縄文の早期〜中期にヒプシサーマル(気候的最適期)と呼ばれる時代があった。6500年前から4000年前のことである。その当時の気温は現在より、東日本で2度、西日本で1.5度ほど高かった。その温度上昇は海水面を現在より2〜3mから4m押し上げていたといわれる。
当然のことながら、たとえば右図のように関東平野などでは、海水が栃木県上都賀郡藤岡町のような内陸まで侵入した。
これは「縄文海進」と呼ばれている。その様子は貝塚遺跡が数多く内陸に分布していることから実証される。
この時代、縄文文化は最盛期を迎える。三内丸山の大規模集落があったのもこの時期であったし、八ヶ岳山麓に環状集落が繁栄したのもこの時期であった。 |
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| しかし、4000年前ごろから徐々に冷涼化が始まり、縄文文化の繁栄にも陰りが見えてくる。それはまた、次の時代・水田稲作を迎える序章の始まりとも言えるのである。第1部-10節、日本人の心のふるさと−照葉樹文化圏−と一部ダブル面があるが、ここでは縄文稲作について少々詳しく調べたい。
プラントオパール分析法
ある年配以上の方々は子供のころ、野原や川辺でススキの穂を採ろうとして、剥き出しの腕や足の脛などを鋭利な刃(葉)でスッパリ斬られた経験をお持ちだろう。これが所謂プラントオパールと呼ばれる物質の仕業だった。
ススキをはじめ、イネ、ムギ、キビ、トウモロコシなどのイネ科植物は吸い上げた水分の中の珪酸という物質を、機動細胞という細胞に蓄積する性質がある。機動細胞に溜まった珪酸は細胞内で一つの固まり、珪酸体となる。
イネ科植物が枯れたとき、有機物は分解されて土に還るが珪酸体はガラス質であるため腐ることなく、そのまま1万年でも土の中に残留することになる。
その珪酸体というガラス成分が掘り出されたものがプラントオパールと呼ばれるものである。プラントオパールは植物の種類によってその形状が違う。事前にその形状を把握していれば、遺跡などから出たプラントオパールがどういう植物に由来するものか分かるわけである。
土中から検出されるプラントオパールを定性的に或いは定量的に分析して、その植物の属や種を特定したり、野生か栽培かなどを判別する所謂「プラントオパール分析法」を確立したのが、農学者 藤原宏志である。
藤原の著書「稲作の起源を探る」から引用した右のイネのプラントオパールの顕微鏡写真をみると、イネのジャポニカとインディカの違いがよく判別出来る。
このプラントオパール分析法が開発されることによって、栽培や農耕の遺跡が発掘されなく
とも、米粒や籾殻が検出されな
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| くとも、イネのプラントオパールが認められれば稲作の可能性を考えることが出来るようになった。
しかも炭化米や籾殻、籾痕などが検出されても、他所から持ち込まれたのではないかという疑いが拭えないが、プラントオパールは葉や茎がなければ発生しないものであるので、多量のプラントオパールが検出できれば、少なくともそこにイネが生育していたと考えてよいのである。
遡る縄文稲作の年代
このプラントオパール分析法の開発によって日本列島に於ける古代イネの研究は急速に進むことになった。
1999年時点でプラントオパールが出土した遺跡は、農学者佐藤洋一郎によれば次の31例に及んでいる。
さらにその後、2005年2月には、岡山県の灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパールが大量に見つかった。その量は土1gあたりプラントオパール2000〜3000個という大量のもので、上表の縄文前期の遺跡・朝寝鼻貝塚の
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数千倍の規模である。これはただ単にイネが何らか理由で持ち込まれたという規模ではなく、まさに栽培されていたというレベルである。左の写真から判別すると、イチョウの葉状の形からジャポニカ米の系統と見られる。
さらに小麦・キビ・ヒエやアフリカ原産のシコクビエ、コウリ
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ャンも少量ながら発見されている。
今後縄文稲作の年代はもっと遡る可能性があるが、現在最も古い朝寝鼻貝塚の6400年前という年代測定が正しければ世界最古級の稲作遺跡である河姆渡遺跡からわずか600年でこの列島に伝播したことになる。
稲作は弥生時代から、せいぜい譲っても縄文晩期後半からという従来からの定説に相変わらず固執する学者もいるが、以上のように各地でプラントオパールが検出され、かつ大量出土する遺跡が現れてくれば、縄文稲作の存在自体を否定することはもはや出来ないであろう。
見えてきた縄文稲作
プラントオパールの検出状況からみるとかなり活発な稲作が推測できるのに、不思議なことに考古学的な直接の証拠、たとえば耕作の跡やそれに使う道具類が出てこないという不可思議な現象がある。
これは何故であろうか。
まず上表の31例の遺跡がある辺りの地形を見てみよう。大きく分類すると次のようになる。
・沖積低地 9例(29%)
・台地・台地縁辺 18例(58%)
・山間・山麓 4例(13%)
(沖積低地や台地のイメージとして右
の東京の地質地図を参照頂きたい) |
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| 現代の日本列島に住む我々にとって稲作とは無意識のうちに水田稲作をさす。しかしこの分類でみると、水田に向きそうな沖積低地は30%に満たない。
つぎにイネのプラントオパールに随伴して検出された雑穀や雑草について調べてみよう。
藤原宏志の「稲作の起源を探る」から調べると、
・岡山県南溝手遺跡出土の土器の胎土からイネとともにキビ族植物のプラントオパールが検
出された。
・上表よりやや遅い縄文晩期の遺跡、都城市黒土遺跡でもイネにくわえてアワ、ヒエ(キビ
族植物)など雑穀類が検出された。

佐々木高明の「日本史誕生」によれば
・生物考古学の第1人者笠原安夫が岡山県の遺跡で、おびただしい炭化種子を調べた結果、 縄文晩期の層から焼畑によく生えてくる畑雑草を大量に検出した。
・福岡市の四箇(しか)遺跡からヒョウタン・マメ・ごく少量のハダカムギとアズキの炭 化粒、焼畑やその周辺に生育する雑草や樹木類の炭化種子が数多く検出された。
先述の彦崎貝塚の例や藤原、佐々木の叙述から見えてくるのは
縄文のイネは主穀物ではなく“雑穀の中のひとつ”として位置づけられていたのであり、且つ水田稲作ではなく、焼畑乃至畑作農耕が営まれていたのではないかと推定されるのである。
佐藤洋一郎はこの辺りの状況について次のようにまとめている。
1.現在の東南アジアの焼畑(筆者注・・近世の日本の焼畑もそうだが)と縄文の焼畑との相
違点は、縄文時代の焼畑が平らな土地に開かれていたのではないかという点である。すな
わち、人口密度の低かった縄文時代は土地も十分にあり、現在のように急な斜面などで
焼畑をする必要はなかったのである。
2.1の地形と関連して縄文時代の焼畑には水が豊富にあったのではないかと佐藤は考える。
春先の水位の低いときに草原や隣接する森を焼き払い、夏の間は高くなった地下水位に支
さえられて稲作を行う。
渇水の年にはイネに代わってアワ、キビなどの乾燥に強い雑穀の収穫を見込む。
反対に雨が多く湿った年にはイネが多く収穫出来たであろう。
その意味では、縄文時代の稲作環境を「焼畑の稲作」と呼ぶことは誤解を生じるかもしれ
ない。かって渡部忠世先生が言われた「水陸未分化」の稲作というのがより適切なようにも
思われる。 このようにまとめている。
縄文の稲作が低湿地での水田ではなく、低湿地での灌漑を伴わない粗放稲作や、やや高い台地のようなところでの焼畑のような稲作であったとすると、これからも畔(あぜ)のような遺構はもとより、鍬(くわ)などの道具も出土することは期待できないと言わねばならない。
何故なら焼畑や粗放農耕なら、種粒を入れる穴を掘る道具、すなわち棒杭1本でこと足りるからである。
縄文の稲作がプラントオパールなどの状況証拠ばかりが出て、耕作跡などが出てこない原因が、このようにかなりの確度を持って推察できた今、筆者には“縄文稲作”を否定する理由はなくなったように感じられる。
追記:
ノートルダム清心女子大学の高橋護は、「日本人はるかな旅4」で“縄文を映す鏡 プラントオパール”という一節を設け、驚くべきことを記述している。
1.中国山地の奥深くにある島根県飯石郡飯南町志津見の板屋V遺跡からイネのプラントオパールが検
出された。これはアカホヤ火山灰層の上下から検出されるので、縄文早期末には稲作が普及していたものと推定される。
それはちょうど、中国の河姆渡遺跡の年代に相当する。 |
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2.鳥浜貝塚では、草創期後半の層からアブラナ類とヒョウタンが検出されている。C14年代でほぼ12,
000〜11,000年前のころである。(筆者注:第1部10節の照葉樹林文化の伝播時期(6,000年前)を大幅に遡る時期)
ヒョウタンは、夕顔型のものであり、皮は柄杓などに利用することも出来るが、果肉は食用となる。現在広く食用にされている干瓢と同じものである。
3.板屋V遺跡では、1.のプラントオパールが検出された層(第3層)の更に下の層(第4層)からキビ
とヒョウタンに混じって、イネのプラントオパールが見出された。
この第4層はほぼ縄文時代草創期に相当する時期である。
あまりに早い時期であるので、サンプリングを重ねて検証したが、間違いなくイネのプラントオパールが検出された。
(筆者注:もしこれが事実なら、従来の学説を大幅に書き直さなくてはならなくなるだろう。) |
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