日本人の源流を探して         (敬称は全て省略しています) 


            第1部  最初の日本人の系譜


06.縄文土器誕生の秘密ー遅すぎたマイクロブレイドの伝播ー


  
遅すぎた細石器文化の伝播

 列島の東日本地区で、1,500人が各部族集団に分かれ、それぞれが一種のテリトリーの中で狩猟生活をしていたところへ、突然、細石器というハイテク技術を携えた、未知の集団が7,000人規模で流入して来た。
 おそらく、東日本の先住民の社会秩序は崩壊し、大パニックを起こしたことだろう。遺物から見ると、それまでの高度に磨かれた石刃技法・ナイフ形石器文化は放棄され、侵入者の細石刃技術が短期間のうちに東日本地区を席巻したことが、その様子を垣間見せてくれる。
 しかし、彼らバイカル湖人達も、思いがけない事態に愕然としたことだろう。
  彼らが夢見ていた大型獣の姿は、何処にも見当たらなかったからである。
 彼らが持っていた技術・細石刃を装填した植刃器は20cm以上の刃渡りを持った、大振りな槍先が得意な、いわば大型獣向きのものであった。
 しかし、右図で分かるように、日本列島ではすでに
ナウマンゾウやヘラジカが絶滅し、ヤベオオツノジカ
   
やニホンムカシジカも絶滅への道を辿っていたときであった。
 彼らのハイテク技術は、確かに鋭利で、しかもメインテナンス(繰り返し使える)というコンセプトを取り入れた画期的技術であったが、ニホンジカやこの表にはないが、イノシシなどの素早く動き回る中・小型獣にはむしろ、不向きな技術であったといってよかった。
 
 バイカル湖人がどういう情報を得て、大挙してこの列島を目指したのだろうか。
 過ってこの列島がナウマンゾウ等の大棲息地であったという、古老たちが語り継ぐ、昔話などの遠い昔の大切な情報に頼って、非常な困難が予想される大移動を決意したのであろう。そして、そうした伝承を大切にする決断は、それまでの何万年の間は決して間違いではなかったはずである。
 しかし時代は、おそらく当時生きていた人々は捉えきれていなかったと想像するが、最終氷期から間氷期へと、地球全体が急速に且つ大変化する環境激変の時代にあったのである。

 筆者の考えによれば、要は、彼らと彼らが持つ細石刃文化(Micro-Blade Culture)の伝播が遅すぎたのである。彼らの困惑は容易に想像できる。そして7,000人にも及ぶ大集団の食糧問題は深刻であったに違いない。

  
細石刃と共に出土した最古の土器

 もともと1,500人しか許容力のないはずの東日本地区が、8,500人(先住民1,500人+バイカル湖人7,000人)という大人口を養わなければならなくなった。この食糧問題を解決するためには、縄文動物相の主役に躍り出た、鹿とイノシシを大量に狩猟しても、まだ困難であったろう。
 そういう認識が、落葉広葉樹林が大量に生み出してくれるクルミ、クリ、ドングリなどの堅果類やヤマノイモなどの野生のイモ類などの、植物性食料資源の本格的活用に目を向けさせ、その開発を急がせることになったであろうことは、まず間違いないと考えられる。 
 右の図は、縄文前期(6,000年前)の鳥浜貝塚における主要食料の種類とカロリー摂取量の内訳である。
 この時期は植物資源だけでなく、貝や魚類資源も既に縄文の食卓に上がるようになっていた。
 そのなかで植物の占める割合は40%以上に
   
なっている一方、シカやイノシシの獣肉はわずか15%である。この事実から、旧石器時代末期ないし縄文草創期を推定すると、それまでの獣肉中心のメニューに、植物資源を加えることがどんなに重要な意味を持つものであったかを想像することが出来る。
 ところが、エネルギー源となる澱粉の含有量の多い植物資源、堅果類(除く、クルミ)やイモ類などは、生(β澱粉)のままでは大変消化しにくい。熱と水でその結晶を破壊してα澱粉に変えないと食用とはならない。
 この加熱処理のための煮沸用の容器として、どうしても「土器」が必要だったのである。
 以上のように、この時代の人々の獣肉に対する危機感と、植物資源に対するこうした欲求とが、「土器」という人類が初めて化学的変化を利用した製品を作り出すことに繋がったと思われる。
 
  しかし、土器の発見は、意外にも、食糧問題が喫緊の課題であった東日本ではなく、九州の西北部から始まった。この地区にも土器製作の、何らかの必然性があったのであろう。おそらく西日本地区全体で1,500人程度の人口分布であっても、大型哺乳動物の絶滅は、それに依存してきた当時の人々にとっては重大事であったに違いない。

 長崎県佐世保から北へ10数キロ、福井川の右岸の山肌に開口した洞穴、いわゆる福井洞穴で1960年夏、芹沢長介
鎌木義昌を中心とする調査団が発掘調査を行っていた。
 洞穴の地表面のすぐ下には縄文早期の層があり、その下の第2層からみごとなクサビ形細石核や細石刃とともに「爪形文土器」が発見された。細石刃と土器とが一緒に出土するという衝撃的事実が初めて確かめられたのである。

 さらに第3層になると、クサビ形(福井型)細石核や細石刃が大量に出土すると共に、粘土紐を器面に貼り付けた「隆線文土器」が見つかり始めた。
 さらに第4層まで掘り進むと土器片は全く出土しなくなり、クサビ形細石核にかわって、先代の半円錐型細石核が数多く出土するようになりそれ以下の層では遺物が少なくなるという状況であった。
 第3層から共に出土した二つの木炭片のC14年代を測定したところ、12700±500年前と12400±350年前という大変古い値が得られた。この事実は当時の学会に大きな衝撃を与えた。
 佐々木高明は感慨を込めて福井洞穴の発掘を以上のように述懐している。
(なお、いまの文脈とは関係ないが、第15層、丁度、初期の石刃文化が伝播した32,000年前頃、この洞窟ではサヌカイト製の石器が使われていた。)

 その後、福井洞穴から10kmほど佐世保市の中心部寄り、泉福寺洞穴から隆線文土器の更に下の層から、「豆粒文土器」が発掘された。

  見つかった東日本の土器

 では必然性が必ずしも高くないと思われる西日本地区で、最初期の土器が見出されたが、より必然性の高いはずの東日本地区で、土器は発生しなかったのであろうか。

 1958年、丁度50年前、長野県上伊那郡南箕輪村の神子柴(みこしば)という所で、後に国の重要文化財指定を受ける、優美な形や精巧な技術を持った石器群が発掘された。(右図)
 この石器群は、特有の局部磨製石斧(写真中央
   
奥)をはじめ、世界一優美だといわれる神子柴型尖頭器や、掻器、彫器などの組合せをもつっていた。
 この神子柴文化は、北海道から本州東北部に集中しているところから、細石刃文化につづく時期に、北方から東日本地区に南下してきたものらしい。
 
すなわち、後期旧石器時代の末期に、バイカル湖系の細石刃文化とは別の文化が渡来したことになる。
 ところが、この神子柴文化も、クサビ形細石刃文化の植刃器と同様、美しいが長大な、いわば時代遅れの尖頭器の文化であった。
  神子柴文化人も、先着のバイカル湖人同様、食用動物の資源の減少や動物相の変化にいかに対応するか、同じ問題に遭遇したに違いない。
 ここでも食用植物の利用を可能にする、煮
   
炊用の“うつわ”が強く求められていたと思われる。
 
 福井洞穴の土器発見から11年後、東日本の神子柴文化系の遺跡・青森県の大平山元T遺跡から、隆線文土器とは別種で、しかもそれよりも古いと思われる「無文土器」が発見された。さらにその後、茨城県の後野遺跡や東京都の前田耕地遺跡でも神子柴系石器と共に「無文土器」が出土した。
 実は東日本の広範な地域で、隆線文土器に先行して「土器」が開発されていたのである。

  縄文時代の幕開け
 
 一方、福井洞穴から出土した隆線文土器は、日本列島を東方へ遡るように伝わっていた。考古学の江坂輝弥らが発掘調査した愛媛県美川村の上黒岩岩陰遺跡からも隆線文土器が出土した。しかしここでは細石刃は全く伴わなかった。共伴したのは基部に舌状のでっぱりのある有舌尖頭器であった。ここに土器が伝わった時は、すでに細石刃文化の時代が去り、有舌(茎)尖頭器の時代になっていたのである。

   

 その後も、隆線文土器と有舌(茎)尖頭器とはセットとなって、東へ東へと伝播してゆく。

 この日本列島に、旧石器時代、「最初の文化」石刃〜ナイフ形石器文化が現れ、ついで細石刃文化が流入し、東日本ではその終末期、神子柴文化が現れる。一方九州では円錐型細石刃文化から、福井型とも言われる荒屋型彫器を伴わないクサビ型細石刃文化が    
現れる。
 そして、興味深いことは、東日本のクサビ型細石刃文化や西日本の円錐型細石刃文化という、メジャーな文化から土器が生まれたのではなく、マイナーな神子柴文化や福井型細石刃文化の中から、土器という革新的な技術が生まれたことである。
 その理由は定かではないが、マイナーな集団にとって、その必要性がより強かったのかもしれない。
 その後、右図の神奈川県大和市の月見野上野遺跡の出土状況から明らかなように、東日本でも有茎尖頭器と隆線文土器が卓越し、隆線文土器は初期土器文化の全国スタンダードとなる。まさに縄文時代の幕が開いたということが出来るだろう。
   
これは「縄文変革」ともよばれる新しい文化の胎動であった。

 土器を手に入れた縄文人は、旧石器時代末から縄文草創期に、植物資源をメインとする食物体系に大転換を果たし、さらに草創期から早期には、この列島の豊かな資源である海産資源をメニューに加えた。
 そのうえ土器による煮沸で、従来の獣肉でも筋肉などが、植物でも繊維などがやわらかく食べやすくなり、原料の利用率も格段に向上した。貝や魚の荒を入れるとなおさら温かくてうまいスープが食べられるようになった。
 植物性食料への依存度増大は、豊猟と不猟の差の大きい狩猟活動、つまり動物性食料に大きく依存していたときに較べ、食料の安定確保にも大きく貢献することとなった。
 その結果、土器を持つ生活は、定住的な生活様式や人口増加の現象を導き出すこととなり、10,000年にわたる縄文文化の出発点となったといって差し支えあるまい。
 
 さらに言い換えれば、彼らは間違いなく未発達の石刃技法の時代から、絶えず流入する新しい文化や技術、それをもって渡来する人々を受け入れたり共存を図りながら、この日本列島に住みついてきた旧石器時代人が新しい技術を得て、新しい文化・縄文時代の幕を開けたと言えるだろう。決して、縄文人が日本列島に新たに新規参入してきて、旧石器時代人を追い払い、新しい時代を開いたわけではないことを確認しておきたい。
 
 日本列島の初期の文化から日本人の源流を探してきた「文化を中心とした探求」をひとまず終え、次は遺伝学の分野からのアプローチをしてみよう。

追記:
 右の写真は野牛の肩甲骨に、細石刃を植え込んだ植刃
 器が突き刺さって出土したものである。よく見かける写真
 で余り注意を払っていなかったが、加藤晋平の「日本人は
 どこからきたか」(p160)によると、この植刃尖頭器は、シ
 カの角製で長さ11cm、幅1.6cmの槍で、先端から1.5cmのと
 ころから片側縁に、非常に細い溝が切られている。
   
  その溝の幅は1〜2mm、深さは3mmという。その溝の中に、長さ9〜5mm、幅4mmの細石刃が一列に、カ
 ミソリの刃のように植え込まれている状態で出土したそうである。
  筆者はこのページで、植刃器は大体20cmほどあると書いたが、このような超精密な植刃器があることを再
 認識させられた。筆者の浅学を恥じ、紹介させていただく。
  ただ、これによって本文の大意を変えるまでには至らないと考える。

     

         
         
         

 
 

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