日本人の源流を探して
(敬称は全て省略しています)
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第4部 邪馬台国から大和朝廷へ |
| 西日本各地に急速に伝播した水田稲作文化は、愛知県西部いわゆる若狭湾・伊勢湾ラインで一息ついた後、縄文以来の亀ヶ岡文化・ナラ林文化圏の人々にも徐々に受け入れられ、弥生中期中盤には東海・関東・中部へ到達し、中期の末には本州全域に伝播した。 水田稲作農耕という生産手段が列島全体に波及していく一方で、先進地域では富の蓄積を背景に「国」の形成が進行していた。 この第4部では、クニや国の形成、成長を通じて、古墳時代が到来し、新たな渡来人がこの日本列島に移住し、現代日本人の先祖が形作られていく過程を調べることとしたい。 「 クニ」の形成 弥生時代、当時の最先進地域であった北部九州では、当初、それぞれ個別の集落として存在していた「ムラ」が、農耕が基本に持つ高い人口再生産力を発揮してムラの拡大・分化を生み、近辺の生産適地を埋め尽くすように未開地を耕作地へ変えていった。 その結果増加した「ムラムラ」が、弥生前期後半ごろから小共同体(おそらく血族集団、本家と分家などから構成されたような共同体)に成長し、更にその小共同体が、指導力を持った中心的な小共同体と、そういう小共同体との共存を図ろうとする従属的な小共同体とに階層化し、それらが一つのグループとなって「クニ」を形成し始めた。 クニ形成の基本的要因は、水資源の共有化や管理の一元化の必要性が生じたことにあったと思われる。 それほどにムラの数や人口が急増し、北部九州の中小河川の水量では、その効率的な利用が強く求められたからであろう。 上図は福岡市早良平野における、当時のムラや小共同体および大共同体(クニ)がひしめき合う姿である。(国土地理院の地図を使って河川の様子がよく判るようにした。) 当然、クニの内外で調整や裁定というような社会的作業や、それがうまく図れなかった場合には、争いが−すなわちこの列島において初めての戦争が−起こったであろう。 それは次第に、大リーダー(大首長)と小リーダー(小首長)、さらにその構成員というように、人々の間に階層的な関係を発生させた。 縄文時代には考えられなかった、社会構造が形成され始めたのである。 クニの大リーダーや地域の小リーダー達は、それぞれの権威を誇示するため、吉武高木遺
中国の歴史書への登場 そうした日本列島の新しい鼓動は、半島や大陸の方にも聞こえ始めていた。 「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為し、歳時を以て来たり献見す、と云ふ」 これは『漢書』に記された一文の読み下し文であるが、中国の正史に「倭」が登場した最初の記述である。時代は紀元前1世紀の頃。 現代文に直せば 「楽浪郡から海路を行った先に倭人と言う処がある。(倭の人々がいる、という読み方が一般的であるが、そういう漢文の用法は見出せない、という意見もある) 100以上の国々に分かれており、毎年、四季毎に(楽浪郡政庁を)訪れて貢物を献上する、と言う話である」
上記の漢書の記述は、そのような情報を元に記述されたものであろう。 寺沢はこの漢書に出てくる“国”とは、上で検討した「クニ」であったろうと述べている。 そして、100余国すなわち100余クニとは北部九州だけで収まりきれるものではなく、おそらく「倭」とは西日本全体を指していたのであろう、としている。 (下図は、ほぼ100年後のクニ・国の姿であるが、それでも北部九州のクニの数は41にとどまる。100余国は、北部九州だけには入りきれない。) ![]() 倭の「奴国」の隆盛 その後も「倭」は中国王朝との交渉を絶やさなかった。後漢書東夷伝には紀元57年、
これらの国は、当時いわば、倭のなかでも先進国であった。 一方、北部九州地区とはいえ、佐賀平野や飯塚盆地ではまだ「クニ」の独立体レベルに止まっていた。吉野ヶ里のあった神崎地域ですら、まだクニのレベルであった。 これらの「国」が成立するまでには、クニとクニとの間でサバイバルの戦いがあったであろうことは想像に難くないが、「国」と「国」同士が激しく対立して戦った形跡はない。 これはおそらく、当時、新興国であった倭を構成する国々が、東アジアの国際社会に於ける 倭の位置を十分認識し、対立するどころか相互補完して、諸外国に伍して行こうとしたからだと推測される。 伊都国は国際的な港湾国家として、航行ルートにあたる対馬国、一支国、末廬国と伊都国連合を組んでいたと考えられるし、奴国はテクノポリス国家として青銅器や鉄器の大供給基地の性格を持ち、粕屋や胸肩(=現宗像)と奴国連合を組んでいた。 ![]() すなわち、伊都国連合は交易・通商を、奴国連合は生産を担うという、まことに絶妙の相互補完関係が成立していたと考えられるのである。 そして、後漢書に奴国が現れた頃は、すなわち紀元1世紀中頃には、両連合のなかでも一際リーダーとしての資質に恵まれた奴国王が現れ、倭の代表として、後漢との外交にあたっていたと考えて間違いないであろう。 初の「倭国王」の出現 それから50年後の紀元107年、後漢の安帝の時のこととして、 「安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ請見を願う。」とある。 この記事はなかなか重要である。 寺沢薫は中国古代史が専門の西嶋定生の説を紹介する。 ---107年の直前に、日本列島にはじめて、 それまで各国別々に献見し朝貢していた倭の諸国が、倭国王「帥升」のもとに結集して、「倭国」承認の報告を遣使奉献したのである。 「倭国王帥升等」という記載は、まさにこうした“連署者”の存在を示すのだ、 と西嶋はいう。(「日本の歴史02」p219)--- 寺沢も西嶋の説に賛同し、倭国王というのは伊都国王に違いないとする。 先の奴国王は倭の数々の国の「代表」としての立場であったが、伊都国王はまさしく「倭の国王」として推戴され、後漢帝国にも認められたというのである。 その理由を寺沢は、この時期、すなわち2世紀前半、一般的に他地域では漢鏡などの副葬品が極めて少なくなるのに対し、伊都国、福岡県前原市井原鑓溝(やりみぞ)遺跡の王墓の副葬だけが、例外的に突出した量と内容をもっているからだ、とする。 ![]() 上表は筆者がいろいろの書物から纏めたものであるが、井原鑓溝遺跡に限らず伊都国の王墓の副葬品は、銅鏡が際立って多く、銅鏡王国と定義付けてもよいくらいである。 (一般に甕棺墓といっても殆どが副葬品をもたない。副葬品をもつ甕棺でも、普通はせいぜい銅鏡、青銅の武器、玉などのうち1,2点どまりである。) この王墓の副葬品から、伊都国が弥生中・後期、3〜4百年に亘り、いかに隆盛を極めていたかが分かる。 まさに国際的な港湾都市国家として繁栄を謳歌していたことが推測されるのである。 加布里湾沿岸の遺跡では、下図左にあるような、楽浪系の土器がまとまって出土する。 ここには楽浪郡の漢人の集落(居住地)や宿泊施設が密集し、港や街は漢人や韓国人で溢れ、殷賑を極めていた事であろう。 ![]() 伊都国の繁栄の理由は、それだけにとどまらない。 奴国のテクノポリスとは別の分野で、すなわち碧玉や水晶などアクセサリーの加工工房や大型蛤刃石斧の一大供給基地を担っていた。この石斧は当時の大ブランドとして、熊本方面にまで供給されていた事が分かっている。 以上のような伊都国の“国際港湾都市”としての重要性と、技術専門集団の育成など経済基盤の確立とその長期に亘る繁栄とが、人口的にははるかに大きい奴国を凌ぎ、伊都国大連合=倭国連合の王「帥升」として、後漢と外交関係を結び得たと思われるのである。 (後漢の安帝の時から130年後の、魏志倭人伝の時代でも、奴国は20,000余戸、伊都国は1,000余戸と国の規模は比較にならない。しかし、伊都国には「郡(帯方郡)の使の往来して常に駐る所なり。」と特別の地位が与えられている。この時代も、倭の国際港湾都市としての役割を守り続けていたのである。) 筆者は第3部08節の最後の次の図で、渡来系古代氏族に中国中原の出身を主張するものがいることに、やや疑問をもっていた。 それはこれまでの検討で、黄河中流域からの渡来の痕跡や経路を見出していなかったからである。 ![]() しかし、いま調べたように、後漢の都・洛陽などから楽浪郡に派遣された役人や、楽浪郡に後漢の諸国から交易を求めて集まった商人たちが、伊都国の加布里湾沿岸に始終往来していたとすれば、なかには帰化を望むものも出てきたであろうし、伊都国の地元の娘を娶り、そのまま留まったりもしたであろう。後世、彼等の子孫が、権力中枢の移動と共に、北部九州から奈良や京の都に多数移り住んだことであろう。 このように考えると、新撰姓氏録で渡来系古代士族のうち中国系が4割を占めるのも、不思議ではないことに思い至るのである。 しかし繁栄を謳歌していた伊都国にとって、東アジアの情勢は決して順風ではなかった。 特に、184年の黄巾の乱(農民の反乱)以降、後漢帝国は混迷を極めた。大陸はこの乱を境に三国志の戦乱の時代に入って行く。 後漢の傘のもとで外交を一手に握り、政治的にも経済的にも優位に立っていた伊都国も、その後ろ盾の力が弱体化するに従って、自らの権威も衰え、倭国連合を掌握する力を削がれることになっていくのである。 この節を記述しながら筆者は、この倭国の新興の時代、将来に夢を託して大陸や半島から倭国に帰化したであろう人々が如何に多かったことか、彼等が一括して“渡来人”と呼ばれる人々の中に多数混じっていたことに心を致さねばならないと考えるのである。
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