日本人の源流を探して         (敬称は全て省略しています) 

            第4部 邪馬台国から大和朝廷へ 

02.邪馬台国・卑弥呼の誕生と倭人の出自


  統一王権の誕生 卑弥呼と邪馬台国

 倭国連合の盟主、伊都連合王国の後期の王墓・平原遺跡1号墓からは、当時としては)目も眩むばかりの財宝が出土している。
 女性の装飾品が多いことから、王墓の主は“女王”であったと考えられている。
 

     しかし前節で述べたように、東アジアの情勢は伊都国の思惑通りにはならなかった。
 後漢帝国の傘のもとで外交を一手に握り、経済的にも左図のような独占的交易の利益を長期的に享受しようとした目論見は、後漢帝国自体の混迷によって潰えた。
 184年の黄巾の以降、後漢はすでに倭を含む周辺諸国と正常な外交関係を保つ国力がなかったと考えるのが妥当であろう。

 従って、倭国ではもはやいずれの国も、盟主伊都国でさえ、後ろ楯を失う事態となった。
 そうすると伊都国の代わりに、新たな連合の盟主になろうと意欲を示す国、鉄や諸々の舶来の文物、技術を求め独自の交易を展開して利益を得ようとする国、あらたな倭国のフレーム作りを画策する国などが次々と台頭し、相争ったに違いない。
 魏志倭人伝にいう「倭国乱れる」とはこういう状況を語ったと思われる。
 
 寺沢薫はこれを明治維新になぞらえる。
 倭国連合の盟主伊都国の権威が失墜するなか、日本列島の主要な国々は、新たな国際外交を推進しうる国家の枠組みとその盟主とを模索していたと考えられる。
 従来のような奴国や伊都国を盟主とする緩やかな部族連合的な国家では、もはや外交的に通用しない、すなわち中国が混迷する当時の国際社会にあって、国の総合力が問われる時代が訪れていたのである。

  さらに倭人伝は続ける。
倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。」  
 そこで、幕末の明治維新の「薩長土肥」に例えられるのような、新しい国際情勢に対応できる、新しい思想とそれなりの力を兼ね備えた国々が、“共同して”新生統一政権を樹立しようという動きに出た。
 
それこそ「邪馬台政権」の樹立であり、これまでの「王」に変わる王の中の王「大王」卑弥呼の擁立であった。
 この新邪馬台王権の誕生は、その後の7世紀後半の律令国家の成立という、大和朝廷の完成に向けての画期となったというのである。
 倭国が乱れ、その結果として邪馬台国・卑弥呼を生み出すまでの寺沢薫の考えを、筆者は以上のように捉えている。筆者もこの見方に賛成である。
   

   東アジア情勢と卑弥呼の外交

 
中国では後漢王朝が崩壊し、魏・呉・蜀の三国鼎立という情勢、すなわち諸葛孔明ら様々な英雄が活躍する三国志の時代(=魏志倭人伝の時代)が生まれていた。
 そうした中、朝鮮半島の根元、魏の遼東郡の太守であった公孫淵は、呉王孫権と手を結び、233年、燕王を称して魏に謀反した。しかし司馬懿率いる魏軍によって、時を経ずして公孫氏一族は滅ぼされる。238年のことである。
  
 「倭国」はこの当時、公孫氏に帰属して魏の冊封(さくほう・・・中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ)を受けていたと考えられるが、卑弥呼はこの事態に機を逸せず、翌年直ちに魏に直接遣使朝貢し、魏への服属を誓った。すなわち、
 「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。」
 それが新生の邪馬台王権にとって唯一の選択肢であったには違いないが、それにしても、この邪馬台王権、つまりは卑弥呼の、朝鮮半島およびそれに連なる大陸の情勢把握の正確さ、対応の素早さには驚くべきものがある。

 一方魏にも倭と君臣関係を結ばざるを得ない事情があった。
 魏の関心事は東方にあっては、公孫氏滅亡後は高句麗への攻勢と朝鮮半島の帯方、楽浪両地域の勢力維持、南方にあっては呉の脅威への対処にあった。
 その対外政策を果すためには、倭の地政学的位置が、まさに朝鮮半島に対しても、敵国「呉」を背後の海上から脅かすにも、絶好の位置にあると認識されていたからだ。 
 
  上の古地図は島原市本光寺所蔵の15世紀初めの作である。
 魏志倭人伝の記述、
倭は帯方郡の東南海中にあり山島に依りて國邑をなす。・・・・その道里を計るに、当に会稽東治の東にあるべし。 の通り、 倭の東アジアにおける位置は、15世紀も3世紀前半の感覚と変わりない。おそらく地図の測量技術発明以前の時代にあっては、人間の感覚、すなわち地理観のようなものは、10世紀を隔てても同程度のものであったのだろう。

 まさに魏は、近くの敵を牽制し、遠くの倭と結ぶという「遠交近攻策」をとったというわけである。
   「その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。・・・・・今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。」
 東アジアの一島国に、「親魏倭王」という外蛮にしては破格の称号と金印紫授まで授けて処遇
した裏には、以上の事情があったと考えられる。
 事実、魏が夷蛮に授けた印は多いが、卑弥呼に与えた金印と「親魏大月氏王」の金印以外は、「魏率善羌邑長」(魏の国に善(よし)みを通じて率(したが)う羌族(きょうぞく)の村長(むらおさ)の意)や「魏鮮卑率善仟長」、「魏烏丸率善邑長」などの銅印で、称号はいかにも蔑んだものである。
   
もちろんその後も邪馬台王権は、国際情勢には常に敏感に対応して行った。
265年、魏が滅び晋(西晋)王朝が起こると、その翌年には、邪馬台国王は直ちに朝貢している。(卑弥呼はすでに248年ごろに亡くなっていたが。)
 このあたりの情況について晋書は

 「宣帝(司馬懿)の公孫氏を平らぐるや、 その女王 (卑弥呼は、魏の初めから)使を遣わして帯方に至りて朝見せしむ。其の後、貢聘(こうへい・・・貢ぎ、贈るの意)絶たず。文帝(司馬昭の相(魏の宰相)となるに及びて、又しばしば至る。泰始の初め(266年)、(晋
   
に)使を遣わし、訳を重ねて入貢せしむ。」 と記している。、(( )内は筆者の注)
 すなわち、卑弥呼が朝貢してきたのは、司馬懿が公孫氏を平定したからであるとし、その後も、司馬昭が魏の宰相となって善政を敷いたから、倭はしばしば朝貢してきたと、魏王朝における司馬一族の治世を称える材料として使っている。
 だからこそ、魏王朝の禅譲を受けて樹立された司馬一族の晋王朝(武帝 司馬炎)は正当なのであると、云いたい訳である。

 しかしいずれにせよ、倭ないし邪馬台国は、中国王朝に対し朝貢を続け、冊封をうけて、東アジアにおける交易と安全の保障を求めるという卑弥呼以来の外交方針を続けたのである。
 邪馬台王権は卑弥呼の死後、男王を立てるが国中服さず政治が乱れ、台与の擁立によって安定を取り戻すなどいろんな試練に直面しながらも、王権の強化を進めたものと思われる。
 
 このころ(266年頃)、倭国内では巨大前方後円墳の築造が始まる。
 「邪馬台王権」が、より広域を統括する、乃至はより多くの地方王権を掌握した「ヤマト王権」に成長した証拠ではないかと考えられている。
 

 この後、中国の史書に倭が現れるのは413年である。またその空白を埋める「広開土王碑」の碑文にも391年以降の事しか記述されていない。
 これが空白の4世紀といわれる所以であり、次節で調べたい。

    魏志倭人伝における倭人の出自

 その前に筆者は、魏志倭人伝の詳細や邪馬台国論争に加わるつもりはないが、魏志倭人伝の中の“日本人の形成”にかかわる次の記述に留意しておきたい。

 第2部05節でも取り上げたが、魏志倭人伝、正式には「『三国志』魏書巻三十(最終巻) 烏丸鮮卑東夷伝倭人の条」は、
  一)冒頭に、倭の地理的位置・景観に関す
    る記事。
  二)倭を構成する国々に関する記事。
  三)習俗・産物・社会生活・動物植物など
    に関する記事。
  四)政治形態に関する記事。
  五)魏との国交に関する記事。
で構成されている。
 
その三番目の記事の初めに、
  「男子は大小と無く、皆黥面文身す」  という驚くべき描写が出てくるのである。
 
これを訳せば、“倭の男は、大人、子供に(ないしは身分の高い人、低い人に)拘わらず、皆、顔に刺青をし、体にも入れ墨で文様を描いている。”という意味となろう。
  この記述とその後に続く文章から、まともに受け止めれば、当時の倭人の男子は、“越人”のように、皆、体中に入れ墨を施していたということになる。本当にそうだろうか。
  当時の倭では、第3部で詳しく調べてきたように、朝鮮系や中国系の渡来人の血が、すでに全体の80%程度の高い割合で混血していたと考えられる。
 しかし、そのうち江南系(≒越人系)の割合はそれほど高かったとは考えられない。(せいぜい高くて20〜30%程度?)
   そういう倭国で、江南地方の越人の独特の風習が大流行して、皆、入
 
れ墨を彫っていたとは、とても考えられない。
 
 魏志倭人伝の記述の内容には、誰かの記録が、(おそらく帯方郡から伊都国などに派遣された役人などの記録が)直接あるいは間接的に参照されている。
 たとえば魏志倭人伝には、上記、五)の魏との国交に関する記事として、
 「正始元年(240年)、太守弓遵、建中校尉 梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り」
 「その8年
(247年)・・・塞曹掾史 張政等を遣わし、・・・檄をつくりてこれを告喩す。」
 とあるように、梯儁(ていしゅん)や張政ら帯方郡の役人が派遣され、張政などは、20年ほども倭国に滞在していた可能性がある。
 
 その記録には確かに、現地を見た者にしか記述できない、リアリティーもある。
 しかしその記録者にとって自分と同じ華北系の、あるいは朝鮮系の風習を持つ、倭の大半の人々について描写しても、何の面白味もなかったに違いない。
  だから彼は、玄界灘に面した一帯にいた、漁撈民(海人)の風俗--これは縄文以来、江南地方から照葉樹林文化と共に伝播していたし、また江南系水田稲作の伝播と共に越人の文化が、弥生時代になって再上陸していた可能性もある。--それが「呉」の越人の風習によく似ているのに興味を持ち、記述したのではなかろうか。
 (上の写真のような顔面に刺青を入れた武人が、国々の兵士の中に存在していたことは、埴輪の存在から確かである。彼らはもしかすると漁労民系出身の武人であったかもしれない。)
 その記録を魏志倭人伝の著者 陳寿が取り入れた。(あるいは、陳寿が参考とした先行文書の中に記載されていたのかもしれない。)
 このように考えると、このややエキセントリックな記述も納得出来るのではないかと思われる。
 
 筆者はこういう推論から、この一文をもって魏志倭人伝全体の記述の有用性を問う必要もないし、この一文から
鳥越憲三郎の倭族仮説のように、倭人=越人と一直線で捉える必要もないと考えるのである。