いきいき介護セミナー2005第6回目


日時;平成17年10月15日(土) 10:00〜15:40
場所;第一生命ビル
講師;高橋卓志 先生
テーマ;「生老病死−いのちから学ぶ−
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最近物忘れが激しい。ある日レーガンが奥さんのナンシーの誕生日に、誕生日プレゼントを贈った。メッセージカードを添えようと思ったが、妻の名前が思い浮かばない。本人に聞くわけにはいかないので、息子に聞こうと思ったが電話番号が出てこない。おかしいと思って次の日、病院にいくとアルツハイマーといわれた。そしてテレビの前で演説をする。「自分は大統領として自由と平和のために戦ってきた。今は民間のさまざまな機関で仕事をしている。そして今、アルツハイマー。しかしこれは命にとっての必然である。これからはアルツハイマーの方々と一緒に戦う。」感動的な演説であった。それからアルツハイマーに対する社会の認識が高まった。とはいえ、日本ではまだまだ認識が浅い。

私はチェルノブイリに6年間で36回足を運んだ。そこには美しい景色があるわけでない。美しい女性がいるわけでも、いや確かにベラルーシの女性はきれい。ただし20歳まで。一瞬で凝縮して輝くのか、日本人のようにだらだらと美しいのかの違いだろう。それもDNAのなせる業。それはともかく、チェルノブイリで過ごしたことで私の体内には通常人の20倍の放射能が濃縮されていると思う。従って、皆さん一番前に座らなくて正解。別の理由があるのかもしれないが、妻も私の傍に寄ろうとしない。

永六輔氏・小沢昭一氏を主に神宮寺で俳句の句会を開いた。小沢氏は面白い人物。句会が終わって信州そばを食べに行った。ほとんどの人がざるそばを頼んだ。小沢氏だけが「温かいの」と言った。ということで天ぷらを注文したが、そばと天ぷらと別々に持って来てほしいと注文をつける。頑固者のそば屋のおやじも嫌な顔をしたが、注文どおりにかけそばと天ぷらを分けて出す。すると小沢氏を天ぷらをかけそばに天ぷらをわざわざ入れて食べた。そういう人。

ハノイへの吟行の際、香港の空港で足止めをくらった。やむなく一行、連れ込みホテルに宿泊することになる。二人一組での宿泊。永氏と小沢氏がペアとなる。ぎんぎらぎんの、丸いベッド。お互いが密着しないと足がはみ出る。やむなく二人は海老型で寝たという。

無事ハノイに着く。ハノイは食事もコーヒーもおいしい。2ヶ月に1度発刊される「自分時間」に私はエッセイを出しているが、ここで女優の羽田美智子と対談したときの決め手が、ベトナムコーヒーだった。ハノイのフランス料理店において、小沢氏はうどんが食べたいと言い出した。添乗員はあわてて現地の日本料理店で調達する。さすがにシェフに申し訳なく、添乗員は「宗教上の理由です」と言い訳をした。「宗教上の理由」というのは便利な文句。永氏が私のおしゃべりの師匠。永の死期も近いと思う。私はその跡目相続を争う2人のうちの1人。

 もっと深刻な話をしたい。皆さんショックを受けるかな。

 先週の日曜、山梨で曽野綾子氏、日野原重明氏、内藤いづみ氏と一緒に2,000人のホールでステージに立った。日野原さんはすごい。化け物。日野原さんが甲府の駅を電車を乗り越したが、そもそも秘書をつけていない。「元気」という病気のような先生。日本財団の財源を元に内藤氏はホスピスケアに力を入れている。聖隷三方原病院と淀川キリスト教病院が、日本で最初に「痛み」のホスピスケアを行った。アイルランドでは体の痛みだけでなくすべての痛みのホスピスケアを行っているが、それを日本で最初に採り入れたのが聖路加病院。内藤氏は英国で6年間勉強した後、在宅ホスピスに取り組んでいる。

日本では、施設型ホスピスが普通だが、厚労省が認可するホスピスの病院にはエイズとガンの末期患者しか入れない。ホスピスでは「痛み」の緩和が重要となるが、病院型でなく「家で最期を」と望む人のための在宅のホスピスケアは不足している。家で死ぬということが難しくなっている。60〜70年代に病院で死ぬ人と家で死ぬ人の割合が逆転、今は90%近くが病院で最期を迎える。それに関して意思表示できる状況にはない。東京で、ある職人の親父が末期に「おれは畳の上で死ぬからな」と若い看護婦に言ったところ看護婦は周りに「畳屋はありますか?」と言った。「畳の上で死ぬ」とはそういう意味ではないのだが。内藤氏は最大限、家で看取ることができるようなプログラムをつくっている。そのために内藤氏にはいつコールがあるかわからない。24時間いつも患者のために動かないといけないという大変なこと。
 
この4人がこうしたこれから先のターミナルケアの話、先週行った。そのときの話をベースに今日はお話ししたい。
 生老病死のプロセスを考えてみると、自分たちそれぞれが生老病死に関わっている。自分がケアをするという立場における位置取りも考えていきたい。

これは御嶽山の写真。

Where Do We Come From? 我々はどこからきたか?
What Are We? 我々は何者か?
Where Are We Going? 我々はどこへ行こうとしているのか?
長野県にいると知事が横文字ばっかりなので、横文字に強くないとやって行けない。この英文は、ボストン美術館にあるポール・ゴーギャンの絵のタイトル。ここに生老病死のプロセスが示さており、みなさんどれかに属している。絵を見ると生老病死の流れについて考えさせられる。極貧の中、ゴーギャンはこの絵を描き、この絵が彼にとって最後の絵で、3年後に彼は自害する。

寺とは何をするところか?坊さんとは何をする人か?
寺の仕事に30年関わってきて、地域の中で寺は何をしたらいいのかを考えた。その役割とは「等身大の四苦(生と死)を地域の中でささえる」ということでないかと思っている。「等身大」とは「一人一人の」「オーダーメイドの」ということ。かつての施設は高齢者を一括りにしていた。オリジナルな対応はできていなかった。「一人一人に向かい合う」ということ。これが、寺とは、坊さんとは何をするものか、という問いに対する僕の答え。「頑張れ仏教」という本やNHKの対談を見た全国の坊さんの「仲間」が僕を講師として招くようになった。滋賀や和歌山の寺も研修に私を招いてくれた。300人の坊さんを見ていると、坊主頭を見るだけで何となく気持ちが悪くなるものだが、そうした中で僕は坊さんへ「あなたたちは何のプロフェッショナルか?」と質問する。答えられない。読経のプロ?葬式のプロ?僕はこの、「等身大の四苦(生と死)を地域の中でささえる」プロという答えに行き当たった。

MEMENTO MORI 「死」をみつめ、「今」を生きる
このラテン語は死を想え、ということ。享楽の中では死を考えるということをすっ飛ばしたくなる。自分が死ぬ存在であるということを見つめなおし、今の自分に向かい合う、という言葉で当時、ペストが大流行していた。死から生へ転化するという意味。
どこであっても死亡率は100%、生存率は0%。当たり前のこと。

本当の死が見えないと本当の生は生きられない(物理的な生死だけでなく社会的な生死という意味も含めて)。僕はこう考えて70年代末から死の現場を歩いた。歩いた4つの死の現場は戦争、チェルノブイリ、エイズ、ホスピス。

生と死が切り結ぶ現場1−戦争。
僕は1948年、戦後生まれの人間。戦後の人間が戦争の痕跡を見つけて歩いたということ。日本からジャカルタまで飛行機で10時間。ジャカルタからまた飛行機で10時間のニューギニアのビアク島。マッカーサーが"、We shall return"で一時退却し、反撃に転じ、ビアク島で大激戦が行われ、一万数千人の日本兵が玉砕する。1976年に訪れた。

このモクメル洞窟は1,000人の日本兵が身を隠し、蒸し焼きにされた現場。遺骨がたくさん残されている。米軍より投げ込まれ、機関銃の機銃掃射によって蜂の巣となったドラム缶。お骨が累々としている。戦争は知らなくていいんだと思っていたが、そこに立つと、魂が語りかけてきた。そこから坊さんがやるべき仕事は何かについて考えさせられた。洞窟には日常品がたくさん落ちていた。碁石も落ちていた。自分たちは間もなく必ず死ぬんだという意識を持ちながら生きたに違いない。重傷者もいただろう。重傷者は仲間の足手まといになりたくないとして自爆し、その肉片が洞窟にはりついて、そのような中で迫り来る死を待っていた。この1976年、洞窟で玉砕した日本兵が出征前3ヶ月に結婚した奥さんと、その間にできた子どもが、この戦闘から33年を経た痕跡を発見し、号泣する。その涙と泣き声を前にしてどうにもならなかった。慰霊のお経が声にならなかった。これは、そういう場面。ガダルカナルからレイテから沖縄から今まで回って、たくさんの兵隊さんのお骨に出会ってきた。不条理ですさまじい死。

岡村昭彦との出会い−等身大の実物の生死と生死が切り結ぶ現場を写真は教えてくれた−岡村は1929年生まれの戦場写真家・ジャーナリスト。彼の実績を私は追って、彼がシャッターをおした現場をたどっている。彼はヴェトナムからアイルランドに行くことになる。ケネディが暗殺される直前の63年、ヴェトナムへ侵攻するにあたってケネディーはこのように言ったという。1945年に原爆を落として以来、核兵器の実験は行っているが実線では使用したことはない。今後米国が地域紛争を取り押さえるため、小規模地域で実験したい。岡村はその話をきいた。ヴェトナム戦争は、戦争が広報されたという歴史的な戦争。島村も澤田も五十嵐も、たくさんのカメラマンが死んでいる。彼はその中で、サイゴンで色々な情報を入手する。そしてケネディを調べていって、今起こっている事実は300年遡って真意が分かるということを悟る。ケネディの先祖はカトリック系アイルランドの移民。プロテスタントでもない彼が大統領になった、その怨念が大統領を殺したと言われる。ケネディーの大祖父が移民で、彼らがニューヨークの街をつくった。ギャングオブニューヨークもその物語。ヘレンケラーの家庭教師のアン・サリバンもそのコミュニティの一人。

1800年代半ば、移民のきっかけとなったのが、じゃがいも飢饉。それを救ったのがマザー・メアリー・エイケンヘッド。彼女はホームをつくり、具合の悪い人々の収容を始めた。それが近代ホスピスのはじまりとなる。岡村はアイルランドでその実績に出会い、日本にホスピスを紹介する。彼はアイルランドでホスピスと同時に末期患者・精神障害の人たちのケアにも触れて帰ってくる。ベルギーのギールは町全体が介護病棟となっている。たくさんの精神障害者を里子として、里親が迎え入れ、町全体がリハビリテーションを行っている。岡村はその様子も日本で紹介する。そして私の住む近くの安曇総合病院で実験をする。こういう彼の動きがたまらなく好き。世の中でネガティブな部分を新しい意識で摂取している。 木村利人という早稲田大学教授と彼が日本の生命倫理を確立した。

私は東大で講師をしている。相手は先端生命化学をやっている連中。先端生命化学とは、クローン実験の中枢。そういう職業の連中に対して講義を私はしている。何故か?彼らが私を呼んだから。彼らは何でも生命のコントロールができる。その世界とはどんな世界か。10年後、今までの子どものつくりかたが古典的となる。そして、遺伝子操作から生まれたジーンリッチと古典的なジェネラルと、2つの層ができる。ジーンリッチの容姿はハリウッドの映画女優、肉体的能力はNFLの選手並み、頭脳はハーバードの学生、という万能で、金持ちはジーンリッチの子どもをつくる。そうした可能性もあるのがクローニング、あるいは生命操作。その中で、私は岡村が日本に紹介した生命倫理を講義している。

 これは北ヴェトナムで「ベトコン」が撃たれた直後の写真。
 そしてこれは、ゲリラと認定されて殺される直前の青年の写真。
私は、少年刑務所で致死罪の罪を犯した少年を対象に3〜5人の単位でワークショップを開いている。非常にエネルギーがかかる仕事である。彼らの頭に様々な映像を浮かばせる。最初は両親の顔。5回目には受刑者が被害者を死に追いやった情景を事細かに思い浮かばせる。そのなかの3回目にこの写真を見せるようにしている。そして、この目をしっかり見つめさせる。彼らにとって大変な作業がそこからはじまる。現場検証をさせるということ。彼らのうちで、刑務所から出所するときに犯した罪がゼロになったと錯覚してしまっていると再犯してしまう。その連中に目と目を向かわせるときに使う写真。

革手錠で結ばれた2人の姉と弟。そのまわりには殺された両親がいる。そして2時間後にはこの姉と弟も殺される。米兵に、民間人だ、殺すな、と岡村は叫びながらこの写真を撮った。彼ら(姉と弟)は、それまでに幾度となく死を見てきたであろう。そして今、間違いなく自分たちも殺される、そのときの目。

ヴェトナムの次に彼はビアフラ(アフリカ)の内戦に向かう。そして、この機関銃の弾をうけて倒れる写真を1969年に撮影する。被弾して倒れる瞬間の写真を撮影したのは、この「崩れ落ちる兵士」を撮影した戦争写真家ロバート・キャパと岡村の2人だけ。

これはビアフラで、難民となって力尽きて亡くなった母の前に立つ子。戦争が起きると難民がうまれる。この子どもはアイルランド赤十字によって助けられ、ここでも岡村とアイルランドの接点がある。

昭彦を追ってベルギーのギールへ行った。精神障害者と里親のご夫婦の写真。500人が450世帯に同居している。この自治体の考え方はすごいと思う。精神障害者の施設やグループホームを作るというだけで普通は地域で反対が起こる。惣万さん・阪井さんのところでもそういう問題が起きたという。それなのに自治体自身が受け入れる政策をとっているというのはすごい話。

生と死が切り結ぶ現場2−原発事故
1991年、チェルノブイリ。4月26日、事故発生。北風に乗って通常の40〜100倍の放射能が飛散する。そこでの医療支援において、等身大で実物の死に出会う。1992年1月に、この少年とお母さんの涙が本格的な医療支援を展開するきっかけとなった。彼は白血病。この病院ではとても助からない、日本の医療を受けさせてほしいので日本へ連れて行って欲しい母親は頼んだ。

これがチェルノブイリの4号炉。3月に「石の棺」の手前100mまで行った。放射能測定器の針が振り切れた。現松本市長の菅谷昭氏との医療支援がそこからはじまる。1991年から1997年にかけてのベラルーシへの医療支援は36回。甲状腺がん・小児白血病治療の医療システム開発を信州大学医学部と協働で行った。

生と死が切り結ぶ現場3−HIVエイズ
日本の場合、エイズの末期患者の姿はプライバシーの観点もあって完全にガードされ、衆目に晒されない。1997年、インドのベラレスへ向かう。ここはガンジス河へ下りる階段がある、ヒンズーの聖地。人々は、ガンジスで沐浴し、自分の死が安らかたらんことを彼我に向かって祈る。街の一角に、マザーテレサがつくった「死を待つ人々の家」に、死を迎える人が集まる。お坊さんが、しに行く人の口にガンジスの聖水をふくませる。安らかな死を看取ると、遺骸を白い布でくるんで、竹の棒で背負ってガンジスの岸辺まで楽団を先頭に歩く。その楽団の演奏が何とも賑やか。岸辺にて火葬されるが、十分な薪を買うことができなかった人の遺骸は、十分に焼けずいわばミディアムレアの状態となる。ガンジスで流されている途中で、鳥が肉をついばみ、岸辺に流れ着くと犬が喰らう。そういう光景が見れるのがベラレス。私がターミナルケアについて、悩んでいたとき、そこでたくさんの死に出会った。

インドに滞在するには、体力がないと疲れる。それで少々嫌になってタイに入ると、インド人は顔も言葉もきついが、タイは優しい。タイの空港に降りて、エイズ患者を収容し、ホスピスを行っているという寺(ロッブリー・プラバートナンプ寺)へ向かった。そこには60人の最末期の患者が並んでいた。生きた患者がいる部屋の扉の向こうには棺桶が積まれている。ここでは一日に9人死ぬこともある。引き取り手のない遺骨が四千体、袋に積まれている。寺には毎日200から300人の視察者が訪れる。医療系学生や軍隊や地域ボランティアがバスで大挙して訪れ、病棟の通路を普通に往来している。完全にオープン。患者にインタビューすると、そのことについて何にも思わないとのこと。自分たちは疎外されていないと実感しているのかもしれない。事実、そこから見学者のドネーション(寄付)がはじまる。

タイでは15〜55歳の女性が、ごっそり罹患する。現在は薬を買うことができれば免疫低下を避けることができるが、当時は免疫値が下がりっぱなし。これは、撮影2日後に死んだ28歳の女性。彼女はバンコクの歓楽街の風俗店で踊り子をやっていた。アメリカ人と付き合ったときに感染する。3ヶ月前に寺に来たが、彼女の身内が連れてきて、門の入り口で、身内は帰ってしまった。孤独な状態で彼女が私に言った言葉は「生きたい」。死が目の前にあることは明らかという状況での言葉。エイズ患者の最終段階は、頭は明瞭のまま。従って昨日は何ができなくなった、そして今日は何ができなくなったという喪失感覚が鮮明。そうした、この「生きたい」という言葉。それをきいてどうにもならないものが私の意識の中で動き始めた。

生と死が切り結ぶ現場4−ホスピス
今年、アイルランドに行ってきた。日本のホスピスムーブメントがどうもおかしい方向に向かい始めていると思う。ホスピスが夢のような場所に、ハイソサエティの人の最後のぜいたくをする場として、東京では金持ちが対象、3ヶ月待ちの状態となっている。3ヶ月も経てば死ぬ人も多い。
人間の命の最後においては、痛みの発し方がいくつかある。肉体の痛み(physical pain)・社会的な痛み(social pain)、感情的な痛み(mental painむしろemotional painか)、そしてスピリチャルな痛み(spiritual pain)。最後のspiritual painについては、当然あるものだと思われているが、そうだとしたらその痛みに向かい合うのは誰の役割なのか。それを求めてアイルランドへ行った。

 これがダブリンの街。スイスやイタリアもいいが町が気持ちいいということではダブリンがお奨め。お酒もおいしい。
 修道女のエイケンヘッド(1787〜1858)。彼女はホスピスの母でこれが、その弟子がつくりあげた"Our Lady's hospice"(聖母マリアホスピス)の。見事なホスピスで、宣言文(mission statement)が掲げられている。エイケンヘッドの死後20年後につくられた施設であること、チームアプローチによるケアに取り組んでいることが記されている。すなわち一人の患者に対して医療者がチームを組んで、ボディー・マインド・スピリチャルなケアに取り組むことが謳われている。我々もまずはこうした宣言文を掲げることが必要と思う。
 
そこで出会ったおじいさん。家族が集まってお別れ会を行って、僕もじいさんのベッドの横で歌をうたった。とても喜んでくれた。そして2日後に亡くなった。タイやインドと趣き違うが、死に行く人、ということでは同じ。

死の現場=究極の生の現場。ここにあらわれる「苦」の緩和に何が必要か?
この「苦」とは、四苦八苦というところの四苦。

人間の生命・3つの本性
1.連なりの本性
  自然との一体化
  生命の平等化
 自然への畏敬
2.自己利益の本性 
 自己防衛
  自己生存
苦痛の除去
  快の追求
3.ささえの本性
  利他的行動
  援助行動
  自己犠牲

ささえの本性が、ときに発現し、形を表してくる。ささえの本性の基盤は、動物が進化の中で獲得したものであり、それによって文明は作りあげられた。そして、機能化・役割分担さらには権力構造につながるもの。

英国のノーベル賞受賞作家のW.Goldingの「後継者たち」には、DNAに組み込まれたささえの本性が著されている。かつてのネアンデルタール人は定住しなかった。一方新しく出現したクロマニョンは貯蓄を始める。そして囲いをつくる。蓄えをつくると守らないといけなくなり、また、領域を広げようとする。それがクロマニョン的性格。そのいやらしい嫉妬・猜疑・戦闘的DNAが、現代人にはずっと組み込まれている。一方、ネアンデルタールは欲がない。お人善し。矢が飛んできても、全身で受け止めるのみなので、あっという間にクロマニョンに滅ばされる。そうした中、クルディスタンの洞窟において、子どもを事故で数日前に失った母親であるクロマニョン人が、ネアンデルタール人の赤ん坊の泣き声にひかれる。そしてその赤ん坊を抱き上げる。というところでこの小説は終わる。  
何を意味しているのか。混血がおこるということ。われわれにネアンデルタール人の血が流れている、ということがこの本に象徴的に著されており、この一本の筋がささえの本性である。

「ささえとはケア。ささえの本質はその人(もの)がその人(もの)であるために援助すること」「一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」(M.メイヤロフ)。
花が花であるためには何をしたらいいか。水をやる、虫を取り除く。簡単な話。ケア論の中枢はそこにあると思う。
 
利他的行動・援助行動・自己犠牲が発動し発現されるのは、どんなときか?困っている・助けを求めている・苦しみを訴えている・不安におびえている、というのを目にして、助ける・支える・ケアする、というプロセスに至る支援・ケアの構造理解はできているか。
この発動ができない人は鈍い人。センシティブに発動できるか。

ささえの本性発現の難しさ・弱さがどこにあるのか。
子孫を残すDNA戦略として、ささえの本性と自利(自己防衛・自己生存)が衝突する。
DNAに刻み込まれた自利の放棄は困難だが、その葛藤をブレークスルーすることで、共感・共苦が得られる。
チェルノブイリで、ささえの本性が発動されたが、一方で自己防衛の意識も働いたのも事実。しかし、それをブレークスルーしないと共感・共苦(compassion)という重要なものが得られない。
 チェルノブイリにおいて、目の前にありありと現実が顕れ、あの母親の涙に出会ったとき、ささえの本性が発動し、展開(対象地域への還元・自分探し)にいたったまでのプロセスは以下の通り。
小児がん(血液・甲状腺)多発
理屈・計算を超えた心的発動で現場へ
現地調査・国内外各種調整・資金獲得
拠点確保・人材/機材確保・アウトリーチ
ランディング地点の設定
基盤整備・長期的サポートプランの作成
異分野との協働・調整と対応 

 そして、タイの28歳の女性患者に出会ったとき。タイでは売春宿に通った夫から妻に感染することが多い。妻は同じくHIVを患った夫を旅立たせ、30%の確率で感染している子供をかかえるも、自身は仕事から追放されるという状況。そうした女性に仕事を、ということでアクセス21の作務衣プロジェクト・染色(バンタン村)。現地のお寺でこの活動は行われている。オーガニックな素材をつかっており、とてもいい作務衣。これは、あちこちの社会福祉協議会で売ってくれている。その中で、彼女たちの生きていく糧ができている。アクセス21の作務衣プロジェクト・縫製(チェンマイ・サンパトン)。40名働いているが、全員感染者。彼女たちはようやく自分たちの薬を買えるようになっているが、ファリン寺の作務衣作業場(コミュニティケアの形成)のNGO活動も28歳の女性に出会ったことからはじまったもの。

鎌田と2人で緩和ケア病棟をつくり、地域医療も含めやさしい医療をめざしている。これも聖母マリアホスピスホスピスの思いを受け取って、ささえという本性が動かされた結果。(鎌田医師との往復書簡は「行き方のコツ、死に方の選択」集英社文庫)

生死の現場が創りあげたコミュニティケアという等身大のケアシステム。
浅間温泉に観光という概念をケアに入れて、大きく変えようという試みをしている。廃業した旅館を借りてひとつは託老所、もうひとつは障害者・障害者のお母さんのステーションにとしている。
コミュニティケアというのは、これからの時代の中で絶対に必要。私は1948年生まれで団塊の世代のど真ん中。塊で生まれて幼稚園に入って大学に入って、すごい競争の中で育った世代。そして社会が揺れた時期を生きた。価値観が多様化した。彼らが大量に退職・離職して、地域に入ってくる。彼らは「雨の降った後の銀杏の葉っぱ」。ひっくりかえらない。そのとき地域がどのように受け皿をつくるのか。長野県は人口10万人あたりのNPOの認証数が多い県。地域医療がさかんで介護系NPOも多い。地域のケアシステムが特徴的に動いており、それをNPOがささえている。大量のおじさんが地域に入ったときの受け皿がNPOだろう。彼らが持っている財産(たとえばIT技術、英語力)を地域で活かしていく受け皿、活用法が必要。エプソンと話をして、会社にいるうちは会社の福利厚生の中で彼らの個性を保護しているが、会社を辞めたらそれでおしまいというのでなく、彼らが地域に帰って地域で働ける仕組みをつくらないかと提案している。彼らの企業的視点を社会貢献的視点に加える。施設福祉はおそらくこれからは中心にはならない。在宅で支える仕組みが必要だが、今は整備されていない。在宅で、小規模な地域で意識を高めてしっかり把握して密着して、ということが必要。今はそういう自治体はない。
「小規模・多機能・密着」これが具現化しているところはあまりない。それを考えていきたい。

生を見るためには死の現場をみることが必要だろうということで始まった遍歴、ささえの本性の発動の過程、具体的なホスピスケア、エイズのケア、という具体的活用、コミュニティケアの前触れ、以上が午前中のお話です。

<午後の部>
高齢者の方を対象に、「ごく楽倶楽部」という介護予防のセミナーを、諏訪中央病院で看護士をしていた非常に優秀な尼さんと非常に行っている。在宅で最期を送りたいという患者さんの檀家さんがあると、地域のおじさんたちや介護支援センターの力も借りて家で看取るのだが、朝方に亡くなったおばあちゃんの横で枕経をやって、仕事が終わったね。となる。「本当の」坊さんの仕事はそれからだけど、後はどうでもいいやという気持ちになる。
葬式も徹底的に変革しようと考えている。神宮寺での葬式はひとつひとつちがう。その人その人でちがう。カラオケ大好きおやじの葬式は最初から最後まで本人が歌ったカラオケ、私は最後にお経を「一曲」歌ってそれで終わり。祭壇に向かって、息子さんが父ちゃんらしい葬式ができてよかったね、といった。最大の褒め言葉でした。

コミュニティケアと等身大の四苦を支えるケア(生死の現場が創りあげたコミュニティケアという等身大のケアシステム)の実践について 
小規模・多機能・地域密着型ケア
団塊世代の動向を見ながら、ケアタウン浅間温泉のこころみを紹介し、家で死ぬという選択生死の現場が創りあげたコミュニティケアという等身大のケアシステムについて考えて行きたい。

団塊世代の動向
・在宅指向社会の到来(「2015年の高齢者介護」)
  〜高齢者の尊厳を支えるケアの確立にむけて〜
・団塊の世代の動向
 2010年=離職・退職→地域の受け皿が必要⇒NPO
        専門的スキル・人的ネットワークを保有
 2015年=高齢者の急増→施設福祉から在宅へ
・在宅における試み
 コミュニティケア 
デイホスピス   
 CBR(コミュニティベースドリハビリテーション)
レスパイトサービスetc.

これから施設福祉から在宅福祉に変わっていく。スウェーデンでは、1945年の終戦後、福祉政策を住宅政策として行っていた。高齢者が街のど真ん中に住めるアパートを建てた。街の中に高齢者や障害者が住めるように、という政策。そしてその人なりの行動範囲の中で自助的な範囲で動き回った。電気車椅子のバッテリがもつのは4キロ範囲内だが、そのバッテリで都心に着くような高齢者や障害者の施設は日本にはない。日本は1960年代、施設福祉を充実させていった。日本は方向性は誤ったかな、と思う。施設福祉は金がかかる。100人の施設に30億円。1人あたり3000万円。もうちょっとその金を小規模・多機能に使えばかなり面白いことができる。
在宅というのは新しいものではない。古くからあるもの。そこに帰っていくためにどういうコンテンツ、ツールが必要か。
とにかく団塊世代をどうするかが重要。行政は2010年の前に考えないと大変なことになる。

これは、浅間温泉のゲート。何ともださいゲート。2匹のたぬきの絵がゲートに書かれているが、いかにも、そこをくぐるとだまされるぞという感じがする。視覚障害者用の信号の音声は「かっこう」、かっこうは閑古鳥ではないか?
どうにもならない状態の温泉。そういう旅館。

旅館数1990年=37軒 入り込み客=391,223人
   2003年=30軒       180,566人
かつては善光寺参りがみんな寄って行った。
いい老舗旅館があるが、看板はぼろぼろ。これくらい直せよ、と思うが。
そのうちのひとつの看板が、某社会福祉法人。電気がついて目立つ。お客さんはその脇の坂を上っていく。温泉街に来るお客さんは非日常を求めているのに、それをみると「ああ日常だ」と思うだろう。この社会福祉法人に、いかがなものかと言うけれど、経済効率だけ求めているのか、町のことを全然考えてくれない。

私が借りている「御殿の湯」。城主の湯であったもので、原泉に近いところにある。主人が辞めるからといって借り受けることになった。もちろん看板はたてていない。

小規模・多機能サービス拠点。この図はコミュニティケアの基本について、厚生労働省の資料からつくりなおしたもの(別図)。
小規模・多機能サービス拠点としての御殿の湯・東御殿の湯は、「身近にある生活圏域、
小学校区・字(あざ)」「小規模なじみの関係、家庭的雰囲気、住み慣れた環境」「365日・24時間の「あんしん」を提供」「ワンストップサービス通い・訪問・泊り・入居」
ひとりの年寄りがいたとする。まだ元気だけど介護保険の認定は受けている、ということならば通い(通所デイ)として利用。寝たきりになる。すると矢印が反対になって、サービス拠点から赴いて訪問介護・看護を提供。そして嫁さんが家を外すときは泊まり(ショートステイ)という形でサービス拠点に利用者が赴く。そして、家ではとても、となったときには利用者がサービス拠点のグループホームを利用。
すなわち、在宅をベースとしてサービス拠点と矢印が行ったり来たりする。そうした多機能のサービスがワンステップで受けられる。そういった拠点が必要。生活の継続性とケアの継続性、心身のケアに対応するにはそういった拠点が必要。この図にはないが、在宅ホスピスとデイホスピスというのが更に必要。重要な図だと思うので、是非皆さんプリントアウトしてください。
こうした「拠点」は、民家を改造することで十分対応可能。民家といっても空家でいい。多分大津もいっぱいあるはず。それを再生すると非常に面白いとおもう。

ケアタウン浅間温泉
人口減少+高齢者急増+健康志向
温泉街の枯渇化+ケア指向の社会+マンパワー
すべての概念転換を行う実験場=浅間温泉
観光→ケアへ⇒まちづくり戦略
ワンデイ→ステイ⇒湯治場への回帰
既存組織→新しい組織⇒NPOとの協働
集団ケア→尊厳を支えるケア⇒コミュニティケア
単一ケア→総合ケア⇒ワンストップサービス
ケアタウン浅間温泉の先例は、秋田県のケアタウン鷹巣の例。老健だがデイサービも器具開発も、地域との往来があってとてもうらやましくなった。ただ、町長が変わって12畳の個室を見学して、広いね、もう一つベッドを入れましょう、ということになってユニットケアに転換した。行政主導の取り組みは為政者が変わるリスクがつきまとう。一方、住民主体の取り組みであれば、住民の意が続く限り、取り組みの趣旨が継続する。

 ケアタウン浅間温泉・プロジェクト
道具1  社会傾向
介護保険制度、支援費制度、成年後見制度、人口動向
道具2 手持ちのコマ
温泉、客室、土地・備品、お客さんごく楽倶楽部 他
道具3 人材
NPO「ケアタウン浅間温泉」プロジェクトメンバー
参画者
医師、看護師、介護福祉士、社会福祉士、設計士、一級建築士、土地家屋調査士、
僧侶・牧師、旅館関係者、カウンセラー、ケアマネ、NPOセンター、LDC
概念の転換(2003年3月)
温泉宿泊施設としての御殿の湯を宅幼老所(家的機能)としての御殿の湯へ、湯治場
日帰り・宿泊湯治、ケアする人のケア施設・相談事業を絡める
(2004年以降を目標)
@観光からケアへ
A生老病死を貫く総合ケア
 ⇒コミュニティケアへ
Bワンデイからステイ 
⇒環境+福祉+医療の複合
⇒まち全体のバリアフリー化
⇒福祉のサテライト化
C人・まち・施設の有機化
D既存組織との新しい協働
⇒観光協会・旅館組合・NPO
 行政・旅行代理店など
(浅間温泉ケアタウン化への実験、当地組織体とのコラボレート、全国へ情報発信、視察による集客、地場産業と連携)

健康志向は強い。健康のためには死んでもいいという人がいる。
浅間温泉が中途半端に活気が残されていたなら、こうした思いきった取組みはできなかっただろう。とことんどん底だからできた。かつての湯治場に戻し、ケアに近づく。それを求める人が多い。今まで元気な人だけが客層だったのを、高齢者も障害者も客層にとりこむ。
ドイツのバーデンバーデンも都会から離れ、携帯の電波が入らない・テレビもないようなところだが、こうした場所が滞在型として人気が高い。
「束にして燃やしてやりたい」くらいに既存組織は頭が固い。プロジェクト推進にはNPOを入れた方がいい。日帰り施設について指定患者制度の認定を受けようと思っているが、できるだけ長い時間、受け入れるというのは行政ではできない。
スワンベーカリー(クロネコヤマトの小倉さん発案の障害者の方によるパン屋さん)のおいしいパンと、おいしいコーヒーを朝ご飯にしようと思う。障害者をケアされる立場ではなく、障害者の活動をポジティブにするような総合的な戦略を練っている。
集団ケアから一人一人に対するコミュニティケア。
これが完成したらすごい。浅間温泉にどんどん人が来る。浅間温泉の概念転換。
託老所だけでなく託幼所も行う。そして世代間のミックスを図る。
視察による集客もしたい。これまで800人、視察に来てもらっているが、必ず1泊してもらうことと条件をつけさせていただいている。
それに、アートや山の美しさ(里山保全)も絡ませると面白いなと思う。
こうやって一生懸命取組むのは、僕が生まれた街だから。愛着があるから。

これが、通所デイの温泉。まさに絶品風呂!源泉まで50m・掛け流し・入浴剤なし。
外の景色が広く視界に入る一枚ガラス。一日に、じいちゃんばあちゃんが何回も入りに来る。施設の定員は16名。この規模だと十分採算がとれる。キャッシュフローをはじいてみると、10人を超えると大丈夫なはず。待機者は30名余。みんな先行利用者が早く死んでくれないかなあ、なんて思ってるかもしれない。何故魅力かというとこのお風呂、普通はこれだけ湯船が大きいとステンレスの柱を真ん中に立てたいところだが、スタッフがつきそってケアすることで、そういったものはつけない。職員は20台30台の女性で、もとは大型施設で勤めていていた質が高い職員。
このお風呂に、是非入りに来てください。

御殿の湯には、ボランティアも来てくれる。相当ご高齢の方も多く、写真を見て誰が利用者で誰がボランティアか判別できないかもしれないが。御殿の湯には、スケジュールやプログラムがない。決まっているのは12時にお昼ご飯ということだけ。てんでばらばら。寝る時間も決まりがない。
行政はカリキュラム・プログラムを求める。プライドが高い人はそういうのが嫌だと思い、御殿の湯に入る。よって永六輔と知り合いの料理店のおかみをしていたおばあさんが入っていたりする。

御殿の湯2Fのレスパイト(家族ケア)用の部屋。ここは家族がゆったりしてもらうための部屋。レスパイト用の家族専用のお風呂もある。最高。これまで高齢者や障害者をもつことが家族にとってネガティブだった、というのを転換するもの。

30人分の昼食をつくる。何しろ元旅館なので、朱色のものすごいお椀が出てきたりする。人間の尊厳が守られているという気がする。厨房の彼女たちにお願い・指示しているのは、街の個人商店から食材を買ってくれ、ということ。個人商店が強くならないと街の活性化は期待できない。今、どこの旅館も一円でも安いところから食材調達する。また、旅館の中にカラオケもおみやげ屋も機能集約する。城崎温泉もそういったことをやめてから、湯布院と勝負できるくらいに温泉街が活気付いた。

正面が御殿の湯の写真で、右奥にあるのが16年前廃業した東御殿。これだけの温泉が活用されていないとはもったいない話。まだ改装していないがいいお風呂。
私はいい2つのお風呂をもっていることが、とても自慢。

知的障害者支援の織物作業場&障害者デイサービス施設(東御殿の湯2F)
障害を持った人たちが働く機織の現場に子供たちが来る。惣万さんのところは、一つ屋根の下に行政でいうと7つの制度が入っている。こうした状態にならないといけないなと思っている。

以上が進展状況。
ケアタウン浅間温泉の内容と人材
(ワンストップサービス拠点としての、御殿の湯と東御殿の湯の内容と人材)
・既に動かしたもの
 通所デイサービス施設(宅幼老所)
在宅介護支援事業 ⇒ 介護ヘルパー
旅館出張介護サービス ⇒ 介護ヘルパー
障害者デイサービス施設 ⇒ 同上
障害者家族支援センター
居宅介護支援事業 ⇒ ケアマネジャー
レスパイトサービス⇒介護ヘルパー・相談員
・進行形のもの
 第2宅幼老所 ⇒ 介護ヘルパー・看護師・機能訓練師
グループホーム⇒看護師・介護ヘルパー
配食サービス⇒調理師・配達員
在宅入浴サービス⇒介護ヘルパー
ヘルパー養成
総合相談事業⇒相談員(精神科医・カウンセラー)
・これから動かすもの
有床ホスピス・デイホスピス⇒医師・看護師・ヘルパー

旅館出張高齢者サービスというのがある。障害者高齢者を専門とする旅行代理店がいっぱい現れている。それと提携している。旅館の部屋にヘルパーが赴く。今はグレーだが、それに介護保険が使えるかもしれない。配食サービスは、リストラされた調理師といい厨房を活用する。配食というのは配る人が大切で、これは養護施設の方に担ってもらう。芸者さんと仲居さんのヘルパー。おきょうちゃんは2級ヘルパーをとった。設備がバリアフリーでなくても、仲居さんがバリアフリーであれば足りる。雄琴温泉でも、このアイデアは使えるのでは。
有償ホスピスについては、診療所をつくればできるようになっている。事業者としてはまずドクターの確保が必要だが、意識の高い看護士さんであれば、いくらでもニーズあり。
もし希望があれば、働いてみませんか。

地域で等身大の生と死を支える
コミュニティケア+ターミナルケア
 →新しい在宅中心のホスピスムーブメント
在宅ホスピス&デイホスピスという
  選択肢の提供
ケアタウン浅間温泉における新展開
 ⇒等身大(生・老・病・死)ケアの充実
 ⇒そこで生きることに納得できる地域創造

ホスピスというと末期寝たきりのイメージがあるが、ベッドに横になって痛み止めのモルヒネの点滴を受けるのではなく、ペンタイプで歩き回ることが可能な点滴を英国では活用している。歩くとエネルギー消費によってお腹がへる。
セントクリストファーは60のベッドが48に減った。完全に施設から在宅へのシフト(デイルームに通うというシフト)が始まっている。今、日本は器をつくれと声高に叫ばれている状況。無駄だと思うけれど。
生まれ育った街、あるいは嫁にきてからずっと過ごして、ここで病気になりここで死ぬ街、それが浅間温泉であってほしいというささえの感覚。

家で死ぬという選択・デイホスピスの可能性
 イギリス
220単位 2/3がホスピスに付属  デイケア専門

ケアタウン浅間温泉の可能性
・基本ケア=送迎・入浴・整髪・食事など(既設)
・その他のケア=カウンセリング・法律相談
リビングウイルの表明など  (既設)
・緩和ケア=アロマテラピー・指圧・マッサージ
     +薬剤(モルヒネなど)+アート(加設)

リビングウィル(生前意思)をしっかり残しておくということ、医療者はそれを実行するということ、たとえば脳死の際の意思確認だけでなく、死後どうしたいも含めて残すために「旅立ちデザインノート」に書き込む。

神宮寺のホールで内藤いずみ、ピーコと3人で「どこでどう死ぬ現代社会」について鼎談した。ピーコはおすぎの家の前で、のたれ死にをしたいと言った。

「病院で死ぬということ」を1993年に著した山崎章郎と、医師の西山公子との「ホスピスを超えて」について鼎談した。山崎氏は、小金井の病院でホスピス等をつくった。ホスピスをネガティブにとらえての「ホスピスをこえて」。ガンで死ぬ人は30万人。そのうちホスピスの施設に入れるのは3%。そもそもホスピスの対象がガンとエイズの末期の患者だけなら、ホスピス増設の意義は薄い。コミュニティケアを構想。9月23日にケアタウン小平というケアタウン浅間のぱくりをつくった。ケアタウン浅間もケアタウン鷹巣のぱくりなのであまり他人のことも言えないが。
立派な3階建てのビルに1Fはデイサービスなど、2Fはアパート(個室)・食堂(3食付部屋代込みで家賃は20万円を切る水準)。彼は民家ではなくマンションを基本としたモデルを試みた。

ホスピスを越えるツール=デイホスピス(St.クリストファーズ・ホスピス)
ターミナルケアでの僕の行動を、ということでセント・クリストファーズを訪ねた。英国庭園に柵がある。
シシリー・ソンダースは。看護士であったが、最末期のユダヤ人青年に恋をする。その後医師となる。青年は彼女に500ドルをわたして、「あなたの窓になる」と言って亡くなり、そこからホスピスがはじまった。
「死ぬ瞬間」を著した・エリザベス・キューブラー・ロスとシシリー・ソンダース。去年は巨匠が2人も亡くなった年であった。

ホスピスを越えるツール=デイルーム(トリニティ・ホスピス)
すごく明るくてきれい。利用者が絵を描いたり陶芸をしたりしている。体の痛みは薬だけでなく動物や芸術でも分散される。

ハーリントンホスピス=デイホスピス(ロンドン郊外)
@デイケアホスピス Day Care Hospice
ニーズに合ったケア・環境作り・メニュー作り・代替療法の情報提供・感情的心理的サポート・専門看護によるアドバイス・霊的サポート・昼食提供・送迎・レスパイトサービス・ヘアメイクなど
A 在宅ホスピスケア Hospice at Home Service 
ホームケアチームの昼夜にわたる手をかけたケア・レスパイト・アドバイス・仲間作り
B 家族支援サービス
ケアする家族の休養確保・24時間体制ナーシングサービス・6,000人の看護師
C リンパマッサージクリニック
これなら在宅で最期を迎えられるかも・・・・・

リンパマッサージは、浮腫を和らげる効果がある。
ニーズにあったケア、代替療法(東洋医学・漢方)を多く採り入れている。
ここまでやっている。国家保健省・マクミラン財団のスペシャルナース。がんや精神医学の専門ナースが医師から権限も委譲されている。スピリチャルな部分も行っている。「牧師さんがいるのか」と聞いたら「いません」との答えだった。ホスピスは宗教者がいるというイメージが強かったが全部ナースがやっている。すごい。日本もそういう意味でもナースの権限が強い方がいい。医者にはよほどでなければ、お金が発生しないケアを敢えてやろうとしないだろう。

ハーリントンホスピス内のビューティーサロン
ホスピスの中でヘアメイクもマニキュアも行われている。こうしたことはとても重要。昔、施設に入ったおばあちゃんはみんな刈上げ、みんな同じ服ということも多かった。個人の尊厳を引き裂いているような気がする。きれいでいたいという気持ちを大事にする。
ほとんど保険対象ゆえ無料だが、その対象外のためにファンドレイジング(資金調達)のために国立銀行のOBが無償ボランティアをやっている。こういうことをやって行かないといけない。

ささえの本性を発動するために
寺機能の見直し
生・老・病・死のトータルケア
地域福祉の本質へのかかわりささえの機能のために、お寺の機能を見直すことが求められる。お寺は全国に7万5千。お坊さんは20万人。自衛隊と同じだけの数。20万人の坊主どもが本気になって自分たちの使命を果たしていくことで世の中は変わっていくと思うけど。

生・老・病・死を貫くケアに寺がかかわる
−四苦の緩和にかかわる神宮寺のシステム−

コミュニティケアの核としての四苦の緩和に向けた具体的取組
相談各種(専門家との協働)
こども関係(預かり・研修など)
ごく楽倶楽部(介護予防)
ケアタウン浅間温泉
デス・エデュケーション
ターミナルケア
リビングウイル
別れのデザイン
看取り・ビリーブメントケア
葬儀・墓(永代供養墓)
そこから、地域全体の安心感が生まれる。

相談が多い。テレビに出演した後、電話が鳴りっぱなし。自分だけでは対応できないので、専門家につなげていくというネットワークが必要。精神科医3人とネットワークを持っている
子どもの問題も多い。超ひきこもりで、床ずれができている22歳の方の相談も受けた。神宮寺で過ごしてもらって元気を出してもらって、彼女は今看護士の勉強をしている。 
一つのお寺でやろうとおもったらできる。

子供のためのコンサートには400人が集まった。
子育て支援・子ども文庫
尋常浅間学校校長の永六輔と教頭の無着成恭。困った頑固者。

 「千の風になって」は、新井満の歌。
 
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
 千の風 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています

 秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
 夜は星になって あなたを見守る

 私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
 千の風 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています

 千の風 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています

 あの大きな空を 吹きわたっています

歌詞に心底納得してしまう。大切な人を失ったときの「殺し文句」。

ミニデイサービス「ごく楽倶楽部」の問診
前述した神宮寺の尼さんだが、血圧をみている。お年寄りに、「どんな気分か?」と聞いてみると、「とても安心感がある」との答えだった。
坊さんになるからには、医療者の資格、PTでのOTでもそれをとってから寺に入れといっている。

代表理事を務めているNPOライフデザインセンターがリビングウィルを明確化するための出している「旅立ちのアレンジ」と「旅立ちデザインノート」。相続についての遺言については、必要事項を埋めて印鑑さえ押せばいいような雛型。もめごとがおきないように親族の系図の書き方。これらは相続の問題解決に資する。「アレンジ」を見ながら、たとえば成年後見制度についての意味を参照しながら「デザインノート」を書き込むことができるというすぐれものの2冊。2冊で1,200円で相続のごたごたがなくなると思えば安いと思うので、よろしければお求め下さい。
ご自身については勿論、高齢者の現場に携わる皆様が、そういう問題に直面する老人に出会ったときの考え方の整理にも役に立つはず。

これが、神宮寺の葬式のスタンダードな祭壇。ショーウインドウを飾るのを専門としている女性のフラワーデコレーターがアレンジしている。全部でセット料をこめて20万円。葬儀屋だと当たり前のように50万60万円とられる。祭壇のお花には、親戚から届いたお花も入れる。喪主は一切祭壇のおはなにつれている。

棺には寝心地がいいのと悪いのとがある。この棺は寝心地がいい。これをつくっているのは20歳前後のNPOの若人。
 
香典返しとして、何を選ぶか?アズユーライクで一応選択可能となっていても、ほとんど欲しくないものばかりでないか。そこで、香典返しとして、石鹸もタオルも障害を持った人の共同作業所でつくったものを使う。タオルは愛知県の精神障害をもった方がつくったもので、和布によるとてもいい品質。
こういうアイデア、葬式の中での社会貢献というのはいかがでしょうか。もらってもありがたくないものを一度の葬式で200も300も注文するのではなく、社会貢献の観点を加える。

葬式の実験的なワークショップで、棺に入ってみるという体験の一幕。蓋を閉めて釘を打ってもらう。この方は「いやよかった気持ちよかった」と言った。こういうワークショップを2泊3日でやっている。誰か亡くなったという前提の下、実験的な葬式を行う。広報したら1日1,000人の人が見に来た。最後は音楽葬。

合祀墓「夢幻塔」。これは誰もが入れるお墓、無縁墓。おすぎも予約している。「何々家」のお墓がこれまでは基本だが、「私はあんな人と入りたくない」「あんなお姑と入るもんですか」という人もいるであろう、ということで結構予約が入っている。

散骨はできないので散灰をすることになるが、「散灰業者」もいる。というのはうそ。ただ、ミキサーで細かく遺骨を砕いてくれる業者がいるのは事実。

 原爆忌法要『原爆の図』「たけやぶ」
原爆忌コンサート  森山良子さん
森山さんは一曲だけのはずが、1時間も熱唱してくれた。

わかっていないことが多すぎる!
 ・・・なのに、みんな坊さんをやっている!
・寺とは何をする場所か? 
・坊さん(僧侶)とは何をする人か?
・何のプロなのか?
・僧侶の「現場」とはいったいどこか?
・我々はどんな時代に生きているのか?
・その中での役割は何か?  などなど

 生・老・病・死(四苦)のケアにかかわるために必要な感覚
 「世界」をキャッチできるセンサーはあるか?
・我々はどんな時代に生きているかという認識はあるか?
・人々のニーズ把握ができ、状況分析はできているか?
・切迫したものへの優先性を付けられるか?
・切迫した課題を改善する意欲はあるか?
・課題解決に向かうコーディネート力はあるか?
・将来への見込みを立てられるか?
・着陸地点を予測できるか?
・旧態・守旧的な体質を打ち破れるか?
・「信」をバックグラウンドにしまい込めるか?

自立できたらそこから手を引くというのがいちばんいいこと。
私は、檀家制度・世襲制度をうちやぶろうとしている。お坊さんたちの会でこういう話をすると「あなたの信仰は」と聞かれるが、決して僕はいわゆるお坊さんとしての仕事も疎かにしているわけではない。お盆は600軒をまわるし、朝のつとめもしている。いい加減な奴らがそういう質問をしてくる。ターミナルケアの現場でベッドの横に立って相手がどういう痛みをもっているのか、傾聴することができるのか。そうでないとターミナルにいる方はたまらない。関係性の中の修復活動を行っていく、それが役割。

家で死ぬという選択、ホスピスを越えるということ
緩和ケア病棟≒ホスピス(日本)
1990年→5カ所  2003年→114施設 2,154病床
・年間がん死亡者→約31万人強
    緩和ケア病床はその3.7%だけをカバー
・がん・エイズの末期患者=定額医療費(38,000円)
    他の疾患の患者=出来高払い→低額の医療費
・看護+介護に重点→人件費負担増
・訓練された医療者が少ない
・患者や家族に正面から死の問題に取り組む意志がない
・サポートできる宗教者がいない(宗教者は必要か?)
最期を迎える場として(施設型)ホスピスは十分か?

今日は、私が思っていることすべてをお話した。是非、フィードバックをお願いします。

「家で死ぬこと」は、4日間でかきあげた本。岡村昭彦の記述もある。神宮寺で売っている本。神宮寺のHPをご覧下さい。
「旅立ちのアレンジ」と「旅立ちデザインノート」は、ライフデザインセンターが販売している。若い人も書いてみると、今置かれている状況がわかるはず。自分史を書く、別れの手紙を書いてみようというシミュレーションがある、それをやってみてください。対象を誰にするか。おそらく一番大切な人だろう。そこに気付きがある。書けるところから書いてほしい。葬式をしないならしない理由も書いてください。葬儀の形式。好きな花、きらいな花も書いてください。祭壇をどうしたいか、御通夜の料理のメニューを指定することもできる。お墓や通帳等の保管場所についての覚書に連絡すべき方の住所録。これを書き上げると「おめでとうございます」の頁へ。面白いでしょ、こういう楽しみ方をしないと。

ケアタウン浅間温泉にとても追いつけないと思うかもしれないが、そんなことはない。いろんなアイデアを組み合わせる、あるモデル地域を設定してみると面白い。漠然と絵を描くだけではだめで、どこかしっかりモデルとすることで実現性が高まる。行政からNPOへの委託(患者指定制度等)にみられるように財源も権限も官から民へ移って来ている。そこにささえのケアの本能を活かしながら取り組む。

(グループ討議を経て)
施設などで死にたい、というじいさんばあさんに対して。そう言いつつも、元気になるための薬を飲む。何故その言葉になるのか。生きる意味を失っている、生きることで他人に迷惑をかけるという意識が強く働いている。また、物事が自由にならないという思いもあるのだろう。その3つが大きいのではないか。みんながいくら優しく対応しても解消できないことが多い。生きる意味については特に難しい。
ここで、たとえば職員と入所者との関係ということで言うと、職員は仕事が終われば職場を離れる。365日入所者に向き合うわけではない。「無痛のバリア」をはることができる。しかし、少々きつい言い方になるが、無痛のバリアの下では「共感、共苦」(compassion)は実現できない。コンパッションは無痛のバリアではえることができない。
そこまでやるかというバランスをとりながら、compassionの域まで踏み込めるか。
詰まるところ、ガン患者とイコールにはならない。末期の人の苦しみは、その人のレベルに下りていかないと分からない。下りていくためのシステムがない。それで現場で葛藤があるのだろう。そこを考えなければ。

介護保険の限界について。松本は22万都市。29地区に分かれている。それぞれに福祉広場を前の市長がつくった。元気なお年寄りが集まってくるところだった。前の市長が利権誘導型で立派なものを作った。今の市長に替わって、介護保険を飛び越えるようなミニデイをやっている福祉施設に、ミニの特養、ミニの老健、デイも含めて広がりをつけていくことをやっている。制度上難しければ、特区化してもおもしろいか。
しかしアイデアを行政トップまで伝えるというのは大変。とすれば、自分がトップになる、あるいはトップを生み出す、そういうことを考えていかないといけない時代。そういうマニフェストをつくらせる。松本市のマニフェスト作成にも私は関わった。
行政トップにつながりができるとあらゆるものが有利に運ぶ。
子育てセクション、あるいは学校の授業がうけられる教育特区、いろいろな特区化を考えてみては。

高齢者・障害者・末期の方との共苦のための基本は、柏木哲夫の「何もしなくていいそこにいればいい」"not doing but being"。て黙って傍らにいる。それは非常にむずかしいこと。
地域に出ようとしている医者はあまりいない。
医療教育の根本がコミュニケーション学について欠落していることからすると当然。どれだけ記憶するかということに重点を置いている。むしろコミュニケーションは無駄だとなっている。最近、シミュレーション・ペイシェントを国家試験のパートの一つとする動きがあり、まもなく動き出すと思う。インフォームド・コンセントやセカンドオピニオンに近づけることにも必要。いい生き方をするには、いい医者・いい葬儀屋・いい坊主が必要。
鎌田さんは、判断力がいい。判断が正しい。医療的な判断だけでなく家族の係わりや本人のいきかたをデータにいれて判断を下している。そういう医者がいたらな、と思う。

無痛のバリアの中に自分を押し込めているというところを考えてみてもいいかもしれない。そういう場所からは死にたいというおばあさんに対する答えはでない。葛藤してみてほしい。いい解決を示すプロセスを辿って欲しい。

以  上