヴェト政権の文芸・言論政策に関心をいだいていた。後のスターリ
ン=ジダーノフ路線ときわめて対蹠的な、ロシア文化のルネサンスともいわれるような百花斉
放的現象が1920年代の前半のソ連に見られたからである。私はルナチャルスキー、ヴォロン
スキーの著作の研究にとりくんだ。そして当時の文化政策の背景に、19世紀ロシアの革命的
インテリゲンツイアの先駆者であるベリンスキーの思想を継承するトロツキーの文化思想が
あることを知った。
トロツキーの文化思想はさまざまな著作に示されているが、その代表的なものはやはり
『文学と革命』であろう。その中でも私の関心をひいたのは、プロレタリア文化論や党の文
芸政策にかかわる発言であった。ロシア語原典と内村訳に依拠して研究をすすめた。内村訳
は全体的には立派な訳業である。内村流の独特な表現が随所に見られはしても、それは内村
方式というべき翻訳方法に帰することができよう。それにもかかわらず、私は内村訳のあち
こちでさまざまな不可解な文章に遭遇した。原典に必ずしも忠実とは思えないような文言、
言いかえれば、著者の思想が正しくつたえられていないように思える部分が多かったのであ
る。ここでは、それらの疑点が桑野訳ではどう処理されているか(ついでに茂森訳につい
ても)吟味するという形で既訳を検討することにした。吟味の対象はここでも、『文学と革
命』の全体ではなく、筆者がかねてからもっとも関心をよせていたいくつかの論文に限定す
る。
A 最初に検討するのは、「序文」の一節。
「本書の第2部を成す旧論文中には少なからず検閲機関に奉仕させられている文章がある。自
明のことながら、これらの文章は、革命に敵対しているある種の批評家にだけソヴィエト政権
の悪口をいう口実を与えるといったものではない。批評家諸君
のこのような幸福を剥奪しない
ことにしよう、われわれはこの種の文章の一行も抹消しなかった。」(現代思潮社『文学と革
命』1、1969、p.9、+1~)
この箇所は原文ではつぎのとおり。
В старых статьях, образующих вторую часть
книги, есть немало строк, посвященных
цензуре. Разумеется, строки эти дадут не одному враждебному революции
критику повод показать советской власти язык. Чтобы не лишать
господ
критиков этой счастливой возможности,
мы
не вычеркнули ни одной такой
строки......(( Л.Троцкий. Литература и революция. М., 1991, p.28)
内村訳
1) 「少なからず」は「奉仕」を修飾しているように読めるが、原文では、「文章」にか
かっている。つまり原意は「...文章が少なからずある」ということ。
2)「検閲機関に奉仕させられている」は変。посвященных
цензуреの中のпосвященных
は、「……にささげられる」「……をあつかう」という意
味である。「検
閲をとりあつかっ
ている」とすべきであろう。
3)「……口実を与えるといったものではない」。「口実を与えない」という意味か? しか
し、どこに否定詞があるか? 原文では
не
дадут ではなく、 дадут не
であり、このне
は дадут
を否定するのではなく、つぎの критику を否定するものである。直訳すれば、「革
命に敵対する批評家だけにではなく……口実をあたえる」というひねった言い回しなのであ
る。否定詞の用法を知らないまったく
の初歩的な誤訳。「といったものではない」などという
表現は、その辺の自信のなさを反映したものか。
4)「幸福を剥奪」ではなく、「幸福な機会の剥奪」である。<ソヴェト政権の検閲政策を非
難するという絶好の機会を奪う>という意味。
5)「……ことにしよう」は意訳したつもりであろうか?
Чтобы という接続詞をなぜ無視
するか。<絶好の機会を奪
わないようにするために……>ではなぜいけないのか?
「序文」のこの部分の邦訳は、内村訳全体の品質の予兆のようで、この先の本論部分の訳業
が思いやられる。
桑野訳はこうである。
「本書の第二部をなす旧論考には検閲を論じた個所がすくなからずある。もちろん、それら
の個所は、革命に敵対する批評家のだれかれかに、ソヴィ
エト権力を小馬鹿にする口実をあた
えるであろう。
批評家諸氏からそのような幸福をとりあげないためにも、われわれはそのよう
な個所を一行たりとも抹
消しなかった。」(岩波文庫『文学と革命』上、22)
否定詞部分を桑野訳が「……批評家のだれかれかに、……
する口実をあたえる」としている
のは氏なりの工夫である。
「幸福な機会」をたんに「幸福」としているのは、やや問題があり、内村訳につられたケアレ
ス・ミスに見えなくもないが、本質的な問題ではない。そのほかの面では内村訳の瑕疵を完全
に訂正していると言える。
B 第6章「プロレタリア文化とプロレタリア芸術」
内村訳には、一読して理解しかねる訳文がやたらに多い。たとえば、
「ブルジョア文化とのアナロジーないしアンチテーゼを措定して曖昧にプロレタリア文化を
論議するのは、プロレタリアートとブルジョアジーとの歴史的運
命に
対する極端に無批判的な
こじつけである。形式的歴史的アナロジーの平板で純粋に自由主義的な方法は、マ
ルクシズム
のあずかり知らぬところである。マ
テリアルなアナロジーはブルジョアジーと労働者階級の歴
史の軌道の内には存在しない。」(p.171、-1~172,+3)
いくら読み返しても私にはこの文章の意味が理解できない。
原文はつぎのとおり。
Бесформенные разговоры насчет пролетарской культуры,
по аналогии-антитезе с буржуазной, питаются крайне некритическим
уподоблением исторических судеб пролетариата и буржуазии.
Плоский, чисто либеральный метод формальных исторических аналогий не
имеет ничего общего с марксизмом. Нет материальной аналогии в
исторических орбитах буржуазии и рабочего класса. (р.147)
私の理解では、この部分の文意は、つぎのようなものである。
<ブルジョア文化との類似・対立というしかたでプロレタリア文化を論じるのは、プロレタ
リアートとブルジョアジーの歴史的運命をきわめて無批判的に比較するところから出てくる。
形式的な歴史的類推という皮相的な、まったく自由主義的な方法はマルクス主義と無縁なもの
である。ブルジョアジーと労働者階級の歴史的軌道には物的な類似性は存在しない。>
ここで注意すべきは аналогияの意味である。それには「類似、一致」(完全一致、部分
一致など)という意味と「類推」という意味の両者がある。
この部分は、桑野訳では、つぎのようになっている。
「ブルジョア文化と類推させたり、対立させた曖昧なプロレタリア文化談義の源は、プロレ
タリアートの歴史的運命をブルジョアジーの歴史的運命にきわめて
無批判にたとえるところに
ある、歴史を形式的なアナロジーでとらえる、表面的でまったく自由主義的な方法は、マルク
ス主義とはなんら関係がない。実質的な
類似現象は、ブルジョアジーの歴史と労働者階級の歴
史のあいだには存在しない。」(254-255)
桑野訳は、原意を正確につたえるために、あえて同じ語句をくりかえすなど工夫をこらして
いる(原文では複数形になっているので、反復の必要がない)。原意を完全につたえきってい
る。
C 文化啓蒙活動にかんする記述の中のつぎのような文章。
内村訳
「プロレタリアート独裁の解放的な意味は、その独裁が、一時的なーー短期のーー手段であっ
て、それは無階級社会への道を掃き清め、基礎を置き、その基礎に立つ文化の
連帯性を得
る、
といった手段なのであるということのうちにあるのだ。」(178、-3~-1)
文意のつかみにくい訳文である。
原文はこうである。
Освободительный смысл диктатуры пролетариата в том и состоит, что
она является временным--кратковременным--средством расчистки пути и
закладки основ внеклассного общества и на
солидарности основанной
культуры
. (153)
訳者は
на
солидарности основанной
культуры という文の構造がわからなかったようだ。
основанной は、основать
の被働形動詞で、 на
солидарности(連帯に)はその<補語>。<にもとづいた>という意味で、культуры
を修飾する。いわゆる倒置文。初学者にわか
りやすいように並べかえれば、 основанной на
солидарности
культуры
茂森訳では、問題の部分は「……基本的文化のソリダリテーの上に、超階級的社会の基礎を
置
き道を浄めるにある……」(211)
かれもやはり文章の
構造がつかめていない。
桑野訳は、
「プロレタリアート独裁がもつ解放的意味は、この独裁が階級のない社会のためや、連帯に
もとづいた文化の
ために道を掃き清め基礎を敷設する一時的なーー短期のーー手段であること
に存するのである。」(264-265)
既訳の瑕疵を克服している。当然である。この文章構造がわからないようでは、翻訳者とし
ての資格が問われよう。
ちなみに、第8章の「革命の芸術と社会主義芸術」には、「社会主義のもとで社会の礎になる
のは、連帯性である」という命題がある(内村訳213、桑野訳
310)。そのトロツキーの思想が
きちんと頭に入っていれば、こうした誤訳を避け得たかもしれないのだ。
D 客観性をめぐる科学的良心?
内村訳
「実験科学の領域においてもまた、それが引き出してくる結論の規模次第で、客観性をめぐ
る科学的良心の
さまざまな段階が存在する。」(182、+3~+4)
文意不可解!
原文
В области экспериментальных наук существуют,
в свою очередь, разные этажи научной
добросовестности
и объективности, в зависимости от размаха обобщений.
(155-156)
どうして「客観性をめぐる科学的良心」などという訳文になるのか不可解であ
る。
しかるに桑野訳もここでは、「一般化の規模に応じて、客観性にたいする科学的誠実さの
さま
ざまな段 階」とある(269)。不可解なことである。
научной
добросовестности
и объективностиは「科学的な誠実さと客観性」という理解でなぜいけないか? 内
村訳につられたのであろうか。
ちなみに、茂森訳では、「科学的確実性並びに客観性」とすなおに訳している(214)。「確
実性」という表現が適切かどうかという問題は残るにしても、茂森訳のように文意をとらえて
もなんら不自然なことはない。
E ベリンスキー論
内村訳
「一面から言えばーーもっともそれはきわめて本質的な一面だがーープレハーノフはマルク
シズムにおけるベリンスキーの、この高貴な社会評論家の系譜の最後の代表者であった。「ベ
リンス
キーたち」は文学を通じて社会性なるものに通風孔を穿ちあけたーー彼らの歴史的役割
はこの点
にあったのである。」(193、+7~)
原文は、
Одной своей стороной, и крайне существенной, Плеханов был марксистским Белинским, последним
представителем
этой благпродной публицистической династии. Через литературу
Белинские
пробивали отдушину в общественность--в
этом
была их историческая роль. (164)
内村訳は明らかにおかしい。
1)「一面から言えば」は変。
с одной сторонойと
混同している。桑野訳は、「プレハーノ
フは、ある点では、それも極度に本質的な点では」とあ
り こちらの方が正しい。
2)「マルクシズムにおけるベリンスキーの、この高貴な社会評論家の系譜の最後の代表者」
もおかしい。「ベリンスキー」と「最後の代表
者」は同格である。
また「マルクシズムにおけるベリンスキー」もおかしい。ここはプレハーノフについての思
想史的位置づけの問題である。プレハーノフはいくつものベリンスキー論を書いているが、そ
れを読むと、マルクス主義者であ
るかれが同時にベリンスキーの諸思想を受け継いでいること
がわかる。そのことを承知していて、みずからもベリンスキーに多くを学んでいるトロツキー
は、プレハーノフを「マルクス主義的ベリンスキー」と形容したのである。
3)「社会性なるものに通風孔を穿ち……」もわかりにくい。「社会性に通風孔」を穿つとは
どう
いうことであろうか?
茂森訳では、問題の部分は、「社会生活の
通風口」である(p.227)。
桑野訳は、「プレハーノフは、ある点では、それも極度に本質的な点ではマルクス主義的ベ
リンスキイであり、この高貴な社会評論王朝の最後の代表者であった。ベリンスキイ的人
物は
文学を通して世論に風穴をあけた。」
(284)
きわめて適切な訳文だと思う。ただここで「世論」と訳した同じ
общественность
を、その
少し先のところで、「社会の
文学的鼓吹者」とか、「わが社会の全体」、「わが国の社
会全
体」と訳しているが、その「世論」と「社会」の訳しわけの理由はなんであろうか? 同じ訳
語で不都合はないように思うが。ちなみに、内村訳では、この、桑野訳で「社会」となってい
るところは、逆に「世論」となっていて、不思 議である。
茂森訳では、一貫して「社会生活」。
露々辞
典の語義によれば、
общественность
は、「世論を表現する先進的社会層」と
ある。ベリンスキー(たち)が影響をあたえたのはもちろん19世紀中葉の雑階級人や貴族の先
進的インテリゲンツイアであった。
F
内村訳
「サークルの詩が自らの命数を見てとって、それを何とかしようものと、無味無臭の浪漫的し
ろもの「コスミズム」に身を投じるのは決して行きあたりばったりのことではない。」(194、
+7)
なんともわかりにくい文章だ。
原文
Отнюдь не случайно кружковая поэзия, в
стремлении
преодолетъ свою отрешенность, ударяется в пресную романтику «космизма».
((165)
отрешенностьは露々辞典での説明によれば、<なにかに
とらわれて、まわりから隔絶した
状態>をあらわすことばで、「命数」とは違う。内村訳もそのすぐまえのところでは、「恍惚
境」とまったく違う訳語をあてている
(193、-1)。いずれも同じ現象が問題になっているにも
かかわらず。
また
романтика というロシア語は、
романтизмとほぼ同義で、そこには
「しろも
の」というような邦語であらわされる軽蔑的な意味はまったく
含まれていない。「浪漫的しろ
もの」などとわざわざ訳すことは、私には著者にたいする冒涜に
見える。内村訳には、この種
の、恣意的な訳文・訳語が随所に見られる。トロツキーをおとしめようとする意図さえ感じら
れる。
桑野訳はつぎのようにきわめて正確かつ素直である。
「閉鎖状態を克服しようとして……「宇宙主義コスミズム」の味気ないロマンチシズムに
陥っている……」(286)
ちなみに内村訳で「恍惚境」とされているところは「閉鎖性」
(285)。
G
内村訳
「もしプロレタリア文化の形而上学的理解を捨
象して、他の視点から接近し、何が……か、と
いう問題を 取り上げるなら
ば……」(198、+1~+5)
「プロレタリア文化の形而上学的理解」とはわかりにくい。とくに日本語の「の」という助詞
には要注意である。「プロレタ
リア文化がなにかを形而上学的に理解する」ことなの
か、また
は「プロレタリア文化を形
而上学的に理解する」ことなのか?
原文では、
Если отвлечься от метафизического
понимания
пролетарской культуры, а подойти к делу под углом зрения того, что...
原文では後者である。「捨象」という訳もおかしい。原文では「やめる」「放棄する」と
いった意味。「他の視点から接近し、何が……」は
工夫した訳文なのか、文脈のとらえ損ねな
のかはっきりしない。
その点では、桑野訳のほうが適切である。
「プ
ロレタリア文化を形而上学的に解釈するのを避けて、<プロレタリアートが何を読
み……>という観点からことに取り組むならば………」(290-291)
H ヴォロンスキーについてのべた一節。
内村訳
「論文の中で、それも小鳥大の論文の中で……」(200、+6)
「小鳥大の論文」とはどういう論文のことだろうか?
茂森訳ではたんに「新聞紙の小論文」(235)。
原文は、статейка--с птичьего дуазо.
この部分については私に、20年ほど前のある思い出がある。ヴォロンスキーについて論文を
書くためにトロツキーの『文学と革命』を読んだときのことである。各種の露
々辞典などを見
ても、この дуазоは
出ていなかった。何日も首をひねり続けた。ある夜、夢うつつの脳裏に、
ふと浮かんだ。フランス語のオアゾー(oiseau、鳥)と関係があるのではない
か 深夜にすぐ起
き出して辞典を調べた。はたして、vue
d'oiseau があった。意味は「鳥瞰」。
桑野氏がそれをどのように訳すか楽しみにしていた。さすがである。そこは「鳥瞰図のよう
な論文」とあった
(293)。
I マルクス主義の方法について
内村訳
「マルクシズム的方法は新芸術発
達の諸条件を正しく評価させ、その一切の源泉をたどるこ
とを
可能にし、また最
も進歩的かつ批判的なやり方でその道を照らし出してやることができ
る……」(202、+1~+3)
原文
Марксистский метод дает возможность оценить условия развития
нового
искусства,
следить за всеми истоками его, содейсивовать
наиболее
прогрессивным из них критическим
освещением
путей...(170)
内村訳はここでも文章の構造をとらえそこねている①
まずиз них<……の中の>
の働きがわからないのか、その語句が黙殺されている。それは、
<それらの中でもっとも……な>という意味である。
さらに「最
も進歩的かつ批判的なやり方で」という訳文は、訳者が格変化がよくわかってい
ないことを示している。訳文
прогрессивным
はここでは、содейсивоватьの要求にもとづく
複数与格であり、критическим
освещениемの方は単数造格で
<……によって>の意味。初学
者がおかすミスである。どちらも同じ格だと見るから、
из нихを「かつ」などとごまかし
て<訳す>ことになる。
茂森訳は、「その中から最も進歩的で批評的な知識をとって進路を定めることが出来る。」
(237) из них
を訳文に生かしている点は内村訳よりましだが、やはりその前後の形容詞の
格の違いに気づいていない。
桑野訳は、
「それらの源でもっとも先進的なものを種々の方途の批判的解明によって助ける……」
(296)と、正確である。
J 文学の普遍性
内村訳
「労働者がシェークスピアをも、ゲーテをも、プーシキンをも、ドストエフスキーをも摂取
するだろうと考え
てこそ、何よりもまず人間個性、その欲望と感覚の複雑さをよりよく理解し
ていると言うべきである。労働者はブルジョア文学の心理的原動力、そこにおけ
る無意識的な
ものの役
割等々を、より深く、より鋭く把握する
であろう。」(208、-5~-2)
不思議な訳文である。朱
色の部分はいくど読み返してもわからない。ここは、文学が階
級的
意義を超えた普遍性をもつのはなぜかを説明する重要命題である。マルクス主義文芸学でしば
しば問題にされてきた芸術の階級性と普遍性とのかかわりを解き明かそうとするトロツキーの
所論である。
原文では
То, что рабочий возьмет у Шекспира......,
это прежде всего более сложное представление о человеческой
личности......, он глубже и острее поймет ее
псхические силы......(175)
ここでも文章の構造をとらえそこねているのか、思い切って意訳しているつもりなのか?
文字どおりに訳しても読者はすなおに理解できると思うのだが。
То, что рабочий
возьмет у Шекспира の朱
色の部分の関係詞・前置詞の働きがわかって
いないようだ。
桑野訳では、
「労働者がシェイクスピア……から摂取するもの、それはまず第一に、人間の
個性……にかん
するもっと複雑な観念であり、労働者は個性がもつ心理的な
力……を理解するであろう。」
(305)
そこでは、原文の構造は正確にとらえ
られている。ее
という代名詞が個性を示すのか、ここに引用した部
分の直前の文中にある「ブルジョア文学」をさすのかという問
題はあるが、文脈
からは、桑野訳のように、人間個性をさすと考えるのが自然である。
この部分は、茂森訳でも正しくとらえられている(244)。
K 鳥の鼻
内村訳の、「雀の鼻よりも短かく一本に定式化……」という訳文(210、-2)。
原文は
формула, которая была бы короче
воробьиного
носа......(176)
короче воробьиного носа
は「きわめて短い」という意味の慣用句である。
桑野訳も「ほんの短い」としている(307)。ただ「きわめて短い」と訳したのでは、せっか
くの慣用句のお
もしろみがつたわらない。私なら、こういう場合には、なるべく字義どおりに
訳して[
]内に意味を記すようにしている。その意味では、内村訳のように、「雀の鼻よりも
短かく」といった訳し方には賛成する。しかし、問題は「雀の鼻」とい
う訳語である。
нос
と
いうロシア語は、鳥の嘴をも意味する。比喩で
はないのだから、わざわざ「雀の鼻」とする必
要はないのではないか? 読者は「雀の鼻」という訳語を読んで、雀のどの部分かとしばし考
え込むのでは?
「雀の嘴よりも短く」でなんら不都合がないように思う。訳者がまさか鳥の
嘴のことをロシア語で
нос
と
もいうことを知らなかったわけでは?
L リアリズム論にかんする部分
内村訳
「この概念に条件をつけておき、当惑することなどないよう
にしておかなければならな
い。」(214、6~-5)
原文
Но нужно условиться насчет понятия,
чтобы
не впасть в недоумение.(180)
概念規定を明確にする必要があるという論旨である。「条件をつけ」はおかしい。
桑野訳は、「ただし誤解が生じないためには、概念を明確にしておく必要がある。」(313)
M ソヴェト喜劇のありかたを論じた部分。
『親がかり』『智恵の悲しみ』『検察官』を例にあげつつ、ソヴェト喜劇の必要を説いた部
分。
内村訳
「われわれ自身の『親がかり』や『智恵の悲しみ』や『検察官』が必要だ。この三つの喜劇の
焼き直しや、
ソヴィエトの現代風に裏返したカーニバル・パロディでなくーーもっともわれわ
れのレパートリーの実に九九
パーセント以上がこの類だがーー笑いと怒りの純ソヴィエト式風
俗喜劇が必要なのだ。」(220、+8~)
原文
Нам нужны свой
<Недоросль>,
свое <Горе от ума>, свой <Ревизор>. Но новая инсценировка
трех
старых комедий(A) не
пародийно-карнавальная перелицовка
их на советский лад (B)--хотя и это жизненнее
99 сотых нашего репертуара,
--нет, нам нужна просто-напросто советская комедия нравов, смеющаяся и
негодующая. (184
-185)
やや複雑な構文である。ここには少なくとも問題点が二つある。 「三つの喜劇の焼き直し」
( новая инсценировка
трех
старых комедий )と「ソヴィエトの現代風に裏返したカーニ
バル・パロディ」(пародийно-карнавальная
перелицовка
их на советский лад)の間にあ
る(B)が否定詞 неの
働きをどう理解するかという問題が第一。
内村訳は、否定詞 неが
(A)のまえにも、(B)のまえにもあるかのように理解しているよ
うだ。だが、実際には(A)のまえには否定詞 は
ない。原文では、(A)も(B)も主格であ
る。(A)не(B)
という構文で、普通は<(A)は(B)ではない>という意味になる。つまり、
<「三つの喜劇の焼き直し」(A)は「ソヴィエトの現代風に
裏返したカーニバル・パロ
ディ」(B)ではない>という意味になる。
桑野訳も、この部分の理解は内村訳とほぼ同じである。
「……必要なのは、これら三つの古い喜劇の新たな舞台化でもなければ、それらをソヴィエト
式にパロディ・カーニヴァル的につくり直したものでもないーー」(322)
茂森訳も同様である。
「それは以上三ツの旧い喜劇の新上演ではなく、またそれらをソウエート式に改作すること
でもなくーー」(258)
ここには確かに文脈の解釈の問題がなくはない。しかし、私には、「三つの古い喜劇の新た
な舞台化」(A')は、<ソヴィエト 式にパロディ・カーニヴァル的につくり直したもの> (B')
ではないという文法の基本どおりの命題で理解しても不自然ではないように思う。「舞台化」
などの名詞を動名詞風に訳してみるとわかりやすいだろうーー「昔の三つの喜劇を新しく脚色
するということ」は「それらをソヴェト流に仕立て直すということ」ではない、というよう
に。トロツキーが言いたいのは、必要なのは『親がかり』や『智恵の悲しみ』や『検察官』に
匹敵するような、「笑
い、怒る、まったくソヴェト的な風俗喜劇」だということである。
トロツキーは、皮相的な喜劇ではなく、リアリスチックな喜劇の誕生を期待しているのであ
る。そこには、モリエールよりもシェイクスピアを高く評価していたベリンスキー的な視点が
あらわれている。
第2の問題点は、это жизненнее 99 сотых нашего
репертуара をいかに理解するかと
いうこと。
内村訳では、
「われわれのレパートリーの実に九九
パーセント以上がこの類だが」
(220、+8)
茂森訳では、
「よし今の脚本が百中九十九迄実際はそうであって 」(258)
内村訳も茂
森訳も、 жизненнееの
語尾を無視している。これは比較級である。つまり、
「……の100分の99よりも……」である。 жизненнееを
どう訳すかは別問題で、語義として
は、生きた内容をもっているといったほどの意味である。
桑野訳は、「わが国のレパート
リーの九九パーセントよりは生き生きとはしている」
と的確である(322)。
まだまだ問題は多いが、かくも杜撰な邦訳が高名な大家の訳業として半世紀近く日本の読者
に提供されつづけてきたことに驚愕させられる。
トロツキー研究者の一員として、多少の問題がなくはないにせよ、岩波文庫版の桑野訳が誕
生したことはまことに喜ばしいことである。スターリン時代のマルクス主義美学やマルクス主
義文芸学とは質的に異なる、19世紀ロシアの文芸思想の革命的伝統を継承したロシア・マルク
ス主義(その最高の存在がトロツキー)の文芸思想に多く学ぶことができるようになった。マ
ルクス主義の魅力が地に落ちたかのような今日では時すでに遅しの感がないでもないが、学問
的には大きな意味があると考える。 (2007.05.12)