日本人の源流を探して         (敬称は全て省略しています) 

 

             第4部  邪馬台国から大和朝廷へ

     
06. 騎馬民族は来た!?来ない?!


 江上波夫は『騎馬民族国家』(中公新書)のあとがき(1984年4月記)で、次のように高らかに宣言している。

---本書が中公新書の一冊として出版されてからすでに十七年近くなる。その期間中に、私が本書で展開した試論--目本における統一国家の出現と大和朝廷の創始が、東北アジアの夫余系騎馬民族の辰王朝によって、四世紀末ないし五世紀前半ごろに達成されたという推論が、予期しない、いろいろな新資料の発見によって、いよいよ全面的に実証される段階に立つことになった。このことは私にとって予想外かつ望外の快事と言うべきものである。---と

 これから江上のいう新資料などをひとつひとつ検討して、騎馬民族の渡来の痕跡などを確認してゆきたい。

  天孫降臨(辰王の筑紫侵攻)はあったか

 まず江上の仮説の骨格ともいうべき、辰王(=崇神天皇)の南部朝鮮から北九州への渡来(侵攻)の証拠についてである。

 まず南部朝鮮では、かって金官伽耶(加羅)といった釜山市東萊(とうね)の福泉洞古墳群や、かっての意富(おお・・大)伽耶(加羅)と呼ばれた地、高霊市池山洞古墳群などで4世紀末ないし5世紀初頭の古墳(石蓋墓・・墓棺の上に大きな平石を敷き並べて蓋石とした墓)が多数群在して発見された。
          
 そして、そこから鉄製の甲冑、馬具、馬面、金銅の冠、鉄製の刀剣・矛・鏃などの武器、農具・工具や、青銅の七頭鈴など、豊富な副葬品が発掘された。
 
 しかもこれらと同じ石蓋墓・副葬品をもつ古墳が、かって伽耶(加羅)諸国があった範囲から盛んに発見されているという。
 
 こうした出土遺物や墳墓の密集度などから、江上は、南部朝鮮の中でも伽耶(加羅)が、最も有力な騎馬民族集団の大根拠地であったと認められる、と指摘する。

 そしてこれらの遺跡の発見、発掘によって、東北アジアの夫余系の騎馬民族の辰王朝が、伽耶(加羅)を拠点として日本列島への征服活動を始めたとする、江上の重要な論点の一つが実証されたというのである。
 確かに上の写真のような出土品は、日本列島各地の古墳からも多数出土しており、形や材質などもほとんど違わない。しかも時期的には朝鮮半島の方がやや先行していることが認められ、南朝鮮→日本列島という伝播経路が明らかである。

 ではその征服活動の結果、日本列島に辰王勢力が上陸した痕跡があるのか。
 江上は福岡県の各地、とくに福岡市老司、旧甘木市(現朝倉市)池の上の両古墳で、その痕跡
が実証されたという。
 そこでは伽耶の石蓋土壙墓とその副葬品などすべての点で、ほとんど彼我の区別できないほどの古墳群が見られ、さらに伽耶式土器が多数出土したとしている。
 筆者はその真偽を右の写真等、僅かの資料でしか確かめ得ていないが、確かに右の短甲の写真をみると、上掲の福泉洞古墳の短甲と見まがうばかりである。
   

また池の上古墳からも、朝鮮からの渡来品である陶質土器や、いかにも馬を飼っていたと思われる実用的な馬具である轡(くつわ)などが出土している。


池の上古墳については、http://inoues.net/museum/ama_jyosetu.htmlが詳しい。上図もこのWEBサイトより借用させていただいている。 

しかし、江上は辰王の筑紫侵攻は4世紀初だと推測していたはずである。
 仮にこの時代、すなわちいま述べて来た伽耶の遺跡や筑紫の遺跡の時代、4世
紀末から5世紀初に辰王の筑紫侵攻があったとすると、その勢力は、時を措かず、筑紫から畿内への東征(いわゆる神武東征神話)を果たしたことになる。
 更にはすでに検討したように、畿内に進出したばかりの、この新生ヤマト王権は、直ちに兵を整え、強国として高句麗と対峙していた(広開土王碑)ことになる。
 このように、たとえ辰王の筑紫侵攻がこれらの遺跡の時代から幾分遡ると譲歩しても、江上理論と、実際の遺跡の年代とのズレは覆いがたい。

 またこの老司古墳は別の重要な遺物を伴っている。1989福岡市埋蔵文化財報告書第209集老司古墳』の抜粋によると、この古墳は5世紀初頭の福岡平野にあって最大級の首長墓であり、2号石室からは兄弟関係の、4号石室からは親子関係の可能性のある人骨が出土している。
 その人骨の顔面の特徴はいわゆる渡来人的はでなく、縄文人的特徴をも有している点で「弥生時代以来の混血を経た形質」である。これはすなわち伝統的な在地型首長の家系を引く首長層であることを意味しており、一部の副葬品に加耶系遺物があることのみを重視して、渡来系首長であることを主張する向きがあったことに対する警鐘である。--と発掘調査に協力した九州大学の考古学教室は指摘している。

 筆者は以上の2点、すなわち、まず、時代観がズレていること、墓に葬られた首長が人類学的に見て、とても辰王系の人とは言えず、むしろ列島古来の血筋の持ち主らしいこと、更には、騎馬民族軍団が現福岡地方に上陸し、侵略戦が行われたような形跡がわずかでも見出せないことなどから、江上の主張には無理があるといわざるを得ない。
 
 稲荷山鉄剣の銘文発見

 江上は第2の証拠として、かの有名な稲荷山古墳の鉄剣に金象嵌された銘文をあげる。

 稲荷山の鉄剣は 1968年(昭和43年)、埼玉県行田市稲荷山(ぎょうだしいなりやま)古墳 から出土した。
 その後サビがひどくなってきたため、10年後の1978年、奈良県の元興寺文化財研究所で保存処理をしていたときに、担当の所員がサビの下にキラリと光るものを見つけた。
 それが何か、X線写真をとってみたところ、金象嵌の銘文が姿を現したのである。
 そこには、驚くことに中国や朝鮮でも出土していない115文字もの大量の文字が刻まれており、しかもそれは、紛れもなく5世紀の生の資料そのものだったのである。

 さらにその内容も古代史の基準点となるような貴重なものであった。読み起こされた銘文は、次のとおりである。


 まず、赤下線の部分を要約すれば、
「紀元471年7月、この刀を作ったオワケ臣は、始祖はオオヒコで、・・・代々、杖刀人の首(いわば親衛隊長)を務めており、ワカタケル大王(=雄略天皇)がシキの宮に居ました時には、オワケ臣が大王の統治を補佐した。」
(おそらく、オワケ臣の引退など職を辞するときの)記念に王家へ仕えた先祖のことを記して、この剣を作らせたと、刻んであったのである。
 
 しかも従来、その内容にとかく疑義のあった「記紀」の記述とこの鉄剣の刻文が、驚くべきこ
 とに一致した。
 それまで「記紀」の記述は、応神天皇や仁徳天皇(それぞれ在位は、40年と86年) までの異常に長い在位期間と、倭の五王に擬せられる履中、反正、允恭、安康天皇(それぞれ在位、5年、4年、40年、3年)以降の短い在位期間とは、その歴史的信憑性にかなりの差があることが知られていたが、この鉄剣の銘文発見によって、安康天皇に続く雄略天皇の在位時期が、まさに事実だということが証明されたのである。
   
すなわち、456年から479年に在位した天皇はまさしく雄略天皇で、日本書紀に於ける名は「大泊瀬の幼武(ワカタケル)」であり、古事記には「大長谷の若建(ワカタケル)」とあり、鉄剣の、471年に在位したという「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」と、まさに文献と考古学的資料がピッタリ一致したのである。
 さらに岸俊男によると、先祖のオオヒコは崇神朝の四道将軍(日本書紀に登場する皇族の4人の将軍のこと)の一人としてその名が伝えられている「オホヒコ」に当てられるという。
 また黛弘道によれば、オオヒコ系のヲワケの一族は安部氏のことで、近衛職と大膳職を世襲した天皇側近中の重臣の家柄だという。
 
 この鉄剣の銘文の判読により、熊本県江田船山古墳から出土した鉄刀銘の不明の文字も

ワカタケルと読めることが確実となり、江上は5世紀後半のヤマト王権の支配力が関東にも、九州にも、すなわち列島の大半に及んでいたことが確実になったことを重視している。
(熊谷公男によれば、さらに王の表現が「大王」から「治天下大王」に、より権威付けが為された、という)

 さらに江上は稲荷山鉄剣の最も重要な事柄は、系譜そのものの書き方、在り方にあるという。(稲荷山鉄剣の銘文、青下線部分注目)
 
 この系譜のように、住所・本貫( 出身地)については一言も触れず、すべて親から子への名前の連続による単純な男系の系譜を示すものは、騎馬民族のあいだにのみ行われた系譜の様式だという。
 また、彼ら一族を歴代近衛兵の隊長、大膳職の長などに任用して、天皇の身辺・身体の保護を一任したのは、ユーラシアの遊牧騎馬民族のあいだに広くみられる君主と杖刀人、盃捧持者との特別親縁な関係とまったく同じだそうである。

 すなわち江上は、天皇家もヲワケ一族と同体不離な関係にあった騎馬民族であることが傍証されたと論じる。

   高松塚古墳の彩色壁画

 第3の証拠は、高松塚の彩色壁画の発見に関するものである。

 高松塚古墳は、奈良県高市郡明日香村で昭和47年3月21日,我が国初めての極彩色の壁画古墳として発見された。
 7世紀末(飛鳥時代末)から8世紀初め(奈良時代初)に築造された古墳であり,石室内部に星辰(星宿)図,日月像及び四神図,人物群像(女子群像,男子群像)が描かれた壁画古墳だ。
 発見当時、誰しもその美しさ、見事さに驚嘆したものである。(右の写真は当時のもの。今や、石室を解体して取り出し、保存しなければならない事態になったことは極めて残念である。--筆者) 
   

この彩色壁画は明らかに朝鮮の壁画墳の様式を伝えるものだが、「四神図」と「宮廷女官の行列図」が同時に描かれているという異例のものだという。

 朝鮮の壁画は中国北朝(北魏・・前項05.の地図参照)時代にあたる、高句麗の壁画には四神すなわち青龍・白虎・朱雀・玄武が描かれており、中国の唐時代にあたる朝鮮の壁画には、四神に代わって、唐王朝で行われたような宮廷の行事や人物(例えば唐風の服装をした女官の行列)の絵画が描かれた。    

 ところが高松塚の壁画は、高句麗風の「四神図」と朝鮮風の衣服や髪型をした「朝鮮風女官の行列図」が同時に描かれるという例外的ななものという。

 このことについて江上は次のように説明し、騎馬民族説の証明とする。
---大和朝廷では、大化の改新(646年)以後、唐の冠位の制を採用して、官吏が中国風の服装を着用することに決めているのに、“宮廷”では、それ以前に聖徳太子のときに定められた朝鮮の(ということは辰国風の)冠位の制による朝鮮服ないし辰国風服飾の着用を、大化の改新以後も継続していたことを明示する。・・・すなわち自分たち天皇家の出自は、南部朝鮮を全体的に支配した騎馬民族の辰王国だ、という認識があったに相違ない。---と。

 江上は以上3つの証拠に加え、さらに「夫余隆の墓誌銘」という資料に注目し、
      夫余---辰王朝---日本天皇家
      夫余---辰王朝---百済王家
 という並列した系統関係も明らかになったという、第4の証拠を提示している。
(しかしながら、これの詳細に立ち入ると一層複雑化するので省略する。)

  騎馬民族は来た!?来ない?! 

 騎馬民族征服王朝説に敢然と立ち向かったのが佐原真である。
 彼は1990年、江上波夫に論争を挑み、対談集『騎馬民族は来た!?来ない?!』を世に問うた。これで騎馬民族征服王朝説はますます有名になった。(下の紹介記事は同書のカバー裏面のコピー)
 
 佐原真は『騎馬民族は来なかった』のなかで、自分が立ち上がった理由を述べている。
 馬が渡ってきた以上、乗りこなすだけでなく、飼育に熟練した人が来たに違いない。それが朝鮮南部の人だけでなく、北アジア系の人もいたかもしれない。
 その意味で騎馬民族が来たのかもしれないけれど、騎馬民族の王侯貴族が組織的な騎馬軍団を率いて日本にやってきて征服王朝をたてるということはなかった。
 江上説は当然、考古学にその論拠を持たなければならないが、そういう証拠はない。“征服王朝説”は単なる江上の想像に過ぎない。したがって考古学者で江上説を支持する人は少ない。
 それにもかかわらず、古代史ファンとか一般の人々に人気があるということで文化勲章まで受賞する、それは学問のためにならない。だから自分が立ち上がったのだと。

 すでにお二人とも鬼籍に入られた方々であるが、追悼の意を込めて、ここではこれまで述べてきた江上説に対する佐原の反論を整理する。

1.騎馬文化はやってきた
 5世紀の列島に朝鮮半島から乗馬の風習が入って来、有力者たちは競って馬上の人とな   った。確かに5、6世紀の列島は馬の時代になったと言っていいし、鎧(よろい)や兜(かぶと)の武装も以前よりますます充実した。

 また「北方騎馬民族文化」の黄金好みの影響を受けた倭製イミテーションの金ピカ文化が倭人のエリート層だけでなく、農民層にいたるまでの「大陸文化」の流行となった。
 すなわち、佐原は馬も馬の文化も入ってきたと認めた上で、それは現代でも見られる外国文化かぶれの「流行」に過ぎず、騎馬民族
   

が侵略行動を起こしたなどという、考古学的、文献学的痕跡は認められないと指摘する。

2.急転的・突発的変化はおきなかった
 
この問題について佐原は、考古学の田中琢の説を援用する。
 短甲(上の老司古墳出土を参照)は、3世紀終わりから4世紀はじめに本州に登場して、6世紀はじめまで製作手法を変えながら存続する。一方挂甲(前項の最初の復元騎馬武者像参照)は、5世紀中ごろ過ぎに出現して6世紀に普及し、短甲と交代するという。
 すなわち田中は、江上が“急転的・突発的変化”といっている現象が、実は200年近い長い期間におこった現象であって、これは極めて荒っぽすぎる議論であると指摘しているのである。

3.ミッシング・リンクはみつかっていない
 佐原は本当に朝鮮南部と北部九州で騎馬軍団の存在が実証されたかと問う。

 先にあげた福泉洞や池山洞自体の解説ではないが、馬具に詳しい千賀久によると、新鳳洞古墳群(百済の領域に入る忠清北道…上図「六伽耶および関連古墳群」参照)で、轡(くつわ)と鐙(あぶみ)が集中的に多く墓に副葬されているのが確認された。
 騎馬集団の墓場と考えてもおかしくないほどだ、という。
 では、北部九州ではどうなのか、続いて千賀はいう。
 同じ時期の列島では、単独の古墳か、あるいは古墳群内であっても一基のみに馬具が副葬されている程度である。しかも共伴する甲冑が乗馬に適さない短甲が中心であることからしても、武装した騎馬軍団は日本列島では成立していなかった、と考えるのが妥当である。
 すなわちミッシング・リンクは見つかっていないというのである。

 まだまだ佐原の反論が続くが、以下は江上の融通無碍ともいえる論理展開に対する、苦情と非難、たとえば
4.江上さんが難しくしている
5.ウマが沢山いても騎馬民族とはいえない
6.騎馬隊がいても騎馬民族とはいえない

 というような江上一流の論法に対する嘆息ばかりであるから割愛する。

  江上波夫 VS 佐原 真

 以上がお二人の論争であるが
 江上波夫は「マクロからアプローチする人」であり、佐原真は「ミクロからアプローチする人」だと筆者には感じられる。

「マクロからアプローチする人」とは例えばジグソーパズルでいえば、まず、わずかな切り絵の断片から全体の絵と枠紙(すなわち仮説)を想定し、その後発見された多くの遺跡や遺物(すなわち切り絵の断片)をそれに当てはめていく、そういう手法と論理構成をもつ人のことである。 一方、
 「ミクロからアプローチする人」はまず、出来うる限り多くの切り絵の断片を集める。その断片すなわち遺跡や遺物を精緻に分析し、組み合わせてパズル全体を作り上げようとするタイプの人である。(ただし一般にこの方法論で全体の絵が完成することはない。)

 こういうタイプの違う二人が論争するのであるから、話が咬み合うはずがない。
 江上は自分のジグソーパズルに不必要な部分はどんどん切り捨ててゆく。だから佐原には切り捨てられた考古的事実の中に論争の種はいくらでもころがっている。
 よい例が去勢の問題である。騎馬民族は、遊牧を可能にし、軍馬を制御するのに去勢が有効であることは当然知っているし、実際に行っている。江上は、しかしそれが全てではない、日本では必要でなかったのだと、切り捨てた。ミクロを重視する佐原はこれではたまらない。去勢の文化を持ち込まない騎馬民族なんてあるものか、というわけである。論争は平行線である。

 筆者は、このマクロ人とミクロ人の論争は学識の深浅や、学説の是非では決着が着かないと思う。もう、これは天性のものであるから。

 江上波夫の騎馬民族説は魅力的でワクワクするばかりでなく、古墳時代に関する主要な出来事や重要な遺跡の発見の大半を含みつつ展開する。したがって、この説を検討することは古墳時代そのものを検討することであった。結果として、かなり多くの時間を費やしたが非常に楽しかったことも事実である。



 
     

         
         
         


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