| 日本人の源流を探して | (敬称は全て省略しています) |
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第2部 縄文稲作の究明 |
| 第1部では、この日本列島の東と西に、二つの民族集団が並存し、縄文時代というのは東のバイカル湖系縄文人すなわち東日本縄文人が、卓越した時代であったことを明らかにした。 ついで第2部では、縄文稲作の究明を通じて、大陸との接触や列島内の移動を調べてきた。 それは、埴原和郎の言う、日本人の形成過程のなかでも「基層人(二重構造の一重目)」という人々がどういう人々であったかを明らかにしたかったからである。 その「基層人」についていままで辿ってきたところを纏めると次のようになる。 ![]() 二重構造形成における 北部九州縄文人の重要性 3,000年前、気候の寒冷化により、一万年に亘る長い間享受して来た、自然= 人間循環系の豊かな縄文文化が、終焉を迎えつつあった。 この列島の豊かな森、温暖帯落葉広葉樹林がほとんど消滅し、この列島はすっかり冷温帯落葉広葉樹林の森に覆われてしまったからである。 かって隆盛を誇った東日本地区の人口は、ピーク時の1/4、65,000人にまで減少し、西日本地区も一度増加した人口が、また半分の1万人レベルまで落ち込んできていた。 これは長い間守り続けてきた縄文カレンダーが機能しなくなり、人口の再生産力が大幅に削がれたことを意味する。縄文人たちも、これまでの生業(採集・狩猟・漁撈・粗放栽培)に代わる新しい食料獲得の方策や技術、すなわち“新生業モデル”とでもいうものを模索していたに違いない。 この時、新しい文化や技術の流入ないしは開発がなかったならば、この列島は亀ヶ岡文化の爛熟と衰退で終わっていたかも知れない。 事実、世界の幾多の民族や文化、そしてアイヌ民族も衰退の道を辿った。ましてや、この時から3,000年後、世界第2位の経済大国になることなどとても考えられなかったであろう。 しかし事実は違った。次の第3部で詳しく検討する予定だが、これまで縄文人が拒否し続けてきた、水田稲作の農耕技術と農耕文化を伴った民族集団が、怒涛のようにこの列島に渡来し、列島の縄文人も彼らをいわば歓迎したのである。
渡来人を受け入れて北部九州で形成された、新しい集団(これは後に“倭人”と呼ばれる)は、その後さらに新たな渡来人を包含しつつ、西日本地区全域に進出し、さらに徐々に東日本地区にも浸透してゆく。もちろん行く先々で既存の縄文人との混血が進んだことであろう。こうして、日本人の二重構造が形成されていくことになる。 このイメージ図から、人口の規模や文化の中心が東日本にあった縄文時代から、弥生時代以降は、西日本それも北部九州という一部の地域集団が、弥生時代を先導していくことになることがわかる。 とすれば、渡来人が来る前の、マイナーな北部九州縄文人こそ、実は本土日本人の基層人として極めて重要な存在であったことに気付くのである。 北部九州の縄文人とはどんな集団であったか では北部九州で、渡来人が来る前に、先住民(基層人)として生活していた縄文人は、どういう集団であったのだろうか。ここでは、これまでに得た知見を、北部九州縄文人に絞って要約してみたい。 まず確かなことは、この列島の北の玄関口が宗谷岬であったのに対し、この北部九州の地は南の玄関口であった。 この玄関口を通って、大陸の華北文化センターや中国東北部、朝鮮からヒトや技術が、数万年に亘り流入し続けた。そして画期は、細石刃文化がこの列島に押し寄せてきたころであろう。ほぼ13,000年前ごろのことである。 ![]() 西日本地区には、まず半円錐形細石刃核をもつ細石刃文化が押し寄せ、ついで九州地方には更に、荒屋型彫器(彫刻刃)を伴わないクサビ形細石刃核の文化が流入した。 いずれも華北文化系(一部華南系が混じっていると言う見解もある)だと言われている。これらの華北文化系集団を漢民族系と考える必要は全くない。この当時、漢民族も小さな一民族集団に過ぎなかったからである。 要は、この北部九州には次の図の、“緑”のルートで幾波にも亘って流入したヒト達、すなわち原初的アジア人(古アジア人)のグループが住んでいたと考えてよいであろう。 ![]() この集団はヒプシサーマル期に大幅に人口を増加し、縄文前期・中期には、小山修三の推定によれば、九州地方で約5,000人強(北部九州では、九州全域の過半と見て約3,000人)が住んでいたと推定される。(それでも東日本の各地区に比べれば人口密度は低く、1/5〜1/20という過疎状態であった。) 中国江南人との長期に亘る交流 6,000年前(縄文前期)ごろ、鳥浜貝塚に照葉樹林文化が伝播し、その担い手は江南地方の人々(越人と呼ばれた人々)であったことは既に述べた。 この鳥浜貝塚で起こったことと同様のことが、北部九州で起こっていたとしても決して無理な想定ではない。むしろ、地理上から見て、北部九州の方が先行していたとしても不思議ではないだろう。 前々節で指摘したように、有明海ブロック(北部九州またはその近隣)と長江下流域ブロック(江南地方)との間には、相互交流の長い歴史が認められるし、時代が下った縄文後期、福岡市早良平野の微高地の四箇遺跡や、北九州市小倉南区の長行遺跡、福岡市博多区板付遺跡など、将来の弥生時代の先進地帯から、江南人等から伝えられたと思われる粗放な微高地型・段丘型の焼畑稲作の痕跡が認められる。 ![]() すなわち、縄文前期〜縄文晩期まで、どれ程の規模か定かではないが、縄文稲作や照葉樹林文化を伴った江南人が継続的に北部九州と往来していたことは、まず間違いないと思われる。 いやむしろ、東日本地区に比べ極めて人口密度の低かった北部九州の人口規模に対して、相対的に大きな規模の渡来があったことを示唆する根拠がある。やや循環論的になるが、
いま一つは、現代日本語の成り立ちのうち、語彙の多く部分がオーストロネシア語系だということである。(また、安本美典によればビルマ語系も混入しているらしい。) 第5部04節でとりあげる言語学者・崎山理は「日本語は混合言語だ」という説を唱えてい
とすれば崎山が言う“オーストロネシアンとお互いに混ざり合うなかで、日本語の原型が形成された”地域とはまさに北部九州のことであり、この言語の面からも北部九州への江南人の影響の大きさを感じずにはいられないのである。 日本人の二重構造の基層人とは こういう [華北系古アジア人+江南人諸族の混成集団] という比較的少数の集団が疎らに分布していた北部九州へ、前節で説明したように、東日本人の大量流入があった。 その規模は北部九州の既存の人口に匹敵するほどのものであったと推定される。(九州全体で、既存人口5,300人に対し、流入は4,800人と推定される。)
すなわち、北部九州では旧石器時代から住み着いていた華北系の集団に、南方の文化を持った江南地方の集団が流入し、かなりのウエイトで南方の遺伝子を持った集団が形成されていた。そこへまた、バイカル湖系の、すなわち北方の文化と遺伝子を持った東日本人がどっと押し寄せた。おそらく北部九州の集団は、東日本縄文人を50%に近い割合で受け入れることで、南方的性質を弱め、かなり“列島平準的な基層人”となったと言えるだろう。
また、基層人を以上のように捉えることによって、この列島の不思議な現象、すなわち 1.Gm遺伝子などで見ると、南方の遺伝子の割合はせいぜい8%程度であるのに、現代日本語 には南方の要素が非常に強いこと。 2.照葉樹林文化の影響と思われるものが、日本の文化の底辺に東日本地区まで根強く存在し、 稲作農耕文化と二重構造を為していること。 なども納得性を持って説明できると考えるのである。
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