日本人の源流を探して         (敬称は全て省略しています) 

 

             第4部  邪馬台国から大和朝廷へ

     
07. 日本人の祖形の完成・新撰姓氏録から

 
  冊封体制からの離脱と半島情勢

 5世紀の初めから終わりまで、正確には421年から478年まで半世紀以上を費やして、倭の五王は宋王朝の冊封体制のなかで、朝鮮半島に対する支配権を強めようと、遣使を繰り返した。
 とりわけ最後の倭王武の時には、入念に練り上げた上表文を添えてかなり強引な要求をした。その官爵は“高句麗王”と対等のものであった。
 高句麗の広開土王のとき、すなわち4世紀末から5世紀初頃、すでに極東アジア世界に強国として現れた倭は、農耕技術の革新などを経て5世紀後半には更なる強国になっていたと考えられる。
 力をつけ、それを自ら認識していたヤマト王権は、倭国と朝鮮半島南部地域の小世界の支配者であり、且つ高句麗に伍する強国であることを内外に認めさせたいとする企図があったのであろう。

 しかし、この要求は宋王朝の無視するところとなる。国内では「治天下大王」という称号を使い始めた、すなわちヤマト連合王国のなかから推挙された「大王」という立場から、独自の権威を備え逆に諸国を支配する大王へ、地歩が格段に強化されていた大王は、これを機に冊封体制から離脱し、中国王朝の権威を背景としない独自の外交路線を採り始めるのである。
 この路線は、つぎに遣隋使(第1回は紀元600年)が始まるまでの120年余り継続され、中国との外交関係は長期にわたって途絶する。
 この時期、朝鮮半島でも勢力図が大きく変わる。
 倭と緊密な関係の伽耶では金官国が衰退し、代わって大伽耶が有力となる。
 また475年、百済は都の漢城を高句麗に攻め落とされ、熊津(忠清南道公州)に遷都し、倭の援助を受けてかろうじて国を再建する。
 この戦乱の余波を受けて、今来漢人(いまきのあやひと)と呼ばれる百済系の渡来人が多数来朝した。
 彼らはいわば当時の第2波の渡来人で、第1波渡来人(5世紀初頭)の有力な一族である東
 
六伽耶
漢(やまとのあや)氏の管掌下におかれ、陶部、鞍部、画部、錦部、訳語(おさ)などに編成され、その技術を倭王権に活用された。
 倭王権は彼らの持つ先進技術を独占することにより、一層列島全体への支配力を強化することになるのである。
 
 朝鮮半島ではその後も百済、新羅、高句麗の3つ巴、あるいは伽耶を含めて4つ巴の戦いが続く。そして547年、百済は聖王のとき、高句麗を攻め、漢山城 (京畿道広州市付近)の奪回に成功する。しかし、翌年、それを今度は新羅に奪われてしまう。
 百済はこうした取りつ取られつの戦いの間、倭国に頻々と救援要請を申し入れる。そして倭国に軍事協力の見返りとして、博士--医博士、易博士、暦博士--や人質を交替で派遣したり、先進の文物--卜書(占いの本)、暦本、種々の薬物など--を送っている。
 538年百済から倭国への、聖王(聖明王)の「仏教公伝」(仏像・経典などを含む仏教が、国家間で公的に伝えられたことをいう。)も百済が倭国へ供与した先進文化の一つであった。
 その聖王も554年、戦死してしまう。それはただちに半島南部の戦線にも影響を与え、ヤマト王権が「任那」の最後の拠点としていた阿羅伽耶はほどなく新羅に併呑され、倭国は半島の足がかりをすべて失う。

  仏教の伝来

 伝来した仏教に対し崇仏派と排仏派の対立が起こったが、いちはやく崇仏派の立場に立ったのが、蘇我氏である。蘇我氏はすでに多数の渡来人を配下にもち、彼らの技能を使って王権内で高い政治的地位を獲得していたと考えられる。
 蘇我氏とともに草創期の仏教に関与した司馬氏は、6世紀半ばに半島から渡来した一族で、やがて鞍作と名乗り馬鞍の製作を本業としながら、鞍作鳥(くらつくりのとり・・止利仏師)のような仏師を出し、飛鳥大仏を残した。
 また蘇我馬子は587年、わが国初の寺院、法興寺(飛鳥寺)の建立を発願する。倭国の当時の技術では寺院建立は困難であったため、百済に要請して寺工、瓦博士、画工など技術者を招請した。おそらく蘇我氏は彼らをも傘下に加え一層勢力の強化に繋げたに違いない。
 現在の木造建築にもふつうに用いられる瓦
飛鳥大仏
葺きは、仏教とともに伝来した新技術が日本文化に根づいた一例である。

  対中外交の再開

 推古大王は紀元600年、倭王武が宋に遣使して以来120年ぶりに、中国王朝に使者を使わした。いわゆる遣隋使である。これには当時、推古王権の外交政策に深く関与していた高句麗僧の恵慈(えじ)の助言があったのではないか、と言われる。
 ここで高句麗人が登場するのは意外な感がするが、実は当時、高句麗は
新羅と半島方面での主導権争いに加え、隋とも対立を深めて、非常に厳しい立場に立たされていた。その苦境を乗り切るため、高句麗はかっての敵・倭国に修交を求めて、飛鳥大仏の資金として黄金300両を贈ってきたり、高僧を派遣するなど接近を図って来ていたのである。昨日の敵は今日の友というわけである。

 隋王朝への遣使は、従来の冊封体制への復帰を目指したものではない。いわば倭国の国力増大を背景として“対等外交”を志向したものであった。
 しかし、120年に亘る国交の途絶は、外交感覚を狂わせていたといえる。この列島の外交オンチはこの時を境に始まったのかもしれない。
 
 従来のヤマト王権は、中国の王朝が変わると敏感に反応し、時を移さず翌年、翌々年には朝貢していた。それに対し今回はすでに大幅に機を逸していたのである。
  隋は北周より禅譲を受けて建国された。581年のことである。高句麗と百済はこのとき直ちに冊封を受けている。さらに隋は589年、南の陳を滅ぼして中国を統一した。この時をもって中国の南北朝時代は終焉した。その5年後の594年、新羅が隋の冊封を受ける。
 倭国の第一回目の遣隋使派遣の時期が、紀元600年というのは、建国より19年後、南北統一からも11年も遅れていたのである。仮に冊封を願ったところで高句麗・百済・新羅よりも上位の官爵が授けられる見通しは全くなかった。

 さらに
“対等外交”が方針であった推古大王の使者は、
 「倭王は天を兄とし、日を弟としています。天がまだ明けぬうち(夜明け前)に政治を執り、日が昇ってくると政務を弟に任せます。」と言ったそうである。
 倭王は天や日(太陽)と兄弟であり、政治の細かいところは部下に任せる度量の大きな大王である、とでもいえば隋の皇帝も一目置くだろうと思って、このように述べたのかもしれない。
 しかしこの目算は大いに外れる。むしろ倭国というのは、政治形態も儀礼作法も国際社会では通用しない、蛮
夷の国であると見られてしまったのである。
 そのショックは余程大きかったらしく、ヤマト王権は時をおかず、冠位十二階(603年)や憲法十七ヶ条(604年)の制定、朝廷での礼儀作法の改定など“国としての法制整備”に全力を挙げている。
  
 しかし自国の国力に対する過信は第2回目の遣隋使(607年)でも改まらない。
 聖徳太子が小野妹子に託したという国書「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや、云々」は、当時の中国皇帝・煬帝(ようだい)を激怒させ、「蛮夷の書、無礼なるものあり。二度と取り次ぐことなかれ」と配下の外務大臣に厳しく命じたことはあまりにも有名である。
   
 それでも、高句麗との対立に神経を尖らす隋は、倭に対し国交断絶という措置まではとれなかった。そればかりか、冊封を望まない国との外交関係を樹立するという新しい国交形式をも受け入れるのである。
 このことは中国皇帝に臣下の礼をとらずに、中国の最新の文化や技術を学習したり、導入出来るという、倭国にとってまたとない有利な国際関係が築けたことを意味する。中国皇帝を激怒させるというような、外交政策の明らかな失敗にも拘わらずに、である。
 この結果はまた、自国の国力に対する過信を増幅させ、終いには国家を破綻の瀬戸際まで追い込むことになる。

  白村江での大敗と“半島経営”の終わり

 618年、中国王朝は隋から唐に変わる。中国は最も光り輝く、世界帝国の時代を迎えていた。
 一方,このころ朝鮮半島では高句麗・百済連合と新羅・唐連合が対立していた。
 唐は毎年高句麗征討を試みていたが、はかばかしい成果を得ていなかった。その膠着化した戦況を打破するため唐は作戦を変えて、まず高句麗の同盟国の百済を討ち、しかる後に高句麗を攻略する作戦に出た。
 この巧な作戦の転換が奏効し、660年、百済王国(義慈王)はあえなく滅ぶ。
 しかし百済の遺臣を中心に、唐軍の主力が半島から引き揚げるや否や、百済復興をめざした蜂起が起こる。そして長い間友好関係にあった倭国に百済復興のための救援軍の派遣を要請してきたのである。

 このときヤマト王権側には、半島経営再興への思惑などがあったに違いない。
 救援軍の派遣を承諾することが、朝鮮半島の新羅だけでなく超大国「唐」をも敵に回すということを十分承知しながら、時の大王、斉明女帝はこれを好機とばかりに受け入れる。
 この判断は、あまりにも甘かったと言わざるを得ない。この裏には、度重なる僥倖による国力に対する過信があったのであろう。
 663年、国を挙げた救援軍−倭の大軍は2万7千であったといわれる−は白村江で新羅・唐連合軍と会戦し、大敗を喫する。
 『旧唐書』はこのときの有様を「倭の舟四百艘を焚き、その火煙は天まで立ちのぼり、海水はみな赤く染まった」と描写している。
 あたかも『三国志演義』の曹操と諸葛孔明
白村江の戦い
の「赤壁の戦い」を想起させるほどの惨敗だった。
 僅かに
残った倭の軍船は、難を逃れてきた百済の王族や将兵、大勢の民衆を乗せて帰国の途についたと言われている。
 
 度重なる外交政策の失敗、そして最後に外交判断・戦力判断の甘さによって、倭による“半島支配(幻想)”は終わりを告げる。これら一連の出来事は、昭和時代前半、日中戦争から太平洋戦争に突入していった大日本帝国の姿そのままである。
 我々現代人は、歴史に学ぶという謙虚さを忘れ、2度目の失敗を繰り返したことになる。

 これ以後、朝鮮半島からの渡来人の流入も途絶える。
 これは取りも直さず、現代日本人の祖型の形成が、これをもって完了したということでもあった。
 
 この5年後、668年、さしもの強国−高句麗も滅ぶ。そして新羅が朝鮮半島を統一することになる。
 亡国の危機に陥ったヤマト王権は、唐の追撃や侵攻を大いに警戒し、列島の主要な場所に 急遽、防衛設備を造った。
 下の図面は、倭国の最前線政庁である太宰府の防衛体制である。水城の大堤(長さ1.2km)は664年に、
朝鮮式の山城
である大野城(城周6.5km)も翌665年に建設された。
 国力が疲弊した中で、これらの大工事を遂行したヤマト王権の危機感が、ヒシヒシと感じられる。
 また法令などの国制整備も精力的に進められ、701年には大宝律令が成立する。

 
 

 この
過程でこの列島は、「倭国」から「日本国」へ、「大王」or「治天下大王」から「天皇」へと本格的な「王国」としての体制を整えていった。
 
 新撰姓氏録 にみる渡来系の人々
 
 以上、古墳時代を概観しつつ渡来人について調べてきた。纏めると次の表になる。
 これまで縄文末期以来、基層人と渡来人という区分で渡来人を捉えてきたが、ここで言う渡来人とは古墳時代に入ってから渡来してきた人々のことである。この時代、弥生時代に稲作などを持ち込んだ人々などは、すでに立派な倭人であった。
 古墳時代の渡来人 
 この表から、古墳時代の渡来人は、主に百済や伽耶から来たことがわかる。百済や伽耶の支配階層は江上波夫が指摘したように、夫余系の騎馬民族であったと考えられる。
 『梁書』は、百済の言語はほぼ高句麗と同じと記し、『周書』は、百済王の姓は夫余氏であったと言っている。伽耶諸国についても遺跡や出土物からみて支配者は夫余系であったろう。
(江上は新羅王も夫余系であったとしている。)
 こうした中国の史書や古墳群などの遺跡からみて、朝鮮南部の土着の民族集団が支配層に引き連れられて渡来したこともあったであろうが、主要な渡来集団はあくまで、大陸の統治技術や工作技術を身に付けた騎馬民族であったと言い得る。 
 では騎馬民族を中心とした渡来人は、結果としてどれほどの渡来系氏名を倭国に残し、日本人として同化していったのだろうか。 

 これを教えてくれるのが 新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)である。 新撰姓氏録は平安時代初期、815年に成立した。
 自らの出自を表明し、それが公表されるということであったから、いまさら祖先の出自を表明することを躊躇する貴族も多かったようで、これの編纂には予想以上の年月がかかったと言われる。
 出来上がった
新撰姓氏録は、 五畿七道六十六ヶ国すべてに亘る膨大なものであったようだが、現存しているのは左京・右京と五畿内(山城、大和、河内、摂津、和泉)の分だけである。
  新撰姓氏録編纂の目的は、 各氏族を皇別、神別、諸蕃に分類して、その祖先(出自)がわかる目録作りにあったと言われている。
 逆に言えば平安初期の段階ではすでに、貴族といっても、祖先が何処の出身でどういう由来があったかなど、遠い昔のことで判らないような状態であったことが窺われるのである。
 
 各分類は大辞泉によると次のように解釈される。
 ・皇別氏族・・ 皇族を祖先とする氏族。橘氏・源氏・紀氏など。
 ・神別氏族・・神代の神々の後裔 と伝えられる諸氏。藤原氏・額田部氏など
 ・諸蕃氏族・・ 中国・朝鮮から渡来したと称する諸氏。秦(はた)氏・漢(あや) 氏・百済(く
         だら)
氏など。
 新撰姓氏録の内容、特に渡来系の内訳を詳しく見ると次表のようになる。
   新撰姓氏録
 白村江の大敗で半島からの渡来が途切れてから150年、平安初期段階で渡来系だと申告した貴族はこの畿内圏で326氏族、全体の28%であったことがわかる。且つ、夫余系の騎馬民族と見られる氏族は百済系、高麗系、任那系合わせて、ほぼその60%に達する。古墳時代の渡来人に半島系がいかに多かったかがわかる。
 もちろん、この数字は列島全体の姿を表すわけではない。
畿内圏という特に渡来人が多かった地区の数字であり、かつ支配階層のなかの割合であったことにも留意しなければならない。
 
 以上、邪馬台国の誕生から古墳時代を通観してきた。
 筆者は、江上波夫が言うような、天皇家が辰王系であり、辰王に率いられた騎馬民族が、大挙して北九州に襲来し、東進して倭国を征服したという、騎馬民族征服王朝説に同意することは出来ない。
 しかし、新撰姓氏録からも推測出来るように、この時代、多数の騎馬民族由来の人々が渡来して来て、日本人の遺伝子にかなりの影響を及ぼしていたということは、確かなことと考えてよいだろう。
 こう考えることによって、日本の神話の中に、遊牧民族にちなむギリシャ神話の話根が、遥々ユーラシア大陸のステップ地帯を伝ってこの日本列島にまで届いていたことが理解出来る。(第5部02節「日本神話の成立 -ギリシャ神話との繋がり」参照)
 
 次項からは、さらに遺伝子など別の角度からの検討を加えてゆく。

     
         
         
         


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