日本人の源流を探して
(敬称は全て省略しています)
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第4部 邪馬台国から大和朝廷へ |
| 265年、魏が滅び晋(西晋)王朝が起こる。それに対し、邪馬台国王は翌266年、時を置かず直ちに晋への朝貢を行った。 この邪馬台国の機敏な動きというのは、裏を返すと、急いで新王朝の臣下として庇護を請わなければ危うい、という危機感があったものと考えられる。すなわち、東アジアの国際社会に於ける邪馬台国(乃至は新生ヤマト王国)の力はまだまだ脆弱であったことが明らかである。 しかし、その晋も長くは続かなかった。 晋・司馬王朝は、残存勢力が中国南部で東晋として生き延びはしたが、中原(天下の中央・華北地方)では遊牧民族・匈奴の単于(ぜんう=皇帝)・劉淵に支配される(後の前趙)こととなり、実質的に滅びた。 下図に見られるように、中国北部いわゆる中原は、万里の長城で侵入を抑えたはずの辺境の遊牧民族、五胡即ち匈奴・鮮卑・羯(けつ・匈奴の一部族)・氐(てい)・羌(きょう)が支配する時代、五胡十六国と称される時代になって行った。
また朝鮮半島では、中国王朝の半島経営がすっかり衰退した中、強力な高句麗が楽浪郡や帯方郡を併呑し、勢力を広げた。また倭と同様、クニ・国を纏めた緩い連合国家レベルでしかなかった馬韓や辰韓からも、それぞれ百済王国と新羅王国とが勃興した。 この時代、基本的には中国の正史などの史料が欠落しており、倭や韓に関しては、「空白の四世紀」とよばれる。 倭が、確かな記録として再度登場するのは、広開土王碑の391年の条の記事である。 「百残(百済)と新羅とは、旧より(高句麗の)属民にして、由来、朝貢せり。而(しか)るに倭は、辛卯の年(391年)、渡海し来たり、百残を破り、新羅を■■し、以って臣民と為す」というような記事が石碑に彫られている。 すなわち、史料が途切れていた125年の間に、倭は軍団を朝鮮半島へ渡海させ、高句麗の属国を侵略し,従属させるほどの強国に成長して再登場することになる。 その躍進は目を見張るばかりである。 中国史料が空白の時代とはいえ、史料が存在しないわけではない。
そうなると考古学的知見によって歴史の隙間を埋めざるを得ない。 空白の4世紀を明らかにする遺物の数々 玄界灘に沖ノ島という絶海の孤島がある。ここには宗像大社の沖津宮が鎮座する。 4世紀後半この沖ノ島で、「海北道中(うみきたのみちなか)」(日本書紀に記された朝鮮への最短航路)の守り神の祭祀が、本格的に行われるようになった。 ![]() それも次の写真のように、当時、先進地域であった九州の豪族と云えども、彼等が独力で行えるレベルのものではなく、この祭祀にかかわる遺物8万点は、全てが国宝に指定されたほどであり、海の正倉院と呼ばれるほど豪奢なものである。 ![]() このことは4世紀半ばまでに朝鮮半島と倭を結ぶ最短ルート、「海北道中」をヤマト王権が掌握したことを物語ると考えられる。 そして、その「海北道中」航路を通じて、倭で産出した物品が、盛んに交易されたことが次の図によって判る。 次の図は、朝鮮南部の主要な遺跡から発掘された、この時代の倭系の遺物の分布図である。伽耶の中心地、金海地区に特に濃密に分布している。 ![]() しかも仔細に調べると、2〜3世紀の墳墓群が中心の良洞里遺跡から出土した倭系の遺物は、小型仿製鏡や中広形銅矛など、弥生後期の北部九州で製作されたとみられるものが少なくない。 ところが同じ金海の大成洞遺跡や、釜山東の東萊(とうね)の福泉洞遺跡の4世紀代の墳墓群からは、倭系の遺物として、巴形銅器や碧玉製石製品・筒型銅器など、いずれも畿内のヤマトを中心に分布しているものが出土した。 ![]() これは何を意味するのか。韓国の考古学者シン・キョンチョル(申敬K)は、邪馬台国論争などに惑わされない立場で、次のように指摘している。 「3〜4世紀にかけて朝鮮半島の伽耶地区との交流の当事者が、北九州の勢力から畿内の勢力へと急激に転換した結果だと・・・。」 すなわち、これは邪馬台王権の時代、外交・交易の利権を握っていた伊都国の勢力が後退し、それに代わって、畿内を基盤とするヤマト王権が、全権を掌握する時代となったのではないかと指摘しているのである。 更に重要なことは、上の地図にもあるように、金海や釜山、慶州や馬山で4世紀〜5世紀前半、倭で日常的に使われていた土師器系の土器(縄文土器〜弥生土器に連なる野焼き土器)が出土することである。 この項のテキストとしている熊谷公男(専門 日本古代史)「日本の歴史03」によれば、 ---これはヤマト王権が半島との交流ルートを掌握したことにともない、交流の担い手として送り込まれたヤマトの人々と、半島に定着した彼等の子孫たちが残した土器であったと思われる。(p28)---としている。 すなわち、倭国は、“渡来人”を一方的に受け入れるだけでなく、自らも朝鮮半島に渡って定住し、交易などに力を振るったと考えられるというのである。 これらの考古学的証拠から4世紀はヤマト王権が内政はもちろんのこと、外交・交易までその権力を掌中に収め、倭国に於ける支配権を確立した時代であったということが出来るだろう。 さらに敷衍すれば、この時代は、ヤマトの勢力(王権)が列島主要部の政治的統合が実現した勢いを持って、朝鮮半島にまで政治的・帝国主義的介入を企図した世紀であったということも出来るだろう。 半島ルート掌握の目的 ヤマト王権は沖ノ島の祭祀に膨大な財力を投入し、おそらく宗像族(海人、漁撈民の一大勢力:前項で触れた「男子は大小と無く、皆黥面文身す」というのはこの集団かもしれない。)を支配下に置き、半島ルートを掌中にした。 王権がそれほど拘った理由は、最重要物資「鉄」の確保であったと思われる。 3世紀頃のことを記した魏志弁辰伝に 「国(弁辰のこと)は鉄を出し、韓・濊(わい)・倭、皆な従いてこれを取る。諸々の売り買いには皆な鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とある。
考古学の都出比呂志は---倭王権がこのような半島からの鉄素材供給ルートを掌握し、列島各地の首長への分配をコントロールすることを通して、覇権を握っていた。---と想定していると述べている。 なかなか魅力的な見解である。 半島の動乱とヤマト王権の成長 このページの1番上の地図を参照いただきたい。半島ルートを掌握し、伽耶にはおそらく拠点まで確保したヤマト王権に建国後間もない百済が接近を図り、一種の軍事同盟が結ばれた。強国高句麗が南下策をとりはじめ、それに脅威を感じた百済は軍事的パートナーが必要だったからである。 一方、ヤマト王権にとっても百済は先進の文物の供給先として有用な存在であったに違いない。百済には高句麗に占拠された楽浪や帯方の遺民すなわち中国系の有能な人士も少なからず移住していたからである。 奈良県石上神宮に銘文の入った七枝刀という国宝が所蔵されている。
これは中国が五胡十六国時代の混乱期にあり、ヤマト王権としても中国(東晋)の後ろ盾を当てに出来ないという時代、むしろ軍事力を強化して自立し、伽耶だけでなく百済や新羅を擁して半島経営に当たろうとした思惑が感じられる。 あるいは高句麗の強い南下意欲に対し百済・新羅を緩衝勢力として援助し、伽耶の鉄利権を守ろうとしたのかもしれない。 さらに直接的な利益としては、軍事援助の見返りとして従来以上に多くのヒト資源やモノ資源がこの列島にもたらされたと考えられる。これらの知識人や技術者、鉄素材や先進文物を独占したヤマト王権はその再配分を通して各地の首長たちへの支配力を更に強めていく。 以上、調べてきた空白の4世紀、実は倭国は、その世紀を着々と飛躍の世紀にしていたといって過言でないだろう。 それは、遠征軍の派遣や物資の交易、そして有能な人材の受け入れなどを通じて、半島の集団の遺伝子を大量に受け入れ、それを「ヤマト王国」の発展に繋げて行ったと考えられる。 日本人形成の観点から見れば、古墳時代前期も弥生時代に引き続き、「渡来人」の流入と混血が進行していたと捉えられよう。 この時期、4世紀末葉から、大王の墓がもっとも大型化する古墳時代中期を迎えることになる。
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