| 日本人の源流を探して | (敬称は全て省略しています) |
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第2部 縄文稲作の究明 |
| 縄文イネやイネの起源についてかなり詳しく調べてきた。それは何処の、誰が縄文イネをこの日本列島に持ちこんだかを知りたかったからである。また、その人たちが日本人の形成にどの程度影響を及ぼしたかを知りたかったからである。 熱帯ジャポニカは中国江南地方から来た 前節で、縄文時代の遺跡から出土する、イネのプラントオパールが熱帯ジャポニカであること。また、佐藤洋一郎が、長江下流域のいくつかの遺跡から出土した炭化米20粒から、DNAを取り出して調べた結果、河姆渡遺跡から出土した炭化米2粒が、熱帯ジャポニカであることが判明したことを述べた。 この二つの知見に加え、第1部10節「日本人の心のふるさと−照葉樹林文化−」の結論とした
河姆渡村を含む中国江南地方から、長江文明(含む熱帯ジャポニカ種のイネ)が、セットとなってこの列島に流入していた。 ということが言えると筆者は考える。 ところが意外にも佐藤は、自らの研究成果を直接、伝播ルートに反映する事を避け、従来からの「海上の道」説を主張し続ける。佐藤の同じく「日本人はるかな旅」の記述を引用すると、
筆者は佐藤が何故「海上の道」(右上図の薄赤の矢印)に拘るのか分からない。なぜなら南西諸島が、とりわけその中部・南部地域が“文化の伝達路”の役割を果たした痕跡を先史に見出すことは、現在のところ出来ていないからである。南西諸島で稲作として想定されるのは焼畑や畑稲作であろうが、プラントオパール発見の報告もまだない。水稲に至ってはずっと下って、グスク時代(12世紀)からと言われている。 したがって、むしろ緑の矢印、いわゆる直接渡来説を採ったほうが、いろいろ整合的だと思えるのだが・・・。 長江文明との長期に亘る交流の拠点 前々節で、プラントオパールなどが出土した31遺跡の“地形”を分析した。その結果は水田向きの地形は少なく、むしろ畑作(焼畑)に向く地形からイネのプラントオパールが出土していたことが明らかになった。 このことが、縄文イネの品種が熱帯ジャポニカであったろうとされる、一つの決め手になった。しかも河姆渡遺跡の炭化米が同じく熱帯ジャポニカであることが判明し、江南地方と日本列島の交流の可能性が、上記のように一層増大した。 こんどは31遺跡の“所在地”に注目して分析を試みる。 ![]() このように遺跡を、岡山ブロック、有明海ブロック、その他地域の三つに分類すると、 ・岡山ブロック 9ヵ所 ( 30% ) ・有明海ブロック 12ヵ所 ( 40% ) *注…31遺跡中、ワクド石遺跡が二度カ ・その他地域 9ヵ所 ( 30% ) ウントされているので実数は30遺跡。 驚くべきことに、岡山、有明海ブロックで全体の70%を占める。早い時期は岡山に重点があり、時期が下ると有明海に重点が移る。しかし、両地域とも縄文前期・中期から後・晩期にかけて継続的分布が見られる。 この表の原表を作った外山秀一も佐藤洋一郎も、この点を指摘していないが、3,000年以上の期間に亘る、縄文イネ遺跡の特定地区集中は、偶然では起こり得ないはずである。 地図上にプロットしてみると、“偶然”ではないことが、よりクリアーに見えてくる。 ![]() 筆者はこの二極集中ともいえる事実を次のように解釈したらどうかと思う。 研究ノート07で取り上げた、鳥浜貝塚と河姆渡遺跡との間の交流を一つの例として、日本列島の西日本地区(照葉樹林帯)の各地と中国江南地区の各地は、それぞれ互いに交流していたと考えられる。 その交流が重なっていくうち、互いの交流地域が次第に収斂して行った。そこが岡山ブロックと有明海ブロックであった。 長江文明は稲作農耕と漁撈の融合をベースとして興り、その担い手はいわゆる“越人”であったと思われる。彼らは農耕・漁撈技術とともに、長江や沿岸海域を利用した水運技術にも長じていたことはよく知られているところである。 岡山・有明海ブロックは、あたかも長江のような瀬戸内海と有明海という内海に面し、上の表にも括弧書きしたように、内陸の遺跡も大河の流域に存する。日本列島と交流した越人にとって、この二つのブロックは江南地方によく似た、居心地のいい地域だったのではないか。 だからこそ、この二つのブロックが交流の拠点となったと筆者は考えている。 すなわち、江南人・越人たちは、長江中・下流域ないし東亜稲作半月弧から、偶発的にたまたま日本列島に漂着したのではなく、当時すでに高い水準にあった渡海航法を駆使し、瀬戸内海や有明海の一定地点を目指して渡来して来たのではないか、「相互交流」が長期に亘って存在していたのではないか、と思われる。 日中双方に残る交流の痕跡 より大胆な推測を加えれば、3,000年以上に亘る交流は、人間の自然な摂理の結果として、岡山周辺や有明海沿岸には越人のコロニー(居留地)が、長江下流域の方には西日本縄文人のコロニーが幾箇所か出来ていたのかも知れない。そういう深い関係ではなかったか、とさえ考えられるのである。 それは河姆渡と有明海との距離が、実は現在で言えば九州と東京の距離に過ぎず、また当時
芸能や民俗に詳しい諏訪春雄は、「日本人はるかな旅4」に「中国江南の遺跡と縄文・弥生文化」という一節を設け、そのなかで(p161)、
また、魏志倭人伝に描かれている“倭とか倭人”が「黥面文身し好んで沈没して、・・・魚蛤を補う」というように江南地方の習俗との深い繋がりが感じられること、 ![]() 「史記」の秦始皇本紀に出てくる徐福(伝説)の出航地が、河姆渡遺跡に程近い寧波市と言わ ![]() れており、また来航地・定住地の最有力地が有明海・筑後川下流であることなど、史実、伝説取り混ぜて交流の強い印象を残していることは、この節で述べてきた仮説が真実を孕んでいる可能性を強く感じるのである。 以上のように考えることによって、水田稲作という極めて高度な技術パッケージを無理なく受け入れる素地が、縄文時代後・晩期にすでに北部九州や有明海沿岸、そして西日本各地に作られていたことの理由が、明快に説明出来るのではなかろうか。 また後に検討する「日本語」の語彙に、オーストロネシア語系やビルマ語系の南方的語彙が深く入り込んでいる謎が解けるのではなかろうか。
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