日本人の源流を探して         (敬称は全て省略しています) 


            第1部  最初の日本人の系譜


12.縄文最盛期の日本人像−三内丸山の人々−

  
  縄文の国際都市 三内丸山 

   
 いま我々は、縄文時代の最盛期の真っ只中にいる。縄文文化は、春には山菜、夏には魚介類、秋には木の実、冬には狩猟という、森と海の恵みに基盤を置いた、自然=人間循環系の文化(安田喜憲)であった。この生活原理に従いながら、クリの栽培化などの高度な技術開発により、大規模集落に発展させたのが、縄文都市とも呼ばれる三内丸山であった。
 三内丸山は自ら数百人規模の人口を擁する大都市であり、且つ周辺に16以上の衛星都市を抱える大都市圏であった。おそらく列島内はもちろん、大陸、沿海州・アムール地方、更には南西諸島まで名の知れた拠点都市であったに違いない。
 したがって、ここには、あらゆる物資が集積し、いろいろな人々が集う交易センターすなわち国際都市であった可能性もある。あの6本の巨大な柱の建造物は、おそらく出入りする舟の見張りの櫓(やぐら)であり、狼煙をあげれば通信用タワーとなり、夜、篝火を焚けば灯台代わりとなったであろう 。(そうした意味では、上図の建造物の復元図には屋根が描かれており、筆者としてはやや疑問である。筆者は屋上には、何らかの集石炉が作られていたと想像している。)
  次の図は列島内の交易ルート、交易品の数々である。生活物資から装飾品までが列島各地から三内丸山に集積していたことが分かる。
   
 
 ホモ・サピエンスの世界拡散 

 では、三内丸山に住んで、このような先進都市を作り上げた集団とは、どういう人々であったのであろうか。もう一度最初に戻って、学者の見解を整理し、ホモ・サピエンスすなわち現代人の直接の祖先が、どのように世界の各地に拡がり、極東の島まで辿り着いたのかを考えたい。
 実はホモ・サピエンスの出アフリカ後の拡散経路について、学者によって様々な考えがあるようである。が、最終的に筆者が知りたいのは、
1)モンゴロイドに南方系と北方系があるのか、ないのか。すなわちヒマラヤ山脈の南側から
 スンダランドへ、さらにはサフールランドへ移動した集団と、北側を通って黄河周辺やバイ
 カル湖周辺に移動した集団があったのか。
2)日本列島の基層集団、すなわち縄文人は“どんな”モンゴロイドで形成されていたのか。
ということである。以下の地図で言うと、赤の線(南方モンゴロイド)か、青の線(北方モンゴロイド)かということである。
 右の図は、遺伝学系の根井正利・尾本恵市や斎藤成也が描く拡散経路である。
 筆者はホモ・サピエンスが中央アジアからヒマラヤの北を経由して華北(黄河)文化センターに至り、ここでアジア人(モンゴロイド)的形質を獲得し、さらに朝鮮半島を経由して、日本列島に渡来したとする根井・尾本の考えに賛成である。
 斎藤の図は、華北に至る前の出発地が不明確で
   
あり、列島へは5万年前、北海道方面に至ったことになっている。 これも論拠に乏しい。
     一方、左の図は自然人類学(形質人類学系)の馬場悠男や海部陽介が纏めたものである。
 馬場悠男は、埴原和郎の主張と同様、南のアジア人が北上し、日本列島にやって来た。更にバイカル湖方面にも進出したり、原インディアンともなったと図示している。
 また馬場はヒマラヤの北側を回った集団についても文中で触れているが、彼らは3〜2万年前、ようやく東アジアに達し、南回りの初期アジア
人と互いに混血し、文化的・技術的に発達していったという。
 一方、海部陽介は、東ユーラシアは人類拡散史のミッシング・リンクだと正直に述べている。
すなわち、東ユーラシアでこれまでに出土している化石人骨から、ホモ・サピエンスの拡散ルートを推定するのは困難だということであろう。
 ホモ・サピエンスの拡散経路について、遺伝系の学者と形質人類学系の学者とでは、以上のような見解の違いが見られる。
 筆者は、この列島に残された文化の痕跡や日本人の遺伝子の分析などから、遺伝系人類学者の見解に賛成である。

  三内丸山の住人は、誰か?

 東アジアまで拡散したホモ・サピエンスは、寒冷に適応しながらアジア人化してゆく。もしかすると、まだ生存していた北東アジアの旧人と混血したかもしれない。
 この推測は、シノドントと称される北東アジア人特有のシャベル状切り歯(上あごの前歯がシャベル状に凹んでいることを指す)が、原人段階から現代人にまで引き継がれているという、アフリカ単一起源説では説明のつかない事実からの推測である。
 北東アジアは寒冷な気候の地域ではあったが、大型哺乳類の宝庫でもあった。彼らは黄土動物群やシベリアのマンモス動物群の大群に群がったことであろう。
 そこでは人口の増加率が高まり、人口の増加は“文化・技術の創出効果”を高めた。文化センターと呼ばれる地域は、そういう地域であったと筆者は理解している。
 根井・尾本のホモ・サピエンス拡散経路をベースとして、文化センターから列島への渡来、流入経路を書き加えると、次の図のようになる。
 
 なお、本稿では華南文化センターについて、殆ど触れていない。華南との交流がなかったと考えているわけではなく、実態がよくつかめていないといった方がよいだろう。
 
 さらに上図から列島への流入を時系列で表わすと、第1部05節で提示した次の図のようになると、筆者は考えている。
   
 すなわち筆者は、列島の旧石器文化の分析から、細石刃文化成立(上図中央)の頃、
   ●北海道を含む列島の東地区には、バイカル湖文化系の「東日本人」と、
   ●九州、四国を含む列島の西地区には、華北(黄河)文化系の「西日本人」という、
 二系統の民族集団がこの列島の東西に並存するという大枠が形成されたと考えている。
 そして、それは基本的に縄文時代へつながった。
 従って、縄文時代の東日本の中心都市、三内丸山は必然的に“バイカル湖文化系の東日本人”が作り上げた都市であったと考えられる。

  縄文文化は東日本の文化だ!

 縄文文化は、東日本の文化であったことを強調してきた。これを人口の分布と推移で証明したのは小山修三である。
 小山は、日本地図の上に32×32kmのメッシュを置いて、縄文の時代ごとの遺跡数を集計し、地域別人口の推移を推計した。それが次の表である。
     
  これを更に、推移グラフにすると、縄文時代が如何に東日本地区に片寄った、人口構成をしていたかが明確になる。
    
 すなわち、縄文時代は、列島の人口の90%以上が東日本に分布し、各地域で数々の文化を育んでいた、と言えるだろう。その中心が三内丸山文化であったことも明らかである。

 この素晴らしいデータは、小山が1975年までに集めた資料に基づいた推計数値で、1978年、国立民族博物館の英文紀要に発表されたものである。小山自身言っているように、思いがけず多くの分野で引用されたが、今やデータが古くなっている。毎年1万件以上の遺跡発掘がおこなわれ、データが蓄積されているし、コンピュータの能力も1970年代後半の時期とは比べ物にならぬぐらい進歩した。最新のデータによる最新の推計が期待される。

  考古学からの縄文文化の総括

 以上縷々説明してきた縄文時代について、考古学の佐原真は講演(於 京大学友会館 1989年)で次のように総括している。
・・・埴原先生がおっしゃったように、旧石器人、縄文人の体つきは南のほうの人びと(中国南部やボルネオなど)と結びつきがあるようにお話しがあったと思いますが、縄文文化を形成している要素をみると、
 縄文土器の深鍋はあきらかに北的なものです。これはユーラシア大陸からアメリカに亘るまで、北緯30度以北、涼しいところから寒いところにかけての地帯の土器です。南ではむしろ浅い鍋を使う。
 竪穴住居も明らかに北的なものです。
   
 それから、なによりも縄文遺跡の8割(筆者注:佐原の認識)が縄文前期以来の落葉広葉樹の地帯(中部・関東の山寄りから北海道の西部)にある。
 そういうことからも、縄文文化は、むしろ北的な文化であるということです。
 ところが、鳥浜にあるような栽培植物、漆とかはむしろ南的である。なかなか文化の系統というのは難しいのです。・・・
 埴原和郎の主催する講演会なので、最後には少々バランスをとって、このような総括をされている。
 しかし結論として、佐原真が喝破したように、“縄文文化はあくまで北方的な文化が基盤としてあり、それに加えて南方からの特徴的な照葉樹林文化が取り入れられた”と考えるべきであろう。
 
     

         
         
         

 
 

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