日本人の源流を探て       

(敬称は全て省略しています)



            第1部  最初の日本人の系譜


05.バイカル湖から押し寄せた東日本人の祖先

 
  気候の大変動と歴史の分岐点

 「最初の日本人」がこの列島に現れた頃のことを、別の視点からも見てみよう。
 
 石刃技法・ナイフ形石器文化の出現から細石器文化の流入に至る時代、環境考古学の安田喜憲 は花粉分析という地味な研究の積み重ねから、気候変動と植生の変化、それに伴う獣たちやハンターたちの移動を鮮やかに描いている。
 右の図は、福井県の三方湖の湖底からボーリングで採集された堆積物(32.2m)、その中の花粉の検出量のダイヤグラムである。
 32.3mの土壌資料というと約45,000年から50,000年の期間に相当するという。
 右図に見るように、その期間に、33,000年前と12,500年前に画期があることが分かる。
   
すなわち、33,000年前、スギやブナなど多湿を好む樹木の花粉が急減し、ツガなど乾燥を好む樹木が増えてくる。
 これは何を意味するのか。
 言うまでもなくこの三方湖は日本海側にある。現在の日本海側は雪が沢山降り、太平洋側は雪が降らない。かって、同じような状況にあった日本海側が、33,000年前、急に雪の降らない乾燥した地域に変り、植生に大変化が起こったのである。
 

 安田によれば33,000年前ごろを境に汎世界的に気候の激変があり、気候が寒冷化、乾燥化したという。その結果、海面の低下が起こり、日本列島は大陸と陸続きに近い状況になった。(当然、樺太や北海道は大陸と陸続きになった。)
 日本海では30,000年前から27,000年前を境に暖かい対馬暖流(黒潮の支流)が流入しなくなった。そうすると水蒸気が大幅に減少し、雪雲が出来なくなり、ますます日本海側は少雨化・乾燥化したと考えられる。
 森林は後退し、草原とツガなどの樹林が散在する、今の北海道のような風景が出現していたのだろう。
 ちょうどそのとき動物相にも大きな変化が現れた。北方ユーラシアの草原に生息していた大型哺乳動物(オーロックス、バイソン、あるいはヘラジカ、馬など)が乾燥化・草原化した日本列島に南下してきた。     
マンモスも北海道まで南下して来ていたことが確認されている。
 時を同じくして33,000年前頃は、ヨーロッパも激変の時代であった。おそらく1万年間ぐらいは現生人類と共存したと思われる、ネアンデルタール人が 遂に絶滅に至るのである。その原因は明らかではないが、寒冷化が関係したという見方がある。アジアでも、アジアの旧人達が同じ運命を辿ったのであろうか。
 
 一方、ホモ・サピエンス即ち現生人類は、この時期に画期的な石刃技法を獲得し、すなわち生存能力を高め、クロマニヨン人が西ユーラシアに急速に拡散する。東ユーラシアでもアジアの新人が、中国北部からシベリアや日本列島にも拡散している。

 以上、安田喜憲の環境考古学の視点から、環境(気候)の激変が、植生をガラリと変えてしまい、連れて動物相が変り、人類にとっても生死を決定するような重要なファクターであったことをみてきた。

 次の20,000年前〜18,000年前は、花粉ダイヤグラムには表れていないが、ヴェルム氷期でも最も極寒の時代であった。ここでも技術の画期が訪れている。
 前項で述べたように石刃技法が高度に成熟し、美麗に成形されたナイフ形石器文化がこの日本列島(除く北海道)で栄え、各地に多数の旧石器時代の遺跡を残した。
  
   細石器文化の流入

 そして安田によれば、12,500年前、再びモンスーン(季節風)が大変動する。その結果、今度は逆に急速な温暖化が始まる。氷河時代が終わり、本格的な晩氷期に入った。
 上図、福井県の三方湖の花粉ダイヤグラムから判るように、12,000年前にはすでに、退いていたブナやスギが再び三方湖の周りに進出し、ブナの花粉が20〜30%という高い比率
で出現したという。

 
このことは氷河時代、海水面が120〜140mも下がり、対馬暖流の流入を阻んでいた対馬海峡が、氷河の後退による海水面の上昇で、再び日本海に南の暖かい海水を注ぎ込み始めたことを意味する。
 そして、北西の冷たい季節風にぶつかると大量の水蒸気を発生し、日本海側をふたたび雪の多い湿潤な気候に戻し、それに適したブナやナラ類の落葉広葉樹林がゲリラのように急速拡大してきたことを示す。

 このとき、加藤晋平も指摘するように、バイカル湖を中心としたところから荒屋型彫器という特徴的な細石器を持った文化が日本列島にどっと押し寄せてきた。
 細石器はいわば“石器のハイテク”ともいえる物であり、小さなカミソリ状の石刃は大変鋭利で、これを骨や木に溝を彫り細石刃を嵌め込んで槍先として使った。
 その槍先は使う度に刃が欠けたと思われるが、同じサイズの細石刃を補充して繰り返し使った。この文化には道具を繰り返し使う、メイテナンスという新しいコンセプトも織り込まれていたのである。
 次の図の右端は、現代製の試作ナイフである。(当時は槍先として使われた。)


  細石器文化の東西分布
 
 このハイテク石器、クサビ形細石刃石器群(荒屋型彫器を含む)は20〜30,000年前にバイカル湖周辺で発生し、中国東北部、朝鮮半島あたりを南限として北方アジア、アラスカまで広がっていた。
 したがって、安田の言う12,500年前とか前項の編年で言えば13,000年前に、日本列島へは沿海州、樺太を
   
経由して約10,000年遅れで流入してきたことになる。
 まず北海道に達した後、東北地方全域から 新潟県・長野県あたりまで南下し、ナイフ形石器にとってかわった。しかもこの細石刃文化の影響は大変強かったらしく、東北日本ではそれまでのナイフ形石器文化の伝統が消滅してしまうほどであった。

ほぼ同じころ関東地方より西、主として西日本の各地には半円錐形細石刃石器群が分布した。この細石刃文化の成立に関してはナイフ形石器をベースに、クサビ形細石刃文化の影響を受けて、日本独自に発展したという説や、中国大陸の華北形細石刃石器群が流入したという説がある。
 はじめは半円錐形系統に属していた九州の細石刃文化は、後半期になると福井(洞穴)型細石核と呼ばれるクサビ形細石刃石器群にかわる。これは東日本のそれと違って荒屋型彫器を含まない。これも華北型系統の細石刃が朝鮮半島をへて九州に伝わったものと言われている。

   バイカル湖人の渡来の規模

 バイカル湖は、ロシアのブリヤート共和国とイルクーツク州にまたがる巨大な湖である。
しかも、世界で最も透明度の高い、世界で最も深い、世界で最も古い湖である。
  バイカル
 湖そのものの豊潤さもさることながら、周辺に豊かな動植物相を古来育んできた。
 そのバイカル湖人が細石器(microlith)を携え、まず北海道へ、それから大挙して本州に流入したというが、その規模はどの程度のものであったろうか。
 アボリジニのフィールドワークで有名な小山修三は、旧石器時代から現代に至る日本列島の人口を推定している。
 

 今 ここで知りたい旧石器時代の人口について小山は、ナイフ形石器文化が列島内で5つのブロックに分かれており、そのブロックで活動する遊動民(定住民に対す る言葉)の一つの部族が、アボリジニの例からすると5〜600人であるところから、20,000年前ごろの人口は約3,000人であったと推定している。    
しかも、縄文時代が東に人口が偏っていたのに対し、この旧石器時代は均一であったというのである。
 
 また小山は、発見された縄文時代の遺跡数の緻密な分析から、縄文以降、各期の
人口推定を行っている。8,000年前の縄文早期の人口は、東日本地区で17,300人、西日本地区で2,800人と推定している。

 以上の二つの推定値から、筆者はバイカル湖人の渡来規模を、約7,000人ほどであったと考える。この数字は仮定の置き方でいろいろ変るが、そんなに見当はずれの数字ではあるまい。

 ただし、これほどの大規模の移動が何故起こったのか、必ずしも明らかではない。加藤晋平はサケ・マス漁撈活動の発達が、対象河川への移動や対象沿岸地方 への移動を促したという説を出しているが、筆者はむしろ常識的に、気候変動による植物相の変化が大型獣の激減、絶滅を招来し、その結果としての食料の不 足、飢餓が移動の主たる原因ではなかったかと推測する。
 そうした止むに止まれぬ事態を想定することによってのみ、バイカル湖人達が、大挙して、本来豊かな土地であった故郷を棄て、各地に散って行ったことを説明できると考える。


  
旧石器文化からみた最初の日本人

 以上、04項、05項と日本列島の旧石器文化をみてきた。そして見えて来たことは、
 一つは、この日本列島(除く北海道)は、石刃技法の到来からナイフ形石器文化、半円錐型細石器文化、福井型細石核というように中国北部或いは華北の文化(黄河文化センター)と、絶えず連続して繋がりを持ってきたということである。
 二つ目は、それに分け入るように、安田喜憲の表現を借りれば、“バイカル湖を中心としたところからクサビ形細石刃石器群が日本列島へダッとやってくる”のである。
 その規模は、今推定したように、旧石器時代としては桁外れの7,000人という規模であった。

 すなわち、日本列島に残された旧石器人の生活の息吹、文化からみると、
 まずこの日本列島には、中国北部(華北・黄河文化センター)からの断続的流入に加え、 バイカル湖文化センターからの大集団の渡来というように北部アジアから「最初の日本人」はやって来たと考えられる。
 華南文化センターの西樵山細石刃石器群に伴う彫器の一種が、北九州で認められるという指摘もある。そういう南からの影響も一部にはあったであろうことは想像に難くはないが、二重構造モデルとは逆に、この時代、「人は北方から」という見方は変わらない。
 
 筆者なりに以上を纏めると、次のような時系列の文化やヒトの推移が見える。
   文化推移
 したがって、
 筆者は細石器文化成立の頃、北海道を含む列島の東地区には、バイカル湖文化系の「東日本人」と、九州、四国を含む列島の西地区には華北(黄河)文化系の「西日本人」という大枠が形成されたと考える。
この大枠が、今も続く東日本と西日本の文化の違いや、日本語やアイヌ語の形成に深く関わったと考える。 
     

         
         
         

 
 

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