縄文イネの品種は
縄文稲作が畑作系のそれも焼畑を活用する稲作だったとすると、そこではどんな品種のイネが栽培されていたのだろうか。
前節ではジャポニカとインディカと二種類に分類してきたが、実はジャポニカは近縁ではあるが、さらに温帯型と熱帯型に分類され、その位置関係は右図のようなイメ |
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| ージになるという。
藤原宏志は「稲作の起源を探る」(p132〜134)で
「宮崎県えびの市の桑田遺跡で縄文晩期の層からイネのプラントオパールが検出され、その形状解析から熱帯型ジャポニカである可能性が高いことがわかったのである。・・・・・
・・・水田稲作の伝来以前にイネが存在していたとすれば、やはり、焼畑など畑作系譜の稲作を想定する以外にないとわたしは思う。水田稲作にともなう栽培イネが温帯型ジャポニカであるのに対し、畑作系のイネは熱帯型ジャポニカが多く、しかもこれが縄文時代のイネに多い。」
と述べている。
また佐藤洋一郎も「DNAが語る稲作文明」(p152)のなかで
「最近では、縄文土器の胎土から稲のプラントオパールが検出されているが、これも多くは熱帯ジャポニカの稲由来のものであると言われている。----ごく端的に表現するなら、温帯ジャポニカが水田稲作を代表とする集約的な稲作に支えられた稲。熱帯ジャポニカは焼畑を代表とする粗放な稲作に支えられた稲である。----熱帯ジャポニカは縄文時代に西日本に伝わり、粗放な稲作に支えられていたと考えられる。」
と、藤原も佐藤も縄文のイネは熱帯ジャポニカであったと述べている。
縄文の稲作の品種が熱帯ジャポニカであったことはまず間違いないらしい。
そうすると前節で蒐集した、ジャポニカのプラントオパールの写真は熱帯ジャポニカのそれであったことになる。
稲作の起源説の変遷
もともとアジアのイネの起源地は東インドの低湿地地帯だと考えられてきた。しかし1977
年、渡部忠世は緻密な実証的研究の結果、古代の稲の伝播路の原点がインド東北部のアッサムとそれに隣接する雲南高地に収斂することを発見した(右図)。
こののち、イネの起源地はアッサム・雲南センターであるというのが世界的定説となった。これでイネの起源地の問題は解決した、と誰もが思っていた。 |
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| ところが丁度そのころ、1973年、長江下流の南、余姚(よよう)県河姆渡(かぼと)村から数十センチの厚さに堆積した籾をはじめ、おびただしい量の遺物が出土した。世界最古の稲作遺跡として世界にその名を知られることとなる河姆渡遺跡(7000年前)の発見である。
アッサム−雲南起源説の隆盛の中、文化大革命による考古学者受難の中、この河姆渡遺跡の発掘は細々とつづけられ、1986年北京農業大学の王在徳によって発掘成果が発表された。その論文に出てくる地図はおよそ次のようなものである。
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この地図を見ると稲作は7000〜8,000年前に長江中流域で発生し、一度下流に伝播して、その後、逆に下流から中流へ遡るように広がり、3000年前くらいに今の中国の稲作地帯のほぼ全体に及ぶようになった。
(アッサム-)雲南センターへはほぼ最終期に近い時期に広がった、と従来のアッサム−雲南起源説(雲南を起源として稲作は長江を下るように広がる)とは逆の仮説を王在徳が展開していることが分かる。 |
そして、いまや稲作の起源は長江中・下流説が主流になっており、それはさらに発展して中国の文明は黄河文明に先立って「長江文明」があったという議論にまで発展している。
熱帯ジャポニカの起源
先に縄文イネは熱帯ジャポニカであったとした。それでは温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカはどう違うのか、稲作の起源とどう関係するのかが問題となる。
まず次の表と図を見ていただきたい。
これらをみると、熱帯ジャポニカが粗放な作業で収穫が得られる品種であることが大体想像できる。
おそらく、ごく少数の人々が何処に漂着するか分からないような遠洋航海に出るような場合、当然最低限の運搬物しか持って移動できないであったろうし、そして遠方の土地の地味や気候が分からないような場合、選ばれたのは当然“熱帯ジャポニカ”であったに違いない。
したがって縄文のイネが熱帯ジャポニカであっても、何ら不思議ではないし、むしろ当然と言っていい。
ではイネの長江起源説とはどういう関係にあったのか。
佐藤洋一郎は、「日本人はるかな旅4」の“DNAからみたイネの道”という一節(p120)で、---私の研究グループでは長江中・下流域のいくつかの遺跡から出土した炭化米からDNAを取り出してみた。すると面白いことに分析した全て(20粒)がジャポニカに属することがわかった。長江流域はジャポニカの起源地であったのである。・・・DNA分析を進めたところ、この20粒ほどのうち2粒(ともに河姆渡遺跡)は熱帯ジャポニカであった。残りは、分析の未熟さのためか温帯ジャポニカとも熱帯ジャポニカとも区別できなかった。---と記述している。
“長江のイネがジャポニカであることははっきりしている。しかし温帯ジャポニカか熱帯ジャポニカかは今のところわからない。”としていた「DNAが語る稲作文明」の記述から一歩も二歩も踏み出している。
すなわち、少なくとも河姆渡遺跡では、“熱帯ジャポニカのイネも”栽培されていたのである。
この事実は大変大きな意味を持つ。
1.もともと温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカは遺伝的に非常に近い関係にある。したがって両者が同じ地域で起源した可能性が強いということは、極めてノーマルな結論と言ってよい。
2.長江中・下流域、江南地方で熱帯ジャポニカが栽培されていたことにより、日本列島への伝播ルートに無理な設定をする必要がなくなった。
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