2月の夜風が頬を切り裂く。身も凍るような寒さの中、間桐桜は黒衣に身を包み下界を見下ろしていた。
深夜ともなれば周囲のオフィス街からは明かりが消え、僅かに灯る街灯だけが寂しげに辺りを照らしている。 遠くを望めば商業地区に住宅街、僅かに灯る人口の光、どんな夜にでも光は途切れることなく微かに輝いている。
それを桜はただ無表情に見下ろしている。
かつてはあんなに儚く寂しい明かりさえも頼もしく見える暗闇に彼女はいた。 真っ暗な地下室で蟲に身体を弄ばれながらただ朝を待っていた。 彼女の憧れる世界は手の届かない場所にあり、近くに見えるその光景も陽炎の如く彼女には触れることのできない世界。 自分は何も持ち得ない、自分は最もおぞましく、最も穢れた存在で、最も自分が忌み嫌う存在だった。 自分は世界で一番不幸だったのだ。一番不幸せで可哀想な存在だったのだ。 僅かな希望は絶望に変わり、望んだものは何一つ手に入らず、目の前で攫われて行く、そういう可哀想な存在だったのだ。
だが今、
見上げていた光は遙か眼下、望めば全てが手に入る力を持った今、欲しかった世界は色あせて見えとてもくだらないモノにしか見えない。



「ねぇ、セイバーさん」
「なんだ、桜」

彼女の影に付き従う黒騎士は無表情に応える。

「私は先輩が好き」

桜の言葉に黒騎士は応えない。ただ黙って次の言葉を待つ。

「私は先輩が好き、私は先輩が大好きなの」

桜は淡々と続ける。

「先輩の寝顔が好き、エプロン姿の先輩が好き、制服の先輩が好き、私服の先輩が好き、 照れてはにかむ先輩が好き、弓を射るときの先輩が好き、優しい笑顔を浮かべる先輩が好き。 照れた顔の先輩が好き、うろたえた顔の先輩が好き、寝ぼけ顔の先輩が好き、驚いている顔の先輩が好き、 怒りで顔を真っ赤にする先輩が好き、悲しみにくれる先輩が好き、苦痛に歪む先輩が好き、 正義の味方を目指す先輩が好き、私は先輩の全てが好き、私は――――――」

黒騎士は応えない。ただ黙って聴くだけだ。

「先輩に近づく悪い蟲を片付けるのが好き、突然現れて同棲しだした貧乳騎士を泥で穢したときなど心が躍りました。 突然しゃしゃり出てきた姉さんが必死で抵抗しながらも泥に溺れていく様が好き。 苦しげな表情でそれでも私を睨みつけながら沈んでいく姉さんを見たときなど胸がすくような気持ちでした。 私に逆襲された時のお爺様の驚愕の表情が好き、恐慌状態のお爺様が私の手の中で必死に叫び、訴え、 泣き叫ぶ様を見たのには感動すら覚えました。無能な兄さんが私の手で蟲地獄に落ちていく様などもうたまらない、 泣き叫ぶ兄さんが私の指示の元で幾多もの妖蟲に溺れていく様を見たのは最高でした。 哀れにも抵抗してきたマスターをいたぶる様に追いつめるのが好き。前回は姉さん共々見逃したけれど、 次を考えると絶頂すら覚えてしまいます、姉さん、次は必ずBADEND39。 第一回人気投票で6位に入賞して吊るされたのが好きでした。先輩と並んでの入賞なのに私は何時もネタキャラでした。 ヒリングヒロインの称号を経てエロか黒のキャラにされるのはとてもとても悲しいものです。 一人だけデートイベントがないヒロインというのも好きです。 『桜はいらネ、ライダーを出せ』との言葉は正ヒロインとしてとても屈辱なものでした」

「ねぇセイバー、私は、私はホロウに期待している。デートイベントも、エロだけじゃない好感度イベントも、友達の妹という地位を捨て彼女のポジションに上り詰める物語を期待しています。ねぇ、セイバー、想像できます? 恵まれた姉を超え私が好感度No1になる様を、私が正統ヒロインである証拠を! いいでしょう! ならば戦争です! 私が黒いのもエロなのも次への布石、驚くべき展開がホロウで待っているッ! ならば今は黒く、黒く、皆が望むようなタールの如く、真の闇より黒い桜で私はこの馬鹿げた世界を終らせてやるッ! もはやただの黒桜ではもの足りない! 真の黒桜をッ!」

叫ぶ桜の影から湧き出る黒い泥が街を侵蝕していく。 明かりが消え、真の闇が降り、この馬鹿げた最後の物語も終わりへと加速する。 黒騎士は静かに目を瞑り黙祷する。 泥の海に沈んだ数々のささやかな幸せと希望に。

「桜、第二回人気投票の結果は」

そこまで言ったところで黒騎士は蟲に飲み込まれた。
そして、ホロウでの桜の心の叫びがどうなったかは皆さんが知るところである。









「・・・了解した、出来る限りの最善は尽くす」

修一郎はそう言って電話を切る。街で一番高いビル。
フェンス越しに地上を眺めながらポケットから取り出したパック牛乳にストローを突き刺す。
(ここからどんな思いで桜君は)
曇り空の下、春の気配を感じさせない寒さに彼は身震いして「ふぅ」とため息をついた。 状況は最悪。いつもは楽観的に生きている彼も今回は正直参っていた。

「修一郎殿」

背後からかかった声に僅かにビクリと肩を震わせて彼は振り返る。

「なんだ、小次郎じゃないか」
「些か悩んでいるようだが?」

そう言って乳母車を押し、横に並ぶ小次郎にポケットからチョココロネを取り出して手渡す。 乳母車の中では真アサシンが哺乳瓶を咥えていた。

「どう動こうか考えていた」
「街は大変な騒ぎになっているようだな」

そう言って小次郎は同じように地上を見た。 眼下の広場は何か喧嘩が始まった様子で大きな騒ぎになっている。警官が多数駆けつけるのが見えた。

「ははっ、見ろ、小次郎。人がゴミの・・・じゃない。人は一切れのパンのために争い憎しみ合うのだよ」
「いつの時代も変わらぬか・・・なんと愚かな」

そう言って眼下の騒ぎを肴に菓子パンをモゴモゴと咀嚼する二人。 眼下では配給車に大勢が押し寄せてその光景は暴動のようだった。 夜の間に市内のほとんどから食料が盗まれたのである。
その徹底さ半端ではなかった。コンビニの棚からは一瞬にして食品がなくなり、 朝、出勤してきたスーパーの店員はショックのために病院に運ばれた。 三丁目の柏木ハツさん(76歳)自慢の3年ものの梅干も瓶ごと無くなったし、 翌日の誕生会のために川村洋子ちゃん(5歳)のお母さんが買っておいたバースデーケーキも丸々盗まれた。 7丁目の大工、留吉さん(52歳)秘蔵の日本酒「白夜白鶴」も空になっていたし、 同じく7丁目に住む中学生、山田(仮名)(14歳)のベッド下のDVDは割れていた。
冬木は一夜にして食糧を無くし、飢餓のパニックに襲われたのである。

「原因は桜君だろう。それだけは間違いない」
「ここでそれ以外の答えは出ないと思うのだが」

手の中のクリームパンを頬張りモゴモゴと咀嚼する。 小次郎も同じようにチョココロネを齧る。

「だから何とかしないとねぇ……グホッ!」
「どうした、修一郎殿?」
「…気管に入りそうになった」

ひとしきりゴホゴホやった後、修一郎は涙目で牛乳を飲む。

「………ま、今できることをやろうか」
「ばぶー」

ポンポンと真アサシンの頭に軽く触れて修一郎は背を向ける。

「修一郎殿、どこへ?」
「早売りジャンプを買いに」








                  

「ふん、二日や三日食わなくても死にはしないだろうに」

新都ビルの屋上。アーチャーは眼下で繰り広げられる光景にはき捨てる。
配給車に群がる人の群れ。配給を待つ列に数人の男が割り込み騒ぎになっていた。
怒号に悲鳴。列は乱れて押し合いへし合い、人々は食料を求めて車へと押し寄せる。周囲は混乱に陥った。

「いつの時代でも変わらない」
「ああ、人は一切れのパンのために人を殺す」

横に並んだ小次郎に無表情に返す。

「いいじゃねーか。活気があってよ」

背後からランサーが参加する。

「俺は別にかまわねーと思うぜ。必死になるってことはそれだけ生きようとしているってことだ」
「ふっ、だがだからと言って何をしてもいいというわけではあるまい……まて、ランサー。貴様今ポケットに入れたのはなんだ」
「目ざといヤツだな、菓子パンの一個二個まだあるだろうが」

そう言ってガサガザと袋を漁る。それは修一郎が出かけに残していった食料だった。

「菓子パンに牛乳、おにぎりにコンビニ弁当、デザートにりんごまで用意してあるぜ。おお、ビールもあるな」
「誤魔化すのはいい加減にしたらどうだ、さっさとポケットからちょろまかしたパンを出すがいい」

ランサーに食ってかかるアーチャーにやれやれと肩をすくめて小次郎はりんごを手に取る。

「ライダー殿。いつまでも隅で黄昏いるのはどうかと思うぞ?」
「………」

ライダーは小次郎の言葉を無視して屋上の片隅で膝を抱えたままである。 影が差しライダーの周囲だけがどんよりと重い空気に包まれていた。
それでも小次郎が投げた缶ビールをしっかりと受け取るのはさすがとしか言いようが無い。

「………エ○スじゃないのですね」
「しょうがねぇだろうが、こんな状況下だ。贅沢は言ってられねぇだろ」
「………エ○ス」
「嫌なら飲むな、返せ。俺が飲む」

ランサーの言葉にライダーはプルトップを開けて文字通り中身を流し込む。手の中で空き缶がぐしゃりと潰れた。

「………桜殿の事が心配なのであろうな。昨晩からあの調子だ」
「まぁ、気持ちはわからなくもねーが」

そう頷きつつポケットに菓子パンを入れるランサー。

「まて、ランサー」
「あ? いいじゃねーか、菓子パンの一個や二個」
「そうはいかん。ここは平等に分け合うべきだ。私が見ているに貴様3個は多く取っているぞ」
「アーチャー、オメェはこまけぇんだよ。大体、サーヴァントに食事は不要とかぬかすならオメェはいらねぇだろーが」
「せっかくマスターが用意してくれたのだ。頂かないわけにはいくまい。食事でも魔力は多少なりとも回復するのだ」

そう言いつつコンビニの弁当に手を出すアーチャー。

「まて、それは俺が狙っていたやつだ」
「ふ、貴様は菓子パンでも齧っていればいいだろう。この洋食ミックススペシャル弁当は私がいただいた」

それはハンバーグ、エビフライ、唐揚げ、チキンカツなどどう考えても偏ったオカズのお弁当。

「一番旨そうなモノをもっていくんじゃねぇ! アーチャー! テメェはパンの耳で十分だ!!」
「ああ、砂糖と揚げ油があればそれも頂こう」

そう言いつつ弁当の蓋を開けて箸を割るアーチャー。

「無視するんじゃねぇ!! 食うなっ! それは俺のだ!!」
「ほぐへふてふあるふだんどのめごが」
「アーチャー殿、何を言っているかわからん。飲み込んでから申せ」
「ふ、浅ましいな。これがアイルランドの光の御子か。弁当一つでこうも醜く吼えるとは」

ハンバーグを飲み込んでさも満ち足りたと言った表情でアーチャーが皮肉な笑みを浮かべる。

「………吼えやがったな、テメェ」
「ほう、この場で私とやるのか」

割り箸を構えるランサーと弁当片手に箸を構えたアーチャー。
対峙する二人を無視して小次郎は食後のお茶を啜る。

「ばぶー……」
「ふむ、食生活の貧しさは心の貧しさに繋がるか」
「ばぶばぶ」
「ふむ、わかっておる。ここであの二人に争われても困る。何より修一郎殿に迷惑がかかる」

そう言って小次郎は頷く。

「だが、こんな面白いものを見過ごすのはもったいないと思わんか?」
「ばぶー」

真アサシンが肯く。





「そのエビフライ、貰い受ける!」
「なあアサシンズ、この弁当、全て食い尽くしても構わないだろう?」

誰がアサシンズだ。





2








その日、冬木市は全ての食料が何者かに奪われ、人々は飢えと闘いながら日常を歩んでいた。 だが、そんな冬木市で唯一、いつもと変わらぬ朝をむかえ、いつもと変わらずに暖簾を出している店があった。
その店の名は「泰山」
マウント商店街の片隅にある外見だけはごく普通っぽいの中華料理屋。
だがごく一部の常連を除きこの店を訪れる者はいない。
それは味に問題があった。
「辛い」のである。
隠し味程度、辛さを求めるものにはそれなりに、と言うのなら問題ないのだがこの店は違った。 全てのメニューが辛い。
いや、辛いなどというレベルではない「痛い」のである。
口の中に入れた瞬間爆発する、電撃が走る、魂が抜け出る。翌日のトイレが怖くていけない。そんな比喩が一般メニューで飛び出してくるのである。 ゆえに一般の客は度胸試し、罰ゲーム以外で入店をすることがなかったし、冬木における食のタブーとしてこの店は語られてきた。
冬木市の食料が全て失われたその日、この店で一つ伝説が生まれた。


「「マーボーを一つ」」
「アイヨ、マーボー2チョー」


昼近く、ドアを開けて入っていきたその男二人組は同時に厨房に告げてやはり同時に向かい合う形で4人掛けのテーブルに着いた。その日の泰山はいつものよりも若干多めに人が入っていて数人の常連客の他に数人、空腹に我慢できなかった者たちが時折奇声を上げながら料理に箸を入れていた。 故に、周囲の者たちは自分たちと同じように空腹に我慢できなかったが故にこの空腹による地獄か辛さによる煉獄かを選択せねばならない追いつめられた同朋としてしか2人に対して感想を抱かなかった。 故に闘いはすでに始まってしまっていたことに誰一人としてこの時点では気づいた者はいなかった。店主ですら常連の神父さんが知り合いと一緒に来たネ、程度にしか思ってはいなかったのである。

「ハイヨーマーボー二丁」

店主のやけにノンビリとした声と食器の置かれた音。 蓮華を取る音、咀嚼音。 数人の客はああ、また始まるな、と思った。余りの辛さを前に出る苦痛の声。自分の選択を呪うぼやき。 だが、それは何時まで立っても起こらず蓮華を動かす音と咀嚼音が響くだけである。そして彼らは信じられない言葉を耳にする。


「おかわり」


一斉に店内の客はテーブル席の2人を見た。 2人の男は空になった皿を厨房の方へ突き出しお代わりを要求していた。だがその視線は厨房へとは向けられず眼光鋭く互いに悪鬼の如く睨み合っていた。全身を彩る黒い服装から一瞬「悪魔かと思った」と後にその二人を見ていた客は語る。その後、2人の男は代わりに運ばれてきたマーボーを受け取ると瞬く間に無言で平らげ次を要求。周囲の客が見ている前で計6皿を平らげた。

「今日は甘いな」
「思ったほどでもないな」


ダラダラと汗を流しながら互いにニタリと笑った。
静かに、ここ泰山で第五回聖杯戦争ラストバトルが始まっていた。



「白昼堂々と街中をうろつくとはずいぶんと余裕があるのだな。逃げ足には相当の自信があるのかね?」
「ふっ、クソ神父。俺は逃げ足の速さには定評のある男と業界でも有名なのだ」
「ふむ。だが間桐桜も一度は見逃したが次はそういくまい。桜にはセイバーがつき、彼女自身も聖杯としての能力を高めつつある。聖杯戦争が終るまで逃げ切れる自信はあるのかね?」
「正直ない。DEADEND以外見えてこねー。昨日から脳内で100ルートぐらい試したが桜君に殺られるコト21回。セイバーに殺られるコト70回。つーか無理。逃げきれねー」


頭を抱える修一郎を前に綺礼は満足げに肯く。


「ではマスターとしての権利を放棄するかね?」


僅かの沈黙が店内に訪れる。


「監査役としてはマスターの権利を放棄した者を聖杯戦争終了まで保護する義務がある。権利を放棄するならばそのルールに則り私はお前の身の安全を保証しよう」
「いや、昨日挑んできたヤツに言われても全然信用できませんから」
「ふ、ふふ………まぁ当然だ。貴様に受けた屈辱を思えば、黒鍵の一つや二つ放った事など些細な問題だ」
「些細とか言いますか、アンタ。 あんなの直撃したら死にますよ、普通」
「何、その時は冬木が誇る大病院へ私自ら搬送してやるからな。絶対に死なせはしないとも。そして死んだ方がマシだと思われる生を謳歌するがいい」
「………わからんな、言峰。何故にそこまで俺のような人畜無害な男に憎しみを燃やす?」
「何」


言峰の目がクワッ、と開かれる。



「貴様、私の教会を破壊つくしたこと忘れたとは言わせぬぞ」
「いや、アレは俺じゃなくてキャスターが」
「サーヴァントの不始末はマスターであるお前の不始末であろう。その不始末、貴様はどうつけてくれるつもりだ。さあ、今すぐ私の前に土下座しろ、そしてホント生まれてきてすみません。全財産私に寄付して肥溜めに入水自殺でもするがいい」
「ふざけたコトぬかすな! あの時、俺が死にかけたのは元はと言えばキャスターを弄ったクソ神父のせいだろーが!!」
「ふ、あの状況下で弄らずに何をすべきだというのだ」
「それはそうだとして許せないコトが一つあるッ!!俺以外が俺の専属メイドを弄ったコトだッ! てめぇこそ謝罪しやがれ」
「他人に精神的外傷を負わせる、これは私の楽しみでもあり人生そのものだ。 貴様如きメイドスキーに私の哲学をどうこう言う筋合いなどなかろう。だいたい何がご主人様だ、キモーイ」


言峰は更に続ける。


「大体、魔術師のくせにメイドだと、メイドの格好だと、どこの魔法少女だ。 いや少女と呼んでいいのは小学校6年生までだ。あの外見では魔法おばばがお似合いだ。 大体、歳を考えずによくもまぁあんな格好ができるものだ。まったくもってキモーイ。○原○子の代役で家政婦でもやるといい」


そう言って嘲笑を浮かべた言峰は修一郎の視線が自分を見ていないことに気が付いた。
その視線は自分の背後、まるで真後ろに立つ人に向けている視線じゃあーりませんか。
冷たく嫌な汗が頬を伝う。
背中に感じる圧倒的な死への予感、第五回聖杯戦争をどんなルートでも生き残れない確信が持てました。
言峰綺礼は永久に不滅です、あなたの胸の中で。
周囲の恐怖で蒼白になった顔とこれから起こる惨劇を予想できそうな店主の「ツケ回収できなかったアル」と言う声。その全てが遠い世界の出来事のようにゆっくりと遠ざかっていく。
ギシギシと軋む首を後ろに回して見たものは―――――。


「や、やぁ、キャスター」
「ごきげんよう、言峰」


静かに微笑むキャスター。
だが、それが怖い。とてつもなく怖い。 言峰は恐怖でプルプル震える唇を歪めて笑った。
涙と鼻水でぐしょぐしょの顔で笑った。
瞬間、輝く拳が言峰を打ち抜いた。




節制を心がける古き魔術師であった彼女は自らの拳に僅かな魔力を通すことによってその威力を大幅に上げている。 だが格闘技は素人、大体にして魔術師が拳を交える闘いをするというのは正統な魔術師である彼女にとって常識外れ以外の何物でもないことだった。そんな彼女の常識を打ち砕いたのはマスターである修一郎のトランクから出てきた漫画とゲームの数々であろう。現在ではマスターである修一郎は当然として最速を謳うランサーすらその拳の餌食とならない日はない。日々向上している技術と威力に彼らの負傷は日々深刻になっていく。 そんな修一郎たちにしてみれば痛恨に等しい一撃だが無意識化で彼女は加減してきた。 惰性でも一緒に過してきた時間が彼女に情をかけたのか、マスターの負傷は不利と考えたのか、それは誰にもわからない。本人であるキャスターでさえも。
だが、 その手加減をキャスターは初弾からやめるッ!!



微塵も容赦なく


その威力まさに


徹甲弾ッ!!
 



キャスターの地雷を踏んでしまった君がいけないのだよ、言峰綺礼。
そんなことを心の中で呟きながら決して年齢のコトは口に致しません、致しませんとも!  そう決意する修一郎は目前でモザイク化けした言峰を前に今なお殺気だっているキャスターに背筋を振るわせた。

「怒りで我を忘れている、鎮めなきゃ俺が危ない………!」

その呟きに反応したのかキャスターと修一郎の視線が合う。


「りゅ、竜牙兵の皆さん、キャスターを止めるんだッ!!」

慌てて叫ぶ修一郎に応えるかのようにわらわらと竜牙兵が入口から、天井から、床から、トイレのドアから、お鍋の中からどこに隠れていたのか次々と飛び出してキャスターを止めようと一斉に飛びかかる。 その不気味な姿とメイドが襲われるという大変よろしくない事態に周囲から悲鳴が上がる。
だが、周囲の悲鳴を他所にキャスターは冷静に瞬時に決断し動く。
瞬き1つの間に1体が頭部を粉砕され、次の一瞬には2体まとめてバラバラに飛び散った。 翻ったスカートにすら触ることなく彼らはまさにあっという間に砕けて床に転がった。

「ち、こいつは俺じゃなきゃ止められないか……」


無様に床に散らばる竜牙兵を見て修一郎は呟く。 考えてみれば、こいつらってキャスターの下僕だもの、勝てるわけがないのである。 人気投票10位の実力は伊達じゃないってことだ。 ならば、マスターとしてここは彼女を鎮めるのは俺しかいない。

「キャスター、次は俺が相手だ、ここで君を止める」


その言葉にキャスターは動きを止めて、修一郎を見つめる。


「マスター………どうしてこういうことになったのでしょうね?」
「さぁな、ただ君は最初の選択を誤った。仲間を信頼しなかった。信頼して悩みを打ち明けなかった。不満があれば言えばよかったんだ。そこに仲間がいたのに」
「………こんなコトになってからそんな事に気が付くなんて……私はまた同じ過ちを犯してしまったのですね」


目を伏せるキャスターに周囲から「俺たちは何も見ていないぞー」と声が飛ぶ。 床でピクリと不満げに大きく痙攣する言峰。 言峰綺礼暴行事件はなかったことにされそうです。

「まだ間に合うさ、キャスター。さぁ、俺たちは仲間だ、今からでも遅くない。腹を割って話そう」
「本当にまだ間に合いますか?」
「当然だ、俺は君の仲間であり、マスターだ。俺は君に一番信頼して欲しいと心底思っている」
「私はこのメイドの格好を止め「断るッ!!!」


交渉決裂。
どうしてヒトとヒトとは互いに争い憎しみ合うの?
どうしてヒトとヒトとは分かり合えないの?
そんなセリフが似合う劇的な決裂だった。


「ではマスター」
「残念だよ、キャスター。道は違えども目指すものは同じだと思っていたのに」


互いに構える。 数十羽の白鳩が二人の間を羽ばたいて天井に当たって堕ちてきた。


「行きます!」
「!」


先に動いたのはキャスターだった。左足を大きく踏み出し溜めた右拳に魔力を乗せ穿つ。 そして対する修一郎はただ一声。

「来い、アーチャー」











「チョクショーッ!! あいつ弁当持って消えやがったッ!!」
「まぁまぁ、修一郎殿が召んだのであればしかたあるまい」


割り箸を折り捨てて叫ぶランサーに小次郎が食後のお茶を啜りながら小次郎がなだめる。

「ばぶー」
「うん、どうしたのだ、大五郎?」


小次郎の言葉に真アサシンは大きな手を広げて見せた。
先日買ってもらったビー球が一つ割れて真二つになっていた。


「これは通常割れるものではないのだが………しかも赤色。アーチャー殿の身になにか起こらねば良いが」


小次郎はそう呟いて空を見上げる。
空はどこまでも澄んでいた。










ああ
そうか
これが



人の頭蓋が歪む瞬間をはじめて見た。
アーチャーの召喚場所は修一郎とキャスターの間。片手に弁当を持ち、割り箸を構えたポーズ。 そのアーチャーのこめかみを拳が打ち抜く。
きりもみ状態で跳ね飛ばされていくアーチャーと宙に舞う弁当。
刹那に通り過ぎたアーチャーの眼は「マスター、地獄に堕ちろ」と語っていた。
交通事故のような衝突音を響かせてアーチャーが壁に突き刺さる。 上半身を壁向こうに消してピクリとも動かない。それでも割り箸を手放さないのはサーヴァント・アーチャーとしての意地だろうか、さらばアーチャー。

「マスター、覚悟はよろしいですか?」


その言葉だけでガクガクと全身が震えた。足が竦む、喉はカラカラで酷い眩暈がした。 あんな凄い一撃を見て恐怖しない人間などいない。それが自分に向けられようとしているのならばなおさらだ。 視線を戻すと自然体で佇み、それでいて射殺すような眼光放つキャスターが間合いを一歩詰めていた。 それだけで死んだと思う。
だが、それでも俺は、この早瀬 修一郎は、退かぬ、媚びぬ、省みぬ! 
故に修一郎は一撃を放つ。
低い態勢からの大振りの掌底。当たらない、間違いなく当たらない。
余りにも解りやすすぎて僅かな動きで回避しようとする。それで十分と相手は油断する。だがこちらは元から身体に当てる気など微塵もない。 狙うのはただ一つ―――――――――。


「そのスカートじゃぁぁぁぁぁッッ!!!!!!」









これを読んでくれている皆、どうせ俺は記憶を無くしてしまうだろうから報告しておく。
キャスターの下着は―――――――――。









逃げ出そうとダッシュした瞬間に襟首を捕まえられて凄い力で床に転がされた。
椅子に後頭部を強打して静止する。頭をさする修一郎にゆらりと幽鬼のような影が覆った。


「小便は済まされました? 神様にお祈りは? 部屋のスミでガタガタふるえて命乞いする心の準備はOK?」
「キャ、キャスひぃぃぃぃッ!!!」



その日、泰山に一つ伝説が生まれた。
今もドアに貼られている「メイドお断り」の張り紙。
それが今日まで残っているその伝説の惨劇の名残である。