日本人の源流を探して         (敬称は全て省略しています) 

 

             第4部  邪馬台国から大和朝廷へ

     
04.古墳時代の技術革新

 弥生時代の渡来人が水田稲作技術をこの列島に持ち込んだのに対し、古墳時代の渡来人は何をもたらしたのだろうか。
 まず古墳時代も渡来人の来住の契機は戦乱であった。弥生時代との違いは弥生のそれが中国大陸に於ける戦乱が主因であったのに対し、古墳時代のそれは朝鮮半島に於ける戦乱であった点であろう。
 朝鮮半島で大規模な戦乱が起こるのは
@4世紀末〜5世紀初頭 前項で見てきた高句麗・広開土王の時代であり、
A5世紀後半 高句麗が百済の都漢城を攻め落とした時期、
B7世紀中葉 新羅・唐と高句麗・百済の間の戦争。高句麗、百済の滅亡の時代である。
 古墳時代、渡来人はこの3波に亘って流入したのである。

  新しい生活スタイルの伝来
 
 @の時代、渡来人が持ち込んだ基本的生活用具として「韓式土器」がある。
 これには陶質土器と軟質土器とがあるが、陶質土器はロクロを使って成型し窯で高温で焼成する高度な技術の土器である。
 これが日本化したものがいわゆる須恵器と呼ばれるものである。
   

 渡来人はまた竪穴住居内にカマド(竈)という囲炉裏に代わる煮炊きの設備を持ち込んだ。
  
 もともと囲炉裏と言うのは、竪穴式住居の真ん中で煮炊きの、また暖を取るための基本的な住居設備であった。それは竪穴式住居の発生以来、不変のものであった。
 そこに朝鮮半島の“竈"というほとんど煮炊き専門だが、極めて効率的な設備が導入されたのである。
 それ故に、これは最近まで西日本地区の住居には標準的煮炊き設備として続いて来た。
 一方東日本地区でも、その効率性のゆえ竈が広がったが、平安時代ごろに至ると再度囲炉裏が復活し現代に至っている。
 おそらく気候の寒冷な東日本では、煮炊きの効率よりも部屋全体を暖めることが優先されたためだろう。
 5世紀初頭、半島から馬と馬具、それに乗馬の風習とがもたらされた。また同時に甲冑や鋲留めの技術、耳飾りや帯金具などの金属製品に金メッキを施す技術が伝えられた。
 これらは渡来した支配層や技術者が持ち込んだもので、バラバラではなくトータルの騎馬技術と鍛冶技術や金工技術が、体系としてもたらされた。
 以上のモノや技術、風習はおおむね金海・釜山地域の金官国圏にその系譜が求められる。
   
すなわち4世紀前半、ヤマトの人々が集団で渡航した伽耶南部から、4世紀末になって今度はその地域の住民が大挙して日本列島に渡ってくるという、逆の流れが起こったということになる。
 
 一方、同じように動乱に巻き込まれ戦場となった新羅や、同盟関係にあった百済からの人々の痕跡はほとんどない。もちろん、新羅の戦場で捕虜となったものや百済との同盟関係の見返りとしてのヒト、モノの貢物など外交的側面としての動きはあったに違いない。
 しかしヤマトと伽耶の関係はそういうレベルを超えて異質である。あたかも兄弟国のようであり、現代で言えばビザもパスポートも不要な国同士といった趣なのである。
 筆者がこれまでずっと指摘し続けてきたように、朝鮮南部地域とは、国という概念がまだない時代、国境という概念がない時代から、既に6,000〜7,000年前から交流が続いてきた地域であり、ほとんど一体の文化圏であり、おそらくそれぞれ互いに交流しあったヒトビトであったから、外交友好関係などを超えるレベルの関係が感じられるのである。
 またヤマト王権がこの後も「任那」という倭の一国として、あるいは「任那」というヤマト王権の重要な直轄領という位置づけで拘り続ける理由も、深く辿ればそういう長期間の関係にまで行き着くと思うのである。

  
農耕技術の革新

 
 5世紀前半、社会的に大きな影響を与えたのは新型の鉄製農具と灌漑技術の技術革新であった。
 右の写真のようにクワやスキなどの農機具に取り付け

るアルファベットの「U」に似た形の鉄製の刃先や、現在

と同じような形の稲刈りのカマが出現する。

 いずれも半島伝来の農具である。

 
   
この鉄製農具は、純木製に比べて飛躍的な生産性の向上をもたらしたに違いない。
 また、5世紀には土木・灌漑技術も飛躍的に向上した。大阪市東南部から東大阪市・八尾市
あたりの河内低地といわれる地域には韓式土器が出土する遺跡が群集している。 
 その辺りには第1波の古墳時代渡来人たちの集落があったらしいが、そのうちの久宝寺北遺跡や亀井遺跡などでは大規模な堰や河川の護岸施設が発見されている。
 これらの施設では、底部に打ち込んだ木材列のうえに、草などを混ぜた土と粘土を交互に突き固めて土を堅固に積んでいく、版築(はんちく・・古墳の造営などに用いられた土を突き固める工法)に似た新工法が 
 
   

護岸設備に用いられている。
 
 下の写真は5世紀後半、渡来人の秦氏が京都桂川に築いた葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる大規模な堰の例である。氏が築いたころの葛野大堰の原型はすでに失われているが、今も渡月橋上流の川底には当時の段差があるという。
 

葛野大堰については、WEBサイト:http://bell.jp/pancho/travel/hata/kadono-ooi.htmが詳しい。上の写真や説明もこのサイトから借用させていただいている。
この灌漑技術についても渡来人が持ち込んだ当時の最新の技術であったとみられる。

 このように5世紀前半に半島から伝播した最新の農具や土木灌漑技術は、それまで耕作不能であった土地の開墾を可能にし、単位面積当りの収量も増大させたと考えられる。それは新たなムラを生み、集落数や出生率を飛躍的に増大させたことであろう。
 第3部の08.で古墳時代の人口増加率と渡来人数を推定した試算表を再度みてみよう。   


*この表には誤字や計算の誤りがありましたので訂正して差し替えました(2008.02.26)。

試算では埴原和郎の標準的農耕社会の人口増加率0.1%〜0.3%では非現実的な規模の渡来人数を想定しなければならなくなるとした。
 しかし以上述べたような、著しい技術革新が生産性の大幅向上をもたらしていた、とすると0.35%や0.4%の増加率を見込んでも、中橋孝博の提示した世界各地のいろんな時代の人口増加率からみて、何ら差し支えあるまい。
 
 空白の4世紀に東アジアの強国に飛躍したヤマト王権は、5世紀、渡来人の知識や技術を活用した古代のイノベーションにより、ますます勢力を拡大して巨大古墳時代を現出し、大和朝廷への基盤を作っていくことになる。
 

 
     

         
         
         


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