日本人の源流を探して
(敬称は全て省略しています)
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第3部 弥生文化と渡来人の登場 |
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渡来人の故郷を探るために、これまで水田稲作文化と青銅器文化をキーにして、伝播経路などをかなり詳しく調べてきた。そうした知見をベースとしてこの節では、主に自然人類学(形質人類学)の分野から、すなわち頭骨や人骨を比較分析する方法で、現代本土人の形成に大きな影響を与えた、渡来人の源郷を調べて行きたい。 九州の弥生人のタイプ この列島が酸性土壌で、酸性に侵されて骨が残り難いということはすでに述べた。縄文人骨が比較的良く残っているのは、貝塚に葬られた骨が貝の石灰分で中和されたためである。 北部九州においてもこの事情は同じである。人類学の中橋孝博によれば、北部九州でこれまで出土した弥生人骨は5,000体を超えるが、これらのほとんどは甕棺墓が普及しだした弥生前期末以降のもので、縄文晩期から弥生初期の移行期の人骨が抜け落ちており、先に述べた支石墓の人骨が少々出土しているだけという。 (甕棺墓は密封されており、酸性の土壌に侵されることなく人骨が残る。また土井ヶ浜の人骨は甕棺墓ではなく砂丘に埋葬されていた。貝塚と同様、砂浜に含まれる貝殻の細かい粒に含まれるカルシウムが、土の酸性を弱め、雨水に溶けて人骨に沈着して、300体以上の弥生人骨を残した。) 最も知りたい肝心の時期の人骨の資料が、実は不足しているということを知ったうえで、九州の弥生人を調べてゆこう。 九州北部の弥生人でも背振山地から西の西北九州沿岸部と東の平野部の弥生人が、全く異質な集団であることを初めて明らかにしたのは長崎大学の内藤芳篤(2005年没)である。 その後内藤は九州弥生人をさらに3群に分け、下図の中央図のように提示した。 ![]() まず北部九州・山口タイプの弥生人骨は、平野部で農耕を主生業とし、死後は大形甕棺を主体とする大規模な墓域に豊富な副葬品を伴って葬られた人々および土井ヶ浜人達である。 この地域では縄文人たちが渡来系農耕民の新しい技術や血をうけいれて、文化的にも体質的(長身・高顔・・注- ヒトの頭蓋骨の計測 )にも均質な集団が誕生した。 一方、西北九州タイプの弥生人骨は岩礁性の海岸部で漁撈に従事していた人々が、極めて貧弱な副葬品と共に小規模な土壙墓や石棺墓に残したものである。 この地域は早い時期に水田稲作文化の洗礼をうけたが、水稲栽培に不向きな岩礁性の海岸部や離島に住んでいた縄文人は、土器や石器などの弥生文化要素は受け入れたものの、伝統的な生業と風習をかたくなに守り、渡来系農耕民との通婚も拒否し続けたようだ。 したがってこのタイプの人々は低身・低顔という縄文人の形質を色濃く残した。 なお、福岡市の西郊、糸島半島の新町遺跡で支石墓という朝鮮系の墓から、この西北九州タイプのヒトが出土したことから、このタイプのヒトは、南朝鮮の低身タイプの渡来人ではないかとか、あるいは江南地方からの渡来人ではないかとする説が出されているが確かなことは分らない。 最後に南九州離島タイプである。沖縄の縄文人は九州の縄文人や西北九州の弥生人と形質的に同じグループに属している。ところがこの南九州離島タイプの人々は沖縄の縄文人とは一線を画しているのである。 いちじるしく低身長で男性で154cm、女性で143cm足らずしかない。集団としてこれほどの低身長の古代人は、国内では見当たらず、あえて探せば、現代のフィリピン山中に住むネグリトとか、アフリカのコイサン(ピグミー)くらいという。 また低顔性が強く、後頭部を見るとひどく扁平に変形しており、人工的に変形させたのではないかという意見もあるくらいである。抜歯の風習も風変わりな形式で、上顎の前歯を片側だけ抜いているという。 したがって広田人の来歴は、渡来人の可能性もある一方、以前からこの地だけに住み着いていた土着集団だったとみる見方もあり、これも確かなことは分かっていない。 頭骨から想像される風貌は、次のようなものという。 ![]() また寺沢薫によると、吉野ヶ里の甕棺から300体以上の人骨が出土し研究が進んだ結果、福岡南部や佐賀平野の所謂吉野ヶ里タイプの弥生人と土井ヶ浜タイプの弥生人とは体型が少
これは前節で推測した、青銅器を舶載で得た玄界灘沿岸地方と、青銅器の現地生産を推進した佐賀平野・有明海沿岸地方の、集団の故郷が違うのではないかという推論と、いみじくも一致する。 以上のように、北部九州の弥生人と言ってもまだ解っていないことが多く、また一口に渡来人といっても、色々な地域から色々な集団が渡来してきた可能性が、北部九州ないし九州全域の人骨の分析からも想定される。 土井ヶ浜人と二重構造モデル では、渡来人はどこから来たのか。このサイトの冒頭で取り上げた埴原和郎(2004年歿)は、下図(左側)の樹状図で、縄文人やアイヌ・沖縄人が南アジアの集団のグループに分類されるのに対し、現代日本人が北アジアの集団のグループに分類されるという、不思議な現象に疑問を持ち、その謎を解く鍵は、実は弥生人の源流にあるのではないかと考えた。 そこで弥生人の本当の故郷はどこかを探るため、アジア大陸のさまざまな集団の頭骨計測値を集め、それらを数量分類学の方法で比較した。それが下図(右側)である。 ![]() この分布図で注目されることは、土井ヶ浜人がシベリア・蒙古人の集団と現代日本人(本土人)の集団のほぼ中間に位置していること、土井ヶ浜人が予想以上に北アジアの集団に近い位置にあることである。 この結果や、その他いろいろの分析結果から埴原は、渡来系弥生人の祖先は北アジアの極
しかし、埴原が二重構造モデル論を発表したのは、1980年代中葉である。現在でも不足している東アジアの頭骨資料は、さらに少なかったに違いない。そうした意味でも筆者は、新しい日本人の起源説が提示されてもいい時期に来たのではないかと思うのである。 朝鮮半島の渡来系弥生人の候補者たち 以上の北部九州や九州全域の弥生時代人骨をいくら分析したところで、そうした違いを生み出すに足る特徴を持った古代人が、当時の海の向こう側−朝鮮半島や中国大陸−に住んでいなければ、いろいろな説も仮説の域を出るものではない。 そうした考えから弥生人の故郷探しが始まった。 この懸案解決への突破口になりそうな資料が、朝鮮半島南部の礼安里遺跡から出土した。 この遺跡は、弥生末期から古墳時代にかけて営まれた集団墓地で、弥生の渡来人問題の争点になる時代からは少し後世にずれているが、出土総数210体という、朝鮮半島では稀に見る規模の出土であった。
![]() 黄石里支石墓と朝島貝塚の弥生時代のそれぞれ1体の資料も高身長の人たちであり、朝鮮南部一帯に弥生時代から、礼安里人と同じような集団が存在していたことは、まず間違いない。 そして、北部九州の渡来人といわれるヒトの中に、その集団の一部がいたとしても不思議ではないであろう。 望郷の土井ヶ浜人 ![]() 土井ヶ浜で最初に人骨が発見されたのは昭和6年(1931年)であったが、本格的調査が九州大学医学部の金関丈夫(かなせきたけお 1983年没)によって行われたのは、昭和28年(1953年)以降のことである。それ以来、土井ヶ浜人の名は、弥生渡来人の代名詞のようになっている。 土井ヶ浜遺跡は弥生前期後半から中期中葉の遺跡で、ここの小高い砂丘から300体近い人骨が発掘されているが、1,2の例外を除いて全て響灘の方に顔を向けて眠っている。頭蓋だけが集骨(二次葬?)されている区域でもこの原則は破られていない。 中国が春秋戦国の動乱の時代に、不本意にも故郷を棄てざるを得ず土井ヶ浜にたどり着いた彼等は、望郷の念が殊のほか強く、400年に亘ってこの約束事を守り続けたに違いない。
そういう困難な状況の中、松下に朗報が届く。中国で知り合った人類学者・韓康信から山東省の臨淄(りんし)という街の研究所に日本の弥生時代に相当する年代の人骨が保管されているらしい、というのである。 その山東省文物考古研究所には300体以上の人骨が保管してあった。その人骨と人骨の計測結果を統計的に処理した結果が次の図である。 ![]() 左の写真で視覚的に見ても、右の統計グラフで見ても土井ヶ浜人が山東省の人骨によく似ていることが見て取れる。 松下らの概報によると、臨淄人の頭骨計測値は、シベリア・モンゴルの古代人グループからは遠くに位置し、渡来系弥生人とともに華北・東北部のグループに属し、なかでも渡来系弥生人や安陽(下図参照)などの青銅器時代人に最も近いと言う。 こういう報告に接し、 人類学の権威・池田次郎は、北部九州・山口地方へ渡来した人たちの祖系集団がシベリア・モンゴルなど北アジアの古代人でなかったことは明白で、その最有力候補には、黄河中・下流域を中心とし山東半島から淮河・長江下流域にかけての、沿岸部一帯の青銅器時代人を当てることが出来る、と埴原の二重構造モデルの渡来人・北方アジア人説を否定した。 中国大陸の渡来系弥生人の候補者たち その後、松下は河南省の黄河中流域やチベットに隣接する中国奥地の青海省 でも土井ヶ浜にそっくりの人骨を確認している。 また中橋孝博を中心とするグループは、上海自然博物館との共同研究で江蘇省揚州市・胡場遺跡から出土した5体の頭骨を調べ、北部九州の弥生人と極めて似ていることを確認している。 その後、山口敏を団長とする江南人骨日中共同調査団が「長江下流域の古人骨と北部九州・山口の渡来系弥生人骨のミトコンドリアDNAが一致した」と発表している。 ![]() また長江下流域の古代人について、池田次郎は、圩墩(うとん)の新石器時代人が渡来系弥生人と、頭骨計測距離が随分離れているのに対し、胡場の前漢人が近い値を示すことについて、“江南地方の住民は早ければ新石器時代に、遅くても前漢時代までには、おそらく華北集団の影響を受けて、渡来系弥生人的特徴を獲得したと考えられる。(「日本人の来た道」池田次郎p212)”と記述している。 すなわち、江南地方にはかって系統の違う集団が居住していたが、遅くとも日本の弥生時代のころには渡来系弥生人と同様の特徴を獲得し、渡来系弥生人の候補として、山東半島方面だけでなく長江下流域も十分可能性があると指摘しているのである。 抜歯の風習から故郷を特定する 要するに大陸や半島には、探索の幅を広めれば、いろんなところに北部九州の弥生人に似た人たちが居り、渡来人の候補集団が多数に上るだろうということが分ってきた。今現在も、調査中の人骨も多い。 それだけに、形質人類学者の努力にもかかわらず、人骨の比較という方法だけで渡来人の故郷を特定することはおそらく困難であることが分かった。 その状況を打破しようという幾つかの試みがなされているが、その一つが抜歯の風習から故郷を特定しようというのである。 中橋孝博によると、健康な若者の前歯を無理やり引き抜く乱暴な風習は、古くから広く世界各地で行われていたという。 アフリカでは1万年前に遡る集団で抜歯例が確認されており、中国や台湾などでも、新石器時代(〜4,000年前)の遺跡を中心に多数の抜歯人骨が発見されている。 日本の縄文人、特に西日本の津雲人(岡山)や吉胡人(渥美半島)など、後・晩期の人々は殊のほか熱心で、施行率の高さで見ると彼らは世界でも有数の抜歯集団であったという。 実はこの風習を、土井ヶ浜弥生人も盛んに行っていた。 土井ヶ浜人は抜歯の有無が確認できる107体の頭骨中81体、75.7%という高い頻度でこの風習を実施していた。しかし同じ抜歯風習とはいっても、その内容はかなり縄文人の抜歯とは異なっているのである。
上図にみるように縄文抜歯が、上顎犬歯を基本として、下顎の犬歯や切歯を抜くのに対し、土井ヶ浜人は抜く歯の殆んどが上顎に限られ、上顎の犬歯と側切歯を同頻度で抜いている。 すなわち、土井ヶ浜では縄文人が熱心に抜いた下顎歯の抜去をせず、ほとんど縄文人が抜かなかった上顎側切歯を犬歯に迫る頻度で抜くなど、抜歯の基本型が違うのである。 土井ヶ浜人の抜歯が大陸由来のものではないかと言う疑問は自然である。 中橋によると、古代中国の抜歯風習は7,000年前の北辛文化期に遡り、大汶口(だいもんこう)文化期(6,000〜4,000年前)に盛行し、注目すべきはその形式が、ほぼ上顎側切歯を左右対称に抜く形式で統一されていたという。この抜き方はまさに土井ヶ浜と同一であった。 しかしながら、龍山文化期(4,000年前)に入ると抜歯風習は急速に衰退したという。 そうすると土井ヶ浜人とは2,000年近い時代的空白があるということになり、両者を結びつけることは強引に過ぎることになる。 ところが最近、この点について光明が見え始めたという。 江蘇省北部の梁王城という春秋戦国時代(=弥生時代)の遺跡から三体の人骨が出土し、そのうち二体に上顎側切歯の抜歯が確認された。 資料がわずか2体でこれで明確な結論は出せるわけではないが、梁王城遺跡のある淮河地方は山東半島の喉元にあり、稲作伝播の朝鮮ルート上に位置している。今後の調査が期待される。 以上のとおり、形質人類学の分野だけから渡来人の故郷を突き止めることは、資料の確保や分析手法などからなかなか困難と思われる。 筆者は、この節の形質人類学分野からの検討を通じて、やはり多角的・総合的アプローチの手法が是非とも必要だと強く感じるのである。
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