日本人の源流を探して      (敬称は全て省略しています) 

 

            第2部  縄文稲作の究明

04.気候の寒冷化がもたらした東日本縄文人の南下

 
  東日本縄文社会の崩壊

 環境考古学の安田喜憲によると、6,000年前ごろ気候最適期にあった縄文文化は、縄文後期に入る4,000年前ごろから冷涼化に見舞われ、縄文晩期に入る3,000年前ごろには厳しい寒冷化・乾燥化に見舞われた。安田は、その気温変動の様子をごく大雑把に次のグラフで表わしている。
 
 *ヒプシサーマル・・・Hypsithermal(=warm) Period(高温期)。 Climatic optimum(気候最適期)
  も言われる。
 この日本列島の豊かで安定した森、特に東日本の落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)は、高温期から寒冷化が進む3,000年の間に、温暖帯系のクヌギ・コナラ・クリなどの森から、冷温帯系のブナ、ミズナラなどの林に大きく姿を変えた。
  
 上図で黄緑色で示した暖温帯落葉広葉樹林が寒冷化によって壊滅的打撃を受けたことが分かる。東日本地区の、高い生産力を誇ったドングリの森林は、その生産力を大幅に減じることとなったのである。
 一方、西日本地区の照葉樹林は気温に対する適応性が大きいのであろう。ほとんど気温変化の影響を受けていない。

  縄文文化はすでに述べたように、春には山菜、夏には魚介類、秋には木の実、冬には狩猟という、森の恵みに基盤を置いた自然=人間循環系の文化であった。
 
 その“自然の循環”のうち最も基本となる木の実の生産が、東日本地区で、うまく機能しなくなったのである。
 その結果、中部山岳の八ヶ岳山麓文化圏とも言える縄文中期の繁栄は、4,000年前ごろ突然崩壊し、5,500年前ごろから1,500年間も繁栄し続けた最北の巨大な縄文都市・三内丸山もこの時期に突然放棄されることになった。
 すでに1万年以上も続いていた縄文社会が、急速に崩壊を始めたといっていいだろう。

  東西文化の融合をもたらした 東日本人の南下

 当時の縄文人は、地球規模で起こった気候の寒冷化など知る由もなく、自分の住む地域で、局地的に異常気象が頻発することを、いぶかしんでいたことだろう。
 安田の言う縄文後・晩期の寒冷化は、安定的で、且つ高い生産性を誇ってきた東日本の森林が、主要食料・ドングリなどの堅果類の供給を、突然、何年かに一度激減させるというような、異常な事態を引き起こしていた。しかもこの異常な事態は繰り返し襲って来た。
 この“自然が作り出した凶作”は東日本の縄文人に、かってない決断を迫ったに違いない。
 
 次の表は、第1部12節で示した表の縄文中期・後期に焦点を当てたものである。中期と後期すなわち、気候最適期と寒冷化後で、地域毎に人口がどう変化したかを調べてみた。
      
 縄文時代の人口は、縄文中期にピークに達している。それも95%以上が東日本に偏在した。その東日本(東北を除く)が冷涼化・寒冷化による森林の生産力の低下で、人口が半減してしまった。特に中部の山岳地域では3分の1以下に激減した。
 その一方で注目に値するのは、東日本に較べて極めて人口密度の低かった西日本で、低レベルながら人口が“倍増”したことである。特に四国などは、200人から2,700人へと13.5倍の規模に膨れ上がっている。また九州は実数においてほぼ5,000人に近い大幅な増加を示している。
(もちろんこの表のデータは古くなってしまった。一つ一つの数字の精度も、必ずしも高くないかもしれない。しかしこの傾向に間違いはないと、筆者は考える。)
 
 このような縄文後期における西日本地区の人口増加は、西日本が寒冷化しなかったからでも、照葉樹林の生産性が急に上がったからでもない。またこの期間に、大陸や半島方面から大量の渡来があったからでもない。
 唯一つ考えられる理由は、豊かな森を失ったことを実感した東日本人が、西日本地区に南下、流入した結果であろう。
 たとえば殆ど無人島であった四国地方に、或いはアカホヤ火山灰から再生した南九州の空白地帯に東日本人が流入した可能性は十分ありうると考える。地図に示すと次のようになる。
   
 東日本縄文人、遡れば、はるばるバイカル湖畔からこの列島にやって来た人たち、彼らは冷涼な気候を好む人々であったらしい。彼らが強い勢いをもって、この列島に流入したときから不思議なことに、西日本の温暖な地域には足を踏み入れなかった。
(彼らの荒屋型彫器を伴うクサビ形細石刃文化は、東日本地区に留まり、西日本地区まで南下しなかった。その勢いからすれば列島全体を覆っても決して不思議ではなかった、のにである。)
 上表を作成した小山修三も--洋泉社MOOK逆転の日本史【日本人のルーツ・ここまでわかった!】-- に寄稿して、---東から西への人間の移動は考え難い。広葉樹林に適応した縄文人(筆者注・・東日本人)は、照葉樹林が中心の西日本には生きられない---とさえ著述している。

 しかしそういう冷涼気候を好む人々が、上図に見るように、凶作や飢餓のためむに止まれず、はじめて南下を決断したと考えられる。

 上表の作成者の小山修三は否定するかもしれないが、東日本人の南下を想定する以外、西日本地域の人口倍増を説明することは出来ないと思う。
 佐々木高明(「日本史誕生」p110)は---この時期(筆者注・・縄文後期)には磨消縄文が普及し、後期中ごろには、その文様が西日本にも普及し、東・西日本のあいだにみられた地域差が一時的に解消されたことがあった。---としている。
 
 また佐原真(「大系日本の歴史1日本人の誕生」p232)は---縄文時代後期の末近く・・とくに九州では、火山灰台地に集落の出現が目立ってくる。東日本からアク抜き技
   
術が伝播したことによって、それまで食べられなかった火山灰地帯の根茎類などの植物が食べられるようになった、という解釈もある。---と述べている。
 佐々木高明と佐原真のこの二つの著述は、西日本の人口増加の原因について直接答えたものではない。しかしいずれの記述も、東日本人の西日本への移動があったことを、はからずも示唆していると筆者は考える。

 東日本人の南下、西日本地区への流入、それも既存の西日本縄文人と同規模以上の流入が事実であったとすると、旧石器時代以来、かなり独立した集団であった東日本の縄文人と西日本の縄文人が、縄文後期に、東と西の文化を融合させたということになる。おそらく互いの言語・語彙が共通化するようなことも起こったであろうし、なによりも遺伝子の融合が進んだであろう。すなわち、日本列島の西部地区には、文化的にも民族的にも列島平準的な、新たな西日本人が誕生していたと言って過言ではないだろう。

 また、筆者は上図の点線のように、南下した東日本人の一部が、直接、または南九州に一度落ち着いた後、さらに南下して琉球地方や南西諸島に住みついた可能性がつよい、と考える。
 それは、丁度この時期に、沖縄中部では貝塚時代前期に入り遺跡が急増し、沖縄南部では南

琉球新石器時代が始まっているからである。
 すなわち、この時期に西日本地区と同様、沖縄中・南部の人口が急増しているのである。 
 その原因が東日本縄文人の流入であったとしたら、アイヌ人と琉球人が遺伝学的に同祖であるという有力な学説とも整合性を持つことになる。 

  寒冷化・乾燥化と世界の文明

 気候の寒冷化は 当然のことながら日本列島だけで起こったものではない。世界的な気候の寒冷化が各地を襲った。
 縄文文化が森の季節の変化に歩調を合わせた自然=人間循環系の文化であったのと同様に、エジプト文明はナイル川の定期的洪水氾濫(河岸地帯の肥沃化)に歩調をあわせた、やはり自然循環系の文明であった。それゆえ気候の寒冷化がナイル地域の乾燥化を招き、ナイルの水位が下がって氾濫規模を縮小すると生産力が低下し、ツタンカーメンなどのエジプト新王国時代はこの時期に終焉した。
   
 またヨーロッパ大陸ではゲルマン民族の南下によりケルト人をライン川東岸から追い出した。地中海沿岸では民族移動の嵐が起こりミケーネ文明やヒッタイト帝国が崩壊した。
 インダス川流域ではアーリア民族が南下して先住のドラヴィダ人をインド南方に追いやった。
 まさに気候の寒冷化・乾燥化が世界各地で民族の南下や移動を誘発し、他の民族の逃避や文明の崩壊を引き起こしていたのである。

  寒冷化がもたらした中国大陸の動乱

 
 中国大陸も例外ではない。4,000年前、中国大陸では、北方の畑作牧畜民(黄河中流域の漢民族)が長江流域の江漢平原(湖北省)に南下した。
 その証拠は湖北省石家河遺跡(4,000年前)から三足土器が出土している。これはあきらかに長江流域のものではなく、中原
   
(黄河中流域の平原地帯)のものである。
     長江流域の人々が北方の民の侵入をただ眺めていただけだったとは思えないが、北方の民が馬に乗り青銅の武器を携えていたのに対し、石器しか持たなかった長江の民の抵抗は空しかったに違いない。
 気候の寒冷化・乾燥化はその後も繰り返し起こった。そのたびに北方民の長江流域への侵攻があった。
 特に3,000年前の寒冷化・乾燥化は厳しく、北方の民は大挙して長江流域に押し寄せた。度重なる北方民の侵入により、上図のよ
うに長江流域を追われて雲南省や貴州省の山奥に逃れる民族も出てきた。(たとえば苗族がそれである。)
 長江流域の民が向かったのは中国の奥地ばかりではない。東南アジアにも向かったし、台湾島にも向かった。
 
  水田稲作の日本への伝播

 その向かった地の一つが同じ照葉樹の森を持つ日本列島であり、南部朝鮮であった。
 前節で詳しく検討したように長江流域の民にとって西日本は、全く知らない土地というわけではなかった。すでに3,000年以上に亘って交流をしてきた同じ文化(照葉樹林文化)を共有する地域であった。
 安田喜憲は日本列島に渡来してきた人々は北方の民の侵略を逃れてボートピープルとなり、未知の島・日本列島に漂着した人々であったろうと言っている。
 しかし筆者はこれまでの検討から、「彼らは北方の漢民族の侵略を受けたとき、昔から交流のあった日本列島をニューフロンティアとして計画的に目指した人々であった。」と言い換えられると考えている。
 文字による記録がない時代、すなわち祖先の伝承や物知りの古老の物語などが「記録」であった時代、江南地方ではすでに日本列島が確かな伝説の島であったに違いない。そればかりでなく、日本列島と強い繋がりのある集団や、推測を逞しくすれば、日本列島にコロニーをもつような集団があった可能性も、既に述べた。
 だからかれらは、江南の港から大海に乗り出すときから、この日本列島や同じく照葉樹林地帯である南朝鮮を目的地に定めていたに違いない。
 だからこそ彼等は取るものもとりあえず漂流したという形ではなく、水田稲作という技術を、高度に完成されたシステムとして、温帯ジャポニカという水田稲作に適した種籾と水田耕作用の道具類などを携えて日本列島に持ち込めたのであろう。
 この詳細は次章で検討する。

追記:
 本節で取り上げた東日本縄文人の南下に関する、国立歴史民俗博物館・藤尾 慎一郎の論文「生業からみた縄文から弥生」があったので紹介しておきたい。
---(抜粋)
本稿は西日本における縄文時代後・晩期から弥生時代前期にかけて,植物質食糧獲得の手段がどのように変化するか検討したものである。・・・・東日本からの文化伝播は集団的・組織的な人の移動を伴うので道具・技術・精神文化の面において考古学的な変化を把握できる。---
 http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/seigyo/jomon.html#1


     

         
         
         
 
 
 
 

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