日本人の源流を探して         (敬称は全て省略しています) 


            第1部  最初の日本人の系譜


04.日本列島における最初の文化

 日本人の起源の定説ともいえる二重構造・南方起源説について、かなり詳しく調べてきた。ここから分かるように二重構造モデルは“最初の日本人”が東南アジア島嶼部の原アジア人であるといっているが、彼らがどういう生活をし、どういう文化を持っていたか、それは日本列島でどう受け継がれたかについては触れていない。
 これから民族学者佐々木高明 の「日本の歴史@ 日本史誕生」をテキストとして“最初の文化”を探求してゆきたい。

  狩人たちの痕跡・キルサイト 

 「はじめに」でも触れたようにこの日本列島には原人や旧人、それに初期の新人たちも棲んでいたことはまず間違いなかろう。
 この時代、地質時代で言うと、更新世(洪積世と同じ・180万年前から1万年前)といわれる時代は、ほぼ氷河時代であった。日本列島は気温の変動に伴い、大陸と陸続きになったり、あるいは季節により陸橋化した。
     
 そこを通って、中国南部や北部からトウヨウゾウやナウマンゾウを中心とする動物群がやって来、草原の広がる豊かな大地で繁栄した。
 当時陸化していた瀬戸内はナウマンゾウの天国であったらしい。今、瀬戸内海の海底からは、ナウマンゾウの化石が漁師の網にかかって、しばしば引き上げられるという。
 当然、その豊富な食料源を追って、原人や旧人が来ていた事は想像に難くない。
   

 しかしその痕跡、遺跡となると捏造事件の後遺症を伴って、甚だ心もとない状況にある。

 まず最も古い確実な遺跡は野尻湖畔の立ヶ鼻遺跡であろう。この遺跡からはナウマンゾウとオオツノジカの獣骨が大量に出土している。反面、それ以外の動物の出土は極めて少ない。
     
 したがって、そこはナウマンゾウのキル・サイトではなかったかと考えられている。すなわち、ここではビッグゲームハンター(大型動物狩猟民)の文化が栄えていたと推定される。
 野尻湖底の堆積物の分析によると、ここはほぼ4.8万年〜3.3万年前ごろの遺跡と考えられている。
 出土する道具はナイフ型石器や皮はぎ用石器(スクレイパー)に加え、骨製ナイフ、骨製スクレイバー、骨製尖頭器それに象牙の加工品(“ヴィーナス”ではないかといわれる)など、骨器を特徴とする文化である。
           

 同様に東北地方・岩手県花泉遺跡からも大量の獣骨化石が発見される。こちらで出土するのは、ハナイズミモリウシ、原牛、オオツノジカ、ヘラジカ、トクナガゾウ(ナウマンゾウ)、ノウサギなどである。
 ここではシベリアから南下してきたマンモス動物群と中国北部から北上してきた黄土動物群が共存していたのが解る。ここは花粉分析などから約2万年前の遺跡と考えられ、野尻湖と同様キル・サイトであったと思われる。
        
 特に注目されるのは、シカの角や野牛の肋骨を割って研磨して先を尖らせた骨角器が出土したことである(上図右)。石器などに詳しい加藤晋平 によればこれらの骨角器は、先史時代の先住アメリカ人(ネイティブ・アメリカン)が野牛の群をしとめた場で解体するのに利用した道具と全く同じだという。
 もしかするとこれは、北アジアのどこかから、この文化を携えてアメリカ大陸に渡った集団の一部が、南下して日本にやって来ていた可能性を示唆するものである。

 日本の最初期文化としてビッグゲームハンターの文化があったことは、以上の遺跡の調査から確実である。そしてそれはヨーロッパやシベリア、中国北部などユーラシア大陸の中北部で栄えていた文化に類する文化であることも確かである。
 だが、確かに日本列島にやって来た、野尻湖人や花泉人、すなわちユーラシアのビッグゲームハンターをもって、縄文人あるいは日本人の祖先だとするには、少々無理がある。彼ら同士は、時代的にかなりズレているし、列島的な広がりも今のところ認められない。
 野尻湖人より少し遅れて、そして花泉人とは同時期に、この日本列島に広域に石器文化を残した“ナイフ形石器人”との関係はどうであったのだろうか。

  ナイフ形石器文化の出現

 東京の西郊に広がる武蔵野台地は関東ローム層と呼ばれる特有の赤土の地層で形成されている。そのうち最も新しい時代(3万年〜1万年前)に堆積した層を立川ローム層という。その層から4つに編年される文化期が判ってきた。(AT火山灰層についてはココ


 ここでまず注目しなければならないのは、第1文化期に、粗雑ながら石刃石器と呼ばれる石刃技法を使った石器が、出現することである。この石刃技法というのは、まず原石に適当な加工を施して石核をつくり、その石核から石刃と呼ぶ縦長の剥片を連続的にはぎとってゆく(剥離する)、大変すぐれた画期的な石器製造技術である。
 それまでの石器というのは一個の原石を打ち欠いて一個の石器を作るか、せいぜい原石を2、3の石片にし、それを打ち欠いて作るかであった。それが石刃技法を使えば、同じ規格の石刃がつぎつぎに多数作れるようになるのである。
 まさに石器の大量生産方式が開発されたと位置づけられる発明である。

 2万年前以降になると、石刃技法はますます磨きをかけられ、いわゆるナイフ形石器の時代になる。多様で精巧な美しい石器 が大量に作られ、使用された。
      

 また、石器の材料についても良い材料を求めようとする強いこだわりが認められる。
 運搬手段が人手だけに限られていた時代、重量物である石器の原料を遠方に求める事を厭わなかった旧石器時代人は、ヒトが“道具を使う動物”であり、道具の重要性を現代人以上に意識していたのかもしれない。 
 たとえば、東京郊外の国際基督教大学キャ

ンパス内の野川遺跡でみると、16,000年前ま

では、比較的近場の箱根産の黒曜石を使って

いたのに対し、それ以後は200キロ以上も離

れた信州和田峠を原産地とする、より品質の

高い黒曜石を、多く用いるようになったとい

うのである。
   

 このナイフ形石器文化は北海道を除く日本列島で発達し、地方によって特徴的なナイフ形石器が広く分布した。これを大きく纏めてみると、
 杉久保・東山型ナイフ形石器文化圏・・・
   石器群のなかで掻器あるいは彫器がナイフ形と同格に近い位置を占める文化 
 茂呂・国府(こう)型ナイフ形石器文化圏・・・
   ナイフ形石器だけが卓越している文化
の二つに分けられる。
  
 この日本列島においては、はやくもこの初期の時代から東は東、西は西というような現在でも明瞭に見られる文化の大きな地域差が形成されてきたのである。
(なおこの時代、北海道では、東日本式の石刃技法で石器が作られていたが、いわゆるナイフ形石器が欠けていた。)

 筆者はこの石刃石器技術を日本列島にもたらした人たち、そしてナイフ形石器文化を列島の東西で発達させた人たちを「最初の日本人」と考えてよいのではないかと思っている。

  最初の日本人は“北”からやって来た

 ではこの人たちは何処からナイフ形石器文化を持ってきたのだろうか。シベリアや中国など日本周辺の石刃石器文化を詳しく調べた加藤晋平によれば、
 
 東アジアの石刃技術の出現には北方型(シベリア型)と南方型(華北型)がある。北海道を除く日本列島では、華北型の石刃技術の出現によって後期旧石器時代が開始された。更に注目

されるのは22,000年〜21,000年前直後(AT火山灰降下直後)に、

旧ソ連邦ウスチノフカT遺跡や韓国忠清北道サヤンゲ遺跡に見ら

れる剥片尖頭器が、九州、そして西日本の一部にまで確実に流入

してきたことである。この事実からすると日本列島の中に広がっ

た縦長剥片から作るナイフ形石器も剥片尖頭器の流入と同様に、

華北地域と関連があったと考えられそうである、としている。
 
   
すなわち、石刃技術もナイフ形石器文化も華北地方から流入したとしているのである。ということは最初の日本人は「文化面から捉えればアジアの北の方から」と言えそうである。

 ただし、人類学者は“人の移動と文化の流入”は違うという立場をとっている。
 また、二重構造モデル・南方起源説をを唱える人類学の埴原和郎は、文化の面で北方要素の多さに困って「縄文人やアイヌの起源が東南アジアにあったとしても、日本列島への移動経路は分からない。東南アジアから大きく北東アジアを回って日本列島に達した、という可能性も考えられる」という極論まで述べている。
 一方、著書をこの章のテキストにさせていただいた民族学の佐々木高明は、旧石器時代以来、日本列島には南方や北方から、さまざまな文化が流れ込んできた。現在のように情報伝達手段が発達していない古い時代には、このような文化の伝播は何らかの形で、その文化を担う人々の移動を伴ったものと考えられる、としている。
 筆者は常識的に佐々木高明の考えに賛成である。

(*島根県出雲の砂原遺跡で、12万年前の旧石器が出土したと報道されている。但し、この石器は、年代からみて、おそらくアジアの旧人によるものと思われる。・・・産経新聞2009.09.30,10.04

     

         
         
         

 

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