日本人の源流を探して         (敬称は全て省略しています) 


            第1部  最初の日本人の系譜


01.日本人の形成−「二重構造モデル」の再確認

今回あらためてこのサイトを立ち上げる目標を、「日本人の起源」というテーマを多分野から総合的に追求すること、出来うる限り整合的な結論を導くこと、若い頃のワクワクするような探究心を満足させること、に置いています。

 また、このテーマにロマンを感じる方々が、ちょっと立ち止まって寄っていただけるオアシスのようなサロンになることを願っています。
 そのため、webサイトの常識にこだわらず、フォントを大きくしたり、行間を広げたり、出来る限り読みやすくしたつもりです。
どうぞ、ごゆっくり寛いでください。
 
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  原人、旧人の時代 

  この日本列島にいつ頃から“人”が棲み始めたのだろうか?
 この列島は火山灰の影響で土壌が酸性化し骨の化石が残りにくいことから、人骨化石でもって、それを実証することはなかなか難しいと思われる。
 1948年、野尻湖畔の旅館の主人であった加藤松之助が、野尻湖底でナウマンゾウの臼歯(きゅうし)を発見した。
 
 このナウマンゾウはおよそ40万年前、中国

大陸から日本に渡ってきたアジア象で約2万年

前まで生息したことが知られている。

 ナウマンゾウやオオツノジカなどの黄土動物

群など大型食用動物を追って、原人や旧人がこ

の日本列島にやって来ていたことは想像に難く

ない。

 また、樺太経由で北海道や東北地方まで、マ

   
ンモスやヘラジカを求めて、北の狩人・マンモスハンターたちも来ていたであろう。

 捏造事件の悪夢を早く払拭して、これら前期旧石器時代の、或いは中期旧石器時代のワクワクするような新しい発見が近々あることを期待したい。
 
 本稿では、確実に“人(ホモ・サピエンス)”の足跡がたどれる時代、後期旧石器文化がこの地に現れ始めた時代から「日本人の源流を探して」いきたい。

  二重構造モデルの再確認

 その前に、この起源問題の最もポピュラーな学説になっている自然人類学の埴原和郎の「二重構造モデル」についてどういう説なのか再確認をしておきたい。

1) 日本の旧石器時代人は、かって東南アジア(スンダランド)に棲んでいた古いタイ
 プのアジア人集団−原アジア人−をルーツに持つ。
   
沖縄本島の南端・具志頭村港川の採石場から、1968年、アマチュア研究者の大山盛保によって5〜9体分の人骨が発見された。
 日本で唯一と言っていい旧石器時代人(18,000年前)の完璧な人骨化石・港川人の発見である。
 埴原和郎は港川人は中国南部の柳江人やジャワのワジャク人 に似ているが、中国北部(河北省)の山頂洞人とはかなり違っている。
 従って港川人を初めとする日本の旧石器時代人のルーツは、中国南部から東南アジアにかけての地域という可能性が高いとし、とりわけ東南アジア島嶼部(スンダランド)ではないかとしている。                      

 港川人と柳江人、ワジャク人、上洞人の人類学的位置関係は次の図が分かりやすい。
  
 中国南部で発見された柳江人やジャワのワジャク人は、グラフの左下サイドに位置し、
北京近郊で発見された上洞人とは大きく異なっている。(しかも3体の上洞人同士もかなり異なる。)

2)旧石器時代人に続く縄文人も、骨の形からみると港川人やワジャク人の特徴を受け継いでいるので、縄文人の祖先も同じように、東南アジア系の集団だったと考えられる。
 その縄文人は1万年もの長期間に亘って日本列島に生活し、温暖な気候に育まれて独特な
 文化を熟成させた。

  大陸との交流は皆無ではなかったにせよ、縄文文化は一種の鎖国、閉鎖環境の中で
 熟成されたと考えられる。
 すなわち縄文人は1万年の間、混血など他の集団の影響を受けず、純粋な集団として
 小進化をしたとしている。
   
  この散布図で見ると、日本人の頭骨の形は一貫して右上から左下へ小進化している。その中で、縄文人は彦崎人を例外として、弥生時代や歴史時代の日本人よりも、港川人寄りの古い形質保っている。

3)気候が冷涼化するにつれて北東アジアの集団が南下し、渡来して来た。おそらくこ
  の渡来は縄文末期から始まったが、弥生時代になって急に増加し以後7世紀までのほ
 ぼ1,000年に亘って続いた。
 この集団は、もともと縄文人と同じルーツをもつ集団だった。だが、東南アジアから北
上し、且つ長い期間に亘って極端な寒冷地に住んだため「寒冷適応」をとげ、その祖先集
団とは著しい違いを示すようになった典型的アジア人である、という。
 これで明らかなように、埴原はホモ・サピエンスは東南アジアに達した後、北上して北
東アジア人が成立したとし、最近、定説化している、ヒマラヤの裏を通って北上した超初期
型のモンゴロイドの集団があったという説を認めていない。

 また、埴原の二重構造モデルで特徴的なの

は、弥生時代の渡来人をかなり北方の民族と

していることである。

 右の系統樹でも、土井ヶ浜の弥生人が、ヤ

クート(北極海に面したシベリアの民族)と

ニブフ(中部以北の樺太およびアムール川下

流域の民族)などと同じ系統に分類されてい

る。(第3部05節「渡来人の故郷はどこか」

参照

 
   

4)大陸からの移動人口は先住の縄文人の数をはるかに上回るほど多かった。
 その結果水稲耕作や金属器に代表される大陸の先進文化が流入し、採集・狩猟を中心とし
 た縄文文化が一挙に農耕中心の弥生文化に変貌した。
  これは埴原の100万人渡来説として有名である。次の表がその試算表で、スカイブルー
 で囲まれた数値が、100万人の根拠となっている。
 
 (第3部08節「弥生時代の渡来人の規模」参照

5)渡来集団はまず北部九州や本州の日本海沿岸に到着し小さなクニグニを作り始め
 た。更に彼らは東進して近畿地方に至り、数々の抗争を経て統一政府、つまり朝廷
 を樹立した。

  朝廷は積極的に大陸から学者や技術者などを導入したこともあって、近畿地方は渡
 来人の中心地となった。また土着の縄文人を同化するため北に南に遠征軍を派遣した
 り、地方に政府の出先機関を設置した。

  渡来系遺伝子はこのようにして近畿を中心に徐々に地方へ拡散した。したがって
 縄文系と渡来系との混血は近畿から離れるにつれて薄くなるという「遺伝子の流れ」
 を造った。
      

6)上記の混血がほとんど、或いは僅かしか起こらなかった北海道と南西諸島に縄文
 人の特徴を濃厚に保持する集団が残ることになった。アイヌ人と沖縄の集団がそれ
 であり、彼らがいろいろな形質や遺伝子などで共通するのも説明できる。

 以上が埴原和郎が考える日本人形成史の概要であり、日本人集団の主な構成要素を縄文系と渡来系の二つと考えることから「二重構造モデル」と名付けたと言う。
 なお、“説”と言わず“モデル”という言葉を使ったのは、これが一つの考え方、つまり仮説に過ぎないという意味で、批判にさらされ、修正されることを前提としている、そうである。
 解り易く図に纏めれば次のようになる。