●記念フォーラム「介護は十人十色、よい介護は百人百色」
(山口さん)
お昼からは、3名の皆様、その後には三好さんにも入っていただいて、「介護は十人十色、よい介護は百人百色」ということで進めさせていただきます。司会を務めますのは、いきいき介護セミナー実行委員の山口といいます。どうぞよろしくお願いします。
今日は、3人の方にそれぞれの実践を報告していただきますけれど、まず3名の方にそれぞれの自己紹介と今日の報告のPRを1分間でまとめていただくということで、よろしくお願いします。

(溝口さん:(株)なんてん共働サービス)
 なんてんの溝口です。血液型はAB型です。分析によりますと、「ええ恰好しい、だけど自分中心」。三好さんのお話の中で「アリバイ面会」というのがございましたよね。私、ぎくっとしまして、なんてん働サービスとか共生舎とかいくつか事業所がございますが、時々「アリバイ訪問」をしてしまうことがありましたので、大いに反省してしまいました。
 知的障害の人たちと一緒になった働きやくらし、それから痴呆のお年寄りとのお付き合いの話が1点、もうひとつ拘(こだわ)っている、普通に暮らす、普通に支えるというところをお話したいと思います。

(中井さん:あじさいくらぶ)
 住み慣れた街で住み続けたいという願いをどうしたら実現できるのか、ということを考えながら歩み続けて12年が過ぎました。日吉台の福祉を語る会 <あじさいくらぶ> です。今日は、普通の地域住民の高齢者を支える普通の取り組みについてお話ししたいと思います。ちなみに私はA型です。今日はええことがあるかなと思いながら聞いていました。

(惣万さん:このゆびとーまれ代表)
 三好さんの言う、大雑把なO型の惣万です。どうも繊細なところもあんがんですけどね(あるんですけどね)。 三好さんが一番嫌っている、長い間20年間、病院で看護婦をしていました、太った看護婦です。三好さんの話を聞いて思いました。私たち看護婦さんは心筋梗塞を起こすと、心臓が悪いと言ってお風呂も入れんと結局は床ずれになって合併症で死なせました。「バカの壁」を読んで、養老孟司さんが言っていましたね、90何歳かのお年寄りにガンの疑いがあって、胃カメラの検査を勧めて、胃カメラをしたら検査途中で死んだ。ガンで死んだのではなく、胃カメラで死んだ。赤十字の内科外来のトイレの中にこんな落書きがありました。僕は、冬、金魚があまりにも寒そうなので、その中にお湯を入れたら金魚がぽこっと死んでしまった、と。私たち看護婦さんは、これがいいと思ってしたことが、間違っていたことだったというようなことを今までいっぱいしてきたかもしれないと思って、三好さんの話を聞いて、ちょっと反省をしております。本当はちょっとではなく、でかいとせんにゃいかんかも(たくさんしなければだめなのかも)しれませんが反省をしております。
今日は何をしゃべるかということですが、「富山型」のデイサービスについて話しさせて下さい。

○溝口さんの報告
 前半に、全体の流れをご紹介したいと思います。
 1981年になんてん共働サービスをはじめました。私も10年間、知的障害がある人たちの、当時は児童の施設でした、そこの指導員をしておりまして、今考えると本当にひどいことをしてきました。その反省も含め、大規模施設を辞めました。
 レジュメに書いていますように「痴呆や障碍があっても、住み慣れた所で、みんなと一緒に私らしく普通に暮らしたい」という、もちろん私自身の思いもそうでしたし、なかなか物言えぬ知的障害がある人たちと一緒に、三好さんではございませんが、引き連れて、施設を辞めました。
 また、なんてん共働サービスをはじめるにあたりましては、特に、近江学園を始められました糸賀先生には「主体的に生きる」「社会的に生きる」(尊厳)ということ、直接薫陶を受けました田村先生には賢愚和楽という言葉がありますが「水平に・共に生きる」「自立して生きる」(自立)ということ、池田先生には「働いて生きる」「地域で生きる」(役割)という思想の影響を大きく受けました。

 映像はなんてん共働サービスが芝刈りの仕事を受注してその仕事をしている様子ですが、賢愚和楽・物心自立・自然従順という言葉がございますように、水平に・共に・自立して生きる、働く、暮らすということを実現しようということで、なんてん共働サービスをスタートさせたわけです。手法としては、後からも出てきますが、小規模で、地域の中に密着して、多機能で、双方向で多方向でというスタイルをとらない限りは、3人の先生に教えていただいた思想が実現できないだろうということで、こういう形にしました。
 ちなみに普通の作業所にはせず、敢えて会社形態にしたのは、田村先生のお言葉のように障害があっても普通の人と一緒になって生きていく、援助を受けながらですけど、基本的には物心自立の考え方で、敢えて福祉サイドの援助は要らない、とちょっといい格好をしてみて23年が過ぎました。

 就労はなんてん共働サービスが主体となって受け持っていますが、生活の支援の方はNPO法人を別につくっています。ほとんど応援団は同じで、そのことは若干問題があるのですが、基本的には、知的障害があっても普通の暮らしを普通の人として地域での生活を保証しようということでグループホームの生活を中心に、地域生活の支援を行っています。ちょっと余談ですけど、あえて「普通の人」と書いていますが、特に知的障害の方への偏見といいますか、ここにいる諸君はほとんど養護学校の出身ですが、確かに最初の2,3年は非常に純粋で素朴で嘘もつかないズルをしないと思っていましたけれど、地域生活をする中で、本当に「普通の人」になっていったと思っています。会社にも遅れるし、ズル休みもするし、他人の悪口も言うし、サボるし、チクるし、生活の中でも夜更かしをする、エッチなビデオを見る、全く「普通の人」として成長してきたな、と思っています。今まで私たちは養護学校や施設に閉じ込めておいて、「汚れる権利」さえも奪ってきたのではないかな、と感じております。

 共生舎なんてんという宅老所の様子です。介護保険がはじまる3月にスタートいたしました。今日もおみえの惣万さんを訪ねましたら、「溝口さん、まあ1年間は泣きなさい」と言われて大いに励まされた記憶がありますけど。介護保険の定員の5名の、宅老の部分を残しながら、改修型の小規模デイというか宅老所をやっています。宅老所・グループホーム全国ネットワークの情報も役立てながら、さらに三好さんのお話や惣万さんたち先輩の中身のいいとこ取りをしながら、4年間。普通の街かどの家の様子です。

 街かどケアという呼び方をしています。ハードのところでは、住み慣れた街、聞きなれたざわめき、かぎなれた臭いというフレーズを使っていますが、障碍があってもみんなが住んでいる街で普通の生活をしてほしいし、私たちもそれを支援して行きたい、と思っています。2000年の全国フォーラムの中で大熊由紀子さんが街かどの生活とはどういうことかを提示されまして、大きな影響を受けまして、たまたまこういう街の中に民家がありましたけれど、それを改修してスタートしたという次第です。小さい看板は立っていますがなかなか見分けにくい街中の一軒となっています。

 基本的には障碍があろうが痴呆が進もうがその人らしい生活をしてほしい、それぞれの皆さんが居場所と役割がある、というような中身をつくって行きたいし、障碍がある人もお年寄りもスタッフもそれぞれ支え合う生活をして行きたいということです。このスライドは宅老所の隣にある小さな畑で野菜を「収穫」、ちょっと大袈裟かもしれませんが、その作業のシーンです。車椅子の後ろに立っているのは、ケイコさんというスタッフです。後で出てきますが、彼女は彼女なりにお年寄りの中に存在感を示していますし、お年寄りにしっかり役割を担っていただきたいという思いがあって、こういう取り組みを意識的に行ってまいりました。基本的には普通の暮らしを支える支援・援助でありたいですし、三好さんが繰り返しおっしゃっているように、生活を通じたリハビリという考え方、お家とあまり変わらない生活観・日常観を大事にしていきたいと思っています。

 今日の排泄ケアのお話、大変参考になりましたが、普通の暮らしといいながらケアという意味では専門性は欠かせないわけですから、常に研修をしながら学びながら進めていきたいと思っています。スタッフが主役とならないという意味もこめまして、ここのフレーズですが「さりげなく・いざとなったら・とっておきの」専門性を提供したいと思っていますが、先ほど、専門家は、精神科の先生は、というお話もありましたが、痴呆ケアについては地元の藤本先生から教えていただいた中身ですとか、全国の永田久美子さんのお話などを聞きながら、常に勉強していきたいと思っています。

 グループホームは一昨年オープンしました。少し大きめの普通の家のつもりでつくりましたが、やっぱりちょっと大きすぎましたね。1ユニット9名くらいですが、本当は5、6名くらいが一番いいかな、と思っています。大きすぎて、「普通の家」にするには工夫・時間が必要かなと思っています。ただ、街かど、街の中にあるということも含めまして、近所の方との自然な、日常的なあるいは必然的なという意味も含めて、やらせということはなしにして、挨拶があったり差し入れがあったり、近所付合いを目指してゆきたいと思っていますし、現に、ちょっとずつそういう中身がそろってきていると思います。

 何度も繰り返しますが、普通の暮らしにこだわる、普通の暮らしを普通に支えるということを意識して、毎日臨んでいます。普通に街かどに散歩に出かけられるという風景です。それと、それを支える専門性、ケアの部分とを意識して、中身をつけて行きたいと思っています。

 普通の暮らしを普通に支えるというこだわりですが、この方は去年の秋くらいから痴呆の状況もかなり悪くなられて、スタッフ間で議論を重ねてきたという方です。今はちょっと落ち着いていらっしゃっているのですが、昨年の暮れくらいから、自分が痴呆症も含めて出来にくくなっていることへの焦り・苛立ちから、口癖は「早う早う」と大声を出してせかす癖がひどくなったり、腰が痛い・足が痛いということをしきりに訴えられて、一時は付きっきりの状態となりました。このおばあさんをめぐっていろいろなことがありました。よくありますが、子どもに戻った、大変大変ということ、ひどくなったということが必要以上に強調されて、私自身も悩みました。勿論、スタッフも言いたくて言っているのではないのですが、そういう向き合い方・臨み方がいいのかということを含めて、ミーティングのたびに問題提起させていただきました。本当に水平に向かい合っているのか、本当に尊厳を守ろうとしているのか、赤ちゃん扱いというのがこの方の立場にたってどうなのか、出来ない出来ないということですべてをやってしまって本当に自立の支援になっているのかということ、痴呆が進んで外には出られないと決めつけていますが、本当に出られないのかということも、かなりしつこく、ある時には嫌がられながらも議論してきました。私たちが学んできた痴呆症の理解を生かしているのか、一人の尊厳のある人としてみているのか、どこか心の片隅に厄介者とか大変だとか思っていないのか、そういうことを繰り返して考えてきました。

 このスライドの方は、かなり部屋にいる時間が長い方です。当初に立てられた介護計画を見せてもらいましたら、閉じこもりがち、共同生活が難しいというような介護計画が立てられていました。しかしミーティングのとき、一人一人に考えてもらいました。本当に閉じこもっているのか、本当に孤立されているのか、ということもお年寄りの側に立って、一日の生活の流れの中で一人一人考えてもらいました。非常に一般的な物の考え方・言葉の遣い方が固定化されていないのか、安易な既成概念に囚われていないかということも議論しました。時々このおばあちゃんは神様とお話をされるんですね。神様とお話をしながら外に出て、このことを幻聴とか幻覚と片付ける記録、それに基づく介護計画があったのですが、本当にそうなのかということですね。幻聴・幻覚という簡単な表現でいいのか、おばあちゃんの側に立って考えてみようと問題提起させていただきました。固定的に物を考えていないのか、安易な言葉遣いや記録にしていないかということを大きく教えてくださった方の一人です。基本的にはその人をありのまま受け容れてみようということで、このおばあちゃんはおばあちゃんの暮らしや生活、歴史があるわけですから、それを受け止めるということを基本にしようと思いました。

 グループホームはサービス向上委員会をつくりなさいという指導がありますが、普通の家の中にサービス向上委員会なんてものはあるのかな、という話から、通称、「あんばいいいんかい」という名前にしました。ふつうの考えでふつうの言葉を使ってふつうの記録をとる、常にその辺を意識してミーティングを進めてもらっています。ゆっくりと丁寧に考えてもらおう、相手の側に立って考えてみようということを常にお願いしています。皆さんのところでも使われているかもしれませんが、自分の家のおばあちゃんに今日、「良眠した」なんてことは通常は言わないはずですから、「今日は眠れた、おばあちゃん」と言いましょうということであったり、食事を全部立てていただいたら、「全量摂取」なんて言葉は使わず「全部食べていただきました」と記録しようということに普通にこだわっております。
 
○中井さん
 私たちの住む大津市日吉台は、日吉台学区という一つの小学校区をなしておりまして、ちょうど25年ほど前に開発されました。1600軒、5000人が住むニュータウンで、大津市の中では新興住宅地としては他地区に先駆けまして高齢化が進んでいます。
 現在70歳以上の方が600人、どなたも亡くならなければ、毎年50人規模で増加していくといわれています。そんな中、今から14年前、私たちは、遠距離介護とか老後の問題に直面していました。これを自分のまわりに置き換えた場合に、「子どもは大都市に出て行ってしまっているし、いったいどうなるのだろう、どうしたらここに住み続けることができるのだろう」ということが井戸端会議の話の中から出てまいりました。とりあえず集まってということで、1992年に日吉台の福祉を語る会 <あじさいくらぶ> という会を、日吉台の公民館のお花のクラブとか華道クラブとかお茶のクラブと同じような形で公民館の利用サークルの一つとして発足させました。メンバーも40代後半から50代前半。70歳代の方も何人かいらっしゃったのですが、本当を申しますと、どこまで深く考えていたかは疑問です。
 その翌年に日吉台学区社会福祉協議会に参加し、市の社協プログラム、大津カレッジというものに参加しました。これはそれから後のあじさいくらぶの活動を考えていく上で、とてもいいきっかけになったと思います。まずはじめに「何もしないで議論ばかりしていても仕方がないのでは」ということになり、老人会とお茶会をすることになりました。その時に「一日中、思い切っておしゃべりを楽しめるところがあったらいいなぁ」という声が出ました。そして、1994年11月からお昼も一緒に食べて、一日ゆっくり好きなだけおしゃべりも楽しめる場として《あじさいさろん》というものを月1回開くことになりました。その後、次々と出てくる問題点をプログラムにしていきまして、いろいろな活動が続いております。代表的な活動を言いますと、【あじさいさろん】【歌声喫茶】【ケアルームあじさい】【あじさいの家<喫茶室>】 最近1年前になりますが【トライアル配食サービス】というのも始めました。それぞれのプログラムを詳しく話す時間もないようですので、簡単に写真でお見せします。

 これが【あじさいさろん】お昼を食べて一日ゆっくりおしゃべりをしながら過ごす。時には気功体操も、楽しい昼食時におしゃべりも弾む、という活動で、10年間今も続いています。最初の1年は1、2、3名。それからどんどんどんと増えて今では30人くらい集まって、大変は大変ですが、非常に楽しいです。90歳代の元気グループが3,4人、大挙して参加することもあります。

 これが【歌声喫茶】「みんなで歌えば怖くない、みんなで歌えば仲間ができる、頭すっきり、夜はぐっすり」 これが私たちのタイトルなんですけど、アコーディオンに合わせてみんな楽しく歌っています。このアコーディオンの方は木村先生とおっしゃって、日吉台在住の方です。最初、あじさいくらぶで弾いているうちに段々有名人になりまして、今やあじさいくらぶでの活動はマイナーになりまして、他所のところで随分活躍なさっているようです。

 【ケアルームあじさい】これは介護保険制度を目前にしました1999年4月に家の中に孤立しがちな要介護の高齢者も地域の人や仲間と交流して、元気を出してもらえるようなことが必要ではないかということではじめたプログラムです。介護認定を受けてヘルパーさんを利用している人も、また施設に通っている人でも、また下半身麻痺の身体障害者の方もこうして月1回は地域の中で楽しく過ごしていただくという場で、私たちのメンバーの中に介護福祉士の資格をもつ人が中心になって活動しています。取り組みもいろいろ多様化しているので、それぞれのプログラムを詳しくご説明できませんが、とりわけ最近の取り組みで、他のところの取り組みとは異なるものについてお話したいと思います。
 日頃から高齢者の中でもっと頻繁に行けるところ、楽しくおしゃべりできるところがほしいという声がいつもありましたが、現実に私たちもお金がありませんし、安く家を借りられたらいいのですが、それも叶わなず悶々とした日々を過ごしていました。そんな中、ちょうど2001年末、市の社協の高齢者への支援を中心とした、地域活動福祉団体に対する助成事業である「おおつげんきくらぶ」に応募いたしまして、嬉しいことに採用され、その申請したときのプログラムに沿って、家を一軒お借りしました。

 借用した家は長い間、倉庫として使っていた家で、非常に荒れ果てていました。大家さんでさえ、「こんな家は使えないよ」と言われたのですが、日吉台の中心にあること、壊す家なので勝手に改造していいということ、家賃が安いということで借り受けて、フロアの張り替え、段差の解消、手すりの取り付け、すべて地域のボランティアの方々の無償の労力と品物の提供で、材料費のみで改装することができました。そして、2002年2月1日に あじさいの家 としてオープンし、活動の拠点とするとともに、【あじさいの家<喫茶室>】というものを定期的に火曜と金曜、週2回開催することにしました。この場所は、思いついたらいつでも気軽に立ち寄って、人と出会い喫茶をしながらおしゃべりを楽しむ交流の場にしています。一人で行ったとしても必ずボランティアの方がいらっしゃるので、「今日は病院の帰りですか」など話ができます。一人であってもポツンとなることがありません。私たちの喫茶室は、高齢者を視野に入れていますが、年齢による差別はしていません。赤ちゃんを連れたお母さんも、こうやって立ち寄ってくれます。赤ちゃんもお年寄りの顔をなごませてくれるボランティアの役割を果たしています。お母さんも、ここに来るとほっとすると言って楽しそうに過ごして行かれます。また、1ヶ月1回のお誕生会の日の様子です。お誕生月の人は無料です。誕生日の証明書を持ってくる人もいますが、そこまで詮索しません。本人の自己申告です。お抹茶が出たり、手作りのお菓子が出たり、大入り満員です。喫茶室の歌の伴奏をしてくださっている方は、90歳で元音楽の先生です。たまたま月1回のお誕生会に現れて、キーボードが弾けるということがわかってお願いしましたら、それがきっかけになってハッピーバースデーをはじめ7,8曲を歌うというのが定例になりました。先生は1ヶ月間、次の誕生日までに練習されます。先生も張り切っていらっしゃいますが、家族の方もこれはリハビリになるといって喜んでおられました。
また、女の人はおしゃべり目的でいいのですが、男性の方はこういうところに立ち寄り難いようでして”何か目的がないと、ということで、例えば地域住民で海外にボランティアに行かれた方の「海外シニアボランティア体験談」とか”中国人の留学生の話”など、少しでもテーマをもって集まれるものを設けています。あるいはご自分で撮影された写真や鳥、お花や季節ごとの写真を飾って下さいと言って、額に入れて持ってきてもらってと、それを口実に来られる方もいらっしゃいます。
 喫茶室を支えるボランティアは、大体60人ほどいます。その中には70歳グループもいます。1ヶ月1回、午前あるいは午後の2.5時間だけですので、ボランティアをする方も気が楽ですし、頻繁に来られる訪問者でも、毎回異なる顔ぶれのボランティアと接することとなり、そこに集まる人とも出会い、かなり、人と人との輪が広がっています。高齢の方も、あまり前はご挨拶をされることがなかったのですが、今はあちこちで、「こんにちは、今どうしていらっしゃいます?」、という声掛けも聞かれるようになりました。私自身も今まではあまり高齢者と接することがありませんでしたし、若いお母さんとも接点がございませんでしたけれど、本当に知り合いの輪が広がったと思っています。

喫茶室をオープンし2年で週2回、毎回約20名の参加がありますが、訪問者数は延べ5000人を達成いたしました。一体どれだけの出会いがあったかと計算しますと、本当に多くの出会いがあったことでしょう。高齢者が気軽に集える機会が増え、知り合いの輪が広がり、それに伴いいろいろな効果が生まれてきました。そのいくつかをご紹介したいと思います。 
写真の中のどなたがどなたとは申し上げませんが、女性の方で70代。独居の方です。この方はご主人を亡くされて以来、ちょっと鬱というか引きこもりがちになっていました。全く近所の方ともお付き合いがなくなり、精神的にも肉体的にも非常に大変な時期を過ごしていらっしゃったようです。2年前に喫茶室がオープンしました時、待ちわびるようにして現れました。最初は何にもできない、体が不調だということを訴えていらっしゃったのですが、周りの人はただ聞いて、コーヒーを飲んで、おしゃべりしてという日々が続いていました。いつも定期的に喫茶室に現れているうちに段々元気になられて友人の輪を広げて「歌声喫茶に行かないか」と誘われました。そして思い切って歌ったその晩から、ぐっすり眠れるようになったといい急に元気になってしまいました。喫茶室で知り合った人に「スイミングに行かないか」と誘われて、そうするうちにすっかり自信を取り戻し、現在はあじさいのボランティアとして活躍されています。あじさいのIT教室がきっかけで、遠くに離れた息子さんともメールのやりとりをされるようになりました。眠れない夜は息子さんにメールを送っていらっしゃるといいます。時間を気にせず送れるメールは便利だと言っていました。私はあじさいに救われたとおっしゃってくださいます。
男性80歳で息子さん家族と同居されている方がいます。奥さんが生きていらっしゃったときはいつも旅行をしたり行動を共にされていましたが、奥さんを亡くされてからは病院通いが主体の生活となってしまいました。ボランティアの人の誘いもあって喫茶室に来るようになりましたが、最初はただ座っているだけでしたけれども、オープンしている日は、朝から来まして、2、3時間はいます。いつもきちっとした身なりで、非常にこぎれいにされていて、散髪屋には週1回行くというんですが、毛はあまりないんですね。「その散髪屋さんは大もうけだわ」といつも笑ってしまいます。時々話される生い立ちの話とか、戦争のときの話というのは、家族は何度も聞いてうっとうしいと思うかもしれませんが、他人が聞くと非常に面白くてためになり、本当に共感が得られ、皆、真剣に聞いています。そうするうちに段々と、いきいきと話が弾むようになりまして、現在は喫茶室の他、さろんにも見えるようになり、生活のリズムになっているようです。自立しているように私たちには思えますが、家族にとっては精神的負担になっているらしく、家族はどっかのデイケアに行かせたいと言っていますが、本人はそれを望んでいません。家族にとっては今は喫茶室の存在がありがたく、家族の人も月1回の喫茶ボランティアを引き受けて下さっています。
また、次の方は男性80歳の独居の方です。10年前からあじさいのプログラムにほとんど参加されています。手先が器用で木工竹細工が得意で、竹箒や熊手をつくってくれます。あじさいのプログラムで知り合った人たちに配ることに喜びを見出していらっしゃいます。あじさいの活動に必要なものをお願いして「こんなものを欲しいんだけど」と言うと、ほとんどつくってくれます。長年あじさいのプログラムに参加して下さっていますので、段々と体の機能が落ちているのがわかりました。そこで遠くに離れた家族に連絡をとりまして、介護保険の申請をお願いしました。要支援に認定され、ヘルパーさんを利用しながら独居を続けています。人と交わることが好きな性格なので、地域の方のかなりの援助がありますけれど、何とか自立して生活を保っています。喫茶室の常連でもありますが、前に申し上げた高齢の男性の方を、この方が話相手としてサポートされています。
男性60歳の方で、奥様との2人暮らしの方です。50代で交通事故に遭われ、定年前に退職されました。交通事故の後遺症で聴力に障害があり、将来をおもって御夫婦で手話を練習されています。非常に転びやすいそうなのですが、最初来られたときは言葉のすれ違いが多く、奥さんと一緒に来られていたした。しばらくすると自分独りで来るようになり、心なしかこの頃は非常に元気になりました。独りで現れても他人とのコミュニケーションを上手にとれるようになりました。

私たちはこのようにいろいろなプログラムをしていますが、高齢になっても今まで気が付かなかった喜びや才能や、そういったものを見出す場をできるだけ提供して行きたいと思います。いろいろな形で人とのふれあいの場を広げて、住民をタテ・ヨコにつなげることで、高齢者を支えるしっかりとした布地というものをもとに地域がつくられるのではないかと思っています。介護保険が導入されて4年の現在、軽度の要介護者が増加していると聞きます。要介護者が増加したとしても、豊かで楽しい生活を送ってもらいたいし、私たちも高齢になったらそうしたいと思っています。私たちの取り組みは、三方幸せ、本人も・家族も社会も幸せになれる活動と位置づけています。今は元気な高齢者も機能が落ちてきても、今まで培ってきた地域との交流を維持し、地域の力を借りながら、豊かで精神的に安定した生活を続けられる環境ができたら、と私たちもその手助けができたら、私たちもそういう暮らしができたら、と思っています。

○惣万さん
 このゆびとーまれとは、富山市でH5年7月に産声をあげました。富山赤十字病院の看護婦3人が始めたデイケアハウスです。赤ちゃんからお年寄りまで、障害児も障害者もいらっしゃい、このゆびとーまれです。今まで生後一ヶ月の赤ちゃんから、98歳のお年寄りまで利用しています。私たちは、きっかけは、富山赤十字病院で看護婦をしていて、あるお年寄りが退院許可が出たときに、「家に帰りたい。畳の上で死にたい」と言われたんですけれど、家に帰ることのできないいくつかの事例にあいました。そして、私たちは病院を辞めて、このゆびとーまれをしたのですけど、最初の利用者はお年寄りだと思いこんでたんですよ。それが障害児であったということですよ。そしてその理由が、3年間、一回も美容院に行ったことがない。この子を預けて美容院に行ってきます、ということだったんですね。それに私、驚きました。

このゆびとーまれの理念は、誰もが地域でともに暮らし、(下の赤字を見てください、)
豊かな人間関係の中で人は育ち、喜びも大きい。一人ひとりが輝く。豊かな人間関係ということは、お年寄りだけで100人、200人、知的障害者だけで500人の施設があります。それは、私は自然な姿ではなく、異様な姿だと思っています。富山県だけでも500人の知的障害者、京都では800人がいるわけですが、すれ違う人・すれ違う人が障害者ですよね。私は、その人たちが、たとえばこれを言ったら浅野知事に怒られたんですけど、熊牧場を見てくださいよ。熊牧場に何千匹熊いたって、タロウっていう熊がすばらしい熊だとしても、熊牧場に行ったら、どれがタロウだか判らんでしょ。それが、動物園に来てタロうを見たら、像も輝いているし、サルも輝いているし、そして熊のタロうも輝くはずなんですよ。そして喜びも大きい。それが根底です。

よく、このゆびとーまれは最先端のことをしたね、画期的なことをしたねと言われますが、最先端でも何でもないです。私は、日本の文化であると思っています。私たちが小さい頃あった光景です。お年寄りは赤ちゃんの顔を見ただけで笑顔が出ます。お年寄り同士顔を見ても、なーも(ぜんぜん)、笑顔は出ませんよ。皆さん、隣同士顔を見てくださいよ。笑顔出ます?あっ、出てますね、まだ若いようです。で、この子たちといると気が晴れるとお年寄りはいいます。お年寄り同士いても気は晴れんと言います。

このおばあちゃんは、痴呆のおばあちゃんです。自分のご飯も、確かに自分で食べられます。でも、遅いときは30分、1時間かかって食べています。そしてそのおばあちゃんが痴呆のおばあちゃんですけど、ちゃんと(子どもの)食事介助をできるんですよ、「ももちゃん。ご飯、食べられぇ。」って、「早くご飯、食べっれぇ。」ってうちの職員に言われとることを今度、子どもに言って、食べさせているんです。そしてこのおばあちゃんは、お年寄りとか自分の家族の名前はすぐ覚えられますけど、子どもたちの名前は5,6人、一致しますね。自分の旦那さんの名前は、すぐ忘れてますよね。

K.Kさんです。Kさんは7年4ヵ月、毎日このゆびとーまれに来ました。子どもが大好きです。そのKさんが、2001年の1月1日、このゆびとーまれで私と看護師である西村が添い寝をして、亡くなられました。そのKさんの亡くなる2週間前の写真です。痴呆で亡くなったんじゃなくてガンで亡くなったんです。ガンの末期ですから、たとえば重たい毛布をかぶっても、いじくらしがられるんです(イライラされるんです)。はねのけられるんですよ。だけど子どもの世話はまだ出来るということなんですよ。このおばあちゃん、子どもが大好きでしたから、元気なとき、6ヶ月の赤ちゃんを見て、「あれ、あんたも早、歯がないがけ、ばあちゃんみたいに入れ歯つくられ。」の名セリフのおばあちゃんです。

N.Tさんです。Nさんは8年4ヵ月、毎日このゆびとーまれに来ました。この方も、去年の7月4日、午前三時半、このゆびとーまれの畳の上で、私と西村が添い寝をして、この方も亡くなっておられます。96歳だったか95歳か、亡くなる前に、結局16日間、このゆびとーまれで寝泊りしたわけなんですけど、亡くなる5日前に、「家に帰りたい、家に帰りたい」とおっしゃったんです。私も職員も泣きました。もしかすると罪なことをしているんじゃないかと。家には長男夫婦だけですから、70何歳です。Nさんは、95歳ですから。介護不足のため、うちが預かったんだけど、今度、家に帰ることを考えたわけなんです。そしたらあんちゃん(長男)が、「母ちゃん、家に帰りたいって、どこの家に帰りたいがよ」と言われたら、「砺波の家に帰りたい」と言われたんですよ。砺波の家ちゃ、自分の生まれた家。富山の家に来て70何年か経ってるんだけど、砺波の家に帰って死にたいと言われたんですよ。そしたらあんちゃん(長男)が、「母ちゃん、もうあの家もうないわ」。もう代が変わっていますからね。「あの家ないわ、母ちゃんの帰りたい家ないわ」って言われたら、それ以上Nさんは何も言わなくて、結局このゆびとーまれで16日間、一本の点滴、500mlの点滴だけして亡くなっています。Kさんは点滴一本もしませんでしたから、医療行為は全くなしです。

これ、Nさん、亡くなる前の元気なとき、子どもの方からNさんに近づいて行ってるんです。この2人ね、あの、三好先生曰く、相性が合うんですよ。このおばあちゃん、好き嫌いがはっきりしとってね、面憎い子やったら叩いてますよ。可愛い子だったら「来られ、来られ」言うておやつでもあげてるんですよ。面憎い子やったらおやつもあげない、なかなかのばあちゃんでした。

うちに泊まりに来てるんですけど、ターミナル期の、この方はいろいろ難病とかありまして、2年前から県立中央病院からあと半年の命ですと宣告されています。バルーンもしています。もう亡くなるということなんですけども、2年間、生きています。そして子どもたちがその中にいるんですね。

長野県の佐久病院の張先生がこのゆびとーまれを訪ねてこられました。どうやってターミナルをやっているのかということで、このIさんを見られて、私と西村とが説明をしていました。そこに4歳のユウキ君が現れまして、ベッドの柵のところから顔を出して、「Iさん、今度はIさんがのんの様になられるんだね、お星様になるんだね」と言ったんですよ、先生の前で。私と西村も、先生も何てことを言うてくれるのかとドキッとして緊張した空気がぱっと流れたんですけど、その後、やわらかい空気になって、張先生がこう言われましたね。「このゆびとーまれの職員は、誰一人ユウキ君に、今度はIさんが亡くなられるということは言っていないだろう。説明していないだろう。だけどユウキ君はKとかNさんのターミナルを見て、次はIさんが亡くなられるということを子どもながらに意識しているんじゃないか、そしてお星様になられると言っている、こうやって子どもたちに囲まれながら亡くなっていかれるIさんは幸せですね」と。

副代表の西村和美のお母さんで、寝たきりで、うちの職員が手浴といって石鹸で手を洗っているんですよ、そこにユウキ君が来て、僕が手伝ってあげると言ってるのんですけど、邪魔ばっかりしているんですよ。だけど、こうやって家族というのは、寝たきりの人でもちゃんと石鹸で手を洗えるんだよというのを教えてるんですね。今日、西村和美のお母さんは、午前7時20分に永眠されました。

これは誕生日ですね。うちは誕生日は月まとめて、とかしません。その日、その人が主役ですから、誕生日の日にします。たまたま60代のKさんと80代のKさんの誕生日だったんですけど、そこにユウキ君が混じって来て、僕も火を消すいうて、ふぐみたいな顔で3人でぶーっとやっていますよね。

N.Kは富山養護学校を卒業して、このゆびとーまれで働いています。でもその前に養護学校を卒業して、ビニールの会社でクビとなり、ハムの会社でもクビとなりました。ハムの会社でどうしてクビになったかと言うたら、ウインナーとウインナーのつなぎ切り、尻尾切をしてたんです、毎日毎日同じ仕事だから、Kさんウインナーを真ん中で切ったり斜めに切ったりしたから、社長さんから明日から来んでいいと言われて、このゆびとーまれに来ています。6月になったらもう9年間になります。このKさんが、越中八尾からJRに乗って20分間、富山行きに乗ります。富山駅で乗り換えて、富山地方鉄道・宇奈月線に乗るわけなんです。宇奈月線とか立山線に乗って、3つ目の駅がこのゆびとーまれです。そして10分間歩いて、このゆびとーまれに来ています。そのKさんが明るいんですよ。大きなリュックを担いで、ニコニコしてるもんだから、富山駅とかでね、あだ名がついてるんですよ。山下清子って。汽車に乗っていたら、「あんた、どこに行っとんがけ」と訊かれ、「わし、このゆびとーまれや」「あんたこのゆびとーまれの利用者けぇ」って言われるらしいんですよ。そしたら「なあん、わし利用者じゃないよ、わし職員や、人に役立つ仕事してるんや、って言うたったん」って。そして越中八尾の駅長さんからも声を掛けられたそうです。「あんた、テレビに出とったね。あんた、このゆびとーまれに行っとんがけぇ。お年寄りの世話をしとんがね。何ちゅう偉いがけぇ」って言われたそうです。そしたらKさん、「そんな偉いことはないちゃ、駅長さんよ。」と言ったそうです。

O.Kです。Kは富山養護学校の中学2年から高校3年まで5年間、彼はこのゆびとーまれの利用者でした。ですから4時間以内は1500円、彼を一日預かった場合、2500円プラス食事代500円の3000円を頂いた彼が、今、このゆびとーまれでは有償ボランティアとして働いています。年間35万ほどの給料をもらっています。

S.KはO君と同級生です。彼は知的レベルはかなり高いです。どこかの会社に行ったら、単純作業なら間に合うでしょう。だけど彼はこのゆびとーまれを選びました。「どうしてこのゆびとーまれを選んだが」と聞いたら、「惣万さんよ、どっかの会社とか作業所に行ったらね、毎日同じ仕事よ。そしてね、黙って仕事をせんなん。」この子もK子さんもえらいしゃべりたい人なんですよ。「このゆびとーまれは毎日変化がある。まして、人としゃべったら怒られるどころか、人としゃべらなかったら怒られる。いい仕事や。」って言います。それにうまいこと言いますよ。素晴らしいことを言います。「惣万さん、このゆびとーまれの仕事は人にありがとうと言われる仕事。僕ね、袋に割り箸を1日千本、二千本入れてたけど、割り箸がその都度ありがとう、ありがとう、ありがとうって言わん。だけど、おじいちゃん、おばあちゃんが何かの都度、ありがとうって言うてくれる。これほどいい仕事ない」って言うんです。素晴らしいと思いません?

I.Aはダウン症の方です。そして子ども達の世話をしています。今年から有償ボランティアとして働いています。よくね、この方も利用者と間違えられます。うちね、利用者と間違えられる人がほとんどなんですよ。たまに私も間違われるんですよ。ああ、早期アルツハイマーですか、言うて。そして、N.Kが惣万さんだ思うて喜んで来る人がいるんですよ。あの人ね、玄関に誰か来たら張り切って行かれるんですよ。ああ惣万さん、何ちゅう明るい人でいうんで言われるんですけどね、中に入ってぼさっとしとるがが惣万さん。

うちは障害者の方と健常児の方が普通に遊んでいます。これが溝口さん曰くの普通の生活、当たり前だと思っています。ですからモモちゃんは、生後3ヶ月から来ていますから、ヒデちゃんやカズちゃんを見ても、おっかないとか、気持ちが悪いとか、自分とは違う人間だとは思っていません。必ず固有名詞で、○ちゃん遊ぼう、シャワーかけたろうかとか言うています。これが、大きくなって小学6年とかでボランティアに来るでしょ。そしてこういう脳性麻痺の方たちを見る。おっかない、気持ち悪い、障害の子どもとか言うんですよ。そしてこの人たちが車椅子に乗ってたら、車椅子の子だ、って言うんです。固有名詞が先に来ないんですよ。このゆびとーまれで育った子は、必ずヒデちゃんが車椅子に乗ってる、固有名詞が先に来ますよね。車椅子の子がヒデちゃんじゃないんです。これが私はノーマライゼーションだと思っています。

うちは行事には力を入れていません。ですから、このゆびとーまれでする行事というよりも、地域の行事に参加します。運動会だったら、うちの職員4名の日勤として参加します。そして運動会で走ったりゲームに出たりするわけです。で、しかもその後、夜、公民館で反省会・打ち上げ会があります。そしてうち、二次会三次会まで付き合ってるんですよ。町内の人と。もう次の日、二日酔いですね。

介護にも緊急事態が発生する。その時こそ力が発揮できる小規模多機能ホーム。事例2の方だけを紹介しますと、「手続きがいらんし、頭も下げんでいいから」というのは家族から言われた言葉です。私たちが言ったんじゃないですよ。B君7才、重度障害児。B君と一緒に住んでいるおばあちゃんが午後8時に亡くなられました。B君のお母さんはお通夜から葬式にかけて忙しく、とてもB君のお世話ができません。長男の嫁でしたからね。B 君は養護学校が終わった後、このゆびとーまれに3時から6時頃まで毎日来てます。この事例ですが、もしもこのゆびとーまれがなかったらどっかのショートに預けんがならんがです。富山のショート言うたら、すごい遠いんですよ。富山市の場合、黒部とか砺波とか30km、40km離れたところに行かんがならん。滋賀はそんなことないと思いますけど、午後8時に亡くなったら、全然ショートは受け付けてませんね。ですからこのおばあちゃんは大体午後2時に亡くならんがですよ。分かります?時計を見ながら息を引き取らんがです。

宅老所・グループホーム全国ネットワークの合言葉は「小規模」「多機能」「地域密着」です。「小規模」とは10人から15人。厚労省が言っている「多機能」とは、「通って・泊まれて・家にも来てくれて・いざとなったら住むことができる」ですが、私たち、富山型のデイサービス、ケアネットワークって言うんですけど、地域で困っているのはお年寄りだけじゃない。子どもからお年寄りまで障害者・障害児も利用が出来る、通って・泊まって・いざとなったら住むことができる社会をつくってほしい、ターミナル期まで対象者の幅を広げ、看取りも行う、こんな宅老所が増えて行けばいいと思っています。
このゆびとーまれのニーズなんですけど、2軒の家でやっています。秋になったら3軒と、今、呉羽の方で、ここだけじゃなくて明日開所なんですけど、グループホームと小規模・多機能とショート三小能をします。これは、富岡町のことだけで言っているんですけど、よく学者の方が「このゆびとーまれ」は混合型じゃないかとおっしゃるんです。私たちは共生型またはニーズ型・家族型言うて欲しいっていろいろ理屈を言っています。だけど、見学者が来られたら、大体、ごちゃごちゃ型って言われるんですよ。私もごちゃごちゃ型でいいかなと思っています。

利用者について、平成15年の数値はまだまとめていないので、平成14年で、2軒の家で、利用者の平均、1日で30人です。高齢者は50%、成人は17%、子どもは33%です。

このゆびとーまれのスタッフは、職員は28人(常勤が15人+パートが13人)、有償ボランティアさんが6人(知的障害者さん3〜4人を含む)、無償ボランティアさん40人に支えられています。このゆびとーまれの特徴は、看護士さんが4人いるってこと、それと社会福祉士は今、2人になりましたね、保育士さんが3人いる、そして養護学校の先生が3人常勤でいるということかな、と思っています。

 平成14年度の概算収支は、総収入8,851万円、黒字でした。人件費が約72%かかっています。

 このゆびとーまれがしていることは、制度で言ったらお年寄りだけのデイサービスが必要です。そして「体」だけでも身体障害者と身体障害児の2つに分けんがならんです。「知的」も同様に者と児と分けんがならんです。本当は健常児は保育所が必要なんですよね。それと、「精神」はここには入ったら駄目なんですよ。富山県は一つ屋根の下、赤ちゃんからお年寄りまでの施設にしても、玄関をいくつもつくれとは言いませんでした。ただ、このゆびとーまれの隣の県、新潟県・岐阜県、つい最近まで石川県も県庁に、こんなことやりたい言うたら、玄関を3つつくりなさい、4つつくりなさいって未だに言って、そして中でも仕切りをつくりなさいとか言うんですよ。私たちは10年間、行政の方たちとお話しました。惣万さん来てくれんか、って行政の方がおっしゃって、行政の方に言うんですよ、じゃあ、あなたの家に障害児が生まれたから言うて、玄関をもう一つ設けるんですか、と。そしたら行政の方は、黙られる方と「いやあ、僕は法律からそう申している」という2パターンいますね。

 このゆびとーまれの「通って」について、今、構造改革特区でデイサービスが認められました。同じ屋根の下でお年よりも身体障害者も知的障害者も特区でだけなんですけど、いいですよ、ってことなんです。つまりお年寄りは、介護保険対象のお年寄りであれば介護報酬が下ります。障害者・障害児は支援費と同額の金額が出ます。ですから経営的には楽になってきたんですね。一番最初、特区に申請したのが、熊本県・千葉県。その後、長野県がちょっと遅れまして、富山は11月に富山・埼玉・長崎、今もう2県ほど増えていますね。

 次は「泊って」。ショートの部分です。ショートは20床以上であれば、お年寄りと身体障害者が一緒に泊まっていいという法律があったんですよ。だけど私たち去年9月のフォーラムで、2床以上でも、これを特区でいいからこれを認めてもらえないかということを言ったら、はじめは駄目だということだったんですけど、制度になりました。3月31日付けで、ショートが老人と障害者が2床以上の要件でも過ごしていいよということになりました。分かります?そしたらお昼はまだ特区なんです。特別区域だけが許されている。で、夜の部分はもう制度になってしまったんですよ。それで私、厚労省のある親しい方に「それおかしくないかと、普通、制度いうものは、お昼から制度を認めていって、夜に入るんじゃないか、ですから昼が制度で夜が特区なら私、分かるんだけど、どうしてこうなったんですか」って訊いたら、いや、「惣万さんよ、それが昼夜逆転いうもんですよ」って。ああそうか、と思いましたね。負けてしまいました。

 「住む」ということですが、宮城県は「プロジェクトM」いうて、平成16年1月15日から、宮城県の白石蔵王で重度・重複障害者が街のど真ん中で暮らせる「我が家」ってことを始めました。まだ何の制度もございませんがしています。県がお金を出していますね。共生型グループホームと言い、その名前は「プロジェクトM」。NHKのプロジェクトXを真似しています。ねえ、浅野知事これ何け、言うたら、宮城県のMらしく、何の深い意味もないそうです。千葉県は高齢者と障害者が共同グループホームをモデル事業がしていまして、まだ始まっていませんが千葉県も同じようなことを考えています。

 ただ私は2005年に制度ができあがると、「通って」が後にくるのではないかと思って懸念しています。今まで宅老所の流れは、「通って」→「泊って」→「住み込んで」って。これが自然ですよね。それが、制度が、つまりお金が最初についてしまうと、「住み込んで」→「泊って」→「通って」にならないか。これは自然な広がりではないように思えます。宅老所は在宅を支えることが基本理念であるってことを忘れてはならないと思います。

○ディスカッション
(山口さん)
 3名の皆さんから日頃の実践を15分から20分でという大変凝縮した形でのご報告がありましたが、私たちにとって、興味のある発言、また為になることが随分あったのではないでしょうか。そのあたり、冒頭、三好さんからお感じになられたこと、3人の方から次の話を引き出していただくようなそんな発言をいただいて、後半、進めたいと思います。

(三好さん)
三人のお話を聞かせていただきました。ボランティアで日吉台でなされている活動は、発言の中には出てこなかったのですが、資料を見せていただくと、統計から出てこないけれども活動から見えてくるものというまとめがありまして、ここが大変面白かったですね。「人は人によって元気づけられる」とか「生活のリズムは人を健康にする」「心の安定は筋肉トレーニング以上に効果がある」と書いてありまして、これは是非厚労省に言ってやってほしいですよね。あの、要介護度1と2に全員筋トレさせるとか言ってるんですよ、厚労省は。本気なのかなあ。80、90で筋トレやって筋肉ついたら化け物だよね。どうかと思うけど。筋肉つけてまた歳とってきたときどうするんだ、という問題を先送りしているだけというか、何か、訓練やって元気にしようというのは老人保健施設の失敗でもう明らかになってるわけですから、もうそろそろ気が付けばいいだろうっていう、気がするんですけどね。私、3人のお話を聞かせていただいて、うーんと考え込んでしまったんですね。3人のお話は、障害・老い、更に惣万さんのお話にあった死というものを、市民社会からずっと見えなくしてきてるんだけれど、それをもう一回普通の生活の中に取り返そうよという当たり前のこととして日常に障害のあり、老いがあり、日常の中で死を見送るというのが一番いいし、当たり前じゃないかということを、なされているということだと思います。ほんと、そうですよね。それが日本の文化であり当たり前だし、それが一番いいんだけれど、何でそういうことってできなくなってしまったんだろう。もう一つあるとしたら、今日、紹介できなかったんだけれど、僕、出産ということもそうだと思う。産まれて来る時っていうのも、生活の中に当たり前にあったのが、今は99%都会では病院で産まれるんですね。病院という生活的でないところで産まれて、しかも9時と5時の間しか産まれていないんですよ。産婦人科の学会がある日は一人も産まれないんですよね。うん、陣痛促進剤を使わないお母さんはいないという風になっちゃって、そういうことともつながっていて、何で老人や障害、死んでいくということを今の市民社会というものは受け容れられなくて、排除してきたんだろうっていうこと、それがあるからこういうことをやらざるをえなかった。当たり前のことだけどすごく注目されている、逆に言うと3人のやっていらっしゃることはそういう時代の流れみたいなものに抵抗して行こう、そういう意識はなくて目の前の困っている人に何とか関わろうよということでやってきたのだけど、実はそういうこともあって、大変な問題ではないのかなって思うんです。
そして、そういうことを考えると、世の中の流れとしては、寛容度みたいなものが狭くなっているという気がして、そういうものに対する処方箋になるのかな、と思うんです。かろうじて今、障害のない子どもというのが家や地域にいるんです。ひょっとして、あれもいることになっているけれど、本当にいるのかしらという気がしてならない。障害者も老人も死んでいく人も知らない子どもがいっぱいいて、それがマンションの一室で閉鎖的な母子関係の中で、お父さんもいるけど、セブンイレブンパパって言われて、7時に出て11時にしか帰ってこないから全然関与していないわけです。母子関係がおかしくなって、虐待や何やということが起きているということを考えると、家族の中にいて地域からも排除されていないけれど、障害のない子どもというのもまた危機的な状況にあるということが見えてくるかもしれません。ちょっと考えさせながら聞いていました。ですから、こうした活動を通して社会の側が変わっていく、ほら、市民社会の方は、介護の人たちは人権意識が低いから教育してあげなきゃいけないなど言うけど、僕から見ると全然逆だと思ってて、介護現場の豊かさみたいなものが、市民社会の側を変えるんだと思っているんですが、そういう方向性みたいなものが、3人の実践からみえてきたように思えます。地域の中に帰って行こうみたいな言い方をされていましたが、実は何だろう、こっちが地域に帰って行くというよりこっちが地域を変えていくというイメージがちょっと出てきて、希望がわいたところです。

(溝口さん)
先ほど、藤本先生のお話をしましたが、時々言われるんですよ。目の前のお年寄り、利用者の方々の暮らしをどうするかを精一杯考えて行ったらいいんじゃないの、それ以上に広げなくとも、と。多分、その話だと思います。でも、ただお年寄りや障害のある方の暮らしには、お年寄りあるいは障害者の中では終わらないんですね。施設で暮らしていたらいざしらず、地域の中で暮らしていると、やっぱりいろいろと関わって行かざるをえない。障害のある人たちの暮らし、地域との接点とか、結びつきとかをはじめ、自然にそうなったというところが正直なところで、世の中を変えようというのは、全くないわけでは勿論ございませんが、そんな余裕はまだないのである意味では自然で、逆に大事なことかなと思っています。

(中井さん)
 あじさいくらぶも12年、進めて来ましたけれど、気負って地域を変えようというのではなくて、やはり割と自然体で自分たちが高齢になったらどう暮らしたいかな、と思いながら、目の前に現れたことを、じゃあどうしたら解決できるかなという感じでいろいろなプログラムに取り組んでいます。プログラムがあまりに多彩でどれが中心なのかさっぱり分かりませんが、歩きながら考えながら試行錯誤しながら、でも自分たちは地域で高齢になってもどう暮らしていけるのか、というのが私たちの活動の原点でもあります。しかし在宅介護といわれながら地域にそれを支えるネットがなければ、在宅介護は女の人に介護が降りかかってきて、私が経験しました遠距離介護を女の人がして、男は働いて、どうしようもなくなると施設に入れて、病院に入れて、そこをたらいまわしにして、というそれがずっと延長するだけで、それならそうならないようにできるだけ地域の中で暮らせるようになりたいし、実際に暮らしている人もいますし、こういう風に年老いていくのだということをたくさん学ばせていただいています。人は人によって元気づけられる部分というのがある、確かに人は人に傷つけられることもあります。関わりたくないという部分もありますが、人は人形ではなく、人に会うことによって元気付けられる部分があると感じています。

(惣万さん)
このゆびとーまれがしていることは、地域福祉から入っていったら一番スムーズに考えられるんじゃないかなと思っています。たとえば老人・障害・子どもそれぞれの専門の学者から言わしたら、その人たちがそこでご飯食べられなんが絶対許されんですよね。で、地域福祉の学者さんはスムーズに行きます。行政から言っても、やっぱり高齢福祉課は高齢福祉課、障害福祉課は障害福祉課。児童福祉課は児童福祉課って、精神は精神でいくつにも分かれています。このゆびとーまれの形をとって(垣根をなくして)社会福祉協議会が音頭をとって活動していった場合に、世の中、住みやすくなると思っています。滋賀県の社会福祉協議会はとても元気と聞いていますけど、元気なんでしょ? <会場から、「元気です」の声> 私は7割は寝たきり社協だと思っています。そのかわり3割は命をかけて活動している社協があると思います。本当に、この人、倒れるんじゃないかと思うくらい一生懸命、活動しています。寝たきり社協をせめて要支援・要介護度1くらいに持っていかないといけないかな、これが地域住民の役割ではないかなと思っています。

(山口さん)
寝たきり社協というお話がございましたが、私も大津市の社会福祉協議会に勤めて15年になりますが、このいきいき介護セミナーの10年に、本当に育ててもらったと思っています。今、惣万さんのお話にも出ましたけれど、地域福祉の視点から見ると分かりやすいんじゃないかという話も出ました。惣万さんをはじめ富山型の取り組みに、今、熱い視線が注がれているわけですけれど、滋賀県も惣万さんの取り組みを池口部長さんがこのセミナーを受講してくださっていまして、早速富山に飛んでいただいて、その後、國松知事も富山に飛んでいただいた、そんな話も聞いています。いきいき介護セミナーが縁となって、滋賀県内でもこの共生の介護のサービスがはじまった。いろいろな縁があったなということを改めて感じたところです。 
三好さんの方から、障害・老い・死というキーワードが出されましたけれども、今、子どもたちも危ないんじゃないかという話も出まして、三好さんの方からもう一言、コメントいただきたいと思います。
(三好さん)
 私、54歳なんですけれど、子育ての最中なんですね。バツイチでして、再婚してやっと子どもをつくって、上が5年生で下が1年生に入ったばかりで、子どもが成人すると親がくたばるという、非常に動物学的には正しい生き方だと言われているわけですけれど、上の子が3歳のときに保育園に入ったわけです。3月の末、3歳に入ったばかりのときに入りました。園の車が迎えに来てくれるんですね。親は楽になるだろうと思うと、そうはいかないんですね。時間に追われるんですね。毎朝、8時31分にその車がマンションの下に来るんです。それに合わせてご飯食べさせて服着替えさせて、27分よ、早く靴履いてと、3歳児の子どもが1分単位で時間に追われているんですよね。これは自分でやりながら、これは異常な事態だよなと思うわけですけど。よく子どもキレる、少年犯罪とかが問題になっていますが、私に言わせるとあれは、17歳とか14歳とか問題になった世代がございましたけれど、あれと帝王切開・陣痛促進剤が大量に使われ始めたときに産まれた子と時期が一致してるんですよね。何で待てない、キレるかというと、自分が待ってもらっていないんですよ。自分が成熟して、産道を苦しんで出てくるという経験をしていない世代が大量に産まれてきている。だから無意識のところで自分が待ってもらっていないということが、僕はあると思います。だから陣痛促進剤とか帝王切開、私もしたけど男の子だし自分の子は犯罪を起こすんじゃないかと心配する必要は全然ないですよ。産まれてから、ちゃんと待ってあげるということを繰り返せば、いくらでも取り返しが効くと思います。産れてくるときも待ってもらえなくて、誰かに管理されて産まれてきて、産まれてきてからも1分単位で管理されて時間に追われて、小学校に行ったら「寄り道しないで帰ってきなさい。」ですからね。今は。小学生からぱっと引けばブザーが鳴るようなものを持たされてですよ、寄り道するもんじゃない、子どもって。寄り道するのが面白くて、寄り道で世界がどんどん豊かになっていくもんだったけど、僕らの頃は。寄り道してはいけないという状況と、何だろう、僕らの老人介護の世界で死ぬまでリハビリさせられて筋トレさせられているという世界とが共通しているように思えて仕方がないですね。どうも子どもも老人も生きにくい世の中になってるよという気がします。
ただ救いなのは、溝口さんお歳いくつですか? 56ですか、私より2つ上ですから1クラス59人くらいいたすごい世代だったと思いますけど、男の人がこういうことを始めるというのは珍しいですよね。大体、男性はこういう新しいことを始めるにあたって、できるかできないか、一生懸命計算して、結論的にできないということになってやらないんですけれど、女の人はしたいかしたくないかですからね。数字なんか後からでっちあげるという世界だから、中井さんや惣万さんがこういうことを始められたということはよく分かるんですけれど。あの、惣万さんが始められた頃は奇人変人扱いだったでしょ?もう何ちゅうことを始めるんだと。日赤の看護婦でやっていけば、ちゃんと学校の先生にでもなれて、というのに、何でこんなことをするんだ、と言われたのが、今では当たり前になっちゃったじゃないですか。というのもあって、それは世の中が変わってきたのかという気がしますし、溝口さんも株式会社で始めたというのも当時は物凄く風圧があったと思うんですよ。福祉の世界に株式会社として登場するって、世の中では当たり前のことなんだけれど、今はそれも当たり前になりつつあると思いますね。社会福祉法人とかNPO法人ってどうしようもない法人もいっぱいあるし、会社なんかの方がよっぽど社会的な規制を受けて、監視の目があるじゃないかということもわかってきたと思うけど。そういう意味で、あっという間に今、当たり前になってきたな、というのが僕は救いだな、と思います。
惣万さんは、そういう時代の流れのようなものをどう思っていらっしゃいますか。どんどん制度まで変えていってますからすごいと思いますけどね。厚労省まで行っていろいろ文句言っていますが、ついでに老健なんて制度はやめろ、グループホームはやめろなんてことも言って欲しいと思いますけど。

(惣万さん)
 10年、もう11年目に入ったんですけど、随分変わってきました。最初は介護保険も何もないですからね、介護保険が始まるまで7年間、介護保険が入ってきて随分変わってきたかなと思っています。それと、富山型とか言われて県と市が喜んでいます。何も言わんでも宣伝費が無料「富山」がでてきますから。でも、富山県は今はかなり理解があって、前はいろんな意見を私が言っても、たとえば何かの委員とかに選ばれるとするでしょ、大体は一年でクビになるんですよ。分かります?絶対2年目からは選ばれんがですよ(えらばれないのですよ)。意見を言い過ぎて駄目なんですけど、行政の方の気持ちは分かるんです。だけど、例えば滋賀県の池口部長(現出納長)さんは、私の話を聞いて、すぐ富山に駆けつけてくれました。いまだに富山県は・・・この違いですよ。ということをここでだけの話にしておいて下さい。
男と女のちがいなんですけれど、左の脳と右の脳との違いだと思ってるんですよ。分かります?私たちは、別に計算してしとるがではないんです。やろうと思ってやる。ある言葉で好きなのは、「出来るか出来ないかではない、したいかしたくないかである」。ですから、根本的には出来ない人はしたくない人だと私は思っています。あれ、静かになりましたね。

(三好さん)
富山でやっている、私と同じ理学療法士で阪井由佳子っていうのがいて、これも老健をけんかしてやめて、3歳の父なし子を抱えて、自分の家で、母親の家を使ってにぎやかというデイサービスを始めるんですね。その時、惣万さんに相談したのが、惣万さんに向かって、「こういうことをやろうと思うと女捨てなきゃならないですかね」と言ったといいますが、あれ、本当ですか?

(惣万さん)
違うんですよ。阪井さんがある親しい男性に相談したそうなんですよ。「お前やれるか、惣万みたいに女捨てにゃいかんよ」と言われたと。阪井さんが私に言うたから、「わしまだ女捨てとらんよ」って言ったら、そしたら阪井さんがそれに驚いて、「本当に捨てとらんがけぇ」って。

(三好さん)
阪井、失礼な奴ですよね。でもある日、老人を車に乗せて走ってたら、向こうからどこかで見た車が来て、惣万さんが老人とか子どもを乗せてこちらの方に来たそうなんですよ。するとタオルでハチマキしてたって言うんですよ。すると、考えると自分も同じようにしていて慌ててぱっとはずしたそうですね。
何か新しいことをするっていうのは、女の人が感覚的にこれだ、って思うんでしょうね。
男は、何だろう、人生いろいろ抱えてるってのもあるから、そう簡単にも辞められないし、いろいろ考えるっていうのもあるんでしょうけどね。たとえば下山名月なんていうのも、  計算なんか何もしないでやってるけど、どうも新しいことというか、状況が行き詰まったときに新しいことをポンと始める、思い切りがいいのは女の人だという気がしますね。
溝口さんは男でもAB型ですからその辺があまり計算力がなくて、ということでしょうか?

(溝口さん)
 多分、言われるだろうなと思って。でも滋賀県は県や市町村の応援もありまして、結構男の人も、奇人変人の類が続々と誕生してきていましてですね。それと男は、ええ格好しのところもありますしね、あとはチームとして、チームに女性の力が必要ですね。それと、うちの施設には、宅老所の方もグループホームの方もかなり高齢スタッフがいまして、その存在が大きいですね。この前のミーティングでもですね、グループホームのかなり高齢のスタッフがですね、「アセスメント」という言葉がわからない、「旭セメント」と思っていました。笑い事ではなくて、普通の暮らしという視点から行くと、やっぱりわかりやすく、高齢のスタッフも分かるような暮らしのしつらえをしていかないと、お年寄りの生活でもウンと言ってもらえないのじゃないか、グループホームや宅老所でも知的障害の方が働いていますし、彼女らについても同じだと思うんですよね。だから丁寧に、より分かりやすく具体的に暮らしをつくっていくということが大事かなと思います。ちょっと外れたかもしれませんが。

(三好さん)
いえいえ、本当にその通りだと思います。普通の言葉になっているかというお話って、それは障害の世界と我々介護の世界と、歴史の違いで、哲学・思想が前者にはありますよね。アセスメントなんて査定ですからね。老人を不動産みたいに扱ってどうだ、って気がしますし、コーディネーターとかも、こうでないといかんかって、老人よく言ってましたけど。それと要介護老人って言うじゃないですか。漢字で書いてありますから何言っているか分かりますけどね、あれワープロで打つと、「妖怪ご老人」って出てくるね。ぴったしだからそのまま変換せずに置いておこうかな、って思うような老人もいたりしますけど。だからつまり、専門用語という名の医療方言みたいなのを使わないで、いかに普通の言葉でしゃべっていくかというのが面白かったですね。
溝口さんのお話の中で衝撃的だったのは、障害者像というのが世の中で非常に一面的で、一つはとても差別的に見ているんだけど、もう一つは純粋で嘘つかないでみたいなのがあるけど、それも何ていうかな、そういうチャンスが与えられていないからそうなってる側面画あって、普通の人になって、ちゃんと嘘もつくし、サボるしってなった方が普通じゃないかって言われたのがすごく面白い話だったという気がします。そういう意味では、痴呆性老人というのもイメージがまだまだ一般的ですよね。みんな違うんだけれど、福祉関係の人でも、痴呆性老人のセミナーに出てきて、痴呆性老人には声掛けが大事です、って言うけれど、声をかけたら興奮する人がいるじゃないですか、そういうので一面的なイメージを押し付けられていますけど。
私、障害の問題を取り上げた映画でですね、バージンフライトという英国の映画があるんですよ。是非、レンタルでありますから観て下さい。これがすごい。死に至る難病の少女が、電動車椅子に乗っているんですけど、もうパンクでね、インターネットでポルノを見ながら、男を知らないで死んでゆくのは嫌だと言って、ボランティアの、ボランティア刑を受けた奇人変人なんですけど、これにロンドンに連れて行けと、ロバート・ギアみたいなジゴロを探しに行く。でもあまりに金が高いもんだから金がなくて二人で銀行強盗やろうってなところまで行くという破茶滅茶なストーリーなんです。で、僕、日本の福祉映画って大嫌いで、もう、何って言うんだろう、お涙頂戴、わざとらしさ、偽善、バックに流れる音楽が涙をそそるようなですね、何でああいうのをつくるんだろうって、思っていたら、英国なんかは文化の違いかなってすごく思ったんですけど、すかっとしててお涙頂戴は何にもなしですよ。少女は死ぬんですけどね。遺言ももうしゃべれなくなってるから電子音楽に変換して出てきて、わざと情緒的にならないようにならないようにしてるんでもないんだろうな、あれが文化なんだろうな、僕が大好きな映画だったんですけど、溝口さんのお話を聞いていて、その映画を思い出しました。機会がございましたら是非ご覧頂きたいと思います。
普通という言葉を今日、何度も言われていて嬉しかったのですが、僕は、医療や看護の専門性というのは、病気という特別なときに、素人にできないことをちゃんとするということ、医者や看護婦、OT、PTなんかの専門性、もちろんこれは立派なもので、日々研鑽しなければならないものですが、介護の専門性というのはちょっと違う。病気のときではなく普通のとき、生活の専門家なんですね。そうすると、病気の専門家が拠り所にするのが病理学であるのに対して、私たちが拠り所にするのは生理学です。素人ができないことをやるんじゃなくて、当たり前のことを当たり前にやる、それが介護というものに問われていることだと思います。老化や障害があるから特別なことをしよう、立てない、座れないから特浴に入れようというのでなく、立てなくても座れなくても普通のお風呂に入れる、当たり前のことをするために特別な工夫をしようということですよね。現場の工夫ですごく頑張ってきました。特別養護老人ホームでも機械浴を使わないというところが増えてて、最後の最後まで自分の膝の上に乗せて、家庭用のお風呂に入れるということをやり始めていますよね。当たり前のことを当たり前にする、食欲がなくなったときに点滴・鼻腔栄養・医療形成術なんて特別な方法に行くのではなくて、出前をとる、外食に行く、パーティー開く、そういう当たり前のところに行くということが、今の世の中、逆に難しくなってしまった。専門家が増えすぎて。それをもう一回取り戻すというのですかね、それが介護の側の仕事だという風に考えていますし、逆に言うと、お医者さんや看護婦さんが介護の時代に求められていることというのは大変だと思いますね。昔は医療と看護の領域さえやっていればよかったのですが、介護の時代に生き延びていこうと思うと、家族や介護職から食欲がないから点滴をして下さいと言われても、医者や看護婦は、「ちょっと待て、出前はとったか、外食はしたか、パーティーのひとつも開いたか」と、そういうことをやってから点滴をしないと、点滴ってものは副作用あるぜ、医療形成術なんてものは手術で、この辺触ろうと思うとつなぎ服着せられるしね、手縛られたりするんだから、ということを言えるってことが今の時代に求められていると思います。
 だから、医者・看護婦、それから当たり前の生活にいる生活者がみんなで一緒になってやるというのが介護という仕事で、今日はいみじくもベテランの看護婦さんとですね、市民のボランティア、それから障害の世界にいた人、それからリハビリ、先ほど私はリハビリなんてのは未来に対する逃避ではないかと言いましたけど、僕はリハビリテーションというのは幻想だ、倒れてしばらくはいいんです、長嶋さんのようにあの時期にやるのはいいんですけど、脳卒中倒れて3年5年、10年15年経ってる人に、リハビリしてどうするんだよ、って気がしてどうしようもないですね。そういういろんな職種の人が集まって出来たというのも、この10年間やってこられたセミナーのおかげだと思っています。まだ続けて行くんでしょ?この会は。是非続けていただいて、新しい時代を切り開いてゆく、というお仕事を大津の地でやっていただければ、大変ありがたいと思っています。

(山口さん)
 今日はありがとうございました。溝口さん、中井さん、惣万さん、それぞれに事例をご報告いただきまして、三好さんにも残っていただきまして、最後は、生活のこと、生きること、テーマをいろいろと広げてお話いただきました。
 このいきいき介護セミナー記念フォーラムには、同窓生の皆様には無料でご招待ということでご案内差し上げました。久しぶりにこの雰囲気を味わっていただいたのではないかと思います。また、157名の方に今年のセミナーにお申し込みいただきました。先着順ということで数十名の皆様にはお断りしているということもございますので、157名の皆様は、今日からスタートということで、今年一年間、どうぞよろしくお願いします。
 では、今日の記念フォーラム、介護は十人十色、よい介護は百人百色ということで話を進めてまいりました。3名の皆様、それと三好さんを、大きな拍手でたたえていただきたいと思います。

●閉会
○閉会の挨拶   嶽山好男(いきいき介護セミナー顧問)
 ちょっと私も歳なので、四国四万十の大歩危小歩危に近いような話をするかもしれませんが、どうぞご理解いただきながら聞いてください。
はじめに10年間も続けてこられたおかげで、お世話になった方へのお礼を申し上げたいと思います。県の國松知事さんをはじめ、県の職員の方々に、このいきいき介護セミナーに大変なご理解とご支援をいただいております。本当にありがとうございました。それからゴールドプランの発表以来、私も関心がございまして勉強してきましたが、全国でも珍しいすこやか相談所の開設を大津市が採用されました。この辺が、いきいき介護セミナーのたちどころで、すこやか相談所の職員さんを含めて大津市の職員さんがこの介護セミナーの基礎をつくられました。それから企業の社員の方々。それから一般市民の関心のあられる方々で、心と心をお互いに合わせて、今日まで10年が経っています。このセミナーのボランティアをやっていただいているスタッフの方には、この方々がおられなかったら今日まで10年続いておりませんので、厚く御礼を申し上げたいと思います。それから滋賀県の生命保険協会様、また、この次の2回目からの会場となる第一生命の滋賀支社様。この方々からは、会場の提供をはじめ、大変なご支援をいただいています。これこそ本当にフィランスロピー(ギリシア語の人間愛)で、まさしく企業の地域貢献活動でして、そういう企業がこの日本にも存在しているということを忘れないでいただきたいと思います。それから、ご後援いただいた医師会の皆様方、その他諸団体の皆様方と、京都新聞社の事業団の皆様方からもご支援をいただいておりますけれど、一番いいことは、介護セミナーが非常に明るくなったということでして、私このことを諸団体に報告したいと思います。
 今日、ご参加の皆様に一言だけ申し上げたいのですが、私も長い人生で、人生の歩みの中で感じますのは、一番大事なのは人間関係であります。これは職場であろうが、家庭であろうが、ボランティアのグループであろうが、地域であろうが、一切が人間関係で決まってしまいます。私はライオンズクラブのメンバーとして、一言だけ分かりやすい言葉で申し上げますと、「喜びは分かち合えば倍になる、悲しみは分かち合えば半分になる」、意味の深い中身を含んでおりますので、この言葉をどうぞ胸に持って帰っていただきたいと思います。それから私は滋賀県人ですので近江商人の滋賀県、それから福祉県としての滋賀県人。私はその点を非常に誇りに思っております。その中でこの介護セミナーも10年が経ってその一翼を担えるようになったというのも、これもすべて皆様がおられるからこそのことであります。ここの席をお借りしまして厚く御礼申し上げます。結局、みんなの力でこの介護セミナーが立ち上がってきているということです。これから人生、悔いのない人生をお送りいただくために、どうぞ皆さん心と体を健康に保たれて、この介護セミナーのご支援方をよろしくお願いいたします。ありがとうございました。                           以  上