いきいき介護セミナー2008


日時;平成20年6月22日(日) 9:30〜12:40
場所;おおつ第一生命ビル
講師;惣万佳代子 先生(このゆびとーまれ・代表)

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滋賀県の皆さんの前でお話できることを喜んでいる。滋賀県は8年前に、当時の健康福祉部長の池口さんが、滋賀県にも「富山型」を展開したいということで視察に来られた。
 4年前に富山介護大使を拝命した。富山県の認知度は全国44位。「富山県はどこ?」と聞かれて青森や島根を指差す人がいる。持家率・家の広さ・仏壇の大きさ・コロッケ消費率は日本一。富山の女性は、お嫁に来たら朝4時に起きて田植えをすることもあって、美人が少ない。でも肌は黒いが、腹は黒くない。

 人間と動物の違いは何か?「人間は考える葦である」という難しい答えは要らない。「人間は笑える。」「人間はしゃべれる。」「動物は考えていない。」いずれもその通り。
 ある人は、「人間は入れ歯をする」と答えた。ある人は、「人間は愚痴を言う」と答えた。ある人は「犬・猫は足を引きずるようになってもそれを嘆かない、老いていくことを後ろ向きに考えない」と答えた。宗教関係者は「人間には宗教がある。死後の世界を考えることが出来る」と答える。確かに、動物は目の前のことばかりを考えているが、人間は5年後・10年後・死後のことを考える。教育関係者は「人間には教育がある」と答えた。動物は、子育てをするかもしれないが、受験勉強の世界は無縁。因みに世界史の履修問題の発祥は富山県。富山県の教育長は、富山だけの問題だと思ってこっそりしておこうと思っていたところ、全国区の話であった。

 人間と動物の違いとして、私は3つ挙げたい。
 1つは、笑いがある、ユーモアがある、ということ。立川志の輔さんも富山出身で、2年前県の落語大使となっている。柴田理恵さんや、室井滋さんも富山出身。人間だから笑いこける。きんさん、ぎんさん、それぞれ107才、108才で亡くなられたが、私はユーモラスなきんさん・ぎんさんが大好きだった。彼女たちの名せりふに、「デビューがおそかった(98歳)」というのがある。台湾旅行に行って、台湾の記者にパスポートとられましたか?と尋ねられて「はい、おいしかったです。」と答えている。お年寄りはカタカナに弱い。近所のばあさんも、長野までベランダを見に行く、と言うので、どんなベランダかと思っていたら、実はラベンダーだった。地域包括支援センターの紹介で、独身の息子と2人暮らしのおばあちゃんを2週間預かった最後の日に30代の男性職員が、玄関で見送って「ばあちゃんまめでおらんね」と、元気でね、というつもりで言ったところ、「あずきでおっちゃ」と答えた。認知症のテストに天気・生年月日・今の総理大臣は、という項目がある。あるおじいちやんが、今の総理大臣は、と尋ねられると「キムタク」と答えたが、先生はちんぷんかんぷん。どちらが認知症かわからない。バスが2,3分遅れてきた。バス停で待っていた80代・90代のお年より3人組みが「これはロスタイムやね」という会話をしている。介護の現場にはユーモアが必要。ターミナルの現場でもユーモアをもつ余裕が不可欠。ターミナルだからといって皆さんがつらい顔をしていると死んで行く人もつらい。ユーモアを持つためには気持ちに余裕が必要。
2番目は、人間は親の介護をするということ。動物は、子育てはするが親の介護はしない。動物は自分ひとりで自分の死を悟って死んでいく。もし私が時間の管理をできなくなって、昼を過ぎてもしゃべり続けた場合、この中から誰かが手を上げて、「これからじいちゃんばあちゃんの食事介助、おむつをかえないといけないんです。」と言ってくるはず。動物は、せいぜい「子どもにおっぱいをやらないと」というだけ。
 3番目は、人間は生殖能力が終わっても30年40年50年生きられるということ。カマキリのお母さんは、産卵したらすぐ死ぬというDNAが組み込まれている。人間の女性は閉経後、30〜50年生きられる。ある政治家は、「だからやっかいなんですよね」、と言ったが、これをやっかいととるか、すばらしいととるかである。

(富山型についてのビデオ紹介)

「富山ケアネットワーク」で情報交換を行っているが、現在、富山ケアネットの会員数は45箇所。県は65箇所あると公表している。そして、100個所を目指している。110万人の県人口だから、1万人に1箇所設置を目指していることになる。それに向けて、私たちが提案したことを受けて、施設改修・職員研修に関して県から補助が出ている。

 このゆびとーまれとは、富山市で平成5年7月に産声をあげた。ある1人のおばあちゃんが「退院してもいいよ」と言われたが、「自分の家なのに、帰れない。畳の上で死ねないのか。これが運命か」とおっしゃって、その声がきっかけとなった。富山赤十字病院の看護師3人が始めたデイケアハウス。せめて昼間預かることができれば、在宅で、という願いがかなうのでないか、という思い。大安であった7月2日が開所日。テレビ局や新聞社が押しかけてきたが、前日まで1人の申し込みがなかった。このまま当日を迎えたら、私が年寄り役をカモフラージュしないといけないかな、と考えはじめた夕方、身体障害児(3才)の子どもを持つお母さんから預かってほしいという電話が入った。あまりに嬉しくて「本当に来てくれるか?」と何度も確認した。当日1人だけの利用者だったので、テレビ局・新聞社がお母さんにインタビューする。「この子が生まれて1度も美容院に行ったことがない。美容室に行く間、預かってもらおうと思って。」というのがその内容。私は、てっきり最初の利用者はお年寄りだと思っていた。それが障がいの子どもだった。お母さんは3年も美容室に行っていないので、髪の毛が長く伸びて1つに縛っていた。そして、クレオパトラ風のおもしろいパーマで帰ってこられた。

 このゆびとーまれの理念は、誰もが地域でともに暮らすということ。お年よりだけ、障害者だけ、子どもだけ、という、単一のコロニーをつくってはならない。相乗効果が全くうまれない。豊かな人間関係の中で人は育ち、喜びも大きくなる。一人ひとりが輝く。

このゆびとーまれには、多数の見学者が来られる。よく、このゆびとーまれは最先端のことをしたね、画期的なことをしたねと言われるが、最先端でも何でもない。私は、日本の文化であると言い切っている。私たちが小さい頃あった光景。お年よりは赤ちゃんの顔を見ただけで笑顔が出る。嫁さんの顔を見たら顔は引きつるので、しっかり相手をわかっている。子どもがいるからこのゆびとーまれに来る、とお年寄りは言う。お年寄り同士顔を見ても、ぜんぜん、笑顔は出ない。皆さんも隣同士顔を見てください。「気が晴れんでしょう」。

 2年前秋篠宮殿下が来られた。紀子さんは来られなかったが、県がいくつか挙げた候補の中から、殿下が選んでくださった。「麿言葉」でお話され、子どもたちに「殿下・宮」と言いなさい、と稽古していたはずなのに「王子様」と言ってしまっていたが、殿下は喜んでおられた。認知症で半身麻痺の方が、「ただいま戻ってまいりました、申し訳ございませんでした」と敬礼した。昭和天皇の命により戦争に行ってきたが、生きて日本に戻ってきてしまったという思いを抱えて生き続けて来られたのだろうと思うと胸が熱くなった。そんな感動的なシーンにあって、後ろにいるのがアンパンマンの顔の富山市長。

 現場では利用者と一緒にお風呂に入る。職員が裸になって入っても上司である私はとがめない。これを赤十字病院でやったらえらく怒られた。20歳代のとき小児病棟に勤務していたが、整形の病棟のおばあちゃんと一緒に入った。通常、職員は魚屋さんみたいな格好をするのだが、おばあちゃんと一緒にタオルに頭をまいて、歌を歌って背中を流して出てきたら、「看護婦が裸になって入浴介助するとはどういうことか。赤十字始まって以来のことだ」と婦長に怒られ、婦長会で大問題となった。しかし喜んでもらって親しんでもらってる、どうしてダメなのというと、湯船の中で患者が心停止したらどうしたらいいかと言われてしまった。
 でも介護現場ではこういうことは全然問題ない。怒る上司はいない。地域包括支援センターから、アルツハイマーの女性が2年間もお風呂に入らないという相談があった。1ヶ月たって2ヶ月経ってもこのゆびとーまれでも無理で、家族におしつけてでもいいから入れてくれと言われた。もう1ヶ月時間をくれと言った。30代の優秀な職員が裸になってばあちゃん風呂に入ろうといったら、「あんただけ風呂に入ってこられ」と言われる始末。結局、4人がかりで4人のうち1人が悪者役を演じて、一芝居をぶつことで何とかお風呂に入っていただいた。

 10年前亡くなったおばあちゃんが678グラムで生まれた赤ちゃんにキスをしている。介護とは両方喜ぶこと。どちらだけ喜んでいたらダメ。それは拉致という。この赤ちゃんは生きるか死ぬかの瀬戸際だったので、高濃度の酸素を長期間投与したため、網膜がやられた。両目失明している。だけど、赤ちゃんの目は大好きなおばあさんを見つめている。焦点がずれていない。赤ちゃんの網膜には大好きなおばあちゃんが映っていると思う。

 認知症のおばあちゃんと職員の子どもが一緒にシャボン玉をしている。この子どもは、将来このゆびとーまれで働きたいと言っている。

 元デパートの営業マンで認知症のお父さん。ようこそと言っている。

 障がい者同士が結婚し、男性の還暦の祝いをこのゆびとーまれで祝っているシーン。48の頃、2人で施設を出て自立したい、と言いだしたが両方の親族は反対。結局市営住宅に入った。旦那さんは20代のときに船に乗ってロープにまきこまれ大腿部4分の1を残して両足を失った。奥さんは脳性麻痺。男性が50代になってきたら、奥さんを抱っこして湯船に入れられなくなってきて、このゆびとーまれを利用することとなった。旦那さんが3年前、事故で亡くなった。富山ケアネット仲間の坊さんで、一番安いところで法事をしてもらった。奥さんはしばらくショックで体調を崩したが、今、市営住宅で自立している。

 半身麻痺のおばあちゃんの手洗いを3歳の男の子がお手伝いしているところ。
今の日本の家庭に何が足りないか?お年寄りを介護する場面・死んでいく場面との遭遇。それらの場面を見せないから自分・他人の命を大切にしない子どもが増える。
 学生さんの感想文の中に、担当した先生の感想文があり、「洗面器が2重になっていた。この技術を看護技術にとりいれよう。」ということで、この写真に感動したと言う。

 染色体異常で生まれた子ども。いろんな病気の中で一番の重症は心臓病。心臓の4つの部屋の仕切りがほとんどない。動脈と静脈が混じり、泣くとSPO2が20まで下がる。富山市民病院から、退院したらお母さんが働きたいと言っている、保育所に預けるのは無理だろう、ということでこのゆびとーまれに電話が入った。1歳までの生存確率は10%以下と言われていた。私たちも一生懸命で、緊張しっぱなしだった。結局、一歳の誕生日を迎えることができた。1歳1ヶ月生きて、自分の家で息をひきとった。1歳1ヶ月の命ではあったが、楽しい思い出を私たちにもつくってくれた。忘れることができない子ども。

 昭和の写真ではない。袋小路なので車は通らないので、子どもたちは道路に寝転んでいる。15周年を迎える7月2日、この道で催しをする予定。

行事には力を入れていない。日常の介護に力を入れている。大きい施設のように月ごとにまとめて誕生会を開くということはしない。たまたま2人の誕生日が一緒だったので一緒に誕生日を祝っている。この子は火を消すのが大好きで、大きくなったら消防士になったら、と言われている。3900円のケーキを利用者と職員とあわせて30人分に割るので、ケーキがいつも、ぺらぺらになって寝てしまう、寝たきりケーキと言われ要介護5状態。クリスマスケーキのときだけは、要支援になる。

 京都のアルツハイマーの大会でこの写真を見たポーランドの方が、本当にこの方は認知症なの?とおっしゃって富山まで見学に来られた。この写真は、ポーランドまで行って、このお年寄りは世界デビューを果たした。

 このおばあちゃんは子どもが大好き。自分でおんぶひもをかけた。「昔取った杵柄(きねづか)」。何度も徘徊して警察にお世話になったが、「日本の警察は優秀だね。私が散歩していたら迎えにきた」という強いプライドの持ち主。外孫の初孫が大好きで、この子にもその初孫の名前を呼ぶので、この子はその名前を呼ばれると「はい」と返事をする。赤ちゃんを見て、「あれ、あんたも早、歯がないがけ、ばあちゃんみたいに入れ歯つくられ。」の名セリフのおばあちゃんです。この子どもは「だんだんおおきくなって、もうすぐ3歳になるとき、「松風そよぐ丘の上」と家で歌を歌った、決してこのゆびとーまれが教えたわけではないが、おばあちゃんの歌を自然と覚えたらしい。

 ノーベル賞の田中耕一さんも富山の出身。赤十字病院の移転前、看護学校で働いていたときのすぐ近くの八百屋の隣のうちにいらしゃったと聞く。

 このおばあちゃん、認知症ではあるが、子守をして働いている。認知症の「食べたかどうかがわからない」というのが一歩進んで「食べていいものなのか、食べたらいけないものなのかわからない」状態。海苔の乾燥材のシリカゲルを食べたり、ホッカイロも食べた。このゆびとーまれでは、洗面所の固形石鹸を食べられた。石鹸を食べても人間は泡をふくだけで死なない。誰か見ていないと何を食べさせるか分からないので職員が注意はしているが、いけないのは確かだが、それくらいの認知症なのに子どもの世話はできる。
 マズローが人間の欲求のうち、最も高い欲求は自己実現の欲求であると言った。一方的に介護されるだけ、朝、目を覚めても行くところがなく、「せんでもいい、せんでもいい」と言われるようになれば、生きる気をなくす。畑のきゅうりに水をやらないと、洗濯を手伝わないと、と思うから生きようと思う。その残された能力をどう生かすか考えるのは、私たちの役割。
 このおばあちゃんは、この年になっても働きに来ていると思っている。給料日に「わしにも給料出ないのか?」と言った。

 そのおばあちゃんが施設に来られて7年4ヶ月。2002年に私と西村と添い寝をして亡くなった。認知症だけではなかなか死なない。肺炎かガンを発症して死ぬ。このおばあちゃんもガンが原因。手術をしないで、という家族の意志。亡くなる2週間前の写真。最後は痛みとの戦い。体がだるくて仕方がなく布団も重たいはず。それなのに、大好きな男の子が来たら、靴下をはかせてあげている。人間は最後まで自分の好きな人に何かしたい何か役立ちたい、という思いを持っていることを物語っている。死亡の日の前日まで自分の口から食事をとって、点滴は1本もしていない。享年86歳。

 この方も私と西村が添い寝をして亡くなった。享年95歳。死亡の16日前、病院に運ばれ、集中治療室に入るとき、家に帰らせてください、と希望し息子もそうしてくださいと願った。このゆびとーまれに直行して来られたが、死ぬ10日前、口からものが入らなくなった。看護師のよいところでもあり悪いところでもあるのだが、脱水症状が起こるのを前にして、放っておくことができず、医者に診せて500ミリリットルの点滴を毎日することとなったが、本人は、ありがたくないですとおっしゃった。このまま死なせてくれ、ということだった。次の日、お医者さんにお願いして外させてもらった。人間は弱っていく段階になってきたとき水分・食べ物の両方がなくなると1週間から10日で死ぬが、水分があれば40日もつ。
 亡くなる前、「家に帰りたい、家に帰りたい」とおっしゃった。70過ぎの長男が、「母ちゃん、家に帰りたいって、どこの家に帰りたいがよ」と言われたら、「砺波の家に帰りたい」と言われた。砺波の家とは、自分の生まれた家。富山の家に来て70何年か経っていたけど、砺波の家に帰って死にたいと言われた。そしたら長男が、「母ちゃん、もうあの家もうないわ」。もう代が変わっている。8年通われていたので、ここで死ぬのが当然だろうと思っていた。本人の気持ちもよくわかる。入院していても、家の畳の上で死にたいというのが本心だろう。それからあと5日は一度も家に帰りたいとはいわなかった。想像だが、本人は確かに家に帰りたかったのだろう。でも息子に砺波の家はないと言われて、このゆびとーまれで死のうと腹を決めたのでは。1番でも2番でも5番でも死に場所として選んでもらえるというのは誇りに思っている。

このゆびとーまれの隣のおばあちゃんは、H5年開所時の利用者1日1.8人の大赤字の時代を支えて下さった恩人。昼ご飯を食べに来られたり、「そのうち、つぶれるかも」という状況を察して、職員の夕飯を作るというボランティアを買って出てくれた。本当に料理がおいしくて、料理と晩酌が楽しみだった。おばあちゃんは、救急車で運ばれ、失語症と半身麻痺となったが、おばあちゃんの家でブザーをおしたらこのゆびとーまれにつながるようにした。今度は、おばあちゃんを支える番。心不全となって救急車で8回運ばれ、退院して帰った。本人が今度もし倒れても救急車で運ばなくてもいいと言われた。でも家で倒れたので娘さんは呼んだ。2週間治療を受けて、食べることを拒否、お医者さんは、家に連れて行って帰ってくれ、ということになった。一旦退院したら食べるようになった。10日ほどして、食事を拒否された。朝6時頃、娘さんが泣いて来られた。「食べることが出来るのに拒否されるとはこんな悲しいことはない」と私、西村に言った。西村がおばあちゃんのところに行って、「ばあちゃん、ばあちゃんは今食事を拒否しているが、いつか仏さんが迎えに来る。ばあちゃんの命は娘さんの命でもあり、私たちにとっても大事な命なんだよ」といったら泣いて食事をするようになった。その後1週間後になくなった。ばあちゃんはばあちゃんらしく亡くなった。
 看護教育では、患者さんが亡くなっても泣くなといわれている。私は職員には泣くだけ泣いていいといっている。涙が出るというのは、それだけその人に関わったということ。

 最近亡くなったおじいちゃん。元気なとき熱い湯が好きで、長湯だった。看護師が、お風呂に入れた。男性職員が、死後、「もうあがっていいですか、もうちょっとですか」とお風呂に入っていたいつものようにお声をかけていた。

 この方はALSで一種の難病。退院時、療養型病床を勧められた。家族・本人が、家に帰らせて下さい。1ヶ月だけデイで支えて欲しいと言われた。何故1ヶ月かというと、1ヶ月以上はとても持たない、1ヶ月したらお手上げになるだろう、それまで支えてくださいという意味。結果的に6年8ヶ月続いている。趣味は露天風呂に入ること。ボランティアを募集し職員1人とボランティアと一緒に出かけている。

この職員は、富山養護学校を卒業し、ビニールの会社、ハムの会社に勤めた。ハムの会社では、毎日同じ仕事に嫌気がさして、いろんな形に切ったらクビになった。25歳から13 年間、富山駅⇒富山中央鉄道に乗り換えての通勤だがとても明るく働いている。いろんな方に声を掛けられる。「利用者け?」と聞かれると「職員やで。人に役立つ仕事」と言い返す。テレビ出演したのを見た駅長さんに「えらいがけ」と声を掛けられ、「そんなえらいことないよ、駅長さん」と答えた。

 この彼も利用者だった。卒業後、利用者から有償ボランティアとなった。字もかけない。時計もわからない。人間は時計で動くということはわかっている。子どもの世話をしっかりやってくれる。

 この職員は、ダウン症だが自立して(自分1人でマンションに入って)いる。

重度障害者にとって自立とは?通う場所があること・居場所があること・存在感があること・人との交流があること。

障がい者をもつ母親にとっての自立とは?とインタビューをした。「私も厚生年金をもらいたかったわ」というのがあった。この子がうまれて何年かたって、自分も働きたかったがみんなから「こんな"重い"子をもって働くのか?」と反対された、ずっとこの子と生きてきてそのことは後悔していないが厚生年金をもらいたかった、選択肢の一つとしてお母さんが働ける社会をつくってほしい。
 今までずっとこの子が私より1日でも早く死んでほしい、と願ってきた。私は60になった。この子は残るだろう。この子が生きててよかったと思える社会。この子をきっと支えてくれる社会が欲しいという願い。

合言葉は
「お年寄りが、通って・泊れて・家にも来てくれて・いざとなったら住むことができる」

介護保険制度と支援費
7つの制度が必要だった。7つの制度にひっかかってきた、ということはある意味ずっと法律違反だったということにもなる。それが構造改革特区ではじめて国が富山型をみとめて、06年10月から全国展開となった。
介護保険の指定をとれば、市町村によって、障害者自立支援法などを使えるが、ほとんどは、うちはとらないという。介護保険の指定業者で窓口が介護保険課。ある程度サービスがそろっても基準該当は20床以上。3床では基準該当外=1人前でないという考え方。私に言わせると基準該当外こそ福祉の原点と思う。大きい建物が福祉でない。建物なんかどうでもいい。

戦後家庭からなくなったものは、赤ちゃんが生まれることと、お年寄りが死ぬこと(畳の上での大往生)

どんな福祉を望みますか?
日本の国民は高福祉−低負担と答えた。私は富山の審議会に入っている。知事に「死にがいのあるまちづくり」を提言したが却下された。でも「富山県民一人ひとりが日々感動とチャレンジ精神をもち、死にがいのある街づくりを進める」ことは重要だと思う。
この町で死ぬんだ、畳の上で大往生できてよかった、身近な死のありがたさを感じる街づくりが必要。

14年間、懸命に働いてきた。今の私を2つの言葉が支えている。
1つは、赤十字の理念。「明日の100人を救うより今日の1人を救え」
今困っている1人の人のために尽くすこと。あとから制度がついてくる。明日の100人のために制度をつくるのは行政の役割。
もう1つは、ケネディの「国が君たちに何をしてくれるかではなく、君たちが国に何ができるかを考えて欲しい。」
毎日小さなことの積み重ねしかできないが、障害の人たちやお年よりが安全に楽しく生活できるように、ということ行動にうつしたとき、きっとすみやすい日本になるだろう。

Q:デイサービスでスタッフ6名で20〜30名の利用者。重度な方も増える中、どのような工夫をされているか?スタッフの励まし方・育て方についても教えて欲しい。
A:このゆびとーまれは看護師が4名というだけで、その他職員・有償ボランティアを含めると職員の数は多い。何故ボランティアを入れるか。風通しをよくするため、およびオンブズマンの役割を担ってもらうため。不都合なことがあっても、給料をもらっていない人の口を封じることは出来ない。保育士も介護福祉士も入ってチームとしてやっている。特養で看護師と職員がけんかをよくすると聞くが、うちの看護師は何でもする。保母さんも利用者をお風呂に入れる。
「介護観」のちがいをなくす、統一する。というのが第一。
トップが現場で働くということも、富山型の理念。トップが背広を着てネクタイを締めていたらダメ。
 そのうえでさすが看護師というところを見せる。「気付き」「判断」「予測」のうちの「判断」「予測」こそが看護師の仕事。気付きはある程度職員はできる。病態生理に伴ったものかは分からないが、いつもとちがうというのは職員でもできる。ただ病態生理にもとづく判断予測、つまり救急車を呼ぼう、救急蘇生については看護師の出番。介護の人はそれができないが、それはそれでいい。チームだから。
 人間関係ができあがった人については、病院に連れていかないでおこう、穏やかに死のうという話もしている。90、100才の人は何かあっても病気ではないと思っている。もうすぐ死を受容れる、死は闘うものではない。病院に連れて行ったら死と闘ってしまう。病院にとって死は敗北。
 介護現場では、死んだ人は堂々と玄関から出て行く。死は敗北ではないという病院があるのはあるは確か。私も、病院に勤めていたとき、亡くなった人を廊下で運ぶ時、なるべく分からないようにしてきた。しかし、死は自然だ、受容れていくものと思っている。介護現場で働く皆さんも、赤ちゃんが生まれることと死と同じと感じていらっしゃるはず。お年よりの死は悲しいこととは思っていない。別れが悲しいのであって、死ぬのは悲しいことえはない。どんな死に方?やさしい死に方なのか。
 私が脛骨を骨折したとき、救急車で運ばれた。救急外来で働く医者が、痛いよ、と脚をひっぱられたとき目から火花が出るという痛さ。だけど痛みに対して涙ひとつ出なかった。でも、入院して、やさしい看護師の言葉やお見舞いのまわりのやさしさに触れたとき、涙が出た。お年よりの心を動かし、生きていてよかった、と思わせるのはやさしさ。年よりは、私なんか生きていていいのか、と思っている人が多い。

Q:医療機関に求めているものは何か?
A:いくつかある。1つ目は、病院はやさしくなくなっているということ。骨折して病院に運ばれた、救急外来でレントゲンをとる。医者も看護師も、「大変やったね・痛かったね」ではなく、2週間後の退院の話を口に出す。お金のことに頭が行って、患者を安らげるための言葉一つが出てこない。退院は悪いことではないが、「2週間後どうかなりますか、2週間後の移り先をしっかり見つけてきてください」という話をすぐ出すのはどうしたことか。
2つ目は、病院は、利用者本位といいながら、本人よりも家族のことに目が向いていること。本人は家に帰りたがっているのがほとんどなのに、在宅でなく病院・施設を勧める。
因みに、最後まで「患者」といっているのはおかしい、ということを大阪の看護サミットで述べたら、大阪の看護サミットで、「じゃあなんていうの」と問われた。退院許可が出たら、「地域住民」と呼んだらいいのでは、と答えた。要するに、病院も地域のことを考えながら欲しい。
療養型の悪口ではないが、日本の医療で世界に恥じるべきこと2つあると思う。
1つは、寝たきりをたくさんつくったこと。もう1つは、胃瘻をたくさんつくったこと。
あくまで私見だが、80、90才の人については、口から食べれなくなったら死、そういう潔さがあってもいいのでは。平均寿命を上げても、みんなが疑問をもって生きていて、それでいいのか。
                                   以  上